2022年9月27日火曜日

漂流 日本左翼史を読む。

先日読んだ「日本左翼史」の続編(漂流 日本左翼史:佐藤優・池上彰)を読んでいる。1972年ー2022年の左翼の動きである。1972年といえば、私が中学3年生。東大紛争やあさま山荘事件がすでに終わり、新左翼が没落していった後の話である。新左翼運動は、三里塚闘争に唯一の道を求めていた時代だ。一方で社会党・共産党といった既成左翼が労働運動で盛り返してきた時代でもある。

三里塚闘争というのは、今の新東京国際空港(成田空港)建設によって土地を追われることになった農民運動である。大学時代、新左翼に肩入れしている友人たちが「三里塚に行ってくる。」と言っていたのを思い出す。彼らは「戦旗派」だったはずだ。

この本によると、1970年9月から10月にかけて、空港公団の測量調査と機動隊が入り、反対同盟は人糞を詰めたポリ袋を「糞爆弾」「黄金爆弾」と称して投げつけた。通称「3日間闘争」である。71年2月、千葉県が反対派の土地を強制収容、団結小屋を撤去する第1次行政執行が行われ、3万人の機動隊と2万人の反対派がぶつかった。竹槍、投石、火炎瓶が乱れ飛び、461人が逮捕されたが、世論は反対同盟に同情的で、これを考慮し、起訴せず数日で釈放されている。ところが9月の第2次行政執行では、後方配置されていた神奈川県警機動隊員が襲撃され、3人が殉職し、新左翼への風あたりは一気に変わる。翌年のあさま山荘事件以後は、反対同盟の農民は新左翼・過激派と同列に見なされるようになる。

革マル派と社青同協会派(社会党の社会主義協会と関係が深い)は、最初三里塚闘争に参加するも、マルクス主義の図式で言えば農民運動は直線的に社会主義革命につながらないとして早くに離脱しているとのこと。行動的な中核派が主体になっていたようだ。

その後も闘争は続き、78年、空港の完成しつつ合った管制塔を占拠する事件が起こったが鎮圧され、5月には開港した。友人が三里塚に行ったのはこの前後のことだったと思う。79年には反対同盟の中心者戸村氏が逝去し、反対同盟は3つに分裂する。北原事務局長と中核派・革労協狭間派、熱田行動隊長と第四インター、革労協労対派、共産同(ブント)戦旗派、さらに熱田派の中から新左翼の支援を受けない小川氏のグループである。戦旗派だった友人は、後の熱田派に属するわけだ。(別にシンパシーを抱いてるわけでhないけれど、やはり気になるところであった。)
https://bund.jp/?p=138626&page=3
結局、熱田派も小川グループも集団移転に応じ、行政訴訟も取り下げた。現在も反対闘争を続けているのは北原派と中核派のみであるらしい。その北原氏も2017年に死去しているとのこと。

成田空港を、私はJICAでケニア視察に行かせてもらった時に初めて利用した。感無量だったことを覚えている。M高校でアイオワ州に研修旅行に行った際も大阪空港から成田経由だった。その際も三里塚の記憶が蘇ったのだった。重ねて記しておくが、強いシンパシーを抱いている訳では無い。だが、あの友人たちは、今どうしているのだろうと、ふと思うのだ。

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