2015年2月28日土曜日

昭和天皇 第六部 読後メモ(3)

大西瀧治郎中将
昭和天皇第六部 聖断(福田和也著/文春文庫2月10日発行)の読後メモの続続編である。最後に昭和天皇のエピソードを中心に残しておきたい。このあたりの昭和天皇の動きは、東京裁判における天皇の戦争犯罪と大きく関わる話なので、すでに何冊か読んでいる。明治天皇の背中を常に見ていた昭和天皇は、立憲君主として私心を極力抑制していたことは疑いようがない。天皇の心情は、君主として日本を守ること、国民の幸福を守ることだけであったと言っていよいと私は思っている。ただ、輔弼する人材の能力が明治期に比べ、著しく低下していたとしか言えない。昭和天皇ご自身は、極めて几帳面な性格で、様々な細かいことにまで気を使われていたことがこの第六部でも顕著である。

東條の独裁が進む時勢の中、「閣議を宮中で行いたい。」と述べたとき、昭和天皇は東條の内奏を最後まで聞かず、「原内閣の時代から現在の形になった。その理由を調査してから検討するよう。」と言われたという。これまでは内奏を最後まで聞くのが昭和天皇の内奏を受ける際のスタイルであった。さらに、東條は首相、陸相、軍需相を兼務し、参謀総長も兼務したいと言い出す。この時、しばらく黙った後、退出させている。木戸内大臣に「この兼務が統帥の独立に影響しないか」と聞いている。…だが、結局全体の意見に流されていった。昭和天皇は、自らの私的な意見を言ってはならない、と強く自戒されていた。この内奏を止めた件や黙って退出させた行為から、輔弼する人間は君主の意を汲み取らねばなないわけだ。絶対的権力を憲法で保証されていながら、使わない。この奇妙なスタンスが、明治以降の国体の実相である。

敗色が濃厚になった頃、侍従武官長が召された。昭和天皇が「昨今(海軍トップの)軍令部総長、(陸軍トップの)参謀総長の順に拝謁があり、常に(天皇は軍令部総長に合わせて)海軍様式の軍装にて参謀総長に拝謁しているが、これはさしつかえないか。」と聞かれたという。天皇が海軍の軍装ゆえに、参謀総長も海軍の軍装を着なければならないことを気にされているわけだ。その扱いに不公平があってはならないと心配されていたわけだ。国家存亡の危機にあるのに、天皇が細かい話で、「小心」な話だと侍従武官長は感じたとある。…私の見方は少し違う。昭和天皇の立場は、、常に完全に公平でなければならないという孤独な立場であったと思うのだ。たとえ、どんな場合でも、公平でなくてはならないというのは、どれだけのストレスなのか、想像すらできない。

後に神風と呼ばれる作戦が初めて行われたのはレイテ沖の空母を狙ったものだった。軍令部総長からその報告を聞き、昭和天皇は鎮痛の面持ちで「そのようにまでせねばならなかったのか…。」口を噤まれた後に、やっとのことで声にした。「しかし、よくやった。」

この天皇の言葉は各地の前線基地に打電された。この特攻を発案した海軍きっての豪傑といわれた大西瀧治郎中将は、悄然とする。「陛下はお怒りなのだ。指揮官としての俺を叱っておられる。なんという愚かな醜い戦法を採用したのだと。」そして心身を全てを震わせるように恐縮して「激しいお怒りを受けたのだ、陛下の赤子に、何という非常の行為を強いたのだ、と。」…この大西中将の恐縮は、当時の軍指導部の輔弼能力のなさを窺い知る好材料である、と思う。

…昭和天皇は、本土決戦の準備を進める陸軍の装備(どんな武器で戦うのか)を何度も確認しようとされた。それは、軍備もないのにいたずらに国民を死に追いやるのかというメッセージである。こういうことが分からない人間が国を動かしていたのだ。昭和天皇の孤独と苦衷は、想像を絶するものであったに違いない。

2015年2月26日木曜日

昭和天皇 第六部 読後メモ(2)

http://yosukenaito.blog40.fc2.com/blog-entry-3566.html
昭和天皇第六部 聖断(福田和也著/文春文庫2月10日発行)の読後メモの続編である。他国のエピソードを中心に残しておきたい。

フィリピンに再上陸したマッカーサーは、すぐに移動ラジオ局のマイクの前に立ち演説を始める。まだすぐそばで戦闘が行われているというのに、である。「私は帰ってきた。約束通り、神のご加護を得て私は帰ってきた。今、私は、フィリピンとアメリカ、両国の勇士たちの血で清められた、この土を踏んでいる。…」演説が終わった時、海岸には狙撃兵の偵察隊しか残っていなかったという。…このアメリカの、上陸作戦中にラジオ放送を流すという戦略、到底日本がかなう相手ではないことがよくわかる。

ルーズヴェルトとチャーチルは、スターリンを「アンクル・ジョー」というあだ名で呼んでいた。連合国三カ国の首脳会談はテヘランで第一回が開かれた。第二回をどこでするか、スターリンに対して米英は、アテネ、キプロス、サロニカ、イスタンブール、エレサレム、ローマ、マルタなどを提案されたが、黒海よりと遠くに行けないとして、オデッサを提案、その後、体調を崩していた大統領の医師団の反対を受け、ヤルタに譲歩した。米代表団の宿舎はニコライ2世の宮殿。ここにスターリンは貨車2台分のキャビアを届けた。英代表団の宿舎は立派な庭園のあるボロンツォフ館。スターリンは、その間に位置するコレイス館(ラスプーチンを暗殺したユスポフ公の館)に陣取った。米英の行き来を監視するためである。…このあたりがスターリンらしいところだ。

ヒトラーの自殺方法は、自らの口を拳銃で撃ち抜いたらしい。直前に結婚式を挙げたエバ・ブラウンはカプセルを飲んだようだ。そのカプセルは愛犬のアルザス犬ブロンディに与えると口に含んだ途端に硬直し即死したというものだ。…ムッソリーニの遺体がミラノで恥ずかしめを受けたことを受けて、自らの遺体を消し去るように指示したわけだ。

2015年2月25日水曜日

礼服と万年筆とSpeak up

アマゾンでキャンセルした万年筆
いよいよ卒業式が近づいてきた。入試の仕事の合間に、皆勤賞や精勤賞の賞状を用意したり、教室を見に行ったり、通知表を印刷したりと、最後のクラスの仕事もしている。

先日、ふと、礼服が気になった。妻に用意してもらって着てみると全然上下とも入らない。こんなに太ったのかと衝撃を受けた。妻も「貸衣装にせなあかんなあ。だいたい太りすぎなんや。」とボロクソである。ふと、妻が白ネクタイがないことに気づいた。「あ、これ息子のや。」…息子は痩せている。入るわけない。あらためて、礼服が出てきた。うん、ばっちりである。ちょっとキツめだが…。

ところで、卒業証書を渡しながら一人ひとりに、コメントしようと思ったのだが、莫大な時間がかかってしまいそうだし、通知表にコメントを書く事にした。通常、ボールペンを私は使っているのだが、特別なコメントだし、是非とも万年筆を使いたいと思った。それで、アマゾンで先日注文したのだが、間に合わないのでキャンセルしてしまった。結局、今日京橋まで出て購入したのだった。万年筆を使うのは中学以来だから、えーと何年ぶりなのだろう。(笑)

通知表のコメントの際、ある生徒に使いたいコトバがある。先日日経の「私の履歴書」で日揮の重久さんが書いていた”Speak Up”である。これは、重久さんによると独自の語彙(英語の先生と後で調べたらジーニアスには載っていた。)で、積極的に外国人に話しかける、という意味である。楽天的に、どんどん話していくことで、会話力は磨かれる。その自信がきっとその生徒をさらに成長させていくことになるだろうと思うのだ。

2015年2月24日火曜日

スーダンのドクター・カー

番組HPより
テレビ大阪で、沖縄のベンチャーIT企業が中心になって、スーダンで「ドクター・カー」を寄贈、地方の無医村を回っているという番組(日経スペシャル ガイアの夜明け)を見た。このプロジェクトを進めている企業の社長は、高校時代から日本に留学してきたスリランカ人の方だ。開発途上国では、医者の数も診療所の数も少ない。まして地方においておやである。

そこで、必要な日本の先端的な医療機器、特に血液検査の機材などを積み込んだ移動診療所として、救急車型の車を使っている。マラリアもすぐわかる仕組みだ。もちろん現地の医師が巡回している。

さらなる発展を目指して、何度もスリランカ人の社長はスーダンを訪れる。もっと広い空間で診療するためにトラック型に変えたり、さらに都市にいる専門医とドクター・カーを結ぶ通信システムも開発している。ドクター・カーで作成した電子カルテをもとに、直接専門医の意見を聞けるわけだ。しかも次に同じ患者が来たときは問診の時間が省ける。

アフリカといえど、携帯電話の普及で通信状態は問題ない。このドクター・カーというシステム、凄いな、と思った次第。是非、他のアフリカ諸国にも広げて欲しいものだ。

http://www.tv-tokyo.co.jp/gaia/

昭和天皇 第六部 読後メモ

昭和天皇第六部 聖断(福田和也著/文春文庫2月10日発行)を読み終えた。今回は、太平洋戦争・開戦から終戦までのドキュメントである。今回も、読後メモとして教材となるエピソードを残しておきたいと思う。

大宅壮一は、開戦直後インドネシアに陸軍宣伝班として二年間ジャワで活躍した。とはいえ、大宅はジャワ人に「大きな家を探してこい」という命令を下している。すると、小さな小屋に案内された。中には大きな馬が2頭いた。大宅が怒鳴ると、ジャワ人は馬を指さした。発音が悪かったので、HOUSEをHORSEと聞き間違えたらしい。苦笑いをしていると川沿いに大きな屋敷があり、イギリス総領事館だった。結局この屋敷を手に入れることになった。領事館の向かいには、「理学博士スカルノ」という表札が出ていたという。その後放送局・新聞社・通信社を摂取し、自由闊達に(つまりは日本統治の)宣伝活動を行ったという。この二年間を後に大宅は自分の生涯における最大のハイライト、メインイベントであると述べている。…大宅壮一とその時代にとってはそうなんだろうなあ、と改めて思う。私はあまり大宅壮一を大きく評価していない。

原爆開発に関して、イギリスも開発を進めていた。チャーチルはアメリカと共同開発することを主張し、カナダでウラニュームを入手可能とし、実験地もカナダでと言っている。もしカナダが渋ったら英国本土でも良いと腹をくくっていた。しかし、ルーズヴェルトが一分の迷いもなく実験場を(荒野や砂漠があるので)自国に設けることを主張したという。…イギリスの原爆開発については、あまり書かれていないので、こういう両国のやりとりがあったことを知った。

ガタルカナル島で認識されていた死期の日程表。立つことのできる人間は寿命30日、身体を起こして座れる人間は3週間。寝たきり起きられない人間は1週間。もの云わなくなった者は3日間。またたきしなくなった者は明日。…まさに太平洋戦争の悲惨さを象徴する話である。

当時の米海軍太平洋艦隊司令官ニミッツは山本五十六の行程を知っていてあえて撃墜死させる必要はないと考えていたが、駐在武官だったレイトンの「山本を葬る事の意義は大きなものです。天皇を別にすれば、山本ほど日本人の士気に影響を与える存在はないでしょう。」という進言を受け入れた。「ハルゼーやミッチャーは、真珠湾を自分たち自身への侮辱だと思っている。復讐の機会を与えてやろうじゃないか。」…

東條の独裁に反抗した中野正剛の死に様の話。「刀の切先が丸くて切れそうにない。(中略)そこで腹の方は軽く真似かたにして仕損じぬようにんやる。東向九拝、平静にして余裕綽々、自笑。俺は日本を見ながら成仏する。悲しんでくださるな。」そう記した遺書が残されていた。頚動脈を切断しての自害だった。…ちなみに、東條が東京裁判の被告として自害を試みて失敗する話は、2010年2月27日付ブログに詳しく書いている。

大東亜会議でのインドのボースのコトバ。このチャンドラ・ボースだけが熱狂的だった。「日本が、日本の軍隊がいかに素晴らしいことをしたか、どれだけの希望を作り出したかを。あなたたちは、日本人は教えてくれたのです。シンガポールで、香港で、ジャワで、サイゴンで、ビルまで、フィリピンで私たちは見ました。日本人が西洋人たちを、完膚なきまでに叩きのめした事を。そして私たちもまた、日本に学べば、力をつけ独立できる事を。白人の機嫌を伺い、目を伏せ、怯えてくさらないで済む事を。奴隷ではなく自分たちの人生の主人になれる事を教えてくれたのです。それがどれだけ素晴らしい事だったのか、それはあなたたちですら、長い時間をかけなければ理解できない事でしょう。」…日本の戦争への評価は様々だが、ボースの熱狂的な肯定も一つの見方であろうと思う。一方で東京裁判時のパール判事の判決とともに、インドの人々の日本を見る目は、他のアジア諸国とは少し違うと思うのだ。

アメリカの北京の陸軍武官スティルウェルは、蒋介石をピーナッツとあだ名をつけていた。カイロ会議の際、蒋介石はスターリンの反対をルーズヴェルトが押し切って四大国の指導者として招かれていた。当初、アメリカは中国をキリスト教化するとされていた蒋介石を熱狂的に支持していた。しかし、まったくの期待はずれに終わる。ルーズヴェルトのスティルウェルへのコトバ。「指導者、軍事司令官としての資質も乏しい。意思が弱く、気まぐれで、猜疑心が強すぎる。一国の指導者どころか、まともな国ならば連隊長ですらつとまらないだろう。」「それが何時になるかは解らないが、結局は共産主義者たちに彼は駆逐される事になるだろう。それは避けがたい運命のように、私には思われる。」…ルーズヴェルトの洞察は、するどい。私は、ルーズヴェルトは米大統領の中でも特に優秀な人であると思っている。

結局、昭和天皇の話はエントリーできなかった。続編をまたエントリーしたいと思う。

2015年2月22日日曜日

中田考氏の新刊新書を読む。2

http://mphot.exblog.jp/3594890/ レバノンのムスリム墓地
昨日のエントリーを続けたい。今日はイスラムの死生観についてである。イスラムでは、肉体と霊が分離した後、霊は墓の中で最後の審判まで寝ているのだという。最後の審判は、イスラムでは二本立てらしい。最終戦争で善の側イーサー(イエスのアラビア語名)とマフディー(メシア:救世主)の側が勝って正義の平和が実現するけれども、キリスト教の千年王国とちがい、この平和は長く続かない。その後天変地異が訪れて完全に世界が滅ぶ。この宇宙の全てのもの、天使も含めて死ぬそうだ。それらが蘇って最後の審判を受け、永遠の来世となるという。イスラムでは、善と悪のポイント制になっていてアッラーは慈悲深いので、天国の扉は広いそうだ。

イスラムは死体を傷つけない。だから臓器移植も許さない。普通の遺体は沐浴を施して体を清め、白い布で全身を覆う。両端をくくるので、納豆のような感じらしい。埋めるときは、遺体の頭をメッカの方角に向けるのだという。

ところで、殉教者、ジハードで死んだ者は、白い布もなく埋めるのだという。殉教者は最後の審判を待たず、その場から天国に直行するとクルアーン(コーラン)にあるのだ。ジハードには、「自分の弱い心を乗り越える」という大ジハードと武力による「イスラムの大義のための異教徒との戦争」があるそうだ。普通言われるジハードは後者を指す。なお、イスラム教同士の争いはジハードではないが、背教者との争いは可とされている。だから、民族の独立国益のための戦争はジハードではない。殉教という概念は、イスラム独自のものではない。キリスト教にもあるし、日本でも一向一揆の際に生まれた。ただ、現在イスラム過激派が行っている自爆テロは、イスラム法学的には許されないと中田氏は言う。まず、自殺はイスラムでは禁じられている。永遠に火獄で焼かれる大罪である。ジハードは、死ぬまで戦うのが基本。死ぬことを目的に行うのは間違っているというわけだ。

…イスラムの死生観は、ブティストの私としては、ずいぶん異質な感じをもってしまう。とはいえ、異文化理解の教材としては素晴らしいものだ。

2015年2月21日土曜日

中田考氏の新刊新書を読む。

前から楽しみにしていた中田考氏の新刊(イスラーム 生と死と聖戦・集英社新書 2月17日発行)が出た。早速一読した。ノートにメモしながら読んだのだが、かなりの量になった。少し読書ノートの内容をエントリーしたい。

インシャーアッラー(神がそう望み給うなら)の真の意味について。ムスリムが、なにかと話の最後につけるこのコトバは、中田氏によると謙譲の美徳なんだそうだ。日本人の感覚からすると、例えば、「来週また会いましょう。」「はい。神がそう望み給うなら。」そう言われれば思わずムカッとくる。本来の意味は、「自分としては出来る範囲で全力を尽くすが、人間の力の及ばないことについては神様の思し召し次第なので神様のお力添えを願う。」となるそうだ。…なるほど。次から授業の時はそう教えたい。

信仰告白(ラーイラーハイッラーッラー、ムハンマドゥンスールッラー)について。日本語に直訳すると、「アッラーの他に神はなし。ムハンマドは神の使徒である。」になるのだが、この前半部分の”ラーイラーハイッラーッラー”は、さらに2つに分かれる。”ラーイラーハ”は、イラーハがラー(ない)という意味である。後半部の”イッラーッラー”は、イッラーという語とアッラーが重なって発音されている。イッラーは英語でいいうBUTにあたり、アッラーは除くという意味になる。これで、アッラーの他に神なないとなるそうだ。ここで、中田氏は、普通、神と訳される一般名詞”イラーハ”は日本人の理解する神ではないとする。イスラム世界ではルーフという霊やジン(アラビアンナイトなどに登場する魔人・妖精)がある。どちらかというと、日本人が理解する八百万の神の概念はこちらに似ているそうだ。

…これだけでも教材研究としては十分意味がある話なのだが、著作のタイトルにある通り死生観について、かなり詳しく述べられている。これは貴重だ。ジハードの真の意味や、イスラム法(シャリーア)についてもわかりやすく書かれており、面白かった。もちろん、まだ例の事件で、中田氏の汚名が晴らされていないイスラム国の話も書かれている。超お勧めの一冊である。