2021年12月11日土曜日

三崎港”はなはな”で吹奏楽

朝7:30に町内の放送が流れた。今日三崎港の”はなはな”で、ライトアップ点灯式があり、三崎高校の吹奏楽部が出演するし、花火もあるらしい。

珍しく妻が行こうと言い出した。「おそらく最後の花火だし。」と言っていた。(笑)私としては、吹奏楽部が出るのは、伊方町役場の点灯式だと思い込んでいたのでびっくりした。”はなはな”だと歩いて行けるし、毎日関わっている帰国子女のW君もダンスをすると聞いていたので応援してあげたい。というわけで、カメラを持って出かけた。

ところが、またやってしまった。カメラのバッテリーがない。花火を写すことができなかった。(笑)意外なことに、6時すぎに花火と点灯式があって、三崎高校の吹奏楽部は40分後だった。これ幸いと休憩所にコンセントがあったので充電していた。イベントの時間設定としては、実に間が開いている。後にわかったのだが、吹奏楽部は、二名津(トンネルをひとつ越くぐったところにある集落)でも点灯式があって、まずそこで演奏してからこちらに来るかららしい。

今回も吹奏楽部も、バレー部のミッキーマウス隊も、1年生のダンス隊も頑張っていた。文化祭やみさこうフェスティバルで見慣れたパフォーマンスなのだが、何度見てもいいものだ。今回は2年生のリーダー群が石川県能登に遠征しているので、ヘルプチームは1年生が主力になっていた。管理職を始め、多くの先生方が来ておられたし、いつもながら大変だ。でも、地域にこういう高校があるとみんな元気になる。そういう熱気が蔓延していたのだった。

受験の世界史B 研鑽ー8

バルバロッサ 赤髯王 https://www.greelane.com/
十字軍の話、続きである。

第二回十字軍(1147-49):きっかけは、十字軍国家の1つエデッサ伯国の陥落である。ベルナルドゥス教皇の勧説でフランス王ルイ7世、ドイツ皇帝コンラート3世も参加。しかし明確な戦略や協調性を欠き、ダマスカスを攻撃したが、さしたる成果もなく終了。

第三回十字軍(1189-92):エジプト(アイユーブ朝)のサラディンがイェルサレム王国を陥落させた事態を受けて教皇に召集された。皇帝フリードリッヒ1世(赤髯王=伊語でバルバロッサ)、フランス王フィリップ2世(尊厳王)、オーストリア公レオポルト5世、イングランド王リチャード1世(獅子心王:しししん王)が参加。総司令フリードリッヒ1世の不慮の死(小アジア・キレキアのサレフ河で溺死といわれる。卒中・暗殺説もあり)もあり、ビザンツ帝国との対立もあり失敗に終わった。ただし講和時に聖地巡礼の安全が確保された。…ここで面白かったのは、不慮の死を遂げたバルバロッサ(赤髯王)が、伝説化したことである。民間伝承で、彼は今も眠り続けており、ドイツの危機に際し目覚め繁栄と平和をもたらすとされていく。バルバロッサと聞けば、WWⅡ時にナチがしかけた対ソ戦の作戦名である。ここから来ていたのだった。こういう関連の発見こそが世界史の醍醐味だと思う。

第四回十字軍(1202ー04):主要国の国王が参加したが成果があまりなかった第三回十字軍から10年たち、インノケンティウス3世は新たな呼びかけたが、国王たちは参加を拒んだ。シャンパーニュで開かれた馬上槍試合で勧誘したら、シャンパーニュ伯を始め70人ほどの有力諸侯が参加を決めた。エジプトのアイユーブ朝を攻撃するという具体的な遠征計画を立て、ヴェネチアに輸送を依頼する。しかし、ヴェネチアは、アイユーブ朝と、アレキサンドリアなどの自由入港、その代償としてエジプトへの遠征を援助しないという協定を結んでいた。十字軍参加者はヴェネチアに集結したが、予定した3万人の1/3も集まらなかった。参加者の有り金を集めても船賃が不足し出航できなかった。そこで、ヴェネチアと協議し、かつてのヴェネチア領で現在はハンガリー王国のザラ(現在のクロアチア)を攻略することで不足分を補うことになった。教皇は激怒し彼らを破門したが、弁明を受け許す。そこに、ビザンツ帝国の亡命皇子アレクシオスが訪ねてきて、帝位回復を願い出た。その見返りは、20万マルクの支払い、ビザンツ帝国の十字軍参加、東西教会の統合であった。結局、指導層(ヴェネチア含む)もこれに乗り、コンスタンチノープル攻略に進む。躊躇したのは当然で一部の者は離脱したが大部分は参加した。…こうしてみると、ヴェネチアの策謀が見える。

さて、コンスタンチノープル攻略を果たし、アレクシオスは父と共同皇帝(アレクシオス4世)となったのだが、20万マルクを用意できず、また税を課す力もなかった。さらに正教会の激しい抵抗にあった。十字軍は約束の履行を要求したが、本人が先帝の婿(後の5世)に暗殺された。再びコンスタンティノープルを攻撃、略奪と殺戮・暴行をつくし、新たにラテン王国を建て、フランドル伯ボードゥアン9世が選ばれた。領土はヴェネチアや諸侯が分割支配した。教皇は、コンスタンティノープル攻撃に怒ったが、攻略後は東西の教会統合を祝福した。そして再度エジプトへの出立を促したが、獲得した領土(それはパレスチナよりも豊かであった)に満足して、あるいは現地の反乱への対策で動くことはなかった。…まさに、ヴェネチアもヴェネチアだし、教皇も教皇、十字軍参加者も参加者である。

2021年12月10日金曜日

受験の世界史B 研鑽ー7

http://medival.seesaa.net/article/460013007.html
中世のヨーロッパ史とくれば、ローマ教皇権力と世俗権力の変化が最も面白い。特に、ピピンの寄進、レオ3世時のフランク王国のカール大帝への戴冠、ヨハネス12世時の神聖ローマ帝国の成立(前述)、正教会との分離(前述)、グレゴリウス7世時の叙任権闘争とハインリヒ4世のカノッサの屈辱(前述)、そしてウルバヌス2世時の第1回十字軍、最盛期の「教皇権は太陽、皇帝権は月で有名なインノケンティウス3世時と、教皇権力は右肩上がりなのだが、その後衰退する。H高校で世界史Bを教えていた時、この辺は十分に研鑽済みだし、きちんと講じた記憶がある。十字軍については、7回あるのだが、勝利したのは第1回のみなので、後は詳しく講じなかった。今日の研鑽は、十字軍について詳しく研鑽しようと思う。

第1回十字軍(1096-99)セルジューク朝トルコの侵攻に対してビザンツ帝国の救援要請に答える形で召集された。1071年、マラズギルトの戦いでロマヌス4世が捕虜となり、アナトリアの支配権を失ったアレクシオス1世は、1095年傭兵の覇権を期待して、ウルバヌス2世に援助を求めた。教皇は、クレルモン教会会議を開催、カトリック世界によるイェルサレム奪還いう解釈で、武器を取って異教徒から聖地を奪還するよう訴え、群衆は興奮しこれに答えた、というのが、十字軍前段階の詳細。傭兵の派遣ですむどころか、人々は男女・貧富・老若を問わず、真摯な宗教心から富への渇望まで様々な理由から十字軍に参加した。

イスラーム勢力の分裂により十字軍は勢いを増し98年にアンティオキアを占領、エデッサ伯領やアンティオキア公領、トリポリ伯国(リビアでのトリポリではない)、小アルメニア王国、キプロス王国を樹立(十字軍諸国家)、99年にはイェルサレムを占領、イェルサレム王国(1099ー1291)を建てた。ロレーヌ公ゴドフロアが王位についた。第1回十字軍の指導者たちは、奪った封土として家臣に与えた。多くの十字軍参加者が帰国後、残った支配者は現地の人と共存し、貿易による商業活動も行ったが、主な関心は軍事で、ヨーロッパから騎士を雇った。

新しい戦闘的な修道会(騎士修道会)も生まれ、イェルサレムのユダヤ神殿跡近くに本拠を置いたテンプル騎士団(フランス:1119年承認)などが有名である。彼らは清貧と貞潔の誓を立てた修道士だが祈りよりも軍事に従事した。パレスチナに向かう巡礼の保護が第一の任務だったが、十字軍国家に守備隊を送りヨーロッパから聖地に金銭を輸送するなど任務が多様化し、莫大な富を蓄え、ヨーロッパにまたがる銀行支店網を展開した。

テンプル騎士団を含む三大騎士団が成立したのこもこの頃で、最も早く(1113年)認められたヨハネ騎士団は、イェルサレムのヨハネ修道院に病院を建て医療に従事するとともに、2つの要塞と140の砦を守っていた。当時はホスピタル騎士団とも呼ばれていた。イェルサレム陥落後は、トリポリやアッコン(現アッコー:地中海沿いの美しい街である。)を死守していたが、陥落後は、キプロス島へ逃れ、さらにビザンツ帝国のロドス島を奪い、本拠を移し、ロドス騎士団となる。1312年にテンプル騎士団が解散させられ、その財産が没収された時、多くこのがヨハネ(ロドス)騎士団に与えられた。イスラームと戦う唯一の騎士団(実態は海賊行為)故に多額の寄進も集まった。ちなみに、後1444年マルムーク朝、1480年にオスマントルコの襲撃を受けたが撃破。しかし1522年、スレイマン大帝の20万の兵には勝てず(ロドスは7000の兵)、シチリアに撤退した。教皇クレメンス7世と神聖ローマ皇帝のカール5世の斡旋でマルタ島に移動。賃貸料はシチリア王への「マルタの鷹1羽」であった。マルタ騎士団となってからも、イスラームやヴェネツィアのユダヤ人への海賊行為を続ける。1565年に再度オスマン軍の襲撃があるが、スペインの救援とスレイマンの死でかろうじて防衛した。ナポレオンがマルタを占領した際は、正教会のロシアを頼った(総団長の座を皇帝に献上)が、1803年にはカトリックに戻る。現在は、ローマに本拠を置く国土を有さない主権実体で110か国と外交関係を持ち、120か国で医療活動を行う。国際赤十字やIOCと同様の非政府国際団体として国連のオブザーバーの地位にある。

もう一つの騎士団はドイツ騎士団である。聖地巡礼を護衛、医療活動を行う目的で設立され、1198に公認されたが、主に1266年以降、プロイセンへの布教・開拓を主任務とし大規模な東方移民を推進し、ドイツ騎士団領を形成した。

一気に第7回十字軍まで研鑽するつもりだったのだが、騎士修道会、特にヨハネ騎士団がマルタ騎士団に繋がることが面白くて、ついつい長くなった。…つづく。

2021年12月9日木曜日

HEAVENESE

妻がYouTubeで、HEAVENESEというグループを見つけた。よくYouTubeでバンされなかったものだと思う。無茶苦茶クオリティが高い替え歌の社会批判ソングだ。

彼らのHPには、すでにYouTubeで21万回された後、バンされた”コロナラプソディ”がアップされている。ここなら安全のようだ。クィーンの名曲と社会批判が見事にコラボされている。

http://www.heavenese.jp/kaeutapage.html

その下には、陽水の名曲から、”決まりじゃないのよ接種は”、郷ひろみの名曲から”疑惑40万の見込み”、美空ひばりの名曲から”お祭り蔓防”、サザンの名曲から”勝手な検査キット”などなどが貼られている。どれもクオリティが無茶苦茶高い。

もし忌野清志郎が存命なら、こういう社会風刺ソングをオリジナルで作っていただろうと思う。そういう意味で、彼らはオリジナルではないにせよ、忌野清志郎の系譜を継いでいると思う。日本のマスコミではあり得ない話だと思うが、彼らこそ紅白に出場して欲しいと思う次第。

受験の世界史B 研鑽ー6

まず、昨日の研鑽で出てきたイコノクラスムの話の付記から。倫理で、正教会を教えるとき、その特徴的なものの一つに「イコン」がある。レオン3世は、このイコンを偶像刷拝の1つとして迫害した。それ以後も迫害があり計2度テオドラ、エイレーネー(左の画像)という女帝が解禁した。私はNYでロシア正教会、イェルサレムでアルメニア正教会の教会内部に入ったことがあるが、イコンは、蝋燭に照らされ、なかなか幻想的である。

地理では、ヨーロッパの宗教事情も扱う。南ヨーロッパとフランス、ドイツ南部とオーストリアは、ローマカトリック。旧ユーゴでも、スロベニアとクロアチアはローマカトリック。東欧ではポーランドがカトリック。バルト三国でもリトアニアはローマカトリック。ギリシアと東ヨーロッパの多くは、正教会。そのルーツが、今回のスラブ人の動向部分である。

スラブ人はインド=ヨーロッパ系で6世紀以後東ヨーロッパに拡散したようだ。後のロシア人、ポーランド人、チェック(現チェコ)人、スロバキア人、クロアティア(現クロアチア)人、セルビア人、ブルガール(現ブルガリア)人などである。そこにアジア系のマジャール人(現ハンガリー在)、ラテン系のルーマニア人も共生していた。

南スラブでは、セルビア人が9世紀頃キリスト教を受容、11世紀にはセルビア(ゼータ)王国を建設、ビザンツの実質的支配を受けていたが、徐々に勢力を拡大14世紀、ステファン=ドンシャン王時に最盛期を迎えバルカン半島西部を支配下に置いたが、その後コソヴォの戦いでオスマン帝国に敗れ従属することになる。また、9世紀、クロアティアとスロヴェニアがフランク王国の影響下となりカトリックを受け入れ、14世紀以後は神聖ローマ帝国(オーストリアおよびハンガリー)に組み入れられる。ボスニア・ヘルツェゴヴィナでも北部や東部はカトリックを受け入れたが、西部では正教会を受け入れた。地理的に周囲と隔絶していたこともあり、15世紀にオスマン帝国の支配を受けるまでは独自の地域分化の発展を遂げた。…このあたり、チトー亡き後のユーゴスラビアを念頭にまとめると、この頃からその混乱のルーツがあることを実感できる。

ブルガール人は、元々はトルコ系の遊牧民であったようだがセルビア人と同化し定住した。847年に第一次ブルガリア帝国のポリス1世は、ビザンツ皇帝を代父(信仰の証人)として正教会を受けいれ、スラブ語での典礼を用いて正教会を根付かせた。ビザンツ帝国とは和平と競合を繰り返したが10世紀に北からのペチェネーダ人やキエフ公国、南からビザンツ帝国のパシレイオス2世によって滅亡した。しかし12世紀には首都をタルノヴォに置き第二次ブルガリア帝国を樹立。しかし13世紀後半には内政の混乱とモンゴルの攻撃受け、14世紀末までにはオスマン帝国に併呑される。また、ルーマニア人は、14世紀にトラキア公国、およびモルドヴァ公国を建て、オスマン帝国に貢納することでその後も自治を認められる。…現在のモルドバのルーツもこの辺にあるのだった。

今日のロシア=バルト世界を構成する国々もこの時期に成立をみた。現スウェーデンン系のノルマン人のルス(ルーシ)人が862年ノヴゴロド国を建国した。これがロシアの起源である。また882年、ドニエプル河沿いにキエフ公国を建国した。いずれも東スラブ人と同化して定住した。キエフ王国は黒海・バルト海の交易の中継地として栄え、キエフ大公・ウラディミル1世の時に、ビザンツ帝国のバシレイオス1世の妹と結婚し、正教会に改宗、国教化した。しかし、ポロヴェッツ人(キプチャク)の攻撃に苦しみ12世紀までに公国は形骸化、諸侯国に分裂し、13世紀半ばにはキプチャク=ハン国への従属を強いられた。(タタールの軛:くびき)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BF%E3%82%BF%E3%83%BC
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キプチャク=ハン国のもとで、モスクワのイヴァン1世が大公の称号を許されたのを機にモスクワ大公国(1480年独立)が諸侯国の中で優勢となる。ドミトリー=ドンスコイ大公の時、クリコヴォの戦いで、キプチャク=ハン国を破り、ティムールの攻撃も受け弱体化したキプチャク=ハン国は分裂衰退した。その後、イヴァン3世は、ロシア諸侯国を統一して、「タタールの軛」からロシアを開放し、統一法典を整備した。ビザンツ帝国最後の皇帝コンスタンティヌス11世の姪ゾエ(ソフィア)と結婚し、ビザンツ帝国=ローマ皇帝権を継ぐ皇帝(ツアーリ)を名乗った。モスクワが第三のローマと呼ばれるのはそのためである。その孫のイヴァン4世=雷帝の代にロシアはモンゴルを駆逐し、ポーランドを抑えて大国としての地位を獲得する。

…中世の東欧の歴史も意外に面白いのであった。

2021年12月8日水曜日

受験の世界史B 研鑽ー5

https://quercus-mikasa.com/archives/11064
中世時代は、東ローマ帝国はビザンツ帝国と称される。西ローマ帝国が崩壊して以後、ローマの政体、キリスト教の信仰、ギリシア語に基づくヘレニズム文化の3要素が、ビザンツ帝国の理念を支えた。今日は、初期・中期・後期に分けて概説しながら研鑽を深めていくことにする。

初期:古代末期のローマ帝国 330年のコンスタンティヌス大帝によるコンスタンティノープルへの遷都は大きな転機となり、8世紀までに帝国の中枢はキリスト教徒が多数を占めるようになった。7世紀にはラテン語に替わって東地中海の共通語・ギリシア語が行政の言語となった。テオドシウス2世はローマ法の整理に着手し、首都の防衛の要となる城壁を巡らせた。さらにユスティアヌス1世は、ハギア=ソフィア教会を大ドームの聖堂として3度にわたり再建し、キリスト教世界の信仰と政治の中心と位置付けた。この大聖堂で、皇帝戴冠式が挙行され、コンスタンティノープル総主座が置かれた。(ビザンツでは、皇帝が総主教の任命権を持ち政教両権を握る「皇帝教皇主義」が確立した。→レオン3世の時代)
また、534年、ユスティアヌス1世は、ローマ法大全をトリポニアヌスらに命じて編纂させ、北アフリカのヴァンダル、イタリアの東ゴート王国、西ゴート王国の一部を奪い、旧ローマ帝国の再征服を部分的に果たした。当方では、7世紀にヘラクレイオス1世がニネヴェの戦いでササン朝ペルシアを圧倒したが、ヤルムークの戦いでイスラム勢力に敗退した。

中期:8世紀~12世紀 ユスティアヌス1世時に最大の領土を確保したビザンツ帝国は、北方からルス(ロシア人)やスラブ人が南下し、東からはアラブ人やトルコ人のイスラム諸国民が迫った。一方、旧ローマ西方領では、カトリック世界が台頭し、政治・協議の両面で競合した。ヘラクレイオス1世の時代に、全領域を行政と軍事を任された将軍の元に、土地を支給された屯田兵を配するテマ制度が整備される。またイコノクラスト(聖像禁止主義者)のレオン3世は、726年に聖像禁止令を出した。この論争は843年の聖像崇拝復活までカトリックとの緊張関係を生んだ。一方で、ビザンツ文化が9世紀には興隆し、11世紀には第一次ブルガリア帝国を滅ぼすなどしたのだが、1054年には東西両教会は相互に破門、分裂した。1071年、マンジケルトの戦いでトルコのセルジューク朝に敗北、アナトリアにおける勢力は大きく後退した。アレクシオス1世は周辺民族と渡り合い勢力の再建を目指したが、現状維持にとどまった。1095年、アレクシオス1世は、セルジューク朝の圧力をカトリックの力を借りて撃退しようと救援を要請、ビザンツのギリシア正教会より上位の地位を目指すカトリックは、第1回十字軍を派遣する。しかし、ビザンツとその周辺に大混乱を引き起こした。1204年、ヴェネツィアの傭兵軍が第4回十字軍の際、首都を襲い、コンスタンティノープルにラテン帝国を確立した。ビザンツは、亡命国家となり、アナトリアのトレビゾンド等に小国家を形成、捲土重来をきすことになる。

後期:13~15世紀 1261年、ミカエル8世がラテン帝国から首都を奪還した。セルビアやモンゴル、西ヨーロッパ諸国と対立。1453年、オスマン帝国のメフネト2世の侵攻を受け、コンスタンティノープルは陥落、ビザンツ帝国は滅亡する。

ビザンツ帝国は1000年にも及ぶ長い歴史なので、これまでの研鑽内容の前や後にも伸びる。この辺が世界史のややこしいところである。タテで教えた方がわかりやすいが、ヨコも無視できない。

2021年12月7日火曜日

中国共産党・習政権の市場破壊

https://www.asahi.com/articles/ASPD45WS3PD4ULFA002.html
今、中国経済をめぐって、世界的な金融危機が起こるかもしれないと、日本以外では言われている。日本のマスコミは、完全に中国共産党の言うことをそのまま流しているから、あまり公になっていない。

恒大集団という不動産ディベロッパーがデフォルトを起こしそうだと前々から言われていて、ドイツの市場調査機関(DMSA)などはすでに起こっていると公言している。中国経済をけん引してきたのは、この不動産投資である。社会主義国家である中国では、土地はすべて国有で、地方政府がその賃貸料を取って企業に貸している。その土地にマンションをはじめとするほぼ街ごと開発をして、恒大集団は巨大化してきた。莫大な資金が必要であるので、様々なところから資金調達している。株式や社債だけでなく、多くの内外の金融機関からもかき集めている。

この恒大集団だけでなく、その他の不動産ディベロッパーも現在デフォルトの危機にある。理由は簡単である。習政権が不動産取引を締め上げたのである。それは、前政権の江沢民や温家宝の親族が経営参加しているからである。権力闘争である。もし、デフォルトしたら、多くの金融機関、建設業者、もちろん顧客にも大きな影響が及ぶだろうが、習政権にとっては、中国人民がどうなってもいいらしい。

ところで、CDS(クレジット・デフォルト・スワップ)というものが金融にはあるらしい。高校生にもわかるように言うと、企業がデフォルトを起こした時のリスクを引き受ける「掛け捨ての保険」のような金融商品だ。CDSを引き受けた金融業者は、デフォルトが起こると大変だが、無い限りにおいては利益を生む。今回の恒大集団においても、このCDSがどれくらいあるのか、未だに分からないし、どんな影響が世界市場に起こるかわからない。

https://news.yahoo.co.jp/articles/6348a788a6de565c0a12a4878544079878efa45e/images/000
一方、習政権は、国内のIT産業にも規制をかけており、これも大きな問題になっている。最近では、ディディ(滴滴)という配車関係のIT企業が、NYSE(ニューヨーク証券取引所)に上場して直後に、アプリのダウンロードを停止された。当然ながら株価は急激に落ち込んだ。アリババやテンセントなどのIT企業も締め付けを受け窮地に追い込まれている。

これらIT企業も恒大集団と同様、旧勢力の利害が絡んでおり、どう見ても権力闘争の為せる術である。これらのIT企業に投資したアメリカをはじめとした投資家の怒りは収まらない。当然ながら、習政権にとって、これらの企業の労働者、投資家などへの配慮は微塵もない。

独裁政権の中国共産党が権力闘争を理由に、このような理不尽な市場操作を行うことを世界は許さないだろうと思う。市場の失敗どころではない。市場の破壊である。経済の語源が経世在民であることを自国の文化でありながら忘却しているとしか言いようがない。