2022年4月17日日曜日

ウクライナ民族問題を読み解く

https://twitter.com/Tamama0306/status/1501730319560769537
佐藤優の「民族問題」にはウクライナの民族問題を読み解く部分がある。2017年発行の新書だから5年前になるが、その本質は変わっていないと思うので、エントリーしておこうと思う。

そもそもウクライナの「クライ」は囲いの意で、「ウ」は傍の意。囲いの傍、すなわち地方、田舎という意味であるそうだ。人口は5300万人、ウクライナ人が3700万人、ロシア人が1100万人、ユダヤ人が50万人、ベラルーシ人が45万人と言った内訳で、だいたい100の民族が住んでいる。東方に行くと住民の多くがロシア語をしゃべっていて、自分がウクライナ人かロシア人かなんて誰も考えていなかったのだが、2013年末ごろから大変な状態になった。

988年、キエフ・ルーシ(大公国)でウラジミール公が正教の洗礼を受けた。これがロシアに正教が導入された始まり。その後、モンゴル・タタールが攻め込んできて、ロシア人はモスクワに移動して発展したというのが、ロシア人の考える歴史。ウクライナ人は、キエフ・ルーシの伝統は西部のリヴィウに行きガリツィア公国こそがウクライナのもとと考える。ところが、14世紀にポーランド王国に編入され、その後オーストリア・ハンガリー帝国の領土にされて、WWⅠ後に再びポーランドの一部になり、WWⅡ後はソ連に組み込まれた。

ちなみに、WWⅡ前のポーランドの意外な一面があるそうで、イタリアに次ぐ世界で二番目のファシスト国家(ピウツスキ政権)で反共・反ソという姿勢が強かった。ちなみに、ポーランドから見て、ウクライナは辺境で、ポーランド語でもウクライナは田舎という意味らしい。

ところで、東部はロシア帝国に組み込まれ、もともてゃウクライナ語を話していたが19世紀に帝政ロシアがロシア語化政策を進めウクライナ語の仕様が禁止された。(これはウクライナだけでなくロシア全領域)ただし、ロシアは近代が遅れ民族という概念も中途半端で、ロシア語を完全に使えるようになり、正教徒であれば上の方は貴族として認められたし、中産階級や下級階級も官僚や聖職者になることも可能で差別もなかった。よって大きなトラブルはなかったようである。問題は西部で、オーストリア・ハンガリー帝国ではそれぞれの文化自治を重視しており、ウクライナ語が自由に使えた。

ロシアに組み込まれた東部は、ソ連時代・スターリンによる集団農業化の時、土地私有化制が残っていたウクライナでは抵抗が強く強制移住や飢餓状態になって、400万人の餓死者が出た。(ホロドモール:3月16日付ブログ参照)

WWⅡの後期には、ナチがやってくる。民族独立を約束してウクライナ解放軍を募集、30万人がそれに応じた。ちなみにソ連赤軍には200万人、同じ民族が殺し合うことになった。ウクライナは一時ナチが占拠したが、独立を認めずひどい仕打ちを行ったので、ウクライナ解放軍は反ナチに転じる。(ウクライナの歴史教科書ではナチからの独立に活躍したとあるのだが、ロシアの教科書にはナチと一緒になって東方政策に加担したとある。)ちなみに、今もガリツィア地方には「スヴォボダ」という政党があり、ウクライナ語で自由という意味で、ナチ親衛隊によく似た旗を掲げ、血や民族や名誉をすごく大切にして、夜中太鼓を叩きながら、松明をかざして行進したり、TV局を襲撃したりするという。2014年のクーデターの際には重要な役割を担ったといわれる。

WWⅡでドイツが撤退すると、ソ連赤軍が入り、ガリツィアも含めソ連の一部となるが、ここは16世紀の反宗教改革運動の際、カトリック圏となっていた。イエズス会は融通無碍で見た目は正教会のユニア教会ができる。このユニア教会は1946年よくよく考えたら我々は正教である、ロシア正教会に併合されることを望んだ。(ただし、この会議には秘密警察も赤軍も出動している状況下であった。)しかし、ウクライナ解放軍の一部は1950年代後半になっても山籠りして抵抗していた。さらに、ソ連支配を潔しとしない人々がカナダ西部(エドモントンあたり)に40万から140万人移住。カナダの使用言語では、ウクライナ語が英・仏語に続く第3位とは驚いた。

ゴルバチョフ時代、このカナダ移民からのマネーが西部の独立運動を支える。1991年の独立時、公用語はウクライナ語であったが、東部・南部・クリミアではロシア語が主流で、未だ民族的なアイデンティティは決まっていなかった。2014年2月スヴォボダを含む民族派が、ソチ五輪の最中武力クーデターを起こし、権力を握り、ロシア語を公用語から外すと宣言した。翌日撤回されたが、この一言が内戦を引き起こすことになった。経済的には、西部より東部のほうがゆたかであった。しかもこの民族派政権と話し合いが通用しないことも認識していた。よって東部では行政機関をキエフ中央政府から守ろうと籠城した。トゥルチノフ大統領代行はこの籠城に空爆でで答えた。ここから東部の武装が始まる。

ロシア軍は同じロシア人同胞を守る論理で国境地帯に配置された。休暇中のボランティアの義勇兵が戦闘に従事したらしい。

…うーん。そもそもウクライナ西部と東部が同じウクライナである必要があるのだろうか、などというのが私の率直な感想である。今、日本も世界も完全にウクライナ支持の世論だが…。

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