2015年8月4日火曜日

戦争に行きたくないは利己的?

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とりあえず、ビルケナウ絶滅収容所のエントリーを終えたので、ちょっとポーランド行の話題から離れたい。と、いうより、離れざるを得ない記事が今朝の毎日の朝刊に載っていた。

自民党の武藤衆議院議員(36:滋賀4区)がツイッターで、「彼ら彼女ら(国会前で安保法案反対を訴えている”自由と民主主義のための学生緊急行動:SEALDs”をさしているようだ。)の主張は、『戦争に行きたくない』という自己中心、極端な利己主義の考えに基づく。利己的な個人主義がここまで蔓延したのは戦後教育のせいだろうが、非常に残念だ。」と書き込んだという。

記事では、「日本は民主主義国家で抗議するのは当然認められた権利だ。戦争に行きたくないというのは、若者だけではなく多くの人の共通の願い。それを利己主義と批判するのは、まさに戦前の国家主義そのものだ。」「逆に戦争に行きたい人なんているのかと聞きたい。学生を批判するより、国会で民主主義と立憲主義に沿った議論をしてほしい。」などと反論している。

私は、この議員の発言、まさに信じられない思いで読んだ。権力側のいかにも傲慢な発言だ。よほど首相に気に入られたいのだろう。徴兵制など安保法制では語られていないが、このような議員が存在すること自体が、法的安定性のこともあって、大きな疑惑を生む。

若者たちが戦争に行きたくないのは、当たり前である。それが極端な利己主義だというのは、暴言ではすまない内容だと私は思う。日本の国是は、70年来「平和国家」であると私は思っている。それは世界でも希な誇るべき国是である。この議員がどんな内容であれ、自分の意見を表明するのは自由だが、この議員を当選させた滋賀4区の人々は、大いに恥ずべきである。

私は、戦争はこのグローバル化の中では起こらない。この安保法案は、あくまで中国や北朝鮮に対するブラフであると今も考えている。だが、こんなことを発言する議員がいるのなら、法案そのものを潰すべきだ、と考えを改めなければ。

2015年8月3日月曜日

波蘭ユダヤ民遺蹟巡礼 5

ビルケナウ絶滅収容所 死の門
ビルケナウ絶滅収容所。この名もブジェジンカ村を、ナチがドイツ名に改称したものです。ここの「死の門」は圧倒的な重圧感があります。単線の線路がこの門をくぐり、その先で3車線となります。ここに、収容者を満載した貨車がつき、軍服姿の医者によって、25%が労働者が選ばれ、残りは林の方へ向かわされました。そこには第二・第三クレマトリウムと呼ばれるガス室と焼却炉へと続く道でした。これらの施設は開放前にSSによって爆破されました。現在はその残骸がそのまま保持されています。

ビルケナウはアウシュビッツ強制収容所よりはるかに広大です。死の門からひたすら線路脇を進みます。左の方はレンガ造りの建物(BⅠa/BⅠbと呼ばれていた)、右は木造のバラックの建物(BⅡa~fと呼ばれている。多くは焼け落ち、暖炉しか残っていない。)が見えます。

降車場(前述の生死の選別場所)から、クレマトリウムの方に進みます。その遺跡で手を合わせた後、死の門に向けて戻り、木造の収容所内を見学しました。ここビルケナウでは、アウシュビッツより、はるかに多くの方が亡くなっています。その重い事実が足どりをますます重くします。

ビルケナウでも多くの写真を撮りました。強烈な印象を受けたものを列記したいと思います。
当時の収容者を運んだ貨車
降車場跡 ダビデの星が花輪で作ってありました。
第二クレマトリウム跡
第二クレマトリウム跡
BⅡ収容所跡 わずかに暖炉跡が残っています。
BⅠ収容所跡 こちらはレンガ造り
BⅡ収容所跡 焼け残った木造バラック
BⅡ収容所内の非人間的なトイレ施設
BⅡ収容所内部。ワラがひかれていたそうです。
アウシュビッツ強制収容所・ビルケナウ絶滅収容所についての、私の抱いた思いについては、少し時間を置いてエントリーしたいと思います。

追記:さきほどTVで、チェコのユダヤ人の子供たち669名をイギリスに里子として脱出させたニコラス・ウィントン氏の話を見ました。子供たちが二度と会えなかった親たちをイメージさせる強制収容所の白黒映像が映るたびに、これまで以上にはるかに間近に迫るものがありました。妻とともに涙してしまいます。

2015年8月2日日曜日

波蘭ユダヤ民遺蹟巡礼 4

アウシュビッツ強制収容所の有名な門
アウシュビッツという名は、オシフィエンチムをナチが改称したものです。アウシュビッツは、駅の南側にある第一強制収容所、線路を挟んで第二収容所のビルケナウ絶滅収容所があります。「労働は自由への道」と書かれた有名な門は第一収容所に、死の門と呼ばれる線路がくぐるようになっているレンガ造りの監視塔はビルケナウにあります。この2つの収容所は、現在無料のバスで結ばれています。日本人ガイドの中谷さんによると、フォルクスワーゲン社の寄贈によるものだそうです。実は、アウシュビッツには第三強制労働収容所(I・G・ファルペンの化学工場内)もありました。(収容者を強制労働させる場は、その他40箇所ほどの副収容所にあり、アウシュビッツ・コンビナートとなっていました。)フォルクスワーゲン社もどこかで、強制労働の恩恵をうけており、その贖罪なのでしょう。

現在、ここはポーランド国立ミュージアムとなっています。私たちは、中谷さんと14:00の待ち合わせでした。参加者は私たち家族4名だけだと思い込んでいたのですが、私がメールを送ってから増えたようで、9名になっていました。私たちの場合、ツアー時間は14:30から3時間30分ほどかかりました。クラクフのホテルに戻った後、心底ぐったりしましたので、これがツアーの時間的限界なのかと思います。

待ち合わせ時間前に、まず書籍(日本語版)を4種類全て買い求めました。いずれ、人権学習の教材づくりを行う予定ですので、中谷さんの著作2冊と合わせ貴重な資料になると思います。ミュージアム内にはA4より大きなバッグは持ち込めません。荷物を預けた後、空港同様の身体検査を済ませていよいよ館内に入ります。

オンシーズンということもあって、世界中から来た人々で混雑していました。ガイドがグループを組んで説明しながら案内するので、野外を歩くときはともかく、館内ではどうしても渋滞してしまうのです。とはいえ、やはり凄い迫力で”アウシュビッツ”が迫ってきます。

出発前に、中谷さんの著書(第三章・展示内容を紹介した部分)をコピーしたもの(40枚分くらい)に、中谷さんの解説を書き加えながら、写真を撮りまくるのは大変でした。とはいえ、極めて貴重な時間です。五感を研ぎ澄ませ、集中して過ごしました。

第一強制収容所で、強烈な印象を受けた場所を写真と共に列記してみたいと思います。
4号館第4展示室にて ツィクロンBの容器
空気と化学反応することで、毒ガス化するそうです。
これだけ多くの容器は、DCにもエレサレムにもありません。
5号館 障害者の収容者の義足の山
凄い迫力で私に迫ってきました。
多くの人が銃殺された死の壁
ユダヤ人は慰霊のために石を置く習慣があります。
400ボルトの電圧が流れていたとのことです。
家族とともに収容所長ヘスが暮らしていた自宅跡 
ガス室・焼却炉からは、300mしか離れていません。
解放後ヘスも吊るされたという集団絞首台跡
ガス室・焼却炉全景
ガス室の内部
ツィクロンBの投入口
ガス室の壁に残る爪痕
実は、これこそが最も衝撃的でした。
焼却炉
映画「灰の記憶」そのままです。
膨大な写真の中から、厳選してもこれだけの数になりました。明日以降のビルケナウ編に続きます。

波蘭ユダヤ民遺蹟巡礼 3

オシフィエンチム駅
クラクフから、普通列車でオシフィエンチムに向かいました。後で調べてわかったのですが、バスで向かうと直接アウシュビッツ強制収容所のビジターセンター前に着くらしいのです。息子夫婦との打ち合わせの中で、鉄道料金はツアー代金に入っているし、鉄道も大好きな私は鉄道で行くことを主張しました。そもそも収容者も鉄道で運ばれましたし、そういう意義も含めての話です。おそらく収容者は外の景色も見れなかったと思いますが…。
ちなみに、この鉄道料金、ワルシャワ=クラクフ間も含め、ユーロ建てで、駅で直接買うより、かなり割高であることがわかりました。まあ、安心と手間賃込故に当然のことだと思います。
ユダヤ文化センター
息子の提案で、早めに出て、オシフィエンチムの街のユダヤ文化センターに、先に行くということになりました。このオシフィエンチムの街にも、昔からかなりユダヤ人が住んでいたようで、1940年の調査では、67.9%(7613人)もいたようです。かなり街の発展に貢献していたようです。ナチによって、20あったシナゴーグは1つを武器弾薬保管庫としたものを除いて破壊され、工場や商店は非ユダヤ人に明け渡したうえで、多くはアウシュビッツ強制収容所建設のため駆り出され、また一部は近隣のゲットーに送られ、結局各地の強制収容所・絶滅収容所に送られたということです。

この唯一残されたシナゴーグが、ユダヤ文化センターとなっていました。当然、今は使われているとは思えません。本棚もシナゴーグとは思えないほどガラガラでした。本来ならタルムードなど宗教書がもっとギッシリと並べられているはずです。祭壇にもトーラーらしきものはなさそうでした。あまりに悲しいシナゴーグでした。
ユダヤ文化センター内の修復されたシナゴーグと展示室
旧市街にも足を運びました。小さな広場があり、そこには観光地ではない生活感があふれています。ポーランドは、あまり英語が通じません。それが残念です。聞きたいこと、話したいことはいっぱいあるのですが…。
オシフィエンチムの旧市街
曇天であったことにも意味があるような気がします。旧市街で昼食をとった後、いよいよアウシュビッツ強制収容所へ向かいました。

このオシフィエンチムの街については、詳しい日本語のブログがあることを帰国後発見しました。興味のある方は是非覗いてみてください。
http://blog.goo.ne.jp/hanamamagon/c/9ce91ff7aa0becdd309919d7868255df

クラクフという街について

クラクフ 旧市街 中央広場
世界史を教えていても、あまりポーランドのことは教えた記憶がありません。(正直なところ、私の専門は倫理と地理で、世界史は第三の教科なのです。)誠に恥ずかしい話ですが、クラクフという街のことはあまり知らなかったのです。ワルシャワの前の首都であったことも、世界でも有数の観光地であることも知りませんでした。私にとっては、ただ単にアウシュビッツの最寄りの街でしかなかったのです。

ワルシャワから、鉄道でクラクフに向かいました。北海道のような風景がひたすら続きました。いや北海道以上の大平原。農業大国ポーランドの姿がよくわかりました。地理の教師としては、ヒコーキの上から見るだけではなく、鉄道やバスの車窓からヨコに見ることに大きな意義を感じます。実際、ポーランドの食は豊かです。私は食にはあまり興味がないので、これ以上の話の拡大はできません。(笑)
ワルシャワからクラクフへの車窓から
クラクフ駅は、かなり近代的なモールのような建物でした。これには驚きました。もっと古びた駅かと思っていたのです。(もちろん、その南側に歴史ある駅が保存されていましたが…。)しかもヨーロッパ有数の観光地らしく、多くのバックパッカーが闊歩し、ガイドが寄ってきます。(笑)
クラクフ旧市街  バルバカンから南に望む
今回の旅は、アウシュビッツに行くことが最大の目的でしたから、観光気分はさておいて、というスタンスでした。しかしホテルにチェックインした後、クラクフの旧市街に向かうと、まさに非日常的な素敵な世界でした。なによりも、歩いている人々の表情がいいのです。中世以来の美しい街並(ドイツがクラクフをポーランド支配の拠点としたが故に破壊されなかったからですが…。)に魅了され、様々な店をつい覗いてしまうのです。ワルシャワの旧市街は”歩いたなあ”という感じですが、クラクフの旧市街は”自然に歩かされてしまう”という感じでした。理屈抜きに良い街でした。
カジミェシェ地区 
ところで、このクラクフの街、ポーランドとユダヤ人を強く結びつけた歴史的な街です。旧市街の南部に旧ユダヤ人街であるカジミェシュ地区があります。ここはワルシャワのゲットーのようにドイツ軍によってのユダヤ人が強制的に集められた地区ではなく、昔からユダヤ人に対して自治権を与えられた地区でした。息子夫婦の安宿もこの地区にあるとのことで、結局徒歩で、歩き続けることになりました。すでに夕方。多くのシナゴーグの開館時間は過ぎているようでした。ですが、アウシュビッツに向かう前に、このカジミェシュ地区に立ち寄ったこと自体に意義を感じました。

ワルシャワ旧市街で遭遇した事

ワルシャワ旧市街
AC/DCというオーストラリアの有名なロックバンドがあるそうです。私はワルシャワの旧市街で初めて知りました。右を見ても左を見ても、AC/DCというロゴ入りのTシャツの人々が多く、最初は何かわかりませんでした。後で調べてみると、AC/DCのコンサートがあり、おそらく近隣諸国からも多くのファンが集まっていたのだろうと思います。それにしても凄い占有率でした。この日は猛暑で、おまけに、すでにかなり歩き疲れていたこともあって、世界遺産の美しい街並の旧市街の印象はいまひとつ。(笑)

ややこしいことに、ちょうどイスラム移民排斥の政治集会も行われていました。我々が旧市街からクラクフ郊外通りを行こうとすると、その集会参加者がデモ隊に変わり、警察車両に守られながら大統領官邸へ向かって行く、その怒声の後を追う格好になりました。ちょっと不思議な空間でした。

WEBで、ポーランドの移民受け入れ状況を調べてみましたが、日本語でわかる範囲ではあまり情報はありません。ポーランドはEU加盟後、国内の労働力が流出した側です。しかし、ユダヤ人の姿は見られないものの、スカーフ姿のイスラム系女性はわりと見る機会がありましたし、ケバブの店はかなりの数にのぼっています。ケバブ=イスラムではないとは思いますが…。

現在、ポーランドの経済は比較的堅調であるようです。ポーランドでは、3Kと呼ばれるような肉体労働もポーランド人が多く雇用されており、賃金もドイツなどよりかなり低いようです。(その分物価が安く我々も大いに助かりましたが…。)しかも、複雑なポーランド語習得も大きなネックになります。したがって、ドイツやフランス、北欧などで騒がれているようなイスラム系移民問題は、まだまだ大きくはなっていないようです。
イスラム系移民排斥デモの後を追う格好になる
とはいえ、イスラム系移民排斥のデモに遭遇したことは、ちょっとショックでした。おそらくは、カトリック系が大半のポーランド人は、イスラムへの警戒心が潜在的に強いのではないかと考えたりするのです。ヨーロッパの実相に触れた、ワルシャワ旧市街でした。

2015年8月1日土曜日

パヴィアク刑務所での一考察

ワルシャワのパヴィアク刑務所
ワルシャワでは、ユダヤ歴史博物館近くのパヴィアク刑務所にも立ち寄りました。しかし残念ながら、時間があわず入館はできませんでした。この刑務所については、7月15日付のブログで紹介させてもらっています。ナチがポーランドを占領後、第三帝国の奴隷化政策を推進するために、指導者層や反ナチの政治犯をここで処刑していきました。その数、およそ12万。そのうち37000人が射殺され、6万人は強制収容所に送られます。ワルシャワ蜂起の際に、収容者は全員射殺され、爆破されてしまいます。

ところで、以前から気になっていたことがあります。この刑務所には、カトリックの神父も多く収監されました。アウシュビッツ強制収容所でもコルベ神父(昨年長崎で彼の様々な展示を見ました。)が、殺された地下房を見学しました。ヒトラーやナチは、カトリック教会、あるいはキリスト教をどう考えていたのでしょうか。

WEBを中心に調べてみると、およそヒトラーは、まずユダヤ人問題を宗教問題として捉えていないこと、あくまで人種問題と捉えていたことが重要であるようです。つまり、ヨーロッパに多く見られるキリスト教徒から発する反ユダヤ主義と同列ではないわけです。

ヒトラー自身は、イエスを物質主義的なユダヤ人に対して精神主義的な敵対行動をとった戦闘者・殉教者と捉え、反ユダヤのアーリア人のヒーローと考えていました。それに対し、パウロが歪曲させたキリスト教団をローマ帝国のアーリア的な精神主義や寛容の破壊者とみなしています。ヒトラーは、イエスを憎んでいたのではなく、キリスト教組織(教団)を憎んでいたといえます。

さらに、ボルシェビキズムをキリスト教の私生児、ユダヤ人の生み出したものとしています。ヒトラーは、ボルマン覚書で、こう述べています。「昨日の扇動者はパウロだった。今日の扇動者はモルデカイだ。サウロ(パウロのユダヤ名)は聖パウロになった。モルデカイはカール・マルクスである。」
*モルデカイは、バビロン捕囚後のアケメネス朝ペルシャの支配下でユダヤ人虐殺を賢女エステルとともに阻止し、アダルの祭りの故事のもとになった人物。(エステル記)

このように、ヒトラーはボルシェビキと同様にキリスト教団を極めて嫌悪していたようです。ただ、政治的にはキリスト教団をすぐ敵に回す愚を去け、「積極的キリスト教」政策をとります。前述のように、ユダヤ人が書いた部分(旧約聖書の全てを含む)を却下、イエス=キリストをユダヤ人であることを否定、カトリックを根絶し、プロテスタントと国家社会主義者を1つの教会に統合する、というものです。結局、ナチはプロテスタントの諸派を直接抑えましたが、カトリックのバチカンまでは直接手を出せないまま、政教協定を結び、反ナチ的でなければ干渉しないとしたわけです。
ホテル近くの教会 お約束通り、左に天国の鍵を持ったペテロ、右にパウロの像がありました。
一方、ポーランドのカトリック教会は、10世紀にドイツのオットー1世のキリスト教化を名目化で支配を強めようとしたのに対し、ミエシェコ1世が先手を打って、ボヘミア王の娘を妻に迎え洗礼を受け、国をローマ教皇庁に寄進したことに始まります。16世紀の宗教改革時には、貴族層にカルヴァン派が広がりますが、17世紀には、西のプロイセンのプロテスタント、東のロシアのオーソドックスに挟まれ、民族のアイデンティティとしてのカトリック教会信仰が強まります。ポーランドのカトリック教会はこのような歴史的状況下、ナチス占領時代にも民衆の側につく姿勢を貫くわけです。当然反ナチ的な存在となります。

ポーランドのカトリック神父が、ナチに多く虐殺された理由。ようやく納得がいきました。