2020年2月15日土曜日

せんたん劇場 in 大久 報告2

さて、第二部は、大久を巡るツアー。移動式カフェを先頭に路地を移動しながら、興味深い建築や蒼い石垣を巡っていくのである。意外に大人数での移動となった。かなり歩いたのだが、なかなか面白かった。
最終ゴールは大久の海岸の東端のしゃんしゃん踊りの元となった祠である。ここで、移動式Cafeから暖かいスープがふるまわれた。一般の方も十分楽しんでいただけたのではないかと思う。
映画”せんたんビギンズ”でT君が飛び込む名シーン
第3部は、公民館で、昨年制作された、映画”せんたんビギンズ”の映写会であった。以前、三崎高校のHPからこの映画が見ることができ、私はマレーシアで見たのだが、これは編集されたものであるらしい。今日、初めて70分におよぶ完全版を見ることができた。改めてみると、名取の蒼い石垣が存分に映っていたし、塾生のKさんがヒッチハイクの生徒の役をしていること、地域おこし協力隊のH隊員が何故かKさんのお母さん役を演じていたことなど、驚きがたくさんあって面白かった。映写会の最後に、同じように小規模校であるM高校の生徒が「自分たちの地域の方が都会だと思っていたけれど、今日1日、三崎高校のイベントに参加して、自分たちも負けずに頑張らねばいけないと感じました。」という感想を述べてくれた。M高校にも、今春公営塾が設置される予定だ。私と全く無関係ではない。ちょっと熱いものが込み上げてきたのだった。

せんたん劇場 in 大久 報告1

オープニング前の大久の集荷場 せんたん部の裂き織の旗が出迎えてくれる 
三崎から見ると佐田岬半島の少し根っこの方(東)にある集落が大久である。ここで三崎高校のイベントが行われた。以前紹介した(2月4日付ブログ参照)が、今回のイベントは定点で行われるのではなく、大久を劇場に見立て移動していくというコンセプトである。私は今日のイベントを大変楽しみにしていた。

まずは12:30から、集荷場という倉庫のようなところでオープニングである。司会の生徒が、「大久の方ー」「伊方町以外の方ー」と呼び掛けていたら、ちょっとしたハプニングがあった。松山市から来たというご婦人がいて、実は学校長の奥様だったりして、会場は大いに盛り上がったのだった。(笑)今夕に行われる映画”せんたんビギング”に関わった方々のトークがあり、その後、防災班の紙芝居。これは多くの集落がン十年前の台風時に集落の申し合わせで高台の寺に避難することで犠牲者を出さずに済んだ話を元にしていた。その後、防災かるたを行った。地元の子供達が大喜びだった。
集荷場の中央には焼き芋を焼くスペースもあって生徒が配っている。愛媛新聞、伊方町の広報、JAの広報、八西ケーブルテレビの方も取材に来ていて、中々の人出だったと思う。集荷場の外には移動式のCafeがあって、例のローラの商品も売られていた。
一息ついたところで、イベント班が、みさこう体操そして、大久に伝わる”しゃんしゃん踊り”を地元の方と披露した。なかなか盛り上がったのだった。こういう地域おこしの活動は、大都会大阪から来た私には大いに新鮮であるし、非常に意義深いものだと思う。つづく…。

2020年2月14日金曜日

「仰げば尊し」について

http://www.mahoroba.ne.jp/~gonbe007/hog/shouka/z/SongfortheCloseofSchool.html
三崎高校の清掃は昼休みの後行われる。その時、みさこう体操のLIVE放送が流れ始めるので、塾でも清掃を行うことになっている。さて、ここ1カ月ほどは「仰げば尊し」が流れている。3年生の学年末考査はすでに終わり、登校日は週1回水曜日だけで、1・2年生だけになっても流れている。

私の感覚では、「仰げば尊し」は卒業生が歌うものなのだが…。よく話をする体育のN先生にお聞きすると、1番は3年生、2番は在校生、3番は全員で歌うのだそうだ。仰げば尊しの歌詞をあらためて見てみると、なるほどと思ったのだった。ただ歌詞は昔からの文部省唱歌ゆえに2番には「身を立て・名をあげ・やよはげめよ」などという福沢諭吉的な歌詞があったりする。極めてパラノな内容だ。
<仰げば尊しの歌詞>http://j-lyric.net/artist/a00126c/l008d65.html

ところで、私はこの「仰げば尊し」があまり好きではない。すでに教師人生のほうが長いが、「わが師の恩」と歌われるのが恥ずかしいのである。もちろんこれまでの教師人生は全力で走ってきたし、毎年生徒への関りには一切悔いはないのだが、この歌詞を生徒に強要して歌わせることが恥ずかしいのである。
昔、ある学校で、某先生が3学年主任の時「仰げば尊し」復活を主張したことがある。伝統として存続している限り私はそれでいいと思うが、この時、「やはり我が師の恩と歌ってほしい。」と言われたのには驚いた記憶がある。もちろん若干尊敬に値する方だったのだが、私とは美学が違うと強く感じたのである。

ちなみに私の高校時代は、「今日の日はさよなら」という、幾分左翼的な匂いのする歌を歌った。卒業式の歌にも、その時代の風というものがありそうだ。

最後に今日の画像は、一橋大の桜井名誉教授によって発見された仰げば尊しの原曲の楽譜である。アメリカのものらしい。作曲者、作詞者も判明したが、日本語訳詞の作者は不明だそうだ。興味のある方は以下にアクセスされたい。
http://www.mahoroba.ne.jp/~gonbe007/hog/shouka/z/SongfortheCloseofSchool.html

2020年2月13日木曜日

東アフリカのバッタ被害

https://www.cnn.co.jp/world/35148479.html
世界が新型肺炎コロナウィルスの話題で騒然としている中、アフリカではサバクトビバッタの被害が拡大している。サバクトビバッタの被害と言うと、西アフリカが多いのだが、今回は東アフリカで、ケニア、ウガンダ、エチオピア、そして2日に非常事態宣言を出したソマリアが甚大な被害を受けている。

忸怩たる思いを感じながら、私はこう思う。このニュースは、おそらく世界的な関心を呼ばないだろう、と。
この蝗害(こうがい)による飢餓といった人的被害が出るのはもう少し時間がかかるだろうし、その被害の大小をコロナウィルスと比する必要すらないが、これから先どう推移していくかは全く予想できない。世界経済の現状はそんなに良くない。彼らアフリカの蝗害被害者への各国の国際協力がどれくらい行われるかが重要である。新型肺炎への初期対応のまずさが指摘されているが、この東アフリカ蝗害危機に際しても全く同様である。

以前読んだ「バッタを倒しにアフリカへ 」でサバクトビバッタの研究者前野氏は、今アフリカにいるのだろうか。氏のサバクトビバッタ防除技術の研究はすぐに結果がでるような簡単なものではないと推察できる。しかしこのような災害発生は氏にとっては、絶好の観察・実験のチャンスであるはずだ。日本人研究者がアフリカに貢献できる分野として私は氏に大いに注目している。

2020年2月12日水曜日

桜咲く/私を待つ人がいる

PBTを私が去る事になった時、F42の学生諸君に、「日本に帰国し、四国の最西端の高校に行くことになったが、きっと私を待っている生徒がいると思う。」と述べた記憶がある。私はブディストであるから、縁起を基本に物事を考えるのだが、そういう結論になるからである。今夕、三崎高校のT君が、超難関の国立大学に合格した。センター試験の成績が第一次書類審査、面接が第二次試験という推薦入試である。

彼とは10月に赴任して以来、2年次に学習した政治経済の大まかな復習と、3年次に履修しているがまだ学んでいないという倫理の西洋哲学史分野を講義した。超難関校故にセンターの公民分野は「倫理政経」である。もちろん高得点を獲得してくれた。

それだけではなく、一次に合格後、進路部長のJ先生に言われて塾の私の元にやってきた。面接指導と言う名目だが、彼が目指している国際公共政策学科について再確認するのが眼目だ。この学科は、国際関係学にかなり近い。事前にカリキュラムを調べて、いろいろな話をした。アドミッションポリシーには、教養ある国際派で良きガバナンスを実践できる人材育成とある。彼のこれまでのせんたん部部長としての経験、世界ユースサミット参加で知った途上国の現状などから、ここを選んだのだという。かなり深い話をした。
彼は「途上国を豊かにするためには何になるのがいいのでしょうか?」と質問してきた。私は「外交官では無理である。一番いいのは企業だ。」と様々なアフリカの日本企業の事例を挙げた。「あるいは、やはりJICAかな。」と、JICAの現地での役割を説明した。彼は強い興味を示してくれた。さらにジェトロの紹介もした。最後に、私のオリジナル教材である「高校生のためのアフリカ開発経済学テキスト」を印刷して手渡したのだった。

JICAの職員になるのはかなり難関だ。昔、JICA大阪で、新卒のJICA採用者が高校生セミナーを視察に来たことがある。この時、出身大学を聞いたら、北大、東外大、慶応、ICU…。それを聞いていた前々任校の生徒たちは身が引き締まる思いだったに違いない。だが、今回彼が合格した大学も、同じく十分身が引き締まる大学だ。実際、この学科の進路を見てもJICA職員の文字がある。もし、彼がJICA職員になってくれれば、私のほとんど諦めていた夢の1つが叶う。

実に、実に嬉しい。今日の画像は、国道197号線沿いに咲く早咲きの桜で、今日のために撮っておいたもの。三崎高校に、ちょっと早咲きの巨大なサクラ・サク。
T君、おめでとう。彼のこれからが実に楽しみだ。久しぶりに”高石ともやとナターシャ・セブン”の「私を待つ人がいる」を聞いてみようと思ったのだった。

現時点でのパンデミック考2

先月、武漢に起因するパンデミックについて、中国の社会構造が、ヨーロッパとは逆で、自由な個人が下に、不自由な共同体が上に位置するということを指摘した。重要なことは、中国は上からの圧力がないと、各人が自己の利害のみに走り、とんでもないカオスになるということである。
中国の社会学者・費孝通が「(本土の中国人は)個人主義ではなく自我主義である。」と記していることも前回述べた。

大理市が他の市や省のマスクを横取りしたというニュースが流れた。他の市でも同様な横取りが起こっているようである。大理市は現在建設中の観光施設の労働者のために確保したらしい。要するに自市おける最重要課題対策で、経済優先であるとのこと。北京の統制がゆるみ、各地が自我主義に走り、好きなように動き出すと、大変なことになることを示す好例である。

実に危ない状況にあると私は危惧する。このパンデミックで中国が崩壊(群雄割拠)する可能性が高まっている。これまでの中国史を見ると、群雄割拠が常態であるといったほうがいい。1959年の中華人民共和国という枠組みが崩れる可能性があるのだ。

マレーシアの中華系の人々を見ていると、そのような強烈な自我主義を感じないのだが、巨大な人口圧に苛まれる中国本土では、四度の訪中での経験から私自身否定することはできない。彼らが、自我主義をむき出しにした場合、極めて危険である。

北朝鮮で絶対君主の重病説が流れ、それ以上に栄養不足の国民が多い故に、パンデミックが蔓延すれば崩壊する可能性が強い。韓国も経済崩壊とパンデミックが政権を直撃しそうだ。日本でも政府の対応は緩慢に見える。東アジアは、政治的にも経済的にも、今大変な危機的状況にあるような気がする。

とはいえ、四国の最西端にあって、私自身はのどかな日々を過ごしている。名も知らぬ野草が咲き乱れ、渡り鳥らしき”メッサーシュミット”の小鳥が、たくさん飛び回っている。人間社会の喧騒をよそに自然界は予定調和で進んでいるのだった。(今日の画像参照)

2020年2月11日火曜日

仏・少女の「冒涜する権利」考

昨年11月のパリでのイスラム教徒のデモhttps://www.sudouest.fr/2019/11/10/marche-contre-l-
islamophobie-des-milliers-de-manifestants-a-paris-6807058-710.php
フランスは、カトリック国だが、信仰の自由というか信仰しない自由を歴史的にも追及してきた国だ。そのフランスで、16歳の少女のインスタグラムでの、イスラム教への冒涜発言とそれに対する脅迫が問題になっている。
https://www.jiji.com/jc/article?k=20200210039698a&g=afp

問題の少女は、あまり反省の色もなく、「冒涜する権利がある」「自分の言いたいことを言いたかった」と発言している。現在、警察に守られ学校へもいけない状況だそうだ。フランス内相やイスラム関係者、あるいは政治学者の意見なども載っているが、私もSNSにおける言論の自由と自己検問のリスクについて考えてみた。

…まず指摘したいのは、この問題の当事者が16歳の少女であるということである。環境問題でも過激な発言の少女が国際的な関心を集めているようだが、私はあまり重視していない。若いと言うことは良く言えば、純粋であるわけだが、それが絶対善ではない。様々な「学び」をし、経験を重ねて自分の思想を構築し、責任をとれる範囲での言論の自由がある。自由の裏には必ず責任がある。16歳の少女がイスラム教の何たるかを学んだうえでの発言だとは思えないし、自分の思想をすでに構築しているとも思えない。よって、この問題の核心は、彼女の幼稚さにあると思う。

…イスラム教徒が、冒涜に対して敏感に反応するのはこれまでの経過を見ても十分理解できる。16歳の少女が相手であっても、不信心者への厳しい姿勢はシャリーアにあるとおりで、彼らが神の意志で行っている行為故に責めることはできない。ただ、民主主義国家フランスの法上は犯罪行為となるだろう。ここでも、神定法が人定法であるフランスの刑法より上位にくるだろうから、仏ムスリム評議会のある幹部は、「脅迫を招いたのは自業自得である」と言っているわけだ。また違う幹部(議長)は、あえて「殺害脅迫を正当化するものなど何もない。」とイスラム教徒への非難をこれ以上強めることは得策ではないと現実的に判断し、フランスのイスラム教徒ならびに異教徒に対して、あえてこう発言したのだろう。これが分別と言うものである。

…多民族共生は、極めて難しい。フランスは日本と異なり、情や空気を読むという風土ではない。激しい論争を基盤に社会は発展してきたと思っている。マレーシアでは、他民族への干渉(特に宗教に対する批判)はご法度である。シャウィーウィー派は、かなりシャリーアには厳格だが、南国の風土もあって、マレー系の人々は穏やかだ。しかも上(政府)からの圧力で、国是の多文化共生を教育現場で長年徹底されてきたことも大きい。民族が違えば、宗教が違う、それをとやかく言ってはならないという精神が全国民に徹底されている。言論の自由が多少制限されていることは、ヨーロッパから見れば人権侵害かもしれないが、フーコーの言うように、これらは19世紀の近代以降の理性万能主義に由来しているに過ぎない。ヨーロッパの正義が絶対では決してないと私は思う。

…不特定多数の人々に発信するSNSにおいては、日本人として、自己検問するのは当然であると私は思う。それができないのなら発信すべきではない。自由の前に責任ありき。これは年齢には関係ないと思われる。若くても幼稚でない者もいるからだ。残念ながら、今回の少女には記事を読む限りにおいて、この事実をわきまえていないように思えるのだ。