2016年6月30日木曜日

IBTの話(13) パワーポイント

IBT への道 市街地ながら緑に囲まれている
定期試験でWWⅡの終わりまで進んだ。マレー系でムスリムの国費生たちからすれば、ユダヤ教徒がナチに大量虐殺されたことに対して「何故なのか?」という意識が強い。中国系の私費生は、日本の生徒と同じように一神教には馴染みがないので、その分教えやすいのだが、ムスリムの彼らから見て、ユダヤ人というのは微妙な存在らしい。
同じ啓典の民でありながら、生徒たちははアラブ人ではない。したがって日常的な出会いなどないといってよい。概念としては知っていても見たことがない、というわけだ。おまけにパレスチナ問題で、ムスリムから見て基本的に悪役(ヒール)でもある。

と、いうわけで、今日はパワーポイントで作った教材を、2クラスとも見せることにしたのだ。来週からスクールホリデーで一週間休みになるし、ちょうと区切りもいい。

幸いIBTには、プロジェクターが2台あるし、ホワイトボードも各教室にあるので難なく授業で映像が使えるわけだ。以前人権学習で作った「ホロコースト編」と「イスラエル考現学」を一気に見せた。

なかなか興味深かったらしく、好評であった。実際の映像に勝るものはないなあ、と思う次第。

2016年6月29日水曜日

IBTの話(12) 定期試験なのだ。

IBTへの道
今週に入ってから、私の教えているF36期生の定期試験が続いている。月曜日は私の試験はなかったが、昨日・今日と、公民分野・歴史分野と80分の試験(4択を中心に全80問の試験にした。)があった。だいたい平均点をこれくらいに合わせて欲しいという要望もあり、、その辺は一応私もプロである。生徒諸君には予定どうりの点数を取ってもらった次第。こういう問題作成のさじ加減は、ただひたすら経験値によるものである。とはいえ、マレーの生徒たちに対しての初めての定期試験である。少しばかり勝手も違うし、戸惑ったのも事実。まあ「出来杉君(出来過ぎ)」かな、と思う。

永年、高校に勤めていたので、定期試験などというとかなり周到な準備が行われると思っていた。ところが、かなりピュアなのだ。試験の保管も各人のロッカーだったりして…。これにはぶっとんだ。(笑)

初日・二日目の午後は、文系・理系に分かれてインタヴュー・テストが行われた。前々任校の英語科のEcom(イングリッシュ・コミュニケーション)みたいなものだろうと思われる。私といえば、テストの終わった生徒に携帯電話を返す係であった。(笑)

とまあ、何かと新鮮な定期試験の3日間であった。そういえば、7月も近い。日本の高校では期末考査の季節である。それが終われば高校野球予選。インターハイ予選…。こっちはというと、スクール・ホリデーが来週に迫っている。私はというと、ラマダン明けの休日以外は学校に出て、進学関係の書類のマレー語の和訳に挑戦という予定である。うーん、そんなこと私にできるのだろうか?かなり不安である。

2016年6月28日火曜日

珊瑚婚(結婚35周年)

http://www.tourismmalaysia.or.jp/audioguide/stadthuys/
妻に1日に何度となくメールする。忙しい日は少なくなるが、だいたい朝と夕方、就寝前は必ずメールするといっていい。で、昨日の妻からの最後のメールに結婚記念日だったことが書かれてあった。

おそらく私が忘れていることを熟知したうえで、チクリと刺したのであろう。(笑)うむ。完全に忘れていたのだった。調べると35周年は珊瑚(さんご)婚というらしい。30周年の真珠婚の時は、一応記念旅行と称してとイスラエルに行ったのだった。今回は、まあ、それどころではない展開になっている。
朝のメールで、記念旅行は何処に行こか?とメールしたら、KLから日帰りで行けるとこでいい、との返事であった。まだ妻は渡馬していないし、生活費がどのように変化するか予想し難い中で、そんな浮いた話は、なかなか決めかねるのじゃ、というわけだ。

と、言う訳で、日帰りが可能な世界遺産・マラッカに一応、行こうかと思っている。案外ツアーで行くとお金がかかるらしい。1人RM400くらいとか。うーん。

2016年6月27日月曜日

ランカウイ国際海洋航空博 ’17

http://www.lima.com.my/

南国新聞(日本語のフリーパーパー)最新号に、ランカウイ国際海洋航空博が、来年3月21日~25日に開催されるとあった。いつのことだったか、たしか憲法の話の中で空自のブルーインパルスの話に脱線したとき、生徒が「マレーシアにも、空軍のアクロバットチームがあります。」と言っていたのを思い出した。おお、これだな。こういうの、ヒコーキ大好き人間としては、血が騒ぐ。

少し調べてみたら、隔年開催らしい。ランカウイというのは、タイとの国境に近いリゾートアイランドである。航空博というのはピンとくるが、海洋ってなんだ?と思ったら、これも潜水艦を含む海軍の展示らしい。おお。潜水艦。アメリカで退役した展示用の潜水艦には、毎回のように入って楽しんた。私は大の潜水艦好きでもある。凄いな。いいな。ランカウイ。

このLIMAは様々な国から、空軍のアクロバットチームも来るそうだ。しかもマレーシア空軍は、米国製の戦闘機もロシア製の戦闘機も所有しているらしい。へー。調べてみると、F-18とSUー30が前回はそろい踏みしたようである。それも凄い話である。日本やアメリカの航空ショーでは考えられない。

是非・是非観たいが、来年の学校の日程もわからないし、とりあえず、いいな、いいなと騒いで終わることにする。
<昨年のLIMAについて>http://flyteam.jp/event/detail/2377

2016年6月26日日曜日

クラン港へKTMで行ってみた。

このところ、休日は住処でじっとしていることが多いので、今日こそはと出かけることにした。日本人会の和風堂で見つけた恐ろしく使い古したマレーシアのガイドブックに、「水上集落の島・クタム島」というのがあって、KTMコミューターで1時間くらいだそうだ。これだ、ということで、とにかく最寄りのクラン港(ペラブハン・クラン)まで行くことにしたのだ。(島に渡るのは妻と改めて来る時の楽しみにとっておきたい。)

で、住処をいつもの650番のバスで出発。KLセントラルで、KTMに乗る。今回は5番のプラットフォームである。終着駅が目的の駅なのでわかりやすい。意外に混んでいた。途中、シャーアラムという駅とクランという駅で多くの乗客が降りた。シャーアラムは、KLが連邦直轄都市になった関係で、セランゴール州の州都となった新興の商業都市らしい。クランにもなかなか魅力的なモスクがあって、なんか胸騒ぎのする街並みだった。各駅停車で1時間強というのは、地元の大阪で京橋から同志社前くらいかなあと思う。往復で座る位置を変えたので、なかなか車窓は見応えがあった。

車内はクーラーがかなり効いていて寒いくらいだった。日頃、自宅ではクーラーは絶対つけない。(電気代RM200以来の掟となった。)だから、贅沢感がある。(笑)これで、片道RM6.5である。安い。当然KLセントラルまで、バスで行き帰りしたので、こちらもRM1。往復でたったRM15の旅である。

久しぶりに海を見た。海は海だけど、マラッカ海峡だ!と叫ぶ感じではない。向こうにマングローブがずーっと見える。あれがクタム島なのかもしれない。(一番上の画像参照)

ところで、もっと変なものを見た。タンク車というカテゴリーの貨車だと思うのだけれど、真ん中に落ち込んでいる、いわゆるV字型のタンク車がたくさんあった。石油を運び、真ん中から取り出すのだろうか?それにしても初めて見た。(車窓が汚れていて少し見にくいですが…。)

帰りの景色を楽しんでいたら、住処からよく見えるコンドミニアムがいくつも見えた。おお、この線はあの辺を走っているのかと感慨にふけっていたら、我が住処もよく見えた。意外に近くに駅があることを発見した次第。ただし、歩いては簡単に行けそうにもない。それこそがクララルンプールという街なのである。最近、それがよくわかってきた。(笑)

KLセントラル駅からは、インド人街を歩いて、インド人街の出口にあたるバス停から650番に乗った。と、いうのも行きのバスで、偶然、素敵なオブジェを発見したからである。
チャイをつくるオジサン。私はこういうの、大好きだな。

2016年6月25日土曜日

中田・橋爪「クルアーンを読む」12

ウマイヤド=モスク
http://www.sakaguti.org/
honmon%20page/j
ordan%20lebanon/
damascus/damascus.htm
イスラムの歴史観についてのエントリーを続けたい。最後の審判の話である。いきなり、最後の審判の前に世界が滅び、全ての生き物が天使も含めてみんあ死ぬ、と中田氏が述べると、橋爪氏が「ちょっと待ってください。キリスト教では、生きている者は生きたまま裁かれ、死んだものは復活して裁かれる(注:おそらく新約聖書の黙示録による)のです。イスラムでは、生きている者もいったん全員死ぬんですか?」と問う。「ええ、一回全員死にます。」「なぜですか?」「そう書いてあるからとしか言いようがないですね。」…と、このやりとりもまた楽しい。

その前に歴史の中で特別な時期というか、通常の歴史から外れてしまうフェーズがある。予兆から始まって、超常現象の世界になってしまう。それはイエスがまた降りてくる。(これは、クルアーンには、イエスは生きたまま(天に)上げられたとあるからで、ハディースに、再臨の話が出てくるらしい。シリアの白いミナレット、塔に降りてくるとある。シリア人は、ダマスカスにある最も古いウマイヤド=モスクに降りてくると信じているらしい。…この話、かなり面白い。)ちなみにムハンマドは再臨しない。

サラフィー(復古主義者)とスーフィー(神秘主義者)の間で激烈な議論となっていることだけれど…と前置きがあって、イスラムの死後の話になる。人間が死ぬと、肉体が死んだあとしばらくは見えている範囲では死んでいるが意識は残っていて、それでお墓に入った後、死の天使がやってきて、いろいろと生前のことを聞かれる。ちゃんと答えられれば楽な思いができ、そうじゃないといじめられたりする。その後すぐ眠りにつく。(「いじめられた後眠るんですか?」と橋爪氏。これは私も同感。)その後、ずっと寝る。死んでいると言っても同じ。最後の審判の時にむっくり起き上がる。これが基本だが、中にはこのプロセスをぶっ飛ばして、天国へ直行する人間がいる。これが殉教者。クルアーンには、殉教者は死んではいなくて天国に既に入っていると書かれている。イスラームの人類観では、預言者が最も偉くて罪を犯していないし最高の人間なので、殉教者レベルで天国に直行ならば、当然普通の人々と同じように寝ているのはおかしいという議論がある。

ところで、そういう預言者とか殉教者とかは天国に生きているわけで、それと何らかのコミュニケーションができると信ずる人々がスーフィーで、彼らはお墓参りに行って「預言者様、どうか私のことを神様によく言って下さい。」とか言う。で、これはイスラムではない、多神教だと、お墓を壊して回っているのが、(毎度おなじみになってきた)ISである。

橋爪氏の質問。「Q:殉教者には最後の審判はない?」「A:バキューンと撃たれた時に、体は死んでいるように見えるけれど、そのまま生きたまま天国に直行。そのジハードが最後の審判の前倒し。」…これも凄い。ジハードにおける死の考察そのものである。

イスラムの歴史観について、中田氏はキリスト教が最も歴史を重視しているといえると主張する。イエスのための歴史で、その歴史的な一点(復活)だけが重要とされている。ユダヤ教では、出エジプト。両者とも、歴史的な祭事が極めて多い。

それに対して、イスラムは断食明け(これは全く歴史性はない。)と巡礼明けの犠牲祭(アブラハムがイシュマイルを犠牲に捧げようとしたことにちなむ。これは唯一イスラムで歴史性がある祭事。)だけである。ムハンマドの生誕祭は、もともとなかったし、ISなどは偶像崇拝だと否定している。イスラームは、過去の歴史にそれほどこだわらない。それは普遍性が高い(どの地域・民族でも通用する)と言える、というわけだ。…なるほど。

…先日のコーランデー。調べてみたら、マレーシアとブルネイだけの祝日だった。マレーシアはイスラムを国教としつつも、華人やインド人の仏教やキリスト教、ヒンドゥー教の祭事も祝日にしている。政府は実に気を遣い、苦労しているよなあ、と推察する。

中田・橋爪「クルアーンを読む」11

アブラハム/イブラヒームのアラビア語表記
イスラームの歴史観について、中田氏の講義が続くところから、今日はエントリーしたい。
クルアーンは、大きく分けて、神について、人間に対する命令・法について、もうひとつ歴史について語っているのだという。イスラームの歴史観では、ムハンマドが創始したとは考えていない。「ディーン」(宗教)という言葉があって、そのレベルでは偶像崇拝の宗教もあるけれど、神が人間にもたらされた宗教は、あくまでアダムからムハンマドに至るひとつだけである。ただし、律法、シャリーアは、預言者によって違う。ムハマドのシャリーア、イエスのシャリーア、モーセのシャリーアは違う、とのこと。

…というわけで、先日の授業での話。生徒に聞いていて、ユダヤのコーシャ(食物規定)とハラルはだいぶ違うことがわかった。私はかなり近いものだと誤解していたのだが、ハラルは海のものは基本OKらしい。だから、ミッドバレーにあるイオンや近くの屋台にある「たこ焼き」はムスリムが食べてもOKなのだった。ずっと不可解だったのでほっとした次第。

閑話休題。アダムから人類の歴史は始まるが、その時点では法はない。その意味では実質的にはアブラハムから(歴史が)始まる。ユダヤ教徒やキリスト教徒は、ユダヤ教徒・キリスト教徒しか救われないというけれども、ではアブラハムはどうなのか。ユダヤ教徒でもキリスト教徒でもないではないか、という問題意識がイスラムでは重要で、毎回の礼拝の中で、アブラハムの祈りというのがあるそうだ。

礼拝で座った姿勢の時、信仰告白のあとで、「アッラーよ。ムハンマドとその人々に、アブラハムとその人々に祝福を与えてくださったように祝福を与えてください。」という言葉を2回繰り返しているとのこと。アブラハムはものすごく重要でイスラムの根本的な部分だといえる。

ここで橋爪氏の質問。では、ユダヤ人にはユダヤ法があり、またこれを破棄したイエスの役割は何だったのか?イスラムはどう説明しているか、を知りたい。

中田氏は、ユダヤ教徒は「ヤフード」と言うのだが、「バヌー・イスラエル(イスラエルの息子たち)」という表現のほうがよく使われる。彼らは大きな恵みを与えられている。たくさんの預言者を送られているからである、とクルアーンにある。イスラムはユダヤ教徒を特別なものと見ているのは事実。
しかし、クルアーンにはすべての民族(固有名詞はないけれど日本にも中国にも)に預言者が送られていると明示されている。その中で大預言者は、新しい法をもたらした人間である。クルアーンに名言はされていないけれど、環境が違い、状況が違うので、それぞれに法が違うのは当たり前であるとう考え方である。
イエスも、律法の一部を廃棄するけれども基本的にはイスラエルに遣わされた預言者で、イスラムでは、モーセの方が地位が高い。イエスには「神の霊」という尊称もあるし、いろんな奇跡を起こした偉い預言者であるとされている。だが、イスラムではそういう奇跡よりも法をもたらすほうが重要なので、モーセの方が偉い。それはともかく、イエスもモーセもイスラエルの民族預言者でしかない。
普遍預言者、人類全体に遣わされた預言者はムハンマドだけである、と答える。したがって、それぞれの民族が民族レベルの法を持っていたが、ムハンマドによってグローバルな法がもたらされた、これで人類が普遍的に救われる、こういう段階を踏んできたという言い方ができる、というわけだ。…なるほど。

…ムスリムの生徒に、ユダヤ教やキリスト教も含めて一神教として比較宗教学的に教えるのは極めて難しい。どうしても第三者的な見方ができないからである。信仰者としては当然であろうと思う。なにより私がもっと勉強しなければ、と思うのだ。