2021年12月17日金曜日

受験の世界史B 研鑽ー13

イギリス史とフランス史を概観した。ノルマンコンクエストにより、ノルマン系フランス貴族(=ノルマンディー公ギョーム)の王朝(ノルマン朝)が成立し、4代で途絶えた後、アンジュ―伯がプランタジネット朝を開き、さらにフランス王と対等&臣下という変な関係が続くことになる。何故、アンジュ―伯家なのか?嫡子を失ったノルマン朝最後の王ヘンリー1世は娘(マティルタ:神聖ローマのハインリヒ5世と結婚後、死別していた)を後継者に指名しアンジュ―伯ジョフロワ4世と結婚させたからである。(ただし、ヘンリー1世の甥にあたるスティーブンが先に即位、20年間も無政府時代という内乱になった。1153年、ジョフロワ4世の息子アンリ(後のヘンリー2世)とスティーブンがついに和解=ウォーリングフォード協定)スティーブンが死去した1154年、プランタジネット朝が始まる。ちなみにその後のランカスター朝・ヨーク朝も男系の傍系、チューダー朝は女系で繋がっている。

ヘンリー2世は、積極的に領土を拡大し、中央集権を推進した。ヘンリー2世には、若ヘンリー、リチャード、ジェフリー、ジョンの4人の男子がいた。フランス王の介入もあり父子兄弟間の争いが絶えなかった。リチャードは、父王の前で公然と仏王に臣下の誓をし、公然と反抗・敵対した。1189年ヘンリー2世が病死するとイングランド王に即位した。

リチャード1世は即位すると王庫の金だけでは足りないと城、所領、官職等を売却して十字軍遠征の資金を集め、スコットランド王の臣従を1万マルクで解除した。1190年仏王フィリップ2世や神聖ローマの赤髯王と第三回十字軍に出発した。この中で、仏王フィリップ2世とも、オーストリア公レオポルト5世とも対立し、1192年休戦条約を結んだが、フィリップ2世はハインリヒ6世と結託し弟ジョンの王位簒奪(さんだつ)を支援していると知り、帰国を急ぐ。途中船が難破しオーストリアでレオポルト5世に捕らえられ幽閉される。翌年ハインリヒ6世に引き渡され身代金を払って解放される。この時、フィリップ2世はジョンに「気をつけろ、悪魔が解き放たれた」と知らせたと言われる。イングランドに戻り、ジョンを屈服させ王位を回復、その後フランスでシャルル2世と争い、十字軍中に奪われた領地を回復したが、1199年、鎧を脱いでいた時にクロスボウの矢を受け死亡。後継者を甥(弟ジェフリーの息子)のアーサーと考えていたがフィリップ2世に臣従した故に、弟ジョンに変更した。第3回十字軍の英雄、中世騎士道の鑑と言われたリチャード1世は、その在位中イングランド滞在はわずか6か月であった。

さて、第3代のジョン王とフィリップ2世と教皇インノケンティウス3世の話にいよいよ入る。1190年、フィリップ2世は正妻のイザベルが亡くなり、1193年デンマーク王の娘インゲボルグと結婚したが、気にらず離婚を宣言、1196年にバイエルン貴族の娘アニェスと結婚した。イングボルグは離婚を認めず重婚だと教皇ケレスティヌス3世に訴えた。教皇はこれを認め、死別しないうちの再婚を認めなかった。フィリップ2世はこれを無視、新教皇インノケンティウス3世は、フィリップ2世を破門、フランス全土で聖務停止を命令、ミサ、洗礼、結婚、葬儀も行われなくなり、遺体が墓地に並べられ伝染病が流行した。1201年、ジョン王との抗争にローマ教皇の支持が必要と判断し、教皇の要求に屈した。「イスラム教徒だったら良かった。ローマ教皇のいないサラディン(アイユーブ朝創始者)がうらやましい。」と述べたとされる。

一方、ジョン王は、すでに婚約者のいたイザベラと結婚したが、婚約者はフィリップ2世に訴えた。仏王は法廷にジョンを召喚し、拒否されるとジョンの全フランス領のはく奪を宣言し、交戦した。1203年フランス内の諸侯の多くははジョンを見限り仏王に降伏した。1208年、カンタベリー大司教の任命をめぐって、教皇インノケンティウス3世と対立、1209年教皇はジョンを破門した。フィリップ2世はジョンに不満なイングランド諸侯やウェールズ、アイルランドと呼応し侵攻計画を進めたが、1213年、ジョン王は謝罪して教皇に屈し、一旦イングランド全土を教皇に献上し、教皇から与えられる形で返還された。

その後も破門経験者のジョン王とフィリップは争う。1214年のブーヴィーヌの戦い(フランク諸侯連合軍vs神聖ローマ・イングランド連合軍)が有名であるが、敗北した神聖ローマ帝国の皇帝オットー4世は、インノケンティウスから破門宣告を受け、ローマ皇帝の座から引きずり降ろされている。結局イングランドは大陸の領土をほとんど失い、フランスから見れば領土を回復したわけだ。晩年には、前述のアルビジョア十字軍に対して、1209年時点では部下に任せ、教皇の影響が強くなりすぎるのを警戒していたが、1216年十字軍が苦戦している際には王太子ルイ(後のルイ8世)を派遣、フィリップ8世・崩御(1223年)後に南部フランスを抑えた。フィリップ2世は、都市の育成やパリ大学の設立など内政も良くし、フランス王国最初の偉大な王で初代ローマ皇帝アウグストゥスにちなんで尊厳王(Auguste)と称された。

一方、ブーヴィーヌの戦いに敗れ、イングランドに戻ったジョン王は、国内諸侯の反発を受けた。戦費捻出は議会を通さず臨時課税を乱発していたからである。内戦状態になり、ロンドンを制圧されたジョンは、国王の課税権の制限、法の支配などが明記されたマグナカルタを1215年認めざるを得なかった。

マグナカルタには、余談があって、ジョンはインノケンティウス3世に訴え、無効破棄を宣言してもらうなど反撃に転じた。憤慨した諸侯は再び蜂起して内乱となり、諸侯はフランス王太子ルイ(=後のルイ8世)に援軍を要請、第一次バロン戦争が勃発した。ジョンはこの戦争中に赤痢に罹って病没(1216年)。戦争理由が亡くなったので、諸侯は王位を9歳だったジョンの息子に継承させ、ヘンリー3世の名前であらためてマグナカルタを発行させたのである。

突然リンダリンダの日

16日は寮生のクリスマスパーティーの日であった。昔はたしか寮でやっていたのだが、今年は三崎高校の在校生の過半数を占めているので、体育館で行われた。3時すぎからドッジボールなどを楽しんだ後、カレーライスパーティをしていたようだ。塾では、地元の受験生も帰宅したので誰もいなくなった。ちょっと様子を見に出かけたのだが…。

ちょうど、出し物になっていた。なかなか盛り上がっていた。(笑)さて、戻ろうとしたら吹奏楽部のK君が、「リンダリンダ」を歌ってもらえませんかと念願してきた。聞くと、いつもブルーハーツを歌うレジェンドのT先生が腰痛でダメらしい。他の先生も誰も歌えないとのことであった。T先生は、いつも跳ねながら絶唱されているので、パフォーマンスもしなければならない。うーん。だが、いつも塾で頑張っているK君のたのみなので、腹を決めた。

結果は悲惨だった。声はかすれるし、跳ねると無茶苦茶しんどい。でも寮生は喜んでくれていた。まあ、いいか。思えば、M高校で3年担任の時の文化祭で、松山千春を弾き語りで歌って以来である。T商業高校ではティーチャーズの一員だったし、I工業高校でもM先生とよく舞台に立った。(漫才が多かったが、吉田拓郎の我が良き友よを歌ったこともある。)3年の学年主任の時は学年団でSMAPを歌った。(笑)意外に舞台にはたくさん立っているのだった。

2021年12月16日木曜日

受験の世界史B 研鑽ー12

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%94%E3%83%94
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フランス史を遡ると、5世紀後半、ゲルマン人のフランク人(ローマ帝国時代は将軍や傭兵、執政官になった者もいる)のクロヴィス1世(キルデリク1世の息子で祖父のメロヴィングの名を王朝名とした。496年キリスト教に改宗)によってフランク王国が建てられたことに始まる。クロヴィスの死後、分割相続の習慣から4人の息子に相続され分王国はそれぞれ領土を拡大したが、その後分王国間での勢力争いが激化、その中でアウストラシア(後のドイツ)の宮宰ピピン2世が台頭する。当時唯一のフランク王・テウデリク3世を手中に収めただ一人の宮宰となり、その息子・カールは732年イスラム軍(ウマイヤ朝)をトゥールポワティエの戦いで破り、ヨーロッパでの拡張を阻止した。
しかし、未だ古代の名残を残したガリア南部ではイスラム以上の破壊を行い、神が振り下ろした鉄槌(マルテル)とされるようになり、カール・マルテルと称された。すでにメロヴィング家ではなく彼こそが、フランク王国の事実上の支配者と見なされた。
カール・マルテルの息子たちの中で、(宮宰として)最終的に単独の支配者になったのはピピン3世で、メロディング王家を廃するために、ローマカトリック教会の権威を求め、751年、教皇ザカリアスによってフランク王に推挙され、神によって選ばれたことを示す塗油の儀式が教皇特使によって行われた。この血統より教会の権威が勝ったことの意義は大きい。ここに、カロリング朝が成立した。ちなみに、メロヴィング朝の最後の王・キルデルク3世とその息子は剃髪され修道院に送られた。その後、有名なピピンの寄進がある。教皇領(都市ローマの宗主権+ラヴェンナ総督府領:東ローマ帝国がイタリア半島に支配していた地)の始まりである。

https://ameblo.jp/worldhistory-univ/entry-12039464226.html
ピピン3世の息子が、かのカール大帝(1世:フランス語読みではシャルルマーニュ)である。ここでも分割相続なので弟カールマン1世とフランク王国を分け合った。しかし、互いに長男にピピンの名をつけたことで反目が強まり、弟の死で単独王となり、以後戦争の日々を過ごし領土を拡大した。778年後ウマイヤ朝に圧迫されたイベリア北部、ザクセン人、アジア系のアバール人など46年間に53回も遠征した。一方、教皇よりも上位であることを知らしめるためにイコノクラスム論争に介入したりした。800年のクリスマスの日にサンピエトロ寺院で、教皇レオ3世より皇帝に戴冠された。また、カロリング・ルネサンスと呼ばれる面でも評価が高い。アルクィン(イングランドの修道士・神学者)をアーヘンの王宮に招き、ラテン語の教育やカロリング小文字体の普及にも努めた。

カール大帝の中央集権的な統一は分割相続によってまたもや崩れる。権力争いが再燃し、結局843年のヴェルタン条約で、ルードヴィッヒ2世の東フランク王国、シャルル2世の西フランク王国、皇帝たるロタール1世の両王国の中間部分とイタリアに分割された。中フランク王国は、さらに分割相続で3つに分かれた。その後も各国で分割統治が進んだが、870年のメルセン条約で結局フランス、ドイツ、イタリアの原型が形成された。ところで、このメルセン条約で揉めたのは「ロレーヌ」で、結局両者間で分割された。…仏独の領土的揉め事であるロレーヌ(有名な鉄鉱山がある。)は、この時代から存在していたわけだ。

東フランクはカロリング家の支配が維持されたが、西フランク王国は地方分化が進み弱体であった。887年、カロリング家のシャルルを抑えて、ノルマン人を撃退したパリ伯カペー家のユーグ・カペーが王に選出される。以後カロリング家から王位に選出される者は出ず、断絶と見なされている。

さて、やっとイングランドのジョン王とフィリップ2世の話に戻れるわけだ。フィリップ2世はカペー朝の二代目である。

2021年12月15日水曜日

受験の世界史B 研鑽ー11

http://history365days.blog.fc2.com/blog-entry-672.html?sp
今回の研鑽は、イギリスとフランスの関係を主にしたい。まずは、イギリス史を遡る。そもそもブリテン島にB.C.7世紀頃、ケルト人が鉄器と共に流入したらしい。B.C.55年にローマ帝国のユリウス・カエサルが侵入、43年には皇帝クラディウスによってブリテン島の大部分が占領された。ケルト人の侵入を防ぐための長城が建設され、この地域をブリンタニア、また在地のケルト人をブリトン人と呼んだ。(→ブリテン)また支配のためのロンディニウム(→ロンドン)と呼んだ。5世紀にゲルマン人の侵入が始まり、ローマ帝国は混乱、ブリタニアでの植民をあきらめ引き返した。449年にアングロ・サクソン人が侵入をはじめ、在地のケルト人は征服され同化し、一部は南西部のコーンウォール、ウェールズ、スコットランドに押し出された。

アングロ・サクソン人(アングル人・ジュート人・サクソン人)は7つの王国を建設し覇権を争った。これを七王国時代と言うが、当初アングル人の王国が有力だったので、ローマはアングリア(アングルア人の地)と呼び、それがアングロサクソン風に言うと「イングランド」となった。8世紀には、アングル人の王国マーシアのオファ王がフランク王国とシャルルマーニュと対等に渡り合い、西のウェールズとの境にオファの防塁を築いたが、統一を果たしたのは829年、サクソン人のウェセックス王国のエグバート王である。(イングランドの統一)

ここに、デーン人(ヴァイキング)が侵入、(ウェセックス王国の)アルフレッド大王はこれに立ちはだかり撃退したが、1016年にはデンマークのクヌートにより当時のエドマンド2世・剛勇王が破れ、征服王朝であるデーン朝(北海帝国)が成立した。

一方、9世紀にノルマン人がフランスに侵入、ノルマンディー公国(911年にサン=クレール=シュール=エプト条約で西フランク王国のシャルル3世=単純王の譲歩によって、ノルマン人の首長ロロに与えられた。)

北海王国のクヌートの死後、アングロサクソンによる王朝ウェセックス家のエドワード懺悔王が共同統治者(クルートの息子・ハーディカヌートに招かれた)となり、さらに1043年、ハーディカヌートの死後、イングランド王として戴冠した。しかし、修道士の心情をもっていて無為無策だが、ウェストミンスター寺院の基礎をつくった聖人とされているエドワードの死後、王位に就いたハロルド・ゴドウィンソンに対し、1066年、ノルマンディー公ギョームとノルウェー王ハーラル3世が異議を申し立て、ヘイスティングスの戦いで勝ち、ギョームはウェストミンスター寺院でイングランド王に即位、ウィリアム1世を名乗った。これによりアングロサクソンによる王位は途絶え、征服王朝としてのノルマン朝が成立する。これが、ノルマン・コンクエストである。征服王朝であった故に絶対王政が最も早く確立した原因であるとともに、ギョームは、イングランド王としてフランス王と対等であり、ノルマンディー公としては臣下という奇妙な立場になる。これが後(1337年-1453年)の百年戦争の遠因となる。

ノルマン朝は、わずか4代で王位を継ぐ者がいなくなり、1154年フランスのアンジュ―伯家からヘンリー2世が迎えられた。これがプランタジネット朝である。イングランド王・ノルマンディー公国に加え、アンジュ―伯領も得たわけで、フランス王からすればさらに複雑な関係になった。次の王、リチャード1世は、第三回十字軍に参加した。第3代の王がかのマグナカルタのジョン王(欠地王:兄たちに所領が分配された後領地が残らなかった故)で、フランス王フィリップ2世(尊厳王)との抗争に敗れ大陸領土のほとんどを失った。この抗争は教皇インノケンティウスを巻き込んでかなり複雑なので…つづく。

2021年12月14日火曜日

高知県梼原町の視察

7月に四国カルストに行く前に訪れた高知県梼原(ゆすはら)町から視察団が来られた。あの素晴らしい「雲の上の図書館」のある町である。梼原高校の学校長や教育,、中学校校長をはじめ8名が来られた。調べてみると、梼原高校もなかなか頑張っている。生徒数や進学実績も似ている。ただ公営塾はないようで、様々な質問も寄せられた。

もう一度行きたいと思っている町からの視察であり、学校長や教育長が来られるとなると、さすがに対応度合いは濃くなる。正直、少し疲れた。(笑)もう塾長の名刺も残り3枚。今回は3月に塾を去ることだし、8名全員に渡せないので、名刺交換を避けた次第。

意外なやり取りがあった。私が3月で退任するとのことで、地域の教育のアドバイザーの方がその後はどうされますか?と、梼原に来ませんか?というオーラを発しながら言われたことである。残念ながら、最終ステージは最高の場所に決まっている。丁重にお断りというか、「兵庫県の私立高校に決まっています。」と答えたのであった。

我が塾の講師陣の熱心さ・優秀さが良く分かってくださったように思う。今回の視察が少しでも梼原町のこれからに資することが出来ればと思う。

2021年12月13日月曜日

受験の世界史B 研鑽ー10

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB
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なかなか十字軍が終らない。(笑)今日は一気に第5回から第7回までを研鑽したい。
第5回(1228-29):多くの記述は、フリードリッヒ2世が外交交渉で聖地回復した程度。だが、ちょっと裏事情もある。前述したが、フリードリッヒ2世は、自分自身参加しなかったことで、批判を浴びた。1225年、フリードリッヒ2世は、イェルサレム王の要請でその娘イザベル2世と結婚。イェルサレム王を称した。しかしさらに2年の引き延ばし1227年にイタリアの部凜ディッシュまで行ったが疫病が流行し多くの将校が命を落とし、引き返してしまった。彼に友好的だった教皇ホノリウス3世も亡くなり新たに教皇になった強硬派のグレゴリウス9世は、彼を聖約違反として破門する。
1228年、破門されたまま出発。アイユーブ朝とのコネクションで出発前に予備交渉をして、モンゴル帝国の脅威を感じていたアル=カミールと岩のドームを除くイェルサレム、ナザレ、シドン、ヤッファ、ベイルートを割譲する条件で休戦条約を締結した。
このイェルサレムの奪還への評価は低く、破門は解かれなかった。フリードリッヒ2世はイェルサレムで戴冠式を行ったが、妻となったイザベル2世はコンラート4世を生んだ後亡くなっており、王としての正当性も疑わしく、ドイツ騎士団総長は出席したが、現地の諸侯の反応も芳しくなかった。それどころか、「破門皇帝への十字軍」を教皇が宣言(凄いな)、その対応のため帰国した。1238年にも、第5.5回といえそうなバロン十字軍(教皇はあくまでイスラム教徒打倒を企てたが、フランス諸侯の小規模な十字軍は戦うことなく、領土を拡げた。)

第6回十字軍(1248-54):1239年にフリードリッヒ2世の休戦期間が切れた後、1244年モンゴルに追われたホラズムの一派がアイユーブ朝に雇われ、イェルサレムを占領、多くのキリスト教徒が殺害された。ところが、西欧は1187年の頃と比べると格段に豊かになっており、命や財産を失う危険を払ってまで聖地を取り戻そうという宗教的情熱はなかった。十字軍国家もある程度のイスラム教徒との共存が成立していた故に新たな十字軍の派遣を望んではいなかった。しかし、フランス王・ルイ9世は、信心深く、周囲の反対を押し切って十字軍を起こすことに決める。ところが、マンスーラの戦いでルイ9世は捕虜にされる。捕虜の総数は1万を超えたと言われ、エジプトではクーデターがありアイユーブ朝からマルムーク朝に代わったが、占領地の放棄と40万リーブル(当時のフランスの貨幣単位)という莫大な身代金でルイ9世と一部は解放された。(その他の捕虜はイスラム教に改宗させられた。)以後、アッコーを本拠にマルムーク朝と同盟してシリアを責めるが成果は上がらず、1254年摂政だった母が死去したので帰国した。

第7回十字軍(1270年):ルイ9世は、内政に励んでいたが死ぬ前に再び十字軍を起こすことを望んだ。チュニジアのスルタンがキリスト教に改宗も考えているとされ、それを支援してチュニジアを十字軍の供給基地にする構想をもった。しかし上陸すると抵抗を受け、飲み水の劣悪さ暑さにより病気が蔓延、ルイ9世も病没した。実は、第7.5十字軍もある。その主役はイングランドの皇太子エドワード(後のエドワード1世)であるが、さすがに割愛。

…十字軍、教科書や資料集だけでは面白さは伝わらない。受験ともなればスキルが重要だが、授業する側としては、100を知って50くらい論じるのが安心感がある。この調子ではなかなか研鑽が進まないが、懲りずにやっていこうと思う次第。

2021年12月12日日曜日

受験の世界史B 研鑽ー9

https://keijoseph.amebaownd.com/posts/4373105/
さて、十字軍の話がまだ続く。第5回から第7回十字軍。これらは、世界史Bでは第4回までと比べてかなり重要度が低い。Wikipediaを調べてみたら、第5回~第8回十字軍に分類されていた。特に「Wikipediaの第5回十字軍」は、世界史Bでは省かれている。このあたり理由は不明だが、教科書にない「第4.5十字軍」として備忘録を記しておこうと思う。

第4.5十字軍(1217-21):第4回十字軍が結局イェルサレムに向かわないことに失望したインノケンティウス3世は、1213年教皇教書で新たな召集を呼びかけ、1215年の第4ラテラン公会議で正式に発布。(教皇主導の最後の十字軍)神聖ローマでは、教皇が支持するフリードリッヒ2世が即位し、フランスでも異端派(アルビ派orカタリ派:神によってつくられた精神が、悪魔によって作られた肉体・物質に囚われており、禁欲的な完徳者を中心に集団を作っていた。)を征伐するアルビジョワ十字軍が終息しかけていた。しかし、フリードリッヒ2世は十字軍には熱心ではなく、フランスでもアルビジョワ十字軍が再燃、次の教皇ホノリウス3世の呼びかけには、フランスの騎士はあまり集まらず、ハンガリー王のアンドラーシュ2世と伊・独・フランドルの騎士が参加、イェルサレム王国のジャン・ド・プリエンヌら十字軍国家とアッコーで合流した。シリアで小競り合いが続いたが、アイユーブ朝を攻略する必要があるとしてダミエッタの港を包囲する。

ここで、教皇使節のペラギウスが到着する。彼がこの十字軍の厄介者になる。十字軍の指揮権を要求し軋轢が生まれただけでなく、アイユーブ朝がクルドの反乱(1219年)が起こり、ダミエッタ港等と交換で旧イェルサレム王国領の返却を条件に和睦を申し出た際、異教徒との交渉を拒んだ。艦隊を派遣していたジェノバも商業的利益を望んで反対した。これは、聖地イェルサレムの優先度が激減したことを意味する。しかもペストが流行し、テンプル騎士団の総長も陣没した。新たな援軍が到着、ペラギウスは諸侯の反対を押し切り攻撃を命令、再度の和睦も拒否した。ついにダミエッタ港を占拠したが、ここを教皇領とするというペラギウスに、イェルサレム王は激怒しアッコーに戻ってしまう。神聖ローマの援軍も来たので、ペラギウスはカイロに進撃した。しかし、諸侯の忠告を受けず十分な食料・補給を用意せずナイル川デルタで進撃を阻まれた。ちょうど増水期で、しかも堤防を破壊され泥沼で孤立、ダミエッタを返却する条件で降伏・解放された。

ペラギウスが失敗の責任者として非難されたのは当然だが、フリードリッヒ2世も自ら行かなかったことを非難された。これが、第5回十字軍に繋がっていく。…つづく