2021年7月6日火曜日

秘伝 教材研究(倫理編)Ⅲ

https://www.slideshare.net/5csd/rene-descartes-77566531
さて、西洋哲学には、木に例えるならば幹がある。デカルト、スピノザ、ライプニッツという大陸合理論と、ベーコン、ロック、ヒュームと繋がるイギリス経験論である。これらがカントによって批判されながら統合される。その後、ドイツ観念論として、フィヒテ、シェリング、ヘーゲルで完成される。「カント以前の哲学はカントに流れ、カント以後の哲学はカントから流れた。」と言われる所以である。

実は、この幹である「認識論」の流れは、高校生には難解である。と、いうより属性があまりない。理系の生徒はまだ、理科と数学の関連性(帰納法と演繹法)を感じさせることが出来るが、文系の生徒にはほとんど属性がない。(そもそも理科や数学が苦手である。)かく言う私も完全文系なのだが…。さて、ここでは、デカルトの第一証明、第二証明、第三証明を必ずやることにしている。第一証明は有名な方法的懐疑である。「われ思う故に我あり」で、これはシンプルに教えると比較的理解可能。第二証明は神の存在証明で、かなり哲学的思考力が試される。文系の生徒には、この文章が理解できれば哲学的才能があると言っている。この言に食いついてくることを期待するしかない、(笑)

我々は神の概念をもっているが、この概念はどこから得たものか?①我々の持つ観念は(1)経験によって得られたものであるか、または(2)空想的なものの観念のように、我々自らが作り出したものか、である。しかし、神の概念はそのいづれでもありえない。何故なら神は完全な存在なものであるが、このような完全なものが(1-a)経験によって得られるはずはないし、(2-b)不完全な人間が完全なものである神の概念を空想して作り出すことは不可能であるからである。③しかし我々は神の概念を持っている。それ故に、神の概念は我々が生得的に持っているものであり、④それは神自身が我々の心に植え付けたものであると考えるしかない。⑤故に神は存在する。

プリントでは、①や(1)(2-b)のようにこの論理を展開して記していいる。それでも難解なようだ。最大のポイントは(2-b)の箇所である。不完全なのこぎりで、完全に材木を半分に切れるだろうか?という例を私はいつも挙げている。如何に高校生のもつ経験値まで話を下げることが出来るか、が理解と属性を生むコツであると私は思う。

第三証明は、物体の存在証明である。これは、第二証明よりかなり短文である。神は完全なものであり、決して欺瞞者(うそつき)ではあり得ないから、我々が物体について、理性によって明晰判明に理解するところは真であるいわねばならない。

この第三証明は、日本人には理解しにくい。創造神という一神教の道理が前提になっているからだ。机やチョークを、これは誰が作ったかという問いで突き詰めていくと、神になる。その神はうそつきではないので、あるという論理である。ヨーロッパ哲学の基盤にヘブライズムがしっかりと根を下ろしていることを再考させるところである。

このデカルトによる二元論は実に重要で、近代科学の出発点になっている。動物もここでは物体になる。そもそも、創世記の天地創造で、神は野の獣と家畜を分けている。こういった発想は、日本の発想からは生まれてこない。まあ、イギリス経験論のベーコンの「知は力なり」も同様で、人間対自然という対立構造がその基盤にあるのである。

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