2024年10月31日木曜日

Wシリーズ 大逆転で優勝

https://news.yahoo.co.jp/articles/0e1477bb885410778c97fe767c05301847de0f72/images/000
ドジャーズが、5点差をヤンキースにつけられながら、逆転(7-6)で4勝1敗で優勝した。全くすごい展開である。我が大谷選手は、あまり活躍できなかったけれど、キケ選手やベッツ選手らがその分を補ってくれ、ワールドシリーズMVPにはフリーマン選手が選ばれた。

かの1番。2番・3番のMVPトリオは、大谷選手の一平スキャンダルや邸宅問題から始まり、ベッツ選手の死球離脱、フリーマン選手の子どもの問題や足の捻挫、最後には大谷選手の亜脱臼と様々な苦難を乗り越えての優勝となったわけだ。山本由伸投手も一時離脱しているし…。

MLBのレギュラーシーズンは過酷で、精神的にも肉体的にもタフでないと生き抜けない。さらにその後のポストシーズンもさらに過酷だ。ヒリヒリするという大谷投手の表現は今回よくわかった。

正直なところ、大谷選手は、ポストシーズンは初体験で、レギュラーシーズンほど活躍できなかったけれど、これでWBCみたいに大活躍して優勝、とならなかったことを私は良しとしている。なぜなら「さらなる高み」を個人的に残したから、である。あまりの出来杉君は良くない。(笑)昨日書いたが、ポストシーズンでは、成績で結果は残せなかったが、チームの結束にはかなりの力量を発揮している。今回は、陰の功労者で良しとすべきだ。誰にでもできることではない。

まずは、ゆっくりと体を休めてもらって、二刀流の復活を期待したいと思う。ご苦労さま、大谷選手とドジャーズの面々。

2024年10月30日水曜日

Wシリーズ 大谷選手の価値

https://news.yahoo.co.jp/articles/b7414c58cdc246faa0666d074919f0411cbb2f8a
Wシリーズは、ドジャーズが3連勝して、今日優勝かと思いきや、さすがにヤンキースが最悪の結果を止めた。第2戦終盤で、大谷選手が盗塁に失敗し、左肩を亜脱臼したが、検査後、ニューヨークにやってきて第三戦・第四戦と出場している。打撃成績はレギュラーシーズンと比べるとイマイチではあるが、彼がチームにいる事自体が、ドジャーズにとって大きな価値があるようだ。

ドジャーズには、選手だけのSNSが存在しており、検査後の大谷選手からのメッセージに、皆感激したらしい。その内容は明かされていないが遅れてニューヨークに駆けつけるという内容だったのは間違いない。成績以上に、大谷選手の人柄が愛されており、チームのまとまりに大きく貢献しているようだ。第三戦では、1回に四球で出た大谷選手を、フリーマンが2ランホームランで返した。ベッツも同様に大谷選手の後を受けて適時打を放った。他の選手も同様に奮闘している。今日の第四戦では、大谷選手はなんとかセンター前ヒットを打ってくれて、負けたとはいえホッとした。

MLBでは、こういう選手のまとまりは、決して当たり前ではないらしい。個人主義の競争社会であるからだが、大谷選手の価値は、成績だけでなく、自然とまとまりを作っていくところにもあるようだ。なんとも凄い選手である。あと一勝。明日はヤンキースOBのマツイ選手が始球式をやるらしい。

2024年10月28日月曜日

ピエタ 悲しみの聖母

https://artmuseum.jpn.org/profilemichelangelo.html
ピエタは「哀悼」「敬虔」「慈悲」などの意味を持つイタリア語である。「名画で見る聖書の世界<新約編>」(西岡文彦/講談社)の書評の続きである。ピエタといえば、バチカンにあるミケランジェロのピエタの大理石像が超有名である。24歳の時の作品だと言うから驚きである。おそらくは、史上最高の彫像であると私は異教徒ながら思う。イエスの肉体の描写もうっすらと静脈が浮き出しており、大理石を削って作られたとは思えないほどであるらしい。

ただ、このピエタ像には大きな2つの虚構があるそうだ。一つは聖母の年齢。若すぎるのである。制作当時にも批判があったらしいが、天才・ミケランジェロは「貞操なる女性は、不貞な女性よりはるかに長く若さを保てることをご存じないのか。」と切り返したという。それまでのピエタは、老いた聖母が傷だらけのイエスを抱きかかえ、『受難の悲惨さ』を訴えるものだったのだが、ミケランジェロのピエタは、『過酷な運命を耐え忍ぶ姿への礼賛』に変貌させたわけだ。もう一つは、聖母の身長。座った姿勢でこれだけの高さなら、立ち上がったらゆうにイエスの二倍になる。だが、見た目は極めて自然で、ピラミッド型の安定感がありいささかも不自然な印象を抱かせない。「定規を手に持ってはいけない。目に持つことが大切だ。」というのが、天才・ミケランジェロの言葉であるそうな。妙に納得してしまう。(笑)

https://galleryhopping.livedoor.blog/archives/31186452.html
ピエタを題材にした絵画も、中世以来数多く描かれているのだが、この書の図板の中で最も強烈な印象を受けたのが、マンテーニャ「死せるキリスト」である。短縮法で足の方から眺めた姿で、左側に聖母と弟子のヨハネが見えるが、この作品の主題は、唯一正面を向いている「手の甲と足の裏の聖痕」である。なかなか強烈な隠れた名画であると思う。

2024年10月27日日曜日

磔刑図のあれこれ

https://taesunworld.com/grunewald/
「名画で見る聖書の世界<新約編>」(西岡文彦/講談社)イエスの磔刑図の話、続編である。アッシジの聖フランシスコ以来、磔刑図は『苦悩するキリスト』となり、その中でも無類の迫力を誇るのが、グリューネヴァルトの作品(上記画像)である。肌には、ムチ打ちの傷、さらに茨のトゲが突き刺さっている。イエスの処刑時間は昼間だが、聖書にはイエスの絶命の瞬間、太陽が隠れ大地が闇に包まれたとあるからで背景は闇である。

白い衣で手を合わせているのが聖母。倒れそうな聖母を支えているのが、聖母のことを託された弟子のヨハネ。ひざまずいて祈っているのが、マグラダのマリア。アトリピュートは香油の壺で、足元にある。彼らの反対側に立っているのは、洗礼者・聖ヨハネで、「彼は必ず栄え、私は衰えなくてはならない」と聖書も文字が書かれており、復活を意味している。

https://www.tabitobijutsukan.com/
『フランダースの犬』で、主人公の少年が最後に見たのは、アントワープ聖母大聖堂のリューベンスの「十字架昇架」(画像左)「十字架降架」(画像右)である。画家を目指していた少年の憧れである。

無数にある磔刑図の中で、私の好みを最後に付け加えておきたい。それは、ダリの磔刑図である。

https://blog.goo.ne.jp/shysweeper/e/
dd3ef0e8414a14260032de89b26a84a9
「十字架の聖ヨハネのキリスト」この作品は、上から見るという実に珍しい構図で、しかも釘で手足を打ちつけるといった聖書のの記述を無視している。逆三角形に見える部分は、三位一体の図を表しているという評もある。下部に拡がる光景は、例によってポルトリガトである。この作品は、宗教画ではないような気がする。磔刑をモチーフにした美の追求ではないだろうか。

ダリには、これ以外にも、「超立方体的人体(磔刑)」という作品がある。シュールリアリズムから、原子力へと興味を移した時代の作品で、カトリックと数学と科学、カタルーニャの土着文化をごちゃまぜにした「原子力芸術論」を発表。さらに、スペインの建築家の立方体理論をもとに、妻のサラを聖母のモデルにしたてて、磔刑図を描いたのだが、かなり奇妙なものになっている。よろしければ検索してみていただけたらと思う。

2024年10月26日土曜日

アッシジの聖フランシスコ

https://antiquesanastasia.com/
religion/references/jesus/les_trois_
types_de_crucifix/general_info.html
「名画で見る聖書の世界<新約編>」(西岡文彦/講談社)の書評もイエスの磔刑図の話まできた。中世画の磔刑図ではイエスは『勝利のキリスト』として、苦痛や苦悩を超越した表情を見せているのだが、13世紀に入ると、表情が変わり『苦悩のキリスト』となる。右図は、それ以前の『勝利のキリスト』である。我々が目にすることが多いのは、『苦悩のキリスト』の方が圧倒的に多い。この変化に関わっているとされるのが、表題のアッシジの聖フランシスコである。

このアッシジの聖フランシスコは有名で、学院の3年生が宗教に時間に習っている。宗教科の先生との話の中で、彼の話が出たので印象に残っているのである。

12世紀末、イタリア中部のアッシジの裕福な織物商の出で、騎士になろうとしたところ病に倒れ、「家に帰りなさい。あなたのなすべきことはそこで知らされる。」という聖霊を受け信仰の道に入る。貧者や病人の世話をしていた彼が荒れ果てた聖堂で祈っていた折に、「私の家を立て直しなさい。」との聖霊を受け、実家の織物を持ち出し金に換え、父に訴えられ、法廷に召喚された彼は、その場で衣服を脱ぎ、所持金とともに差し出し「これからは天の父のみを我が父と呼ぶ。」と宣言、清貧を旨とする修道士の生活に入る。聖堂は、自ら石を積み上げて再建。彼を慕って集まった弟子と「フランシスコ会」を結成、法王は、あまりの会則のきびしさに認可をためらったと言われる。

https://note.com/meiga_
yazawa/n/n4b2d7d177e56

熱烈な信仰で、祈りの際にイエスが十字架で受けた同じ傷が彼の体に生じ、信仰の証となったと言われている。(左の画像は、ルーブル美術館にあるジオットの作品)彼の説教には、鳥も耳を傾けたというエピソードもあり、イエスの受難について語る際も、かつてないほどの人間的な苦悩は強調され、人々の心を動かしたようだ。この結果、磔刑図は、苦悩の表情が描かれるようになったわけだ。アッシジの聖フランシスコの影響は大きい。

それどころか、聖痕(特に、手足を十字架に釘付けされた傷、さらには茨の冠のドゲが刺さった後、むち打ちされた傷跡など)は、磔刑図にリアルに表現されるようになる。このイエスの磔刑図については、もう少し詳しく記していたいと思う次第。…つづく。

2024年10月25日金曜日

マルちゃんの塩焼きそば

先日、妻が『さまーず』のYouTube(いろんなジャンルの食品を食べ比べするという極めて安易な番組である。笑)を見ていて、マルちゃんの塩焼きそばが、かなり美味しいらしいと教えてくれた。私は、そもそも焼きそばが好きであるのだが、歳をとったのか、ソースより塩味の方が最近は好みである。と、いうわけでスーパーで購入した。妻は、私から言うのもなんだが、料理がうまい。サササッと野菜や肉と共に炒めて作ってくれた。

確かに美味い。問題は一袋3人前なので、夫婦2人では、必ず1人前あまる。というわけで、先日買い足しておいて、結局1周間で2回も食することになった。次はいつ出てくるか楽しみである。

このところ、ブログでは、哲学や宗教学の硬い話題が多かったので、ふっと柔らかい話題にしてみた。

2024年10月24日木曜日

落語的授業 「ガ」な人

https://afri-quest.com/archives/7372
世界の言語に関する授業での話である。 最近はパワーポイントを使うことが多く、いわゆる落語的な話術で勝負する機会がめっきり減ったのだが、今日はジンバブエでの話で盛り上がった。

ジンバブエは当時、ムガベ大統領の白人(農園主)追放で、経済が混乱していた。ハイパーインフレになる少し前に私は行ったのだが、帰路の南ア行きの夜行バスで、隣席のスーツを着た人物と、ムガベの政策をどう思うか聞いた。彼はビジネスマンらしく、「白人を追放するべきではなかった。ジンバブエの経済は崩壊寸前だ。」と言っていた。ちょうど斜め前に民族衣装を着た人物がいて、私たちの会話に入ってきた。「ムガベの政策は正しい。君はアフリカ人としての誇りはないのか。」と喧嘩を売ってきたのだ。英語での会話であり、ここまではなんとかついていけたのだが、民族衣装君が、「君は何処から来た?」と聞いた。「ガーナだ。」とスーツ君は答えた。「なんだ同胞ではないか。どこの人間(エスニック・グループ)だ?」「ガ(民族)だ、」「何?俺もガだ。」と、ここからは、『ガ語』による会話に変化したのだ。ガ―、ガ―・ガ―。私には全く理解できない会話であったのだが、だんだん英語の単語が混じってきた。そして英語の会話に戻った。『ガ語』にはない語彙(財政とか、融資とか、生産性とかいった語彙)については、ガーナの公用語である英語を使わないと自分の意見を語れないのだった。

ケニアでも、各民族語やスワヒリ語の語彙だけでは、中等教育以降はできないので、全て英語での授業となる。おそらくマレー語でも、英語の語彙を借りずに高等教育はできないのであろう。途上国における言語は、こういうカタチをとらざるをえないというオチである。まあ、最近は日本でも妙に長いカタカナ語(アドミッション・ポリシーなど)が挿入されているが…。(笑)ちなみに今日の画像は、ガーナの民族衣装。喧嘩を売ってきた『ガ』の民族衣装君に敬意を表して…。