2024年6月1日土曜日

フーコーとベラスケスの絵画

https://www.artpedia.asia/las-meninas/
「シリーズ・哲学のエッセンス フーコー」(神埼繁/NHK出版)の第2章「タブローとしての世界ー主体と対象(客体)の逆転」を読んでいて、この内容を理解するのに、デカルトの第一証明・第二証明・第三証明を知っていないと無理、カントの認識論(アプリオリな認識形式)を理解していないと無理という感想を持った。

フーコーは、ハイデガーをかなり読み込んだようだ。そこで「表象」という語が出てくるのだが、その説明に使われているのがデカルトの立場である。私は、これまでずっと、デカルトの3つの証明を高校倫理で教えてきた。第一証明はあまりにも有名で、教科書には書かれているが、第二証明(神の存在証明)と第三証明(物体の存在証明)は書かれていない。カントの認識論も同様で、最近の教科書には登場しているが、昔は実践理性批判(道徳形而上学)の内容が中心だった。高校生にも(ちょっと難解ではあるが)十分理解できる内容である。大学の教養課程で哲学を取ったら、こういった哲学書を読む機会があるだろうから、やはり必要な学習だと思う。

この章の最初に、『言葉と物』の冒頭に登場するベラスケスの『ラス・メニナス(従者たち)』という有名な絵画が紹介されている。(画像参照/拡大可能)この絵には、不在のままに全体を支える王の姿(王女の後ろの鏡にフィリップ4世夫妻がおぼろげに映っている。)が描かれている。フーコーは、この絵に重ね合わせて、ハイデガーが想定した、17世紀のデカルトと18世紀のカントの間に起こった主客の逆転を近世哲学史上の大きな転換点として肯定している。

高校倫理的な説明で言うと、デカルトは方法的懐疑でコギトを確立したが、その前に現れる表象=物体を神の被造物として証明した。(第二・第三証明)ちょうど”不在のままに全体を支える王の姿”は神である。しかし、カントの認識論には、もはや神の存在は要請されていない、という内容である。

この本、なかなか面白い。…つづく。

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