2024年10月4日金曜日

沢木耕太郎「旅のつばくろ」

併読癖が治らない。(笑)先日近くの書店で、沢木耕太郎の「旅のつばくろ」(新潮新書)を購入して通勤時に読んでいる。好きな作家は誰か?と問われると、私は迷わず沢木耕太郎と答える。初期のノンフィクションが素晴らしい内容であることもあるが、何より沢木耕太郎の文章自体が大好きなのである。このような文章が書ければいいなと常に思っている。

この「旅のつばくろ」は、文字通りの「珠玉のエッセイ集」である。それなりに発行から時間も経過しているので、内容について記してもいいのではないかとも思う。今日は1つだけ紹介したい。

「ごめんなすって」というエッセイに登場する編集者に、「私は文章から無駄な形容詞を排除することを徹底して叩き込まれた。どうしても必要なら、その前のセンテンスで説明しろ。」と言われたことが書かれている。沢木耕太郎の文章が大好きな私としては、実に重要な言であるわけで、心がけていこうと思っている。

2024年10月3日木曜日

デコピンのCM

大谷選手が、リハビリ中の投手であることを完全に忘れてしまうような凄い成績を残してシーズンを終えた。いよいよ、ポストシーズンに突入であるが、地区優勝してしかも勝率一位のドジャーズはシードされている。なかなか複雑なポストシーズンの説明をCMでしているのが、今や世界一有名な犬・デコピン(アメリカではデコイと呼ばれている)である。(笑)このアイデアは、実に面白いし、大谷選手とファミリーがいかに愛され、注目されているかがよくわかる。

さっそく、ダルビッシュの所属するサンディエゴ・パドレスが、ワイルドカード・シリーズで2連勝して、ドジャーズと対戦することになった。短期決戦で、何が起こるかわからないし、レギュラーシーズンでは、西地区で優勝したドジャーズのほうが分が悪いらしい。たしかに、パドレスは強いチームだ。対戦はもう少し後だが楽しみである。

デコピンのCMが見れるコンテンツ:https://www.google.com/search?sca_esv=9177e7b6d39e290e&rlz=1C1QABZ_jaJP1003JP1003&sxsrf=ADLYWIKHd_7Z81yKojrJCEyiYRVFh93xKQ:1727954735659&q=%E3%83%87%E3%82%B3%E3%83%94%E3%83%B3CM&tbm=vid&source=lnms&fbs=AEQNm0Bu9EW69w3dDUDKZDYmz9rwfPXhWvHc1-qav4QtL1zKm6Vth3bwjWJs0eABtl-IBGvZW0JDU9KwwSZ5W22PVDjGdSMJWbqnkZWkjpbbAO32tSvo3V-JUEK31jgocLjm9rq2bycunq4zq48xqAV_nomuQMBkGwYIGVvsNm9vrqtjhLOsophZlRLIM6cIasLqceWw-76St-WChAjLL49J3Ng4sRlwls1BzOaFn9Hp_po4wN5HCRM&sa=X&ved=2ahUKEwjwsdOBjfKIAxW2r1YBHUpFCcsQ0pQJegQIERAB&biw=1536&bih=742&dpr=1.25

聖ヨセフの憂鬱

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「名画で見る聖書の世界<新約編>」(西岡文彦/講談社)には、聖ヨセフのことも詳しく書かれている。神学書ではほとんどふれられることのない、聖母マリアの夫である。聖人に加えられたのは19世紀後半。すでに5世紀に神の母として認定されたマリアとは、えらい違いである。

外典である「ヤコブ原(げん)福音書」によれば、マリアが14歳になった時に、天使のお告げでユダヤの独身男性に招集がかかる。おのおのが枝を一本持って集まるように命じられ、亡くした先妻との間に息子もいたヨセフも独身者であるが故、神殿への招集に応じた。無数の独身者の中で、ヨセフの枝にだけ花が咲き、神の意にかなった男性とされ、婚約者になったというわけだ。…出来杉君であるが、面白い。

ヨセフは、かなり年上で、「正しい人」とされ、アブラハムのひ孫にあたるともされている。とはいえ、名画での描かれた方は、不機嫌そうな老人であることが多い。聖人になったのは、描かれた以後だし、画家たちにも遠慮がない。(笑)

この画像は、ロベルト・カン・ビンの「受胎告知」の右側に描かれたヨセフ。ネズミ捕りを作っている姿が描かれていて、完成品が窓のところに描かれている。うーん、…ネズミ捕りを作る養父ヨセフとは…。もちろん画家のイメージによる創作だろうが、あまりに可愛そうであると私などは思うのだが…。

2024年10月2日水曜日

名画で見る新約聖書

学院の図書館で、「名画で見る聖書の世界<新約編>」(西岡文彦/講談社)を借りてきた。このところ、アフリカや現代の哲学関係を読んでいるので、頭の休憩にちょうど良いかと思ったのだ。ところが、これがなかなか面白い。

たとえば、聖母マリアの受胎告知の絵画には約束事があって、①赤と青の衣で描かれること。②天使は純潔の象徴であるユリを持っていること。③マリアは聖書を読んでいる最中であること。となっている。

とはいえ、代表的な受胎告知の絵画は、マルティーニの作品なのだが、彼はフィレンツェと対抗するシエナの礼拝堂のために制作したので、オリーブの枝を持っている。フィレンツェのシンボルがユリだったかららしい。(中世的であまり私の趣味ではないゆえに画像は割愛させてもらった。おそらく作者名で検索すると出てくると思う。)

時代とともに、この約束事は破られていく。私が受胎告知の作品群の中で、最もいいなと思う作品は、アンネトロ・デ・メッシーナの「受胎告知のマリア」である。

この作品には天使・ガブリエルはいないし、アトリビュート(持ち物の約束事)のユリの花もない。青いショールの下にのぞく赤い服で、マリアだと判明する。しかも開かれた聖書で受胎告知の場面だとわかる。マリアの心理描写に重きを置いた作品であるとか、天使が去った後を描いたとも言われる。手の動きは当時の修道会の「執り成し」の祈祷の型であるらしい。…うーん、いかにも。”執り成し”とは…。聖母マリア信仰の本質を突いた、実にイカす絵画であると思う。

マリアの受胎告知について述べられている福音書は、マタイとルカのみで、しかも短い。この時、マリアが読んでいたのは当然ながらユダヤ教の聖書で、イザヤ書7章14節であると、おそらく後から言われているようだ。「主は自らひとつのしるしをあなたがたに与えられる。見よ、おとめが身ごもって男の子を生む。その名はインマヌエル(神は我らと共にの意味)となえられる。」…出来杉君だなと思ってしまうが、旧約の様々な救世主予言をイエスは実行していくので、なるほどとしか言いようがない。

この本についても、面白い箇所や気に入った絵画について少しずつ、肩のこらない書評を書いていこうかな、と考えている。

2024年10月1日火曜日

セゼールの「植民地主義論」

「アフリカ哲学全史」(河野哲也著/ちくま新書)の第6章には、ネグリチュード運動(1930年代にアフリカや西インド諸島のフランス植民地出身の作家たちによって起こされた文学的かつ政治的運動)のことが詳しく述べられている。本日は、その中で印象深かったエメ・セゼールについて記しておきたい。

セゼールは、西インド諸島南部のマルティニーク島(現フランスの地方行政区画)出身。頑強に抵抗した現地人はフランス軍に征服され壊滅し、サトウキビ・プランテーションのため、アフリカ系奴隷が輸入された歴史をもつ。フランス革命時はロペス・ピエールが奴隷制度廃止を決議したが、ナポレオン時代に妻のジョセフィーヌが、娘の島出身だった故に西インド諸島の奴隷制を復活させたらしい。(ジョセフィーヌにはその責任はないらしい。)1848年の2月革命で、奴隷制が廃止された。セゼールの家庭は、アフリカ系中産階級に属しており、1931年に奨学金を得て渡仏、高等師範学校に学ぶ。ここで、同じ島出身のダマス、セネガル出身のサンゴール等と出会い、フランス語で「黒人学生」という雑誌を刊行、白人による差別の中、アフリカ起源の人間であることとそのアフリカ性を自覚していく。彼が、影響を受けたヨーロッパの知識人は、ベルグソン(プロティノスという古代アフリカの哲学者に深く影響を受けていた故にアフリカ的発想をしていた)であったという。WWⅠ後、アフリカ人の発言権が強まり、汎アフリカ会議や、ホー・チ・ミンの植民地同盟の結成もあった時代である。

セゼールは、故郷に戻り教師となり、1945年に故郷の首府の市長になる。植民地を制度的に本国に同化する県化法を起草しながらも、文化的なフランス化を拒否する立場をとり、この経験を元に1955年に「植民地主義論」を記した。この著作は、アフリカ大陸で影響力を振るうことになる。

人種主義とは、キリスト教=文明、異教=野蛮、白人=優越権、有色人種=劣等種という図式を立て、植民地支配を正当化しようとする、何より哲学的な営みであると指摘する。そして、ナチズムは植民地主義を白人同士で適用したものに過ぎないと、近代の西洋哲学の枠組みそのものを鋭く批判した。欧州はもはや弁護不能であり、自分たちの問題を解決できない文明として衰退仕切っていると断言した。

白人がしばしば偽善的に主張するように、植民地化は、福音伝道でも、博愛事業でも、無知や病気を暴政の支配を交代させる意思でも、神の領域の拡大でも、法の支配の拡大でもない。植民地化は、略奪と金儲け、支配という欲望を暴力によって推進すること以外のものではない。西洋諸国は、そうした暴力的欲望を他の国との競争の中で、世界規模まで拡大したというだけである。

しかし、彼はこうした暴力的欲望の発揮そのものは植民地化ではない。1511年にアステカを崩壊させたコルテスもピサロも自分たちの略奪と殺戮を何か高潔な目的のための先駆けなどと気取りはしなかった。植民地化とは、その後にやってきたおしゃべりな人間たちの衒学(げんがく:ひけらかす)的態度から生まれてくる。キリスト教=文明、異教=野蛮、白人=優越権、有色人種=劣等種という図式を現地の人間に信じ込ませ、自らも信じ込むことこそが植民地化の本質である。したがって、植民地化とは思想であり、異文化同士の相互交流が文明であるとすれば、文明と無限の隔たりのある野蛮であり、植民地支配者を非文明化し、痴呆化・野獣化し、品性を堕落させ、もろもろの隠された本能を、貪欲を、暴力を、人種的憎悪を倫理的二面性を呼び覚ますものである、と。

…ある意味胸がすくほどの強烈な植民地主義批判である。私が最も興味深かったのは、前述のナチズムの話である。「白人たちがヒトラーを許さないのは、ヒトラーの人間に対する罪ではない。それまで、アラブ人、インド人、アフリカ人にしか使われなかった植民地主義的なやり方をヨーロッパ人に適用したからである。白人はナチスと同じことを長年にわたって非西洋人に、とりわけアフリカ人に行ってきた。ナチズムのユダヤ人虐殺の野蛮を嘆き悲しんでみせる西洋人の態度は欺瞞に過ぎない。ユダヤ人も白人の一部としてアフリカへの直接的・構造的暴力に加担してきたからである。この批判の言葉を吐く権利がアフリカ人にはある。」…これ以上の西洋批判は存在しないと著者は記している。私も同感である。アフリカという第三の視点「知の三点測量」から歴史を、哲学を見る、というこの本の試み(9月11日付ブログ参照)はこの時点で成功していると思う。