2016年7月5日火曜日

茂木氏の世界史・新書を読む。

5月に帰国した際に、本屋でついつい手に取って少し読んでしまったので買った本がある。茂木誠氏の「ニュースの”なぜ?”は世界史に学べ」(SB新書/15年12月発行)である。「経済は世界史に学べ」を書いた駿台予備校の先生の本である。したがって学術書ではない。だが、同業者としては、わかりやすく万人向けに書かれた良書だと思う。もちろん、大きな発見はなかったけれど、あらためて現代史を講ずる上で参考にさせていただこうと思っている。

私の方も、いずれEJU(留学生が日本の大学に入るための試験)用のオリジナル・テキストをプリント類を整理して編んでいかねばならないと思っている。EJUのシラバスを検討してみると、世界地理と経済に重きが置かれて、地誌と経済学的な視点で国際感覚を身につけているかを問う問題が多い。これに近現代史的な知識が必要になってくるわけで、テキストにまとめるというのもなかなか楽しい作業だと思う。最終的には、私の見識が問われるわけだ。それもまた緊張感があって面白いと思っている。

2016年7月4日月曜日

IBTの話(14) スクールホリデー

IBTは、今週がスクールホリデーである。要するに1週間休みである。奇数月に1回こういう休みが組まれている。日本のようなドドーンとした夏休みはない。毎日が夏であるから分割して休むという仕組みだ。毎回日本に帰るわけにもいかないので、今回は居残りで仕事をしている。

今日のメインの仕事は、定期試験の社会科の成績会議と、それにまつわる資料作り、会議後の入力であるが、来週から金曜日の放課後、1時間程度補習することになったので、その教材も作り始めた。いや、作り始めたというのは正しくない。これまで編んできた「高校生のためのアフリカ経済学テキスト」を、留学生のための…に変えて、ひたすらルビを振りつつ校正していたのだ。これが案外楽しくも目が疲れる作業なのである。(笑)

補習だから、EJU対策をするべきだが、それは正規の授業でしっかりとやるつもりである。どうしようかな、と思っていたのだが、ふと開発経済学を本気で教えようと思ったのだ。たとえば、昔々、ドイツ語を学んだ時、英語の方がはるかに簡単なのではないか、と思った感覚があった。(実際は両方とも全くモノにはならなかったが…。)この感覚を大事にしたいと思ったのだ。開発経済学を学び、基礎的な社会科学から一歩先んじることができれば、ドイツ語と英語のような感覚を得ることができるのではないか。そんな理屈である。

先日、ふと、IBTの母体である帝京大学のことを調べていた。帝京大学のことは、ラグビーが強いこと、医学部があることくらいしか正直なところ知らなかった。建学の精神を読んでいて、実は私の教育理念とよく似ていることを発見した。ちょっと嬉しかったのである。実践を通して論理的思考を身に付ける「実学」、異文化理解の学習・体験で身に付ける「国際性」、幅広く学ぶ「開放性」…。IBTの総合科目の補習として、私が開発経済学を講じても、母体の建学の精神に十分沿っている。多少難しいコトも教えて、それがEJUやその後の大学での学びに活かされるのではないか、と思った次第。

教え子諸君には、私がほくそ笑みながら難しい漢字にルビをふっている姿が容易に想像できると思います。
…マレーシアで、地球市民、育成させていただきます。

そうそう、ベッケンバウワーです。昼休み、またまたメイバンクに行きました。クレジットカードが出来たので取りに来て下されという連絡がきたので行ってきました。びっくりしたのは、カードが2枚渡されたこと。VISAとアメリカン・エキスプレスの2種類。(今日の画像は、VISAがマスターになっていますがデザインはこれです。)これまた、ホワイ?マレーシアン・ピーポー?全くの想定外のハナシでした。それにしてもアメックスのカード。…恐れ多いと思ってしまうのでした。

2016年7月3日日曜日

中田・橋爪「クルアーンを読む」14

 QURAN 5-33 http://myonlinequran.com/quran-images/picture.php?/622
エントリーを続けたい。さらに本の内容を飛ばすことにする。
基本的に不正な支配者であってもイスラーム教徒である以上は、明らかに不信仰を冒して確実に背教者だと言われない限り、反乱を起こしてはならないという合意がイスラーム法学者の間で成り立っていることを中田氏は述べる。それに対してISは、西欧法の法律に裁定を求めるものは背教者であるということを法学的に正当化して、反乱を合法化したことが語られる。それに対して、橋爪氏がロックの抵抗権を持ち出して、「反乱は正当か否か?」を聞いているところから。

橋爪氏「背教者である統治権力には服務義務はないということになると思いますが、彼らに対してどう振舞えばいいんですか?」中田氏「倒すしかないですね。背教者というのは、多神教徒より悪い最悪のカテゴリーになるますので、殺すしかないってことになってます。」と、クルアーン第5章33節を引く。

アッラーと彼の使徒と戦い、地上で害悪をなして回る者たちの報いは、殺されるか、磔にされるか、手足を互い違いに切断されるか、その地から追放されるかにほかならない。これが彼らへの現世での恥辱であり、彼らには来世でも大いなる懲罰がある。

この最初の地上で害悪をなして回る者とは、反乱軍ではなく、実は強盗に対する規定で、強盗団は1人でも人を殺していた場合、この全部が適応されるそうである。イスラームでは、反乱に対しては緩い(どちらが正当かを問わない。どちらも正当性があるという前提で議論し、決着がつかなかったら仕方ないので戦う。やめれば罪が消える。)が、強盗にはきつい。それで、この強盗罪の規定を使うらしい。シリアのアサドの父親時代、ムスリム同胞団を強盗罪で処刑した。ISの処刑もこれによっている。(注:ビデオなどでは)クルアーンのこの句(第5章33節)が流れるとのこと。

当然橋爪氏が異議を唱えるが、中田氏によるとISは自分たちは正当なカリフ国で、強盗団と戦っているという理解にある。少なくとも彼らの理解はそうなっている。と答える。また、異教徒の敵軍に対しては、別の法規(これがイスラーム国際法にあたるらしい)があって、基本的には成人男子は全員戦闘員として扱う。たとえば修道士や体が不自由な人とかは戦闘員から外される。女性・子供は非戦闘員扱い。ただし女性でも武器を持って戦えば戦闘員扱い。先ほどの強盗罪の適用は、あくまで、イスラム教徒同士の場合となるそうだ。

さらにヨルダンのパイロットの檻に入れて火で殺すという行為について、橋爪氏がつめよる。中田氏は、預言者ムハンマドによる「火で殺すこと」は明文の禁止がある。(注:最後の審判とのからみであると推測される。)しかし、例外規定で、相手が先に火で殺した場合、しないほうがいいけれど、同程度ならば、その報復が許されていることを述べる。ただし、それは戦っている時の話で、捕虜に対してあのような処刑を行うのは、イスラム法的には問題があるとのこと。

しかし、ISの論理を橋爪氏が説明している。「パイロットは空爆を行った。空爆行為は、ISの非戦闘員に対する火攻めである。これがまず先にある。この戦闘員は捕まったけれど、それは一味の強盗団で背教者だ。そして共同正犯である。そこでそのパイロットにも責任を追求することができるのだが、復讐法の原則によって火攻めが許されているということから推論し、報復として、檻に入れて火で殺したと。」

中田氏は、イスラーム法の推論だと捕虜に対しては許されないのがおそらく法的に正しいが「、もうこのあたりになると私も含めて完全にどちらが正しいとは言えないレベルなのです。」ということになるらしい。橋爪氏が、ヨルダンやアメリカの空爆に対する憎しみの共有が文脈にあるのでは?と言われると、それも十分にありうると答えている。

…ダッカの事件を受けて、関係するような箇所を2回に分けてエントリーしてみた。当然ながら異教徒たる私にとって、理解を超える世界であるが、理解の糸口は常に持っていたいと思う。このマレーシアにも、多くのバングラディッシュの人々が出稼ぎに来ているようだ。低賃金で働いておられる。そこに去来する思いは何か?共生をめざす地球市民ならば、その声を聴いてみたいと思うのだ。今回の不幸な事件を考えるにあたって、私はそんな思いにかられているところだ。

中田・橋爪「クルアーンを読む」13

apostate で画像検索したら、こんな画像が。 http://mormonismschism.blogspot.my/2011/03/apostates-and-anti-mormon-propaganda.html
バングラディッシュのダッカで、IS関係者(ISのカリフに忠誠を誓った者と言った方がいいと私は思う)による、凄惨なテロ事件が起こった。亡くなられた方々のご冥福を心から祈りたい。まして、日本の被害者は、私もいろいろとお世話になったJICAのプロジェクトで赴任していた方々である。しかも極めて平和的で普遍的な交通停滞緩和を目的にしたプロジェクトであって、途上国の持続可能な開発のための貴重な人材が多数失われたことに悲嘆を隠せない。あらためて無意味なテロ行為だと非難せざるを得ないのである。

この「クルアーンを読む」のエントリーは、私の備忘録的な自主学習のノートのようなもので、だいたい土日に行っている連続物なのだけれど、今日はすこし順番を飛ばそうと思う。最近は、中央アフリカやナイジェリア、さらに今回もそのような場面があったような報道があるのだけれど、イスラム教徒か否かがテロの対象か否かに結びついている。このことにまつわる中田考氏の論説を抽出してみたいと思うのだ。

中田氏は「イスラームは戒律の宗教であるという誤解があります。確かに戒律・法は守らないといけないんですけれども、法が救済の条件ということでは全くありません。」「救済の条件はあくまで信仰であって、しかも信仰自体にその力があるのではなく、あくまでも神の一方的な慈悲によって救われるのです。」「そもそもイスラーム教徒の信仰とは何かと言えば、スンナ派だと基本的には、心の中でアッラーの存在を認めて、口でそのことを証言すること、というのが標準的な信仰の定義になっています。」

…というわけで、テロリストが処刑の際に使う手段、信仰告白をアラビックで言えない人間は、イスラム教徒ではない、という判断がなされるわけだ。一方で、良き行為を沢山やっている人間のほうが信仰は深いだろうという常識的な判断がある。信仰と行為は別物だけれど、そういった信仰と行為の結びつきは、特に穏健なイスラム国家マレーシアなどでは日常的に見受けられる。

イスラーム教徒かどうかが重要な問題になる場面について。例えば結婚する時、イスラーム教徒同士でないと結婚できない。男性はユダヤ教徒やキリスト教徒の女性と結婚できるけれど、葬式の礼拝はイスラーム教徒にしかあげれないので、イスラーム教徒であるかどうかをどうやって判定するかということは法的にすごく重要になるそうである。心の中のことはわからないので、それについては問わない。自称・他称でイスラーム教徒だと言われている人間をイスラーム教徒として扱うのだが、非常に明示的に偶像を拝んでいるとか、アッラーなんかいないと言ったり書いたりすれば、それは不信仰の印として扱うことができる。そういう場合、不信仰者、背教者として処刑されたり、お墓に入れてもらえなかったりする。それ以外のイスラームで禁じられている行為をやっても、それが悪いことであると認めていれば背教者とはみなされない。ただし、カリフが任命したイスラーム法裁判官(カーディー)によってきちんと審理して有罪になった場合は背教者となるのだという。とはいえ、基本的にはそもそも問わないものらしい。結婚の際に親族が認めず背教者として訴えた時ぐらいの話らしい。

「実際には、背教者として処刑することはまずないのです。ほとんど狂人として処理するからです。イスラームは理性的な宗教だという自己認識がありますので、健全な理性があって正しい知識があれば、イスラーム教徒でなくなることはありえないというのが基本認識です。」

…と、まずは背教者という概念を提示しておきたい。しかも現状では、そんな扱いはほとんどありえず、狂人として扱われるということである。うーん。フーコー(仏の現代思想家)だな。

私の新しい住処 タマンデサ9

先日、同じコンドに住むF先生から帰宅のバスの中でタマンデサの公園の話が出た。スーパーやフードコート、いろんなお店が並ぶタマンデサの中心部にある公園の話だ。すこし高くなっていて、道からはどうなっているのか見えない。しかも高級住宅街のセキュリティーが横にあるので、私などは入れないものだと思い込んでいた。F先生によるとセキュリティーは全く関係ないらしい。「朝行くと、太極拳とか、いろいろやってますよ。マン・ウォッチングが先生はお好きなようだから、一度行ってみるといいですよ。」と言ってもらえた。うむ。F先生の言われるとおり。マン・ウォッチング大好き。

と、いうわけで、今朝行ってみた。7時過ぎから8時過ぎまで約1時間、公園をぶらぶらしていたのだった。7時過ぎは、まだ薄暗くて風が吹くと涼しい。なにやら、木の周囲を回ってしる華人の集団を発見した。太極拳というよりは気功のようだ。年老いた華人の人々が多い。木に向かって気を整えながら周囲を回っている。じっと見ていると指導しているのは比較的若いご婦人であることがわかった。足の運びが武道のそれであることで判る。他のオジサン・オバサンの足の運びとは全く違うからだ。案外、右手やら左手やらを上げながら回るので疲れるようだ。当然中国語の指示で動くわけで、参加してみたいけど無理。
もうひとつ、華人の集団があって、こちらは太極拳のようだった。でもかなりの年配の方もいて、椅子に座ったまま気を貯めていたりして…。もっと見たかったが、だんだん日差しが強くなってきたので退散した。

公園内は、ロードを走る人、歩く人、テニスやバスケットボールに興じる人、子供の遊戯場など、なかなか見ていてあきない。芝生のサッカーグランドやハンドボールコートもあったりして、なかなかの運動公園であることがよーく判った。夕方はどうなっているのかまたいつか覗きに来ようと思う。

8時を過ぎるとストロングな太陽がど-んと上がってきた。今日も暑くなりそうだ。

2016年7月2日土曜日

生活の改善Ⅱ/校長先生に感謝

電子レンジが我が住処に来てから、食生活が豊かになった。と、いっても豚まんをチンするのに使うことが多いのだが…。妻によると、スーパーとかでレンジが利用できるものをいろいろと買えばいいとのことである。メールであれやこれやと指示があったのだが、実際スーパーに行くと、うーんと唸ってしまう。食に関して、私は超保守主義者なのであると思う。とにかく冒険を極力避けようとする。だから、グルメではないのだ。(笑)

そんな話を先日職員室でしていた。と、いうか、私が中華粥ばかり食べているということが話題になったのだった。校長先生が心配されて、自宅に置いてあったオーブントースターと電気ポットをわざわ持ってきていただいたのだった。なんでも以前マレーシアに滞在していた友人や先生の中古品だから、気にしないで使ってください、とのこと。とはいえ、買えばそこそこの金額になる。ラマダン明けのセールに買おうと思っていたので、非常に助かった次第。しかも、トースターはフィリップス社製、ポットはケンウッド社製。かなりいいものである。これで、さらに生活の改善が進む。

と、いうわけで、スーパーで初めてカップ麺を購入てきた。カップ麺というよりは、天ぷらうどんである。RM3強。万が一、美味しかったらもっと買っておきたいと思っている。食べるのは明日の昼くらいになりそうである。校長先生に深く感謝しながらいただこうと思うのであった。

「まんが パレスチナ問題」を読む。

先日、日本人会にあるパソコンを修理してくれる和風堂に寄った。ここには古本も置いてあって、意外な本が格安で置いてあったりする。そもそもは、KL近郊の見所を書いた本はないかと、探しにいった(6月26日付ブログ:「クラン港へKTMで行ってみた」参照)のだが、いざ支払いをしようとすると、華人のおばさんが、早口の英語で私に何か言ってくる。「?」何度も聞き直したのだけれどわからない。結局、おばさんは、ある日本語の但し書きを指さした。RM20分買うと4%引きになってお得だという話だったのだ。…なるほど。

と、いうわけで何冊かプラスして無理やりRM20にして、RM16払ったのだった。その中の1冊が今日の書評に出てくる講談社現代新書1769「まんが パレスチナ問題(山井教雄著/2005年1月発行)」である。実は、私の古本にはカバーがない。WEBで初めて、本来の姿を拝見した次第。

この本、パレスチナ問題を漫画にしたわけではない、どちらかというと,イラスト満載のマルクスやフロイドなどのFOR BEGINNERSシリーズに近い。カバーの帯にあるように「日本一わかりやすい」というのは、さすがに眉唾ものだけれど、今までの知識に上積みするような話は沢山あったし、興味のある高校生にはオススメの1冊である。ただし、この1冊でわかったような気になってはいけないと思うのである。パレスチナ問題は複雑でそう簡単に理解できる代物ではない。いろんな本を読んで、様々な違う角度から見て欲しいと思うのだ。ちなみにWEBで見たら、続編があるらしい。著者が当然書ききれてない部分もあるだろうと思う。

この本は、ニッシムというユダヤ人少年とアリというパレスチナ人の少年、さらにエレサレムの由緒ある野良猫が案内役を務める。当然立場の相違もそこに表現されるわけだ。猫は中間的な立場で語っている。実際、エレサレムの聖墳墓教会のそばにはたくさんの野良猫がいた。で、私などはそういう理由で妙にリアル感があったりするのだった。