その後、佐渡奉行となり、名奉行と言われた。天保の改革時、老中水野忠邦に、その行政手腕と人物をかわれ、小普請奉行・普請奉行という立場で改革に参与。勘定吟味役という職務の関係で、海外事情や西洋諸国の技術などにも通じていく。この洋学への傾倒は、後に蛮社の獄で失脚させられる(と少なくとも本人は思っていたようである。)ことになる。天保の改革が挫折後は、奈良奉行に左遷された。
ここで、勘定奉行や佐渡奉行、奈良奉行などの名が出てきたが、整理しておく。勘定奉行は、寺社奉行(大名格が任命される)の次。(江戸)町奉行とほぼ同格。幕府の財政・幕府直轄領(天領)の支配・司法を担う役職で、旗本4名が定員。そのうち「勝手方」は、幕府財政の収支と予算、貨幣の鋳造などを行い、「公事方」は訴訟や一般の裁判を担当した。直轄領の領主的な支配を行うのが、「遠国奉行」と呼ばれるもので、その序列は、長崎奉行、京都町奉行、大坂町奉行、山田奉行(伊勢)、日光奉行、奈良奉行、駿府町奉行、浦賀奉行、佐渡奉行となっていた。幕末には、長崎奉行と同格またはそれ以上となる神奈川奉行、函館奉行、兵庫奉行、新潟奉行などが新設された。この『落日の宴』に何度も登場する「下田奉行」は、老中直轄の遠国奉行である。
奈良奉行時代も名奉行として知られ、その後大坂東町奉行、さらに公事方勘定奉行に就任した。1851年、老中阿部正弘に海岸防禦御用掛(開国後の外国奉行)に任じられる。この物語は、この辺から始まる。
下巻では、川路聖謨は、筆頭勘定奉行に任じられる。現在で言えば、財務省の事務次官と言えようか。幕臣としては最下層の御家人から旗本、勘定奉行畑で昇進し、最後はトップに上り詰めたといってよい。
こうしてみると、野心が旺盛な人物のように聞こえるが、川路本人は、極めて質素・倹約を旨としており、また朝には大刀を振り、移動時には籠を嫌い早足で歩く強健さをもっている。さらに、謙虚であり、役職が上がっても決して威張らない人柄故に、人望が極めて厚かった。(幕臣としての)武士の美学を貫いたような人物なのである。



0 件のコメント:
コメントを投稿