2024年12月7日土曜日

ウィレドゥの概念的脱植民地化

「アフリカ哲学全史」(河野哲也著:ちくま新書)の書評、いよいよ最終章である。現代アフリカを代表する哲学者、ガーナのクワシ・ウィレドゥの哲学について記しておきたい。

彼の哲学は、「概念的脱植民地化」を目指したものであるといえる。これは、政治的闘争によってではなく、反省的な意識によって植民地における近代化のジレンマと対決すること、であるといえる。アフリカの哲学的思考から植民地時代の過去に由来するあらゆる”不当な”影響を取り除くこと、を意味する。ここでの”不当な”という語彙が意味するところは、植民地時代の全てを拒否するのではなく、たとえ植民地支配者に先導されたものであれ、人類にとって何らかのカタチで有益である場合は、無視したり排除したりする必要はないという、文字通りの「脱」である。

彼の「概念的脱植民地化」は、アフリカ文化に2つのことをもたらそうとした。1つは現代アフリカ思想に染み込んでいる過去の部族文化の好ましくない側面を取り除き、その思想をより発展可能なものにすること。2つ目は、アフリカの哲学的実践に見られる不必要な西洋的認識論的枠組みを排除すること、である。

彼は民衆的な知恵や思想はそのままでは哲学たりえないと考えており、文化人類学的なアプローチには反対する。”過去の部族文化の好ましくない側面を取り除く”とは、そういう意味合いである。

アフリカの植民地での教育は西洋語でなされてきた。これは、枠組み自体から、西洋を無自覚的に優位にさせてしまう。よって、西洋語のなかで当然視されてきた諸概念を批判的に検討する必要がある。(同じことは西洋人側にもいえる。西洋語の枠外の文化を西洋のカテゴリーで吟味できない。)アフリカの哲学者は、アフリカの哲学的諸概念を西洋語で理解していることを意識し、同時に西洋の哲学的概念をアフリカの言語で検討できるということを常に意識しなければならない。ウィレドゥは、哲学は根本的に「比較哲学」でなけれなならないとする。”アフリカの哲学的実践に見られる不必要な西洋的認識論的枠組みを排除する”とは、このことである。

…ウィレドゥ以後、アフリカでも分析哲学的なアプローチが盛んであるようだ。本書では続いて、西アフリカのヨルバ語やアカン語による比較哲学の内容が記されている。これらについては、「アフリカ哲学全史」書評・最終回となる次回のエントリーで。

2024年12月6日金曜日

交野の山から猪と猿?

https://work.kimama-labo.com/20181225/
近隣の方が家庭農園を楽しんでおられて、我が家にも時々お裾分けしていただく。今日は立派な大根をいただいたのだが、その際びっくりするような話を聞いた。サツマイモも持ってきたかったのだが、あらかた猪や猿にやられてしまったとのこと。

愛媛の三崎では、猪に畑を荒らされるということは日常茶飯事で、私も何度か猪を目撃した。彼らはサツマイモが大好きで、前足で掘ってかじりつく。枚方でも猪がいるということを聞いたことがあるが、家庭菜園は、我が家からほんの十数mの距離であるので、意外である。とはいえ、交野の山では鳥獣保護区の看板を見たこともあるので、さもありなん、ではある。

私が最も驚いたのは、猿の話である。猿はサツマイモを掘り出して、他へ運び食するようだ。我が家の隣家のベランダにその食べ散らかした痕跡があったらしい。電信棒で登ってきただろう。隣家の方が電信棒から移りやすいので、たまたまそうなったに過ぎない。我が家のベランダの可能性もあったわけだ。そう考えると、ちょっとヤバい気がする。

大阪に帰ってきて、都会に住んでいるという感覚があったのだが、我が家は鳥獣保護区に隣接した地域でもあったのだ。家庭菜園をしていない第三者としては、それくらいの感覚だが、家庭菜園をやっている方にとっては、大変な被害である。三崎なら町役場に連絡して、駆除の方策を練るところだが、枚方市にそんな部署はあるのだろうか。

2024年12月5日木曜日

共同体ヤハドとキリスト教団

https://www.veltra.com/jp/mideast/israel/a/19078
死海文書が投げかけた最大の争点は、おそらくイエスが生きた時代と同時代の共同体ヤハドとの関係であるといえる。

死海文書と新約聖書の類似点も多く、四福音書の他にも、使徒行伝、ローマ人への書簡、コリント人への書簡など数多い。新約聖書の成立はもう少し後なので、新約聖書の作者ではないにせよ、大きな影響を与えているようである。と、いうことは共同体ヤハドは、初期キリスト教団と何らかの関係があったと見るのが正しそうである。

本書では、様々な学説が併記されているのだが、ここでは著者の仮説を記しておきたい。(死海文書が出土した)クムランを拠点とする共同体ヤハドは、エッセネ派と呼ばれる敬虔で高潔な人々のグループだった。紀元20年頃、彼らは洗礼者ヨハネを指導者として、過激なユダヤ国粋主義に向かった。その重要なメンバーであったイエスが、従来のユダヤ律法中心主義ではなく、もっと普遍的な人間中心主義の教えを説くに至って、組織に内部分裂が起こり、初代キリスト教団の核ができた。そしてローマ反逆の疑いでイエスが磔刑にされた後、イスラエル全土のヤハドは雪崩を打ってキリスト教団に転向した。エッセネ派という語が死海文書にも新約聖書にも一切見当たらないのはそのためであり、イエスに近かった特に知的な層が新約聖書の原資料を書き始め、ユダヤ教関係の(ヤハド独自のものも含む)文書は、全て不要になったものとして、付近の洞窟の中に収められた。これが死海文書の実体で、彼らにとって文字にして後世に残すべきものは、これから書かれる新しい契約の書、すなわち新約聖書のみであると決意した。一方、キリスト教団に参加せずヤハドの信条に固執した人々は、クムランやマサドの要塞でローマ運と戦い玉砕した。後は歴史書の伝える通りである。

…なるほどと私は納得した。気になるのは、洗礼者ヨハネとの関わりである。著者の仮説は、福音書や旧約のイザヤ書と矛盾しない。ペテロやアンドレも最初はヨハネの弟子だとされている(ヨハネによる福音書1ー35)し、ルカの福音書(3ー5・6)ではイザヤ書を引用してヨハネをイエスの先駆者としている。マルコ福音書(6-14~29)にあるヨハネの死(サロメの話で有名)とも矛盾はなさそうだ。

聖書(旧約・新約とも)は実に複雑な書物である。そもそも矛盾があると、立ち止まっていては埒が明かない。とはいえ、この死海文書の著者の謎解きは実に矛盾がなく興味深いと思うのである。

2024年12月4日水曜日

デ・キリコ展に行ってきた

神戸市立博物館で開催されているデ・キリコ展に妻と行ってきた。期末試験の採点(例によってPCでの採点・集計)を終えて、ホント、久しぶりのお出かけである。閉幕が近いからか、ウィークデーなのに意外と人が多かった。

ジョルジョ・デ・キリコは、前述したが高校時代から馴染みのある「形而上絵画」の巨匠である。なぜ「形而上」という名が冠されているのかについては、「実際には見ることができないもの」を描いているからといえる。遠近法の焦点がズレていたり、ほとんど人間が描かれていないか、小さくしか描かれない。彫刻やマヌカン(マネキン人形)などの特異な物が描かれる。影の長さが異常に長い、などの特徴がある。哲学においての形而上学と同様に、現象を超えた世界が描かれているわけだ。

https://x.com/dechirico2024/status/1787286155412549984
今回の展覧会は、なかなか見応えがあった。中でも、私が気に入ってポストカードを購入したのは、オイディプスとスフィンクス。(上記画像/今回の展覧会では撮影可の絵画もあったのだが、これは選外だったので検索して引っ張ってきた。)超有名なギリシア神話をモチーフにした作品でかなり後期のもの。オイディプスがマヌカンとして描かれ、スフィンクスの謎かけの答えを考えているユーモラスさが面白い。

展覧会では、ニーチェの影響を受けたという点が強調されていた。このギリシアへの傾倒は、初期のニーチェの影響であることは間違いない。とはいえ、さらにその後のニーチェの思想の影響を読み取るまでにはいかなかった。ただ、彼自身の人格的な部分では超人たらんとしている感じがする。自画像を無茶苦茶たくさん描いている。それも自信たっぷりに様々なシチュエーションの中で、である。

高校時代、私の油彩画は、背景がキリコ風であった。単なる模倣だがかなり影響を受けた。後のダダイズムやシュールリアリズムに大きな影響を与えたデ・キリコ故、高校時代の私に影響を与えるなど当然といえば当然。(笑)

ちなみに久しぶりにJR東海道本線に乗ったので、貨物列車と何度も遭遇した。全部青い機関車の「桃太郎」(しかもおおさか東線の機関車とちがいキレイに洗車されていた。)であった。

2024年12月3日火曜日

死海文書と共同体ヤハド

https://coconala.com/blogs/3900187/425192
「死海文書の封印を解く」(ベン・ソロモン著/河出夢新書)書評の続きである。死海文書にある「共同体憲章」は、13もの同じ内容の写本が見つかっており、最重要文書とされている。この共同体は「ヤハド」と呼ばれ、パレスチナ全土各地にいたということが最近判明したという。この共同体憲章を読み解くと、初期キリスト教団との類似点が多い。以下に本書に記されているものを挙げたい。類似点・最初が共同体。次が初期キリスト教団、( )は備考

1:真の神殿とは…共同体そのもの 教団そのもの (物理的な場所ではない)2:信徒の財産は…共有 共有 3:信徒の結婚は…一夫一婦 一夫一婦 (独身主義の場合もある)4:1日の始まりは…日の出から 日の出から (ユダヤ教は日没から) 5:安息日は…土曜日 土曜日(キリスト教は後に日曜日になる) 6:使用歴は…太陽暦 太陽暦(ユダヤ教は太陰暦)7:沐浴は…常に実施 常に実施 8:聖餐は…パンと赤ワイン パンパンと赤ワイン 9:犠牲獣奉献は…意味無し・祈りで良い 同じ 10:最高評議会…12人の信徒と3人の祭司 12使徒 11:神との契約は… 新しい契約と呼び、慈悲の契約 同じ

また共通の語彙も多い。弟子たちは、多数の人や多くの人、監督者はエピスコポス(ギリシャ語で監督者)、キリスト教ではエピスコパル(司祭)。メシア(救世主)は、両者とも神の子。善と悪を、光の子たち・闇の子たち、キリスト教では光と闇という表現がパウロ書簡に多い。悪魔はベリアル、キリスト教ではコリント人への書簡に見られる。自分たちを、両者とも道と称する。

この共同体ヤハドは、エッセネ派だとする説が根強いが、学会の結論は出ていない。…つづく

2024年12月2日月曜日

欧州のEV車クライシス

https://www.greencharge.co.jp/useful/deEdgmrD
環境問題については、アメリカがあまり熱心でなかったため、復権を目指して京都議定書以来熱心に取り組んできた欧州だが、ここへ来て大きな挫折を経験している。

EU総体(脱退したイギリスを含む)としてEV車への移行を推進してきたものの、中国・EV車のダンピングに近い輸出攻勢によって、軒並み欧州の自動車業界は大苦戦しており、経済が傾きかけているのが1つ。もう一つは、EV車が環境に良いという虚構があばかれてきたこと、これはスウェーデン・ボルボ社の良心的発表(バッテリーの生産並びに廃棄後の環境への負荷が著しいこと。事実上ガソリン車のほうが環境問題において勝っていることが発表された。)によるものである。

そして、なにより、電力需要とインフラ整備がEV車の増加に追いついていないので、各国とも電気料金の高騰、長時間の充電渋滞に悩まされているようだ。また寒い地方ではバッテリーが早く尽きてしまい長距離移動には向かないこと、これは物流にも影響を与えている。

まあ、ウクライナ紛争の影響もあるだろうが、見通しが甘かった、拙速だった、と言わざるを得まい。結局、トヨタのハイブリッド車のほうが方が、安心で環境的であることが明白になっている。なんとも滑稽な話ではある。

2024年12月1日日曜日

死海文書の旧約聖書写本

今読んでいる「死海文書の封印を解く」(ベン・ソロモン著/河出夢新書)は、前に読んだ「死海文書入門」より聖書学的内容が濃い。クムランから出土した旧約聖書の写本223点で、エステル書を除き24巻全てが揃っているとのこと。これが死海文書全体の3分の1を占める。残りは自分たちを「ヤハド」と呼ぶ共同体のの教義や預言が3分の1、残りはユダヤ教関連の文書や出所不明の文書である。これらは、ヘブライ語(約80%)、アラム語(約20%)で書かれており、ギリシア語もわずかながらある。

興味深いのは、ほぼ中世の旧約聖書写本と変わらないことであるのだが、創世記については外典で、アブラハムがなぜイサクを生贄にしようとしたかという初出の資料が出ている。これによると、ヨブ記同様、神が悪魔から挑まれ、アブラハムの信仰の強さを試すという展開になっているという記述に驚いた。…つづく。