2023年2月15日水曜日

良き時代の目撃者

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THE ALFEEの「友よ人生を語る前に」という応援歌を聴いていて、ふと想った。もうそろそろ私も人生を語ってもいい頃だ、と。以前、「評伝 KATABIRANOTSUJI」というエントリーを7回にわたって綴った。今回は、総論的に記してみたいとふと思ったのだ。私は昭和33年(1958年)の3月生まれである。団塊の世代のベビーブームが去って、出生率の谷間に位置する年代である。しかも高度経済成長とともにあった。

ふと思い出すのは、小学校1年生の時。(第1回めの)東京オリンピックがあった年である。教室には石炭ストーブがあって、上級生が石炭を焚べに来てくれていた。それが2年生からガスストーブに変わった。時代の移り変わりを敏感に感じた最初の出来事だったように思う。

石炭ストーブに纏わるような時代の変化の目撃者的なスタンスこそが、私の人生であったような気がする。THE ALFEEのの歌に出てくる1969・学生運動の残り香は、高校時代にもあったし、大学でもあった。高校では、そういう学生運動の流れの中で、制服が廃止になっていた。(私達が卒業後に復活したが、我々は制服の存在を知っていた。)大学では、一回生の時に移転に対する反対運動があって、結局二回生時に移転した。古い校舎を私は知っている。こういう変化の目撃者的スタンスが、教師になった後も私の人生について回っているのである。

商業高校では、最初の担任時には、まだまだ求人が多かった。普通の成績の子で、それなりに名のしれた市中銀行に就職できた。トップクラスになると東証一部上場企業だった。ところが、その後、商業高校の商品価値が一気に下落していく。良き時代の目撃者であったわけだ。工業高校では、転勤1年目に古い体育館が建て替えられ、構内の様子が一変した。ここでも最初の担任時は就職もびっくりするほど良かった。しかし二回目は目も当てられなかった。ここでも良き時代の目撃者になった。進学校のM高校でも同様で、それまで大阪外大にかなり多くが進学していたのだが、阪大外国学部になって一気に減少した。私の担任の学年はまだ良かったが、その後みるみる厳しくなっていった。ここでも良き時代の目撃者となっってしまった。体育科のあるH高校でも、部活でインターハイなどにたくさん出場していた。しかし、(かのS高校事件以来)体育の先生方の転勤が進み、若い講師陣が増え、一気に厳しくなった。ここでも良き時代を知る目撃者になってしまったのだった。

マレーシアのPBTでも、この良き時代の目撃者であることが続く。私が担任した時代、私費生の学生をいい日本の大学にどんどん送り出すことができたが、(HPを見ると)コロナ禍によって、だいぶ落ち込んだようだ。三崎高校でも、私が行ったころは、3学年3クラスの超小規模校だった。これが良き時代とは言えないと思うが、現在は全学年2クラスで、躍進の目撃者となった。

さて、今の学園にあって、良き時代の目撃者にはなりたくないと思っている。私大入試が終わり、国公立大学の前期試験が始まった。頑張れ。3年生。三崎高校の時のような躍進の目撃者になりたいものだ。

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