2023年2月19日日曜日

境涯ということ。

アイオワ州デモイン州議会堂前でM高校2Cのクラス 
病気で参加できなかったI君の名を記した手ぬぐいと共に
総論的人生観の続きをエントリーする。昨日は、人生とは修行であると記した。その目指すべきところは、孟子を使って”浩然の気”という表現をしたが、まあ当たらずと言えど遠からずであると私は思う。母親の葬儀の時、学生時代に「育てて」もらった先輩が駆けつけてくれた。その時、息子は大学生であったと思うが、「凄い人だ。」と直感したらしい。後で、もっと話を聞きたかったと妻に言っていたそうだ。浩然の気”は、こういう感覚である。

ところで、仏教では「境涯」という語彙がある。良い境涯とは、経済的に恵まれ、何不自由なく対応できる場合によく使われる。仏典に登場する「長者」という感じだろうか。だが、本来の意味で考えると、他者とどれくらい同苦できるか、という菩薩道的なものである。ベンサムの快楽精算ではないが、何人の他者(これには両親や兄弟なども含む)と同苦できるかという人数で計算可能かと思う。私はクラス担任の際は、一人ひとりの成長を祈っていたし、想いを行動に移してきた。それが先輩方に学んだ方程式であった。存外いいクラス運営ができたのは、そういう方程式上にあったからだといえる。

今日の画像は、M高校でのアメリカ研修旅行での写真。病気で参加できなかったI君への想いを常に胸にしての旅だった。だからこそ、卒業時に男子を中心にI君と北陸方面に修学旅行をしたし、浪人組が、奈良教育大や横浜市立大などに合格した後、浪人祝勝会をした。今も彼らと共にあるという実感がある。

この境涯が無限大に拡大する時、仏陀になるのだと思うが、私などは修行がまだまだなので、どうしても私の境涯に入ってこない人間(生徒ではない。)もいた。これは事実である。だからこそ人生は修行なのだと思う次第。

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