2026年10月14日水曜日

吉村昭『落日の宴』を読む3

https://www.ne.jp/asahi/ohsagami/salon-koshoga/01m/t01m09.html
(藤田東湖/一酔一眠)
吉村昭『落日の宴』の書評第3回目。川路聖謨のスタンスについて、今回もアトランダムに記しておこうと思う。川路聖謨は、洋学を学んでおり、国際情勢の認識から、現在の日本の軍事力では、欧米との戦争に勝てるはずはなく、開国はやむを得ないとしても、海防をまず整えるべきだという考えの持ち主であった。

川路聖謨が、まだ本格的な出世をする前には、鳥居耀蔵(ようぞう)をかなり恐れていたようだ。鳥居は、林家の三男で、旗本・鳥居家の養子である。(ちなみに日米和親条約の締結にあたった林大学頭は弟にあたる。)天保の改革時には、江戸南町奉行。改革に批判的で人気のあった北町奉行の遠山の金さん(=遠山景元/金四郎)を失脚(閑職の大目付に転任、鳥居の失脚後、南町奉行に復帰)させたり、蛮社の獄(渡辺崋山や高野長英らを弾圧)の首謀者として知られる。それ以外にも権謀術数をもって進歩派を陥れている。頑迷な非開国派であり、失脚後は30年間も幽閉された。結局、塁は川路聖謨にはおよばなかったのだが…。

川路聖謨の交流関係は、藤田東湖にも及んでいる。藤田東湖は水戸学の大家で、本居宣長の国学を取り入れ、尊王の絶対化を説いた人物である。1855年の安政の大地震の話が、本書に詳しく出てくるが、この際母をかばって圧死している。この藤田東湖との交流を通じて、川路聖謨は、水戸の烈公・徳川斉昭(老中・阿部に海防参与に任じられた)にも可愛がられる。ただ、藤田東湖亡き後の烈公は、無茶苦茶感情的で頑迷である。阿部の後の老中・堀田正睦(まさよし)が、京都朝廷で開国を否定された後、堀田とハリスの面談内容を書面にして諸大名に示した時、最初に建白書を出したのは烈公で、次のようにあった。

「江戸に公使館をもうければ他国もそれにならい、直接将軍に談判することになり、あくまで拒否すべきである。すでに参与の職を辞し退隠した身ではあるが、徳川二百年の御厚恩にむくいず朽ち果てるよりは、日本のために私自身アメリカへまいり、公使館設置は相成らずと厳しく伝えたい。それをお許しいただければ、罪人を含む浪人、百姓、町人等の次、三男四百万人を引き連れてアメリカに渡って交易事業をおこし、たとえ私が彼の地で殺されても子の慶篤(よしあつ)が家をついでくれるので支障はない。また外圧を追い払うには武力を強化する以外になく、大砲、大鑑をつくるため百万両を貸してほしい。」

烈公の見識に敬意を抱いていた川路聖謨は唖然とし、失望したとされている。すでに、水戸学の影響はかなり強くなっており、尊王と攘夷が結びつき、川路聖謨はかなりの危機感をもっていたようだ。

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