2023年2月25日土曜日

プロイセン王家12の物語

三田の市立図書館で、山本七平の本と共に、中野京子著「プロイセン王家12の物語」と「ブルボン王朝12の物語」を借りてきた。「ハプスブルグ家12の物語」が面白かったので、世界史の教材研究も兼ねて併読している。プロイセン王家は、ホーエンツォレルン家という。(何と呼びにくい名前だ。)有名なのは、何と言ってもフリードリヒ2世(大王)と、鉄血宰相ビスマルクとドイツを統一したヴィルヘルム1世、そしてそれをWWⅠで潰したヴィルヘルムⅡ世であるが、今日のところは、フリードリヒ2世くらいまでの「学び」をエントリーしようかと思う。

ホーエルンツォレルン家は、そもそもプロイセンが本拠地ではなくドイツ最南西部の豪族であった。そのホーエンツォレルン山の山頂に今は世界遺産となった城がある。画像で見るとなかなか美しい。(この城は32度破壊され、19世紀にフリードリヒ・ヴィルヘルム4世が再建したもの。すでにプロイセンを拠点にして数世紀たっていた。)

さて、ホーエンツォレルン家がプロイセンに拠点を築いたのは、意外にも「ドイツ騎士団」絡みであった。多神教だった古プロイセン人を追い払い、修道会国家となった。その第37代総長に選挙で選ばれたのがアルブレヒト・ホーエンツォレルン(1510年)。かれが、騎士団領から公国にする。この頃のホーエンツォレルン家は、ブランデンブルク(現在のベルリンを取り囲むポーランドと国教を接する地)まで北上しており、アルブレヒトの祖父はブランデンブルク選帝侯。父は四男で辺境伯、母はポーランド王の娘であった。アルブレヒトは、ルターの宗教改革を利用する。1525年、アルブレヒトはルター派に改宗し、騎士団を解散、神聖ローマ帝国から離れポーランドの傘下に入った。カトリックから見れば暴挙もいいところだが、バックに当時の強国・ポーランドがいたので手が出せない。騎士団も彼に人気があったようで皆ついてきた。善政を行い、公国を豊かにしていった。首都に大学も設立する。ケーニヒスベルク大学。後年カントを輩出する。現在のロシアの飛び地・カリーニングラードである。

初代プロイセン国王は、フリードリヒ1世(フリードリヒ2世・大王の祖父)である。ブランデンブルグ選帝侯にして5代目プロイセン公の父・フリードリヒ・ヴィルヘルムを持つ。人生後半は、お家騒動が起こるがフリードリヒ1世が無事国王となる。彼の妻はハノーヴァー選帝侯の娘で彼女の祖母はイギリス王ジェームズ1世の娘で、兄はジョージ1世となった。またライプニッツのパトロンにもなっている。フリードリヒ1世(当時はまだフリードリヒ3世・ブランデンブルクグ選帝侯&プロイセン公)は、スペイン継承戦争の際、オーストリア・ハプスブルグ家のレオパルド1世(神聖ローマ帝国皇帝でもある)に8000の兵を貸す条件として、プロイセンを王国にして欲しいと頼んだのだ。プロイセンは、神聖ローマ帝国内にはない。ポーランドを宗主国にしていたわけで、レオパルド1世からすれば安いものである。当然ポーランドは西プロイセンを領有している故に激しく反対したが、勝手に王を名乗ったのだった。ところで、初代の王は首都の外観を飾り立て、国庫をほぼ殻にして病没した。

第2代国王は、フリードリヒ・ヴィルヘルム1世。ちなみに9代まで、フリードリヒとヴィルヘルムの片方、もしくは合わせた名前で実にややこしい。(笑)兵隊王の異名を持つ。財政改革せざるを得なかった第2代は、宮廷費削減、無用な華美のものは売り払い、宮殿のバロック庭園も練兵場にした。同時に国力を上げるため、移民を募る。当時フランスはルイ14世の時代。弾圧されていたユグノーが来てくれた。プロイセンは、ルター派で、少なくともプロテスタントである。それ以前からも移民が入っていたのも功を奏した。優遇されたユグノー移民は経済的文化的に大貢献することになる。さて、二代目は、国庫に金が貯まると軍備につぎ込んだ。富国の次は強兵である。300万の人口で、10万の常備兵を持った。しかも、国全体に軍人的価値観を押し付けた。法と秩序、質実剛健、自己鍛錬、職務遂行。周辺国は脅威に感じたが、意外にドイツ人の気質的にはあっていたのかもしれない。全国規模の就学義務令なども後の国力増強に繋がっている。

この無骨な第2代兵隊王の後継ぎが、読書家でフルートを吹く後のフリードリヒ大王である。今日はここまでとしたい。なかなかプロイセン王家の歴史は波乱万丈で興味深い。

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