2023年2月27日月曜日

第4代・第5代のプロイセン王

https://mainichi.jp/articles/20161221/k00/00e/030/279000c
「プロイセン王家12の物語」の書評第3回目である。第4代、第5代のプロイセン王、フリードリヒ・ヴェルヘルム2世と、同3世について。

フリードリヒ・ヴェルヘルム2世はの父は、大王の父・兵隊王からも兄の大王以上に期待された人物であった。しかし、病没してしまう。その嫡子であるこの第4代の王(大王の甥にあたる)は、大王とは正反対で、美女好きの漁色家であった。しかし11年の治世では意外に頑張っている。公文書をドイツ語にしたのは大王だが、本人はフランス語を使い、アカデミーの会員は全員フランス人だった。第4代は、そこに風穴をあけたのである。ドイツ人をアカデミー会員に任命し、劇場も脱フランス化し、ベルリンをドイツロマン主義の中心地に変えていった。音楽でもモーツァルトやベートーヴェンもプロイセンにやって来ている。(多くの愛人関連で)浪費家であったが、国内道路の拡張や運河建設、そしてブランデンブルク門の建造など価値ある仕事をしている。外交では、フランス革命の際に、オーストリアと組んで「ピルニッツ宣言」(革命を否定し王政復古を促す宣言)をして、結果的にルイ16世と妃の処刑を促進してしまうことになったし、さらにはナポレオンの侵略に繋がったが、一方で、ポーランドの第2次分割、第3次分割に成功しており、大幅に領土を拡大した。

第5代のフリードリヒ・ヴェルヘルム3世は、父を反面教師として、愛妻のルイーゼ妃一筋に慈しんだ。彼のあだ名は「不定詞王」。主語抜きの言葉足らずだったことに由来する。ルイーゼ妃はこの王を様々に補佐した。不定詞王は平和主義者で、ナポレオンが動き始めた時、プロイセンは中立を守っていたのだが、ドイツ西南の領邦国家のうち100以上がナポレオンにより解体され、ライン同盟としてフランスの保護国化された。1806年神聖ローマ帝国が消滅。一応フランスと同盟を結んではいたが、ついにプロイセンは、宣戦布告する。しかし、たった1日、2か所の戦いであっという間に撃破された。不定詞王は東プロイセンに逃れたが、ブランデンブルク門の上部に飾られていた勝利の女神は略奪された。ロシアも破れ、東プロイセンで粘ったものの結局屈辱的な条約を結ばされた。ルイーゼ妃はジョセフィーヌに嘆願したり、直接ナポレオンに直訴し、「プロイセンの女豹」とナポレオンに言わしめ、ホーエルンツォレルン家の支配を護った。占領下のプロイセンは緊縮財政で、重税を課さざるを得なかったが、フランス革命の影響は少なかった。王室は質素で禁欲的だったこともあるし、新興国故に国民一体となって勤勉だったからである。その代わり民族意識が高まっていく。

占領5年後、ナポレオンはロシア遠征時に同盟を強要してきた。もうこの時、頼りのルイーゼ妃は病没している。迷いに迷った不定詞王は。同盟を受け入れつつ、将軍の進言を受けて、密かにロシアとも同盟を結びナポレオンを裏切る。しかし見事に玉砕した。2度も裏切ったわけだ。ただでは済まない。ここで、かの有名なオーストリアのメッテルニッヒ外相が仲裁に入る。(彼はナポレオンに皇女メリー・ルイーズを差し出したので親しい。)シュレージエンをオーストリアに戻してよいとナポレオンに言われ、プロイセンは風前の灯となるのだが、メッテルニッヒはナポレオンの敵に回ることを決断した。ちょうどうまいことに、ロシアでナポレオンは敗走し、一気に力を失い、流島されてしまう。こうして滅亡を免れたプロイセンは、ブランデンブルグ門の勝利の女神像を取り返し、女神の杖に鉄十字の杖を新たに付け加えたのだった。(画像参照)しかし、ウィーン会議後のプロイセンの領土は縮小した。おまけにフランスとの国境警備役(戦勝列強は誰も欲しがらなかった)を押し付けられる。ラインラントが新たな領土になった。しかし、ここは後に良質の石炭の宝庫=ルール炭田が発見され、現在のドイツの心臓部・ルール工業地帯となる。不定詞王は意外に運が強い人だったかもしれない。2度の国家滅亡の危機を他力で乗り越え、臣下にも恵まれた。彼らの改革政策でギルドを廃止し自由商業を進め、経済復興していく。軍略も見直され、貴族だけでなく一般市民に将校職が開放された。クラウンゼッツやフィヒテなども登場し文化面でも大いに発展する。69歳で没した不定詞王の後継ぎは、愛するルイーゼ妃の生んだ長男・第6代国王のフリードリヒ・ヴェルヘルム4世。4世には、嫡男がいなかったのでその後を継いだ弟のヴェルヘルム1世(後の第7代国王から初代ドイツ皇帝)である。

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