2022年1月6日木曜日

受験の世界史B 研鑽ー29

https://keijoseph.amebaownd.com/posts/4823434/
マムルーク朝(1250年―1517年)13世紀半ば、ルイ9世の十字軍がエジプトに侵攻してきた際、アイユーブ朝のスルタン、サーリフが急死した。サーリフ子飼いのマムルーク軍団(バフリーヤ)は、サーリフの夫人で奴隷身分出身だったシャジャル・アッ=ドゥッルを指導者としてルイ9世を捕虜にし、十字軍を撃退した。その後、シャジャル・アッ=ドゥッルの子ではないサーリフの遺児・トゥーラーン・シャーを殺害し、シャジャル・アッ=ドゥッルをスルタンに立て新政権を樹立。マムルーク以外のムスリムの抵抗が強く、最有力軍人アイバクと再婚、アイバクにスルタン位を譲る。しかし、バフリーヤ内で支持を失い、アイバクもシャジャル・アッ=ドゥッルも殺害され、クトゥズが台頭、スルタンになる。

1260年、モンゴルのフレグの軍がシリアに迫ると、バフリーヤの指導者、バイバルスと和解、アイン・ジャールートの戦いで勝利する。その帰路クトゥズはバイバルスに殺害され、バイバルスは自らスルタンになった。バイバルスは、フレグのイルハン朝やシリアの十字軍国家と戦い、死去する1277年までに、マムルーク朝の支配領域をエジプトからシリアまで拡大した。その後、バフリーヤの将軍がスルタンの座につき、1291年には十字軍国家を完全征服して十字軍戦争を終わらせた。以後もクーデターが続いたが、ナースィルの元で、カイロが、イスラム商業都市、学術都市として発展した。

1382年、チェルケス人のブルジー軍団出身のバルクークが王位に就く。以後、トルコ系遊牧民・モンゴル人・クルド人が中心のバフリー・マムルーク朝から、チェルケス人など北カフカス出身者が中心のブルジー・マムルーク朝となる。チェルケス人は、北西コーカサス語を話すスンニー派の人々で、現在のロシアの民族自治共和国やトルコに居住している。このブンジー・マムルーク朝では、スルタンの世襲は行われず、有力アミールの中から互選された。よって、軍閥同士の内紛が絶えず、15世紀のペスト流行でカイロの繁栄が陰りを見せ、16世紀にはインド洋貿易でポルトガルの進出、さらにオスマン朝との対立が深まり、カイロがオスマン帝国に征服され滅亡する。

いやあ、マムルーク朝、十字軍にもモンゴルにも勝ったが、政権内部のドロドロはなかなかのモノなのである。

2022年1月5日水曜日

受験の世界史B 研鑽ー28

https://www.gettyimages.co.jp/
アイユーブ朝(1169年―1250年)は、エジプト、シリア、イエメンなどを支配したスンニー派のイスラム王朝で、ザンギ―朝(セルジューク朝の幼い君主の後見人・摂政たるアタベク政権で、十字軍に対しイスラム世界最初の組織的な抵抗を行った。)に仕えたクルド系のサラーフッディーン(サラディン)が始祖。1169年、サラディンはエジプトを支配するファーティマ朝の宰相となり、アッバース朝のカリフの権威を認め、支配の正当性を主張し、マリク(王)を称するとともに、シーア派王朝からスンニー派王朝に転換した。十字軍に主に相対したのはこのアイユーブ朝である。

ザンギー朝の第2代君主・ヌールッディーンとの対立やファーティマ朝のザンジュ(黒人奴隷兵)の内乱、イエメンへの遠征、ルーム・セルジューク朝との戦いなどを経て、ザンギ―朝をはじめ臣従させることに成功し、半独立から独立への道を拓いた。1187年、ヒッティーンの戦いでイェルサレム王国を破り、イェルサレムを包囲、身代金と引き換えに住民の安全を保障し開城した。岩のドーム(ウマイヤ朝第5代カリフ・マブドゥルマリクが建設を思いたち692年完成:カーバ神殿のあるメッカが当時シーア派に制圧されていたのが建設の動機と推測されている。11世紀に再建され、1554年にオスマン帝国のスレイマン1世がトルコ製タイルを張りなおした。)でイスラームの礼拝が行われる。カトリック信者は追放されたが、東方正教徒は町に残り、十字軍によって追放されていたユダヤ人が帰郷した。

アイユーブ朝にイェルサレムが占領され、イングランド王・リチャード3世、仏王フィリップ2世、神聖ローマ帝国のフリードリヒ1世による第3回十字軍が派遣される。サラディンとリチャード1世の戦闘は1年以上に及んだが、膠着状態から1192年和平が結ばれ、キリスト教巡礼者の入場は許された。1193年、ダマスカスに凱旋後サラディンは死去、領土は王族によって分割され、それぞれの地域を支配する者が軍人にイクタ―を授与する体制になった。

その中で、サラディンの弟・アーディルが再統一し、サラディンがが帯びていなかったスルタンの称号を用いる。第4回十字軍で1204年ラテン帝国が建国された後、アーディルはヴェネツィアやピサなどの都市国家との通商関係を継続するため、ナザレやラムラを割譲。その子・カーミルは第4.5回十字軍(→研鑽9)の時も和平を提案、「対外和平と国内再統一」を進めた。実際は十字軍は前述のように1221年ナイル川の氾濫に巻き込まれ壊滅した。その後もカミールは国内統一のためにも、神聖ローマ皇帝のフリードリヒ2世と同盟を結ぼうと書簡を交換、動物学に深い関心を持つ彼に、熊・猿。ヒトコブラクダ、アジア象(フリードリヒ2世が凱旋の時使用:クレモナの象)を贈った。(結局イェルサレムは返還されたが、フリードリヒ2世は批判されることになる。=第5回十字軍→研鑽10)

カミールの死後、国家の統一が再び失われた。第6回十字軍では、ルイ9世を捕虜にするが、1250年君主に即位したトゥーラン・シャーが暗殺され、アイユーブ朝は断絶、マルムーク朝に取って代わられる。

ちなみに、スンニー派に大転換したアイユーブ朝では、現在のマレーシアのシャーフィイー学派が主要な地位を占めていた。…マルムーク朝のことは次回の研鑽で。

2022年1月4日火曜日

受験の世界史B 研鑽ー27

https://www.y-history.net/wh_note/13note_0402.html
今回の研修は、セルジューク朝を中心に進めたい。
大セルジューク朝(1037年-1194年/ルーム・セルジューク朝1077年-1308年)トルコ系・ペルシャ人(ペルシャ語が第一の共通語)のスンニー派の帝国。建国者はトゥグリル・ベグ。アラル海に近い本拠地からホラーサーン(イラン北部)に侵攻しブワイフ朝を滅ぼし、さらにバグダードを確保。1055年、シーア派のブワイフ朝からスンニー派がバグダードを奪還したことになる。マリク・シャーの時代の宰相ニザームルムルクは、シーア派のファーティマ朝に対抗してニザーミーヤ学院を建てた。1071年のマラズギルトの戦いで東ローマ帝国からアナトリア半島のほとんどを征服、第1回十字軍の原因の1つとなった。カラハン朝やガズナ朝はセルジュークを専制君主として認めざるを得なかった。
しかし、マルク・シャーの時代が終わると大セルジューク朝は4人の息子の領土配分をめぐり分裂。1077年、スライマーン・イブン・クタルムシュ(:スライマン1世・トゥグリル・ベグの甥の息子)がアナトリア半島でルーム・セルジューク朝(ルームはローマの意でアナトリアの支配を意味する)を建国。その他、シリア、ペルシャなどに分裂。
第1回十字軍の際は、この分裂した国家は自国領を強化・隣国支配の方に関心があり、1096年の民衆十字軍を破ったが、王子十字軍の前進を止めれず、またグルジア王国との戦争の方を重視したので、イェルサレムを奪われる。その後、十字軍国家と断続的に戦闘が続き、第2回十字軍が来るが、西欧側がバラバラに行動したので押し返した。
東から西遼(カラ=キタイ)の耶律大石が侵攻、カラハン朝は滅亡、ゴール朝もホラズム朝により滅亡し、1194年にホラズム滅ぼされる。ただ、ルーム・セルジューク朝は残った。
ところで、大セルジューク朝の首都は教科書に書かれていない。君宗は、ニシャプール、レイ、イスファーンなどの都市やその郊外に滞在し、そこが中心地となった。ペルシア語では首都を「玉座の足」としており、移動可能なものだった。

ホラズム・シャー朝(1077年-1231年)アムダリア川流域(アラル海南岸)のホラズム(現在のウズベキスタンとトルクメニスタン)にトルコ系マムルークのアヌーシュ・テギーンがセルジューク朝の総督として任命されたのが起源。西遼(カラ=キタイ)と勢力争いをしながらも、イランに拡大し、1194年セルジューク朝を滅ぼす。さらに1215年ゴート朝を滅ぼし、1217年にはイラクに遠征アッバース朝に圧迫を加えイランのほとんどを屈服させた。しかし、モンゴル軍に滅ぼされる。

イル=ハン国(1258年-1353年)現在のイランを中心にイラク、アナトリア東部まで支配したモンゴル帝国を構成する地方政権で首都はタブリーズ。モンゴル帝国第4代皇帝である兄モンケにより、フレグが西アジア遠征を命じられ(1253年)、1256年イランの行政権を得、暗殺教団(ニザール派=アサシン)を降伏させ制圧。1258年イラクに入りバグダードを攻略アッバース朝を滅ぼし(=カリフ制度の消滅)、さらに1260年、シリアのアレッポとダマスカスを支配下に置いた。1260年、兄モンケの死の報を受けカラコルムへ戻るが、帝位継承戦争が始まったことを知り、西アジアに留まり自立王朝としてイルハン朝を開くことを決断。
他のモンゴル帝国の地方政権と領土をめぐり対立関係にも陥る。これらに対抗して、イルハン朝は東ローマ帝国と結ぶ。フレグの母や子がネストリウス派(コンスタンティノポリス総主教ネストリオスによって説かれた三位一体・イエスの神性と人性を認めるが、位格は(神各と人格に分離され、受肉によって人性に統合されているとする。431年の公会議で異端とされ、ササン朝ペルシア帝国に亡命、7世紀から中央アジア・モンゴル・中国:唐では景教へと伝播した。)であったことも関係しているかもしれない。フランスのルイ9世と組み、マルムーク朝を責めるが撃退された。(マルムーク朝は、十字軍とモンゴル軍を撃退したわけだ。フレグはこれ以前に死去している。1268年)
1295年、第7代ハンに即位したガザン=ハンはイスラム教に改宗、イル=ハン国はイスラム化する。ハラージュ(地租)税制、イクタ―制などを導入した。しかし、結局ハン位をめぐって1316年頃から解体が進む。

次回は、エジプトに移って、アイユーブ朝とマルムーク朝を中心に研鑽したいと思う。

京阪バスに喝!

https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUF224EB0S1A221C2000000/
京阪バスは、大阪の自宅に戻れば、極めて身近なバス会社である。その京阪バスが昨年12月22日、京都市内を走る路線で電気バス4台の運行を始めた。ところが、そのバスは、中国のFV大手BYDの日本法人ビーワイディージャパンから購入したもの。(日本国内でもすでに50台以上販売しているらしい。)

京阪バスはJR京都駅と京阪七条駅を結ぶステーションループバスで4台運行。いずれすべてを電気バスに転換したいと考えているようだ。問題は、この中国製のバスである。「世界ブランドの信用力とコスト」が決め手になったと言っている。この日本向けに開発されたJ6という車両は約1950万円、国内のメーカーだと7000万円で、選択の余地がないと言っている。これには中国政府の補助金でダンピング輸出をしているのではないかという専門家の意見もあるようだ。実際、アメリカは、この件について情報開示を求めている。

何よりも、中国国内で、EVバス(乗用車やバイクもだが)は、バッテリーが問題らしく、度々火災を起こしており、かなり危険な乗り物であるのは間違いない。

https://news.yahoo.co.jp/articles/fe3e066959d0e5b23ff8fe3b64dbdba456c1bee1

https://www.nikkei.com/article/DGXMZO44213830V20C19A4FFE000/

このようなバスを公共交通機関に使うというのはまさに馬鹿だとしかいえない。私は絶対乗らないし、京都市内を車で走っていても見つけたら離れると思う。それぐらい恐ろしい。

そもそも中国のものづくりのマインドは、日本とは違うようだ。よいものを作るというマインドは皆無らしい。日本には、労働者のほとんどに責任感があるが、中国にはない。建築、土木、電気製品、食品…。あらゆる生産物がそのようなマインドで作られている。法律や規制にも平気で抜け道を探す。バレなければいいというマインドは、日本人には理解不能だ。

京阪バスの経営陣は、そのような認識を持っているのだろうか。持っていて、コスト面から導入したのであれば、これは犯罪行為に等しい、私はそう思う。

アフリカ諸国を始め、多くの途上国が中国の一帯一路に騙され、アコギさに辟易としている。…行きはよいよい、帰りは恐い。

私にはマレーシアの華人の教え子がたくさんいる。中国批判をしたが、これは中国共産党と言う犯罪者集団が支配する独裁国家故に大陸で起こっている事実だ。彼らには全く当てはまらないことを付記しておく。

2022年1月3日月曜日

受験の世界史B 研鑽ー26

http://www.yamada-kouji.sakura.ne.jp/dai_koukai/dk_nenpyo/dk_koumoku/kodai/indo22.html
さらにイスラム王朝の歴史を続けたい。ウマイヤ朝からアッバース朝、さらにその分裂の流れの中で、ポイントとなるのは、1つはカリフと大アミールあるいはスルタンの関係である。「新世界史の見取り図/上」には、昨日研修していて気づいたことが記されていた。カリフは、ムハンマドの出自であるクライッシュ族であることが必須条件である。4代の正統カリフの血筋でなければならない。10世紀のブワイフ朝は、ペルシア系・シーア派でイランに建国されイラクも支配した王朝だが、カリフを名乗らず、大アミールの称号を受けた。日本で言えば天皇に征夷大将軍の称号を受けた鎌倉幕府に近い。後ウマイヤ朝がカリフを名乗ったのは当然だが、セルジューク朝もトルコ系でスンニー派だが、スルタンの称号を受けている。ファーティマ朝は、シーア派だが、始祖のウバイドゥッラーはイマーム・イスマイールの子孫であり、「隠れイマーム」でマフディー(救世主)だとし、スンニー派のアッバス朝に対抗してカリフを名乗る。要するに、スンニー派・シーア派という区別より、アラブ人(しかも君主がクライッシュ族)か非アラブ人かという相違に関係するわけだ。

もうひとつのポイントはマムルーク(トルコ系の軍人奴隷)の問題である。トルコ人はそもそもモンゴル高原の遊牧騎馬民族で軍事的に優れていて、重用された。彼らは奴隷軍人と称され雇い主から雇い主に売られたが、今でいうとプロ野球やプロサッカー選手に近い存在。このマムルークと従来のアラブ人軍人の間で対立が起こりアッバース朝は揺らぐことになる。

さらに、アミール(総督)の自立で、アミールが集めた税金が中央に集まらなくなり、官僚や常備軍への給料が払えなくなる。(アタ-制の機能不全)これもアッバース朝の崩壊の大きな原因となった。

9世紀に各地のアミールが独立し、短命なものが多かったが9世紀後半になると本格的に自立した王朝が生まれる。サーマン朝、10世紀になると、ファーティマ朝とブワイフ朝である。10世紀後半にはカラ=ハン朝とガズナ朝。今日の研鑽の中心は、これらの王朝である。

サーマン朝(873-999年)は、中央アジア最古のイスラム王朝の1つ。イラン系で、アッバース朝の権威のもとでアミールの称号をもち支配したが、自立の証をもつ。それは整備された官僚機構(ササン朝ペルシャやアッバース朝を参考にしている)とマムルークを系統立てられた教育を受けさせ、君主への忠誠と軍事力を兼ね備えていたので、マムルークの輸出が主産業となっていた。(グラームとも呼ばれる。)

ファーティマ朝(909年―1171年)シーア派・イスマーイル派がチュニジアで建国。王朝名は、アリーの妻でムハンマドの娘の名から来ている。969年、エジプトを支配下におさめ、カリフが移転。新都カーヒラ(勝利の都:アラビア語でアル=カーヒラ:西欧の訛りでカイロ)を建設。さらにイェルサレムを含む南シリアに拡大。さらにメッカを含むアラビア半島西部も保護下に置いた。スンニー派勢力を抱えることになり、融和を図りつつ、イスマイール派の最高教育機関(アズハル学院)を開講、イスラム世界各地に布教した。しかし10世紀末以来、マグリブの統治を任されていたベルベル人(ベルベル人と言う名の由来はギリシア人のバルバロイから来ているらしい。)のズィール朝が独立、ズィール朝は1051年スンニー派のアッバース朝カリフを承認した。さらにセルジューク朝、ついで第一次十字軍が到来し領土を失い、エジプトのみの支配となる。

ブワイフ朝(932年-1062年)シーア派・十二イマーム派の王朝で、建国の三兄弟の父親の名から来ている。「大アミール」以外の特記事項としては、イクタ―制(アタ-制が機能しなくなったので、軍人に対して給与の代わりに徴税権:イクタ―を与え、直接農村から徴税するようにした。多くの王朝で採用されイスラム世界で続いていく制度)である。

カラ=ハン朝(9世紀―1212年)イラン系のサーマーン朝を滅ぼし、中央アジアのオアシス地域を支配したトルコ系の王朝。君主がイスラムに改宗後、聖戦をを挑み、中央アジアのトルコ化・イスラム化が進む。

ガズナ朝(955年―1187年)サーマーン朝のマムルーク出身のアミールだったトルコ系のアルブテギーンが、半独立した政権が基礎で、5代目のサブク・ティギーンの時、サーマーン朝に代わってアフガニスタンの大部分を支配。この王朝の最大の特徴は、インドに侵攻し、イスラム化の端緒をひらいたことである。

次回はセルジューク朝である。

2022年1月2日日曜日

受験の世界史B 研鑽ー25

https://ameblo.jp/m-battleship-lykeion/entry-12478352520.html
ウマイヤ朝からアッバース朝への歴史が、今日の研鑽である。
ウマル2世の治世、イスラムに改宗する原住民が急増、軍に入隊を希望する者、アラブ人ながら従軍を忌避する者が増えた。これを受け、ウマル2世はアラブ国家からイスラム国家への転換を図る。塀の採用や徴税(アラブ人もハラージュ:土地税を払うことになった。)で全てのムスリムを平等とした。さらにズィンミー(ユダヤ教徒やキリスト教徒の庇護された啓典の民)にイスラムへの改宗を奨励し、改宗が進んだ。これによって、ウマイヤ朝のジズヤ(人頭税:ムスリムには課せられない)は大幅に減少した。コンスタンチノープル攻略を目論んだが失敗。
ヤズィード2世の即位後、反乱が頻発、第10代カリフヒシャームは経済基盤の健全化と専制化を進めたが、マワーリー(征服民の改宗者)問題を解決できず、744年ワリード2世の統治に不満を持つシリア軍がヤズィード3世のもとに集まり反乱、ワリード2世を殺害、ヤズィード3世は第12代カリフに擁立されたが半年で死去、兄弟のイブラーヒームが第13代カリフとなったが、マルワーン2世(メソポタミア北部とアルメニア総督)が反乱、第14代カリフとなった。(第三次内乱)

一方、カルバーラの悲劇以降、シーア派は、ウマイヤ朝に復習の念を抱いていた。フサインの異母兄弟ムハンマド・イブン・アル=ハナフィーヤこそが、正当な後継者であるとされていたが700年死亡。「隠れイマーム」とされ、その息子アブー・ハシームがイマームの地位を継いだとされたが彼も死亡。そのイマームの地位は、預言者の叔父の血を引くアッバース家のムハンマドに伝えられたとされた。彼は各地に秘密の運動員を派遣、741年に挙兵、750年ウマイヤ朝・マルワーン2世はザーブ河畔の戦いで敗れエジプトに逃れたが殺害され、ウマイヤ朝は滅亡。(ちなみに残存したウマイヤ家は、イベリア半島に後ウマイヤ朝を建国。)

…要するに、ウマイヤ朝崩壊の原因は、改宗したマワーリーとアラブ人の間の税制上の矛盾への不満と、シーア派の怨念であるといえる。なお、シーア派の運動はペルシャ人などのマワーリーがムスリムであるにも関わらずジズヤ(人頭税)の支払いを強要されており、イスラムの原理の平等性に反するものであった。

シーア派の力を借りてカリフの座に就いたアッバース朝のアブー=アル=アッバースは、安定政権の為には、アラブの多数派を取り込む必要がありシーア派を裏切りスンナ派に転向した。(以後シーア派の反乱は続く。)とはいえ、ムスリムの平等の確認、非アラブ人ムスリムへのジズヤと、アラブ人への特権であった年金の支給を廃止した。さらに、ウラマー(宗教指導者/法学者)を裁判官に任用し、シャリーアに基づく統治を行い、征服朝朝のアラブ帝国からイスラム帝国に姿を変えた。これをアッバース革命という。
751年、アッバース朝軍は、高仙芝率いる3万の唐軍をタラス河畔の戦いで破りシルクロードを支配下に置く。しかし、756年前述の後ウマイヤ朝、776年にはアルジェリアでシーア派(ハリージュ派)のルスタム朝が成立し、イスラム帝国の統一性は崩れた。

第二代カリフのマンスールは、首都のハーンミーヤがアリーの故郷クーファに近くシーア派の影響が高まるのを恐れ、バグダードに新都を建設した。(762年~)さらにマンスールはペルシア人の軍を近衛軍とし、ササン朝ペルシアの学問を大規模に移植した。さらに、カリフに、イマーム、神の代理人といった称号を加え神権的な指導者としての権威位を確立したが、あくまでウラマー(宗教指導者・法学者)の同意に基づき、無謬の解釈能力は認められなかった。(スンニー派の指導者としてのカリフの特性)
第五代ハールーン・アッラシードの時代、アッバース朝は最盛期となり、バグダードは、人口150万、6万のモスク、3万ちかくの公衆浴場をもつ、産業革命以前の世界最大の都市となり繁栄した。しかし、マグレブ地方では、789年モロッコのイドリース朝(シーア派)、800年チュニジアのアグラブ朝(スンニー派)が成立、アッバース朝の統治下から離れた。
第六代カリフは、父から帝国中枢部を託された弟のアミーンが即位(809年)したが、2年後東部を任された兄のマアムーンがバグダードを攻略して処刑、第七代カリフ位につく。819年、東部を託していた武将のターヒルがターヒル朝を起こし支配下におさめた。とはいえ、マアムーンは、ギリシア哲学に深い関心を持ち「知恵の館」という学校・図書館・翻訳書(ネストリウス派キリスト教徒に命じて、ギリシア語をアラビア語に翻訳させた。)からなる総合的研究施設をつくる。バグダードは一代文化センターとしての機能を果たすようになる。836年、第八代カリフにムウタスィムが即位。彼はマルムーク(軍事奴隷:この頃ではテュルク系遊牧民)を導入したが、各地で反乱が頻発。第十代カリフ・ムタワキル没後は無力なカリフが頻繁に交代し衰退していく。868年には、エジプトがトゥールーン朝のもとで事実上独立した。9世紀後半には、多くの地方政権が自立し、カリフの権威により穏やかに統合される時代になり、10世紀には、北アフリカのシーア派のファーティマ朝、後ウマイヤ朝が共にカリフを称し、3人のカリフが並立した。
https://sekainorekisi.com/world_history/
945年、西北イランに成立したシーア派のブワイフ朝がバグダードを占領、アッバース朝のカリフの権威を利用し、「大アミール(司令官・総督を意味する)」と称してイラン・イラクを支配した。これにより、アッバース朝の支配は形式的で宗教的・政治的権威だけになった。
1055年、スンニー派の遊牧トルコ人の開いたセルジューク朝のトゥグリル・ベグがバクダードを占領してブワイフ朝を倒し、カリフからスルタンの称号を得て、イラン・イラクの支配権を握った。
以後、モンゴルの襲来でバクダードは破壊された。しかしマムルーク朝によって、カイロでアッバース家のカリフが擁立され250年ほど次々と位に就く。(マムルーク朝の合法性を与える価値があったからである。)1517年、オスマン帝国のセリ無1世によって、マルムーク朝が滅ぼされ、最後のカリフ・ムタワッキル3世はイスタンブールに移った。同年の彼の死後、アッバース朝は完全に滅亡した。

2022年1月1日土曜日

受験の世界史B 研鑽ー24

新年あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。正月はリセットですので、世界史Bの研鑽も、これまでの空白期間だったヨーロッパ中世史をリセットして、イスラム王朝の変遷に移りたいと思います。
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https://blog.goo.ne.jp/t-shintani/e/a0c76bb3ac418ec0d98c6465aa45bc50
6世紀にビザンツ帝国とササン朝ペルシアの争いが激しくなり、インドと地中海を結ぶ交易路は、紅海ルートが栄え、アラブ人の商業活動が盛んになる。一方でユダヤ教徒やキリスト教徒が来航し、一神教が伝わる。メッカの商人だったムハンマドが、啓示を受け、イスラムを開き多神教批判をし、メディナに聖遷(ヒジュラ)し勢力を得(622年イスラム歴=ヒジュラ歴元年)、630年メッカに攻め込み、多神教の神殿をイスラムの聖殿に定めた。632年アラビア半島一帯を支配、ムハンマドの死後、アブー=バクル、ウマル、ウスマーン、アリーと正統カリフ時代が続くが、この辺は倫理でも教えているので割愛。

ウマルの時代、642年ササン朝ペルシアをニハ―ヴァントの戦いで壊滅に追い込みイランを支配下におく。シリアやエジプトへの拡大では、ビザンツ帝国内でその地の単性論者やユダヤ教徒が弾圧されていて信仰の自由と自治をを認めるイスラムの支配を歓迎していたことも大きい。

ムハンマドと父祖を同じくクライッシュ族の名門ウマイヤ家のシリア総督で、第3代カリフ・ウスマーンの従弟であるムアーウィアが、アリーのカリフ就任に異を唱え(ウスマーンの暗殺への関与を疑った)、660年カリフを名乗り、アリーと内戦となる。ムハンマドの3番目の妻で初代カリフアブー=バクルの娘であるアーイシャらとアリーは戦い(ラクダの戦い)勝利したが、657年スィッフーンの戦いで妥協(和平協議)したアリーを、661年ハワーリジュ派は「裁定は神のみに属す」と反発、アリーの陣営を離脱、アリーを暗殺するに至る。アリーの長男・ハサンは多額の年金と引き換えにカリフの継承を辞退メディナに隠棲する。ムアーウィアはダマスクスで、ほとんどのムスリムからの忠誠の誓を受け、正式にカリフとして認められた。これがウマイヤ朝である。

ムアーウィアの死後、その息子ヤズィード1世がカリフを継承した。(世襲継承なので王朝と見なされる。)カリフ位については、アリーの次男フサインやウマルの子などが推されていた。フサインは70人余りの軍勢でウマイヤ朝4000に向かい、フサインは殺害される。これがカルバラーの悲劇で、シーア派誕生の契機となる。ヤズィード1世は3年後死去。その息子ムアーウィア2世がカリフとなったが20日ほどで死去。この間、683年メッカでイブン・アッズバイル(父はムハンマドの最初の妻の甥、母がアブー=バクルの長女)がムアーウィア2世のカリフ位を認めず、カリフ即位を宣言。ウマイヤ家に不満を抱く、シリア・イラク・エジプトなどヨルダン以外のムスリムが忠誠を誓い、2人のカリフが存在することになり、10年間の第二次内乱が起こる。685年、シーア派のムフタール・アッ=サカフィーがアリーの息子でフサインの異母兄弟であるムハンマド・イブン・アル=ハナフィーヤをイマーム(スンニー派では宗教共同体の統率者/シーア派では最高指導者)でありマフディー(イスラムの文脈では救世主)であるとして担ぎ上げ、クーファ(イラク)にシーア派政権を樹立した。三つ巴の戦いとなる。まず、シーア派のムフタール軍が687年鎮圧された。ウマイヤ朝では、指示する部族会議でマルワーン(ウスマーンの従兄弟)がカリフ候補者として志願、選出された。以後、イブン・アッズバイルを支持する勢力を駆逐し、ウマイヤ朝の支配を回復した。以後、マルワーン家がウマイヤ朝の世襲カリフとなる。

マルワーン家の二代目カリフ・アブドゥルマリク。彼は中央集権化を進める。三代目のワリード1世は、北アフリカの征服活動を進め、ジブラルタル海峡を渡り西ゴート王国を破り、732年のトゥール・ポワティエの戦いで敗れるまで続いた。また、中央アジアではトルコの騎馬民族を破って、プハラやサマルカンドといったソグト人の都市国家、ホラズム王国を征服。この中央アジア征服の過程で、マワーリー(征服された人々:改宗民・被征服民・解放奴隷)非ムスリムの兵も軍に加えられ軍の非アラブ化が進むことになる。…つづく。