2023年2月11日土曜日

クルアーン第6章

ふと、気になったことがある。イスラム教は、ユダヤ教・キリスト教を批判するカタチで生まれている。よって、この啓典の民の伝統を十分に活かしている。もちろん、イスラム教の側からすれば、両宗教と同じ神を信仰しているわけで、預言者についても、アダムやノア、アブラハム、イサク以降の族長、モーセ、ダヴィデ王やソロモン王、ヨブ記のヨブ、洗礼者ヨハネやイエスも認められている。ただ、彼らは神の理想とするようなような共同体をつくることができなかった故に、最後の預言者ムハンマドが選ばれたとなっている。

このことは、昔々、まだ倫理の教科書や資料集には、イスラム教の学習範囲がすこぶる小さかった時代から教えてきた。ある宗教学の本に、「コーランには次のようにある。」として前述の預言者の名の羅列があって、同様の趣旨が書かれていたのを、教材として使っていた。古い教え子は、私にそう習っているはずだ。

さて、クルアーンのどこにそういう記述があるのか、今になって気になって、手元にあるマレーシアのPBTのF42の教え子たちに贈呈されたクルアーンを調べてみた。といっても全部読むのは辛い。ウィキで調べると、これらの預言者の名が記載されているのは「第6章」らしいとわかったので、そこに絞って一読してみた。すると、私が今までクルアーンの「記述そのもの」だと思っていたのは、あくまで「整理された趣旨である」ことがわかった。あちゃー。嘘ではないにせよ、全く正しいとは言い難い。

マレーシアに3年半もいて、イスラム教をだいぶ勉強したつもりだったが、ホントまだまだである。だが、実際のムスリムの教え子たちと触れ合いながら学んだことは大きい。イスラム教には原罪という概念がないこと、フィクフがあってユダヤ教などに比べて臨機応変であること、ファトワとシャリーアの関係など実に勉強になった気がする。(本日の画像は、教え子たちに贈呈されたクルアーンと全く同じものの画像があったのでお借りした。このクルアーン、非売品のはずなんだけど…。)

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