2013年2月9日土曜日

アフリカ学会 公開講座1月

寒空の左大文字と京大稲森財団記念館
アフリカ学会の50周年記念市民公開講座が始まった。第1回は、東京外大の永原陽子先生の歴史の話である。「マンドゥメ王の頭はどこにあるのか」というミステリードラマのようなタイトルである。そもそも、アフリカでは無文字文化が多く、歴史=文字による史料という発想で考えれば歴史学は成立しなのだが、文字化された史料の信憑性も、だいたいが微妙な話(記紀などがその好例)であって、1980年代頃からアフリカをはじめとした「無文字社会での歴史の探求」も進められてきたそうだ。

今回の「マンドゥメ王」の話は、WWⅠを挟んでの百年ほど前の、現在のアンゴラとナミビアの国境付近にあったクワニャマ王国の話である。この国境付近には15世紀ごろから農耕と牧畜の民が定住し、大小の王国が成立したようだ。これらの総称をオヴァンボと呼び、クワニャマ王国はその最大集団だった。さて、1880年頃からアフリカ全土の植民地分割が進み、この辺りもアンゴラ(ポルトガル領)と西南アフリカ(現ナミビア・ドイツ領)に分割される。

ポルトガルは、現在のアンゴラ北部から南部へ征服を進め、クワニャマ王国とぶつかることになる。クワニャマ王国は牛を売り、銃を手に入れ独立を守るのだが、この時登場した若き(17歳で即位)独身の王がマンドゥメ王である。彼は、武装しつつ、近代化を図りながらもも数々の伝統保持政策をうち、王国のアイデンティティを守ろうとした。なかなかの賢王だったようである。

さて、まもなくWWⅠが起こる。西南アフリカがドイツ領だったこともあって、南アが英軍のかわりに攻撃をしかけ、これを支配する。ポルトガルは中立だったが、これを好機としてクワニャマ王国を攻撃、王国は西南アフリカへ拠点を移すことになる。南ア軍もクワニャマ王国を攻撃。ここでマンドゥメ王は死去するのである。やがて、西南アフリカは南アの支配下に長く置かれることになる。

さて、このマンドゥメ王の死を巡っては、南ア軍の戦闘報告書(1917年)に、マキシム銃で銃殺したとあるが、不明確な部分もあり、南ア軍が射殺したのか自決したのか、この文字化された史料でもよくわからない。一方、クワニャマ人の間では自決説が強い。(伝聞)しかも、首が切り離され、頭部は晒された後戦争記念碑に埋められているという噂が強まった。また1968年、「老兵の回顧」という元南ア軍兵士のエッセイが当時の写真付きで発表された。そこには「治療を受けている」される王の姿が写っているのだが、どう見ても首がずれていいる。これをパロディ化したクワニャマ人版画家の作品もでた。断頭されている王を描いた作品である。

マンドゥメ王の首のゆくえは全くの謎である。彼は白人に屈しなかったクワニャマの人々の英雄であり、歴史の事実を探るためとはいえ聖なる墓を掘り起こすようなことはできない。一方、ナミビア人歴史家は、王をナミビアの英雄として描いている。アンゴラでも同様に英雄視されていたりする。王は、ますます聖なる存在になっていっているわけだ。

無文字の人々の視点も含めて、アフリカの真実の歴史を再構成する必要があるというのが永原先生の視点だそうだ。
…いやあ、面白かった。特に、版画と写真が、なかなかミステリーだった。NHKの歴史ミステリーといった趣があって、先日の沢木耕太郎のキャパの話同様、思わず身を乗り出して興奮するような面白さだった。これからのアフリカ学会の市民公開講座に大いに期待したい。

2013年2月8日金曜日

ESDのための仮想世界ゲーム6

仮想世界ゲームの決算報告書をエントリーしておきたい。発熱して強制的に自宅待機させられたおかげで、最後の授業ができなかったのだが、同じ社会科のF先生に、この決算書と表彰状をもっていってもらったのだった。今日は、世界史Bの試験の日であった。試験問題は、「ESDのための仮想世界ゲームについて論ぜよ」ただ1問。(笑)その内容や、今回の総括についてはもう少し時間をいただきたいところ。

2013年2月7日木曜日

立花隆「天皇と東大」を読む Ⅱ

インフルエンザで平熱なのに自宅待機していた関係で、少し読書が進んだ。今日はその内容をエントリーしようと思う。立花隆の「天皇と東大」一巻から二巻前半にかけてである。

このあたりは、東大の文学部から経済学部が独立していく過程とオーバーラップしていく。最初は全く人気のなかった経済学だが、日本の経済発展とともに、浜口雄幸や幣原喜重郎などの人材が輩出されるのであるが、この経済学部、そもそもが日本の左翼の総本山としての性格をもっていく。関東大震災で経済統計研究室の書庫の多くを焼失するのだが、あかずの間という部屋があって、ここには大逆事件の資料が保存されていたのだと言う。この資料収集は吉野作造と高野岩三郎の希望に寄るものらしい。この頃の教授には第一高等学校校長も兼ねていた新渡戸稲造がいたりする。その一高で、徳富蘆花が大逆事件を受けて「謀叛論」を講演したりしている。この時、一高の学生であり、後に経済学部助教授になる森戸辰雄が「クロポトキンの社会思想の研究」を発表するのだが、その対応をめぐって話は進んでいく。

「戦前は『共産党宣言』など国禁の書で、翻訳することも読むことも持つことも許されていなかったと思っている人が多いかもしれないが、決してそうではない。社会主義、共産主義の弾圧の仕方には、時代に寄って微妙なちがいがあり、新聞紙条例(法)、出版条例(法)などの弾圧法規も何度も改正になっているので、許されることと許されないことの一線が時代によって少しずつ違う。重要な一線の引かれ方は、まず社会主義への言及が学術上の研究としてなされているのか、それとも現実的な政治主張・政治宣伝としてなされているのかというところにある。主張の最も大きな一線は、君主制(天皇制)の廃止を唱えているかどうかというところにあった。」(第2巻P16)

森戸論文は学問の自由、言論の自由が一応保たれていると考えられていた時代のものであった。

法学部の吉野作造などは天皇制とデモクラシーの調和を求めていた。また美濃部達吉も天皇機関説を主張できる時代でもあった。ここに法学部の右翼イデオローグで、憲法の最高権威となっていた上杉慎吉教授が立ちはだかるのである。この頃、憲法の第二講座というかたちで美濃部達吉の講座も開かれており、吉野・美濃部への敵愾心は強烈だった。彼は元老・山縣有朋と結び時代を右旋回させていくのである。

うーん。立花隆の文章は、これまで同様、念密な調査と引用が真骨頂である。無茶苦茶面白い話なのだが、こうして書くと、どうも硬い。(笑)本日はここまで。

ところで、久しぶりにクラスの生徒に囲まれて、今日は幸せだった。やはり担任はいい。

2013年2月5日火曜日

ナイジェリアに向かう投資

今日もインフルエンザによる強制的自宅待機である。平熱だし、これはこれでしんどい。学校に電話したら、今日は我がクラスは皆勤だそうで、皆が元気なのが嬉しい。(そもそも出欠は素晴らしいクラスだけど。)

さて、アフリカの話題である。アフリカのビジネスニュースで、ナイジェリアへの投資の話が2題続いていた。ひとつは、アフリカ開発銀行が肥料プラント(尿素生産)に1億ドル融資するというニュース、もうひとつは、GE(米国:ゼネラル・エレクトリック)とナイジェリア政府の間で、10億ドル規模の電力・石油・ガスなどエネルギー生産のプロジェクトを推進するという。

http://www.africa-news.jp/news_MgaDs9Ywm.html

ナイジェリアはアフリカ有数の石油生産国であり、1億を超える人口をもつ。つまり市場規模が大きいわけだ。投資が進むサブ・サハラ=アフリカでも、最も注目される国の1つである。

この2つの記事でわかった事の中で、最も面白かったのは、現在ナイジェリアの化学肥料自給率が2割程度であったことである。これを簡単に論じることは難しい。多いのか、少ないンか?ともかくこの融資でナイジェリアは自給率100%を越え、近隣諸国に輸出することが可能になるらしい。工場自体の雇用創出は多くはないだろうが、その販売・輸送関係での雇用が拡大するのは間違いない。

投資の拡大による経済成長が、これからのアフリカを飛翔させることは間違いない。様々な問題はあるだろうが、鄧小平ではないが豊かになれる者から豊かになるしかないんだろうなあ。

2013年2月4日月曜日

俊逸だった沢木耕太郎のキャパ

昨夜のNHK特集「沢木耕太郎推理ドキュメント 運命の一枚~”戦場”写真 最大の謎に挑む~」は、素晴らしかった。私は、そもそも沢木耕太郎の大ファンであるし、沢木耕太郎が一時、戦争カメラマンのキャパの本を翻訳していることも知っていた。ただ、その翻訳本は読んでいない。だから、全くの白紙で番組を楽しんだのだ。

彼の本名がフリードマンと紹介された瞬間に私はキャパはユダヤ人なんだと分かった。だから、ハンガリー出身のユダヤ人カメラマンとしてスペイン内戦で、人民戦線側に立ち、フランコ=ナチスのファシズムと戦ったのだ。そう、無名のキャパを世に出した一枚の写真は、スペイン内戦の時のものである。この写真は、果たして本当に兵士が撃たれた瞬間のものなのか?

場所の特定。その丘が戦場となった日時と撮影記録の対比。写真の兵士が持つ銃は安全装置を外していない事実、などから少なくとも演習時のものと結論付ける。

面白いのはここからである。他に残されていた同じ場所での写真と対比すると、この兵士がおそらく足を滑らせたらしいという推理が成り立つ。写真を重ね、3D化したうえで計算をしていくと、もう一人のカメラマンの存在が浮かび上がるのだ。それが、キャパの恋人であったゲルダ・タローだったのだ。キャパの使っていたのは35mmのライカ。ゲルダは二眼レフのローライである。ネガが失われているのだが、写真の構図から二眼レフのものらしい。撮影者もキャパではなかった。

この有名な写真は、実戦はなく、しかもキャパが撮ったものではない。だが、反ファシズムのシンボルとして独り歩きしていく。その後、恋人ゲルダが他の戦場で事故死してしまう。キャパは、この1枚については沈黙を守る。うーむ。苦しすぎる十字架である。

その後キャパは、ノルマンディー上陸の最前線に立つ。バタバタと倒れる兵士を、敵(ドイツ軍陣地)に背を向け撮影する。まるで撃ってくれともいわんばかりに。だがキャパは死ななかった。いや死ねなかったのだ。彼がおそらく安らかになれたのは、ベトナムで地雷を踏んだ時ではなかったか。そんな想いがかけめぐるような番組だった。

2013年2月3日日曜日

TICADで治安維持支援?

ケニアの警察
インフルエンザによる発熱は、金曜日夜の39度台をピークに次第に下降し、今日は平熱をとなった。とはいえ、穂菌している可能性が高い。第一、妻に完全に移植してしまったので、彼女は今咳き込みと発熱に苦しんでいるのであった。明朝は、彼女を連れて病院に行き、妻の治療と私の病状の確認に走ることにした。

元気になったのに学校に行けないのはつらい。明日は1年生の授業が3時間もある。今日はその課題を作っていた。A4版にして学校にFAXしておいた。誠に申し訳ないが他の先生方にご迷惑をかけてでも、生徒に学年末考査前の課題を与えておきたかったのだ。

さて、重要な記事がWEBニュースで報じられていた。今年のTICADで、日本政府は治安維持支援策を議題とするらしい。今回のアルジェリアの事件を受けてのことらしいが、拙速な話ではないかと私は思うのだ。まして外務官僚によるタカ派首相の機嫌取りなら、やめたほうがいい。

WEB記事によると「麻薬・武器の取り締まりなどの通関業務」「国境警備」「治安維持の人材育成」などを検討するらしいが、アフリカ諸国から見ればおそらく不可解な話ではないか。アフリカで治安を維持するためには、強烈な暴力装置としての警察が必要である。私はケニアのある市役所で、婦人団体が何かわからないが要求をかかげてきているのに、アーマライト(米国製の突撃銃)を持った警察が何人もきていたのを見たことがある。当然丸腰のご婦人がたにさえ、力を見せつけるのである。それが良いことだと言っているのではない。アフリカでは、治安維持=暴力装置としての警察という色合いが極めて強いと言っているのである。

この警察、ブルキナでは軍と大喧嘩したことがあるらしい。Iさんに聞いた話だが、どえらいことになったという。警察や軍はアフリカ諸国の政府にとって、良き政府なら重要。悪い政府ならさらに極めて重要なデモクレイジー維持装置である。

アフリカ諸国と日本のスタンス、つまり国際協力における日本の最大の特徴は、他の先進国と比べ、アフリカ諸国との一切の「歴史問題」がないということだ。治安問題から軍の問題にまで国際協力が発展することは、それを放棄することになりかねない。貧困を克服する協力こそ、長い道のりだが、確かな協力である。
貧困が克服され、治安部門の給料が遅配などが起こらないようになれば治安維持は十分なされるはずだ。もちろんテロリストの出現も大幅に減るだろう。
http://jp.wsj.com/article/JJ12261794262112173821020162107950823131856.html

時代の流れに敏感なのもよいが、時としては大局を見失う。

2013年2月1日金曜日

ワンフェスに行けません

ウーリーシンキング
朝から熱が徐々にあがり、ついに38度を超えた。三年生の最後の授業だというのに、強制的に帰宅させられた。明日明後日ののワンフェスには行けそうにない。OB・OGの諸氏には申し訳ないが…先ほどインフルエンザのA型が確定した。

追記(2日朝):以上が39度の熱の中で2月1日の夜に書いた文章である。昨日は、朝から咳き込むくらいでまさか発熱するなどという兆候はなかった。それが、1時間目の3年5組で最後の授業をした後、なんか関節が痛くなった。チーム・ブーフーウーのフー先生に体温計を借りて非公式に熱をはかると37.2度。フー先生も同じだった。「微熱やねえ。」「二人ともインフルやったりして。」と言っていたのだが、とりあえず(眼鏡が曇るので)普段は絶対にしないマスクを保健室にもらいにいったのだった。4時間目は、仮想世界ゲームの結果発表をする予定の3年1組である。ここには関関同立を受験する生徒もいるからだ。ところが、どうも熱が上がっているようだ。教頭に聞くと37.5度を越えたら危険だとのこと。いくら3年最後の授業でも関係ない。で、保健室で公式に体温をはかったのだった。すると、短時間で38.2度に上がっていたのだった。強制的に帰らされることになった。4時間目の3年1組の段取り、5時間目の我がクラスの段取り、6時間目の3年4組の段取り、さらに担任業務の依頼。それらを全て準備・依頼したうえで、不愉快なTVカメラクルーの前を通って下校したのだった。フー先生もインフルエンザだった。同じく咳き込んでいたウー先生もインフルエンザになったらビンゴやで。(11年6月24日付ブログ参照)

3年生には、今週1組も含めて全3クラスともウーリー・シンキングをやった。4組は本来なら昨日・最後の授業時にやろうかと考えていたのだが、一昨日やっておいてよかった。妙なムシの知らせがあったのかもしれない。1組も4組も最後を締めれなかったのが悲しい。ずーと皆勤だったワンフェスに行けないのも悲しい。でもしかたないか。養生。養生。