2023年5月7日日曜日

新科目「公共」の一神教解説

「公共」の教科書を見ても、資料集を見ても、実に倫理分野は薄っぺらである。理系の生徒にはこれくらいでいいかもしれないが、文系の生徒には、公共+倫理、公共+政経といった組み合わせより、倫理+政経のほうがはるかに意味があると感じている。とはいえ、必修科目になったので、論理的な思考を伸ばすという科目の特性もあるので、試行錯誤しているところだ。

今回は、そんな「公共」で必要にかられて、一神教の整理をプリント上でしてみた。倫理から見てもまずまずかなと思う。(これはGW以前に作成したもの。(画像は拡大可能)現在は中間考査作成に突入している。笑)我ながらシンプルにできているように思う。

ユダヤ教の律法の矢印はかなり大きくして、その膨大さを意識した。イスラム教のシャリーアは、フィクフ(厳守すべきものやどちらでもいいものなど5種の構造)があるし、比較的融通がきく故小さくした。教義面での対比で、聖典の内容面も含めた比較、原罪がイスラム教にはないこと(私はこれは大きな相違だと思っている)、終末は共通していることの3つに絞った。倫理ならもうすこし詳しくやるが、「公共」ではこれくらいが適当だと思う。来年、政経を選択する生徒にも、倫理を選択する生徒にも適度な教材かと自負している次第。

2023年5月6日土曜日

イスラム教と国家 考 2

https://polandballes.miraheze
.org/wiki/Arabia_Sauditaball
「一神教と国家」(中田考・内田樹/集英社新書)の備忘録として続けてエントリー。中田氏の言から。イスラム圏では、本来世俗と宗教を分けない。人間が生きる上で行う殆どすべての営為に神の判断を借りる文化である。それでも今は西欧的な価値観に右へならえして、かなり世俗的になりつつある。トルコのような国からイランのように厳格な国まで強弱はあるが進んでいる。…近代の領域国民国家は、西欧の世界支配システムなので、西欧が国家承認さえすれば、存在することが住民に厄災をもたらそうが、独立主権国家として存在してしまう。しかし本来は、ある地域の人々が、独立の国家を作ることに意味があるとすれば、少なくとも2つの条件を満たす必要がある。1つは、その国の内部に1つの国家として束ねられているだけの顕著な同一性があること、もう1つは、その国家と外の国家の間に境界が必要なほどの異他性があるということ。その点から言うと、イスラムの国家はあまり独立している意味がない。…宗教儀礼に用いる言語はすべて同じアラビア語。食文化や住文化と言った違いはあっても、ムスリムであれば度の国に行っても、一緒に祈ることができる。モスクに行けば16億の同胞とそのまま繋がれる。宗派の違いによって細かいことはあるが、大枠で一体である。

…中田氏は、最もイスラムの価値観に厳格なのは、ここでイランだとしているのが面白い。ワッハーブ派のサウジではないのだった。そういう視点から、今回アメリカ離れを起こしているサウジが、シーア派とはいえアメリカより遥かに価値観を共有できるイランと国交回復し、イスラムの大義から、イスラエルとの戦争を回避させようとしているように見えてくるのであった。

2023年5月5日金曜日

イスラム教と国家 考

「おどろきのウクライナ」(橋爪大三郎・大澤真幸)には、国家の成立には、「普遍的なもの:国民が信頼している思想・宗教」が、権力者や政府を認証する必要があるという、非常に社会学的な話が出てくる。中世のカトリックが専制的な王権の後ろ盾となった歴史的経過から来ている。ホッブズのリヴァイアサンには、国家は教会にかわり世俗的な権力をもつものという概念があり、それはリヴァイアサンの正式名称「リヴァイアサン、あるいは教会的及び市民的なコモンウェルスの素材、形体、及び権力」にも表れており、国家政府は「法人」とされている。現在もこの社会学的な国家の構造は生きていて、公定教会である英国国教会を普遍的とするイギリスやカナダ、同じく公定教会であるルター派を普遍的とするドイツ、カトリックを普遍的とするイタリア、多くの宗派に分かれているがプロテスタント教会をを普遍的とするアメリカ、カトリック国でありながら政教分離したフランスは哲学を普遍としている、といった具合である。これらの民主主義国家は、当然ながら、法の支配や人権思想、普通選挙制による国民国家である。(本年4月6日付ブログ参照)

中国には、天による易姓革命的な普遍性があり、権力を支えているが、民主主義国家ではない。ロシアもまた、正教が普遍性を保障しているが、民主主義国家ではない。(ソ連時代は、マルクス=レーニン主義が普遍性を保証していた。)これらの国家は、普遍性と権力が一体化あるいは歴史的に並立してきた。故に民主主義が確立していく土壌がないといってよい。面白いのは日本で、普遍性は、岩倉使節団による熟慮の末、欧米のキリスト教を排して、天皇制に置かれている。(欧米の普遍性に気づいた事自体が明治人の優秀さを示している。)戦前の一時期、天皇機関説が問題視されたが、普遍性と権力は分離されている故に、日本では民主主義が成立し、近代国家化し、先進国の仲間入りができているといえよう。

さて、今日の本題は、イスラム教の国々の場合である。「おどろきのウクライナ」では、イスラム教に「法人」という概念がないことが指摘されている。よって、普遍的なイスラム教はあれども民主主義的な政府は存在できないわけだ。この辺をもう少し考えたくて、「一神教と国家」(中田考・内田樹/集英社新書)を読んでいる。中田氏と内田氏の対話の中で、イスラム教徒は、基本的にノマド(遊牧民)であることが出てくる。遊牧民には、なにか問題が起こった時、農耕民のように悠長に議論している暇がない、決断力のあるリーダーが「他の人達には見えていないもの」を個人的慧眼によって洞察し、おのれの部族を引き連れていく必要がある。まさにモーセが羊の群れを牧者が導いていく姿に擬せられるというわけだ。内田氏は、プロテスタントで「牧師」という言葉を使うことに注目している。中田氏は、アラビア語で、「民」は”ライーア”、文字どおり「羊の群れ」という意味だと答えている。このようなノマド的伝統がイスラム国家で民主主義を育むことを拒んでいると思われる。イスラム教国の王国・首長国がその端的な例である。

ただし、何度もこのブログで記しているが、マレーシアは少し事情が異なる。まずノマド的な風土ではないこと。イギリスの植民地支配の影響を強く受けていることから、独立時に民主国家としてスタートした。だが、このようなイスラム的伝統は、憲法上、(5年に一度スルタンかの選挙で選ばれる)国王に行政権が付与されているところにわずかながら見える。多分に儀式的・形式的ではあるが、元宗主国のイギリス国王には行政権はない。それ以上に、各州のスルタンは宗教的指導者であり、その権威のほうが重要であるようだ。よって、マレーシアは、イスラム教国家の中では珍しい折衷した国家システムを持っているといえる。

今大統領選挙で話題のドルコも、オスマン帝国崩壊後は政教分離を明確にして民主国家となっている共和国らしい共和国である。イランは”イスラム”共和国であって、事実上政府は、普遍的なイスラム教シーア派と合同している。イラクもシーア派が多数派だがスンニー派のフセイン政権が以前統治しており、この普遍性の分裂が国民国家化をかなり困難なものにしている。(最大の普遍性の分裂状況にあるは、現在崩壊寸前のレバノンだともいえるだろう。)イスラム教国家といえど、様々である。

この普遍性+法人政府=民主国家という方程式、たしかに有意義だが、意外に完全にあてはまる国が少ない欧米的価値観のように思えるのだが…。

2023年5月4日木曜日

黒船外交 NATO東京事務所

https://www.pixiv.net/artworks/106140629
3日のロイター通信によると、東京にNATOの連絡事務所が解説されることがわかった。そもそも日経アジアがニュース元らしいが、私は憲法記念日に合わせた発表故に、実に「黒船的=外圧的外交」であると私は感じている。外務省は現在のところ何も発表していない。(こういう姑息さが日本の民主主義に危惧を抱かせる。)https://jp.reuters.com/article/nato-japan-idJPL6N37009F

日本はNATOのパートナー国であるらしいのだが、もっともらしい理由で”事務所”を開設することになったようだが、まさに蟻の一穴。米軍基地がNATOの基地となり、いずれ自衛隊の基地もNATOと共有されていくのだろう。おそらく装備もかなり共有される気がする。たとえば、陸自の使用する弾丸がNATO弾とは微妙に違うのだが、いずれ銃器もNATO仕様になって、輸入することになる可能性もある。これまで様々な自衛隊関連の本を読んだが、国産でまかなうと需要が少ないので高価になるというデメリットがあるが、安全保障を輸入に頼るというのは危険でもある。意外にNATOの後方支援生産基地となり、ライセンス生産で貢献させようというNATO側の意思があるのかもしれない。非核三原則同様、武器輸出三原則もそうなれば絵に描いた餅である。

昨日も記したように、私は改憲派でも護憲派でもない。安全保障の重要性は言わずもがなだが、平和の概念が基軸になっている日本で、この国のカタチを変革するのなら、十分に議論されることが望まれる。

ともかくも、近い将来、日本がNATOの集団安全保障に組み込まれるとなれば、現行憲法下では不可能である。今回の東京事務所開設は、改憲のための黒船来航であることは間違いない。

2023年5月3日水曜日

憲法記念日に寄せて

https://subestamp.com/post-29306/
憲法記念日の今日からGW。枚方市の図書館に妻と歩いて「東大のクールな地理」を返却し、また本を2冊借りてきた。今日はびっくりするほど幹線道路には車が多い。皆お出かけなのだろうか。私は、出かける予定などなく、倫理の中間試験をひたすら作成していた。(笑)

共通テストになってから、倫理の試験も例外なく難化しているように思う。少なくとも読むべき内容が増え、原典資料も多く出題されてきた。そもそも学園の生徒の学力が高いので、授業のスピードも試験のハードルもかなり上げている。もちろん、倫理分野の私の”すべらない話”は多少短くはなるが健在である。「教え子諸君、安心してください。ちゃんと笑かしてますよ。」(今日の画像参照)

ところで憲法記念日、各党の憲法に対する声明が出されているようだ。改憲が党是の自民党は当然だが、野党でも改憲の必要性を説くところもでてきた。私などは、その前に親中政策を撤回すべきではないか、と思っている。大阪に巣食う病根のような政党は、やっていることと言っていることが全く違う。ウケを狙っているだけであるとしか見えない。

私は、社会科教師として政治的には、ど真ん中でありたいが、このままでは日本はどうなるのかと危惧している。改憲についても、必要だとも思うし、一方で緊急事態の制限に対しては白紙委任するのは恐ろしい。とにかく、先年の米大統領選挙以来、民主主義というものに完全に不信を抱いてしまった。常に、その情報は真実なのかという疑念が湧くのである。ちょっとだけ、憲法記念日に寄せて…。

2023年5月2日火曜日

「石原莞爾」を読む。

市立図書館で「陸軍の異端児 石原莞爾」(小松茂朗/潮書房光人社)を借りて速攻で読み終えた。以前から石原莞爾という軍人には興味がったのだが、やっと十分に知ることができた。この本は、かなり石原を持ち上げている本で、ウィキの記述と異なる部分もある。(まあ、ウィキもどこまで信用していいかわからいが…。)

まずは、その相違点からエントリーしたい。石原は満州事変の首謀者の一人である。満州事変をどう見るかは、実に難しい。帝国主義の時代であり、日本が対ソ戦略として中国東北部を勢力圏に入れようとしたことは、悪と断じることは簡単だが、この本では、石原莞爾の八紘一宇の理想主義的な面と、戦略家・軍人としての実力、統帥権下の関東軍と参謀本部の確執などしっかりと描いている。問題は、この本では、戦犯指定から逃れた石原は「自分は満州事変の首謀者であり戦犯である。逮捕すべし。」と主張しているという。ウィキでは、戦犯のがれの供述書を書いているとある。どちらが本当なのであろう。もし、この本の通りならば、発狂したとされる大川周明よろしく、東京裁判をかなり混乱させたはずだし、私は意気を感ずる。

石原莞爾は、たしかに異端児である。天才的な戦略、陸軍における無意味な規制の排除、兵への深い思いなど、軍人としては異端児だが、かなりの人物であることは間違いなさそうだ。しかも、皇道派でも統制派でもなく、思想がない東條を批判し続け予備役にされたが、筋を曲げなかった。この点は評価されるべきだろう。

東京逓信病院に入院中に東京裁判の検事たちに、第1級の戦犯はトルーマンとした石原莞爾の主張は理にかなう。配布したビラに、「もし日本国民が軍人に協力するならば、老人、子供、婦女子を問わず爆殺する。」とあり、「国際法では非戦闘員は爆撃すべからずとあるのに、実行した。このような蛮行を行いながら戦犯を作るなど本当に恥ずかしくないのか。」

もし、このような主張を堂々と行った事実があるなら、やはり石原莞爾は大した人物だと思うのだ。

民主主義と資本主義は両輪?

「公共」の授業で、社会科学の常識として、民主主義と資本主義は両輪のようなものというのがあるのだが、現在世界第2位のGDPを誇る中国の資本主義は、民主主義がないのに発展しているのはなぜか?という内容をやっていた。「公共」の授業は、こういう思考を与える事が重要だと私は思う。

民主主義については、法の支配とか人権思想とか、普通選挙による(ヨーロッパの)社会類型の変化などをすでに語っている。資本主義については、私有財産制、利潤追求の自由、企業活動の自由などの原理を確認した。私有財産制は、ジョン・ロックの財産権によって確立したことも付け加えた。民主主義の人権と大きく関わることを発見してくれれば嬉しいトコロ。財産権、自由権の保障が資本主義発達の基盤となるわけだ。これが、定説。しかし、中国には、経済繁栄の経験値はあっても、専制政治ばかりで民主主義はついぞ確立していない。なのになぜ今発展しているのか?

それは、中国の社会類型がヨーロッパとは反対で、支配される側は、自由な個人であるからだというのが正解。欧米の概念だけで見ると理解できない。まさに新しい社会科学的視点なのだ。

今回の「公共」の授業はかなり実験的で、この社会類型論、法人たる国家を普遍的なるものが保障するという国家論、さらに民主主義・資本主義・国民国家という近代国家論の3つの視点で、大きく国家を見ていこうというものである。それぞれが密接に関わっており面白いのだが、2年生の生徒には少し難解だと思う。とはいえ、熱心に聞いてくれている生徒が多いのも事実である。