2018年11月30日金曜日

物流の世界史を読む。(2)

https://yutakarlson.blogspot.com/
2009/12/blog-post_10.html
「5.なぜ中国は朝貢貿易により衰退したのか」について今日はエントリーしようと思う。
東南アジアのイス-ラーム化が進んだ14世紀後半から、中国の人口は2世紀間にわたって増大する。東南アジアの製品に対する需要は、明の永楽帝の大遠征後、非常に大きくなり、東南アジアの交易は発展する。しかし、永楽帝の後は中国の海運業は発展せず、主役にはなれなかった。

15世紀末になるとマラッカが重要拠点になる。インド洋からのダウ船と東南アジアのジャンク船の結節点となる。米・砂糖・魚・綿織物が、胡椒・樟脳・香辛料・白檀・中国製の磁器、絹、貴金属と交換された。東南アジアと北東アジアの結節点は琉球で、16世紀後半まで続き、その後衰退してしまう。だが、南洋日本人町の生成に繋がったらしい。

さて、中国は伝統的に唐代から朝貢貿易を行ってきた。民間貿易を行った時代もあったが、基本的に朝貢貿易のシステムを維持する。中国が世界で最も一番豊かな国であり、自国船を使うことによって得る利益など考える必要がないほど豊かな国だったといえる。

ところで、明代の一乗鞭法、清代の地丁銀制という税制は、銀を必要とする。16世紀にポトシ銀山が発見され、大量の銀がスペインによって中国に運ばれる。メキシコ西岸のアカプルコからフィリピン経由が最も重要で、マニラで絹と銀が交換された。ポルトガルも、インドのゴアからマカオへ銀を運んだ。さらに、スペイン経由でロンドン・アムステルダムに送られた銀が、英欄の東インド会社経由で送られた。中国が必要とした銀は、スペインの手中にあった、というか委ねた。これは信じがたいほどの物流システムの軽視である。朝貢貿易と銀の流通が、清代の中国の没落をまねくわけだ。

…なるほどである。この後中国はアヘン戦争で没落の一途をたどることになる。

2018年11月29日木曜日

物流の世界史を読む。

「物流は世界史をどう変えたのか」(玉木俊明著・PHP新書/2018年1月)を読んだ。オーストラリア行きの機内で読むために、読むのをずっとセーブしていたのだが、往路で早くも読み切ってしまった。
タイトルにあるとおり、「物流」から世界史を見た内容である。なかなか新鮮な内容の世界史の本である。普通、世界史を鳥瞰する場合、下部構造から見ることも多いのだが、この本の内容は、下部構造の中心的な概念である生産力ではなく、あくまでその動きというか、貿易による利益、または輸送力(特にに艦船)さらにはその輸送力を支える資源といった点からも説いている。今日のトコロは、その目次だけでも紹介しておこうかと思う。

1.フェニキア人はなぜ地中海貿易で繁栄したのか
2.なぜ東アジアはヨーロッパに先駆けて経済発展したのか
3.イスラーム王朝はいかにして国力を蓄積したのか
4.ヴァイキングはなぜハンザ同盟に敗れたか
5.なぜ中国は朝貢貿易により衰退したのか
6.地中海はなぜ衰退し、バルト海・北海沿岸諸国が台頭したのか
7.喜望峰ルートは、アジアと欧州の関係をどう変えたか
8.東インド会社は何をおこなったのか
9.オランダはなぜ世界で最初のヘゲモニー国家になれたのか
10. パクス・ブリタニカはなぜ実現したのか
11. 国家なき民は世界史をどう変えたのか1-アルメニア人
12. 国家なき民は世界史をどう変えたのか2-セファルディム
13. イギリスの「茶の文化」はいかにしてつくられたのか
14. なぜイギリスで世界最初の工業化(産業革命)が生じたのか
15. アメリカの「海上フロンティア」とは
16. 19世紀、なぜ西欧とアジアの経済力に大差がついたのか
17. 社会主義はなぜ衰退したのか

…いづれ、この中から、いくつかに絞って、エントリーしていくつもりである。

2018年11月28日水曜日

PBTの話(75) 今年も哲学講座

ルネ・デカルト
https://fineartamerica.com
/featured/rene-descartes-
caricature-gary-brown.html
EJUが終わって、今年も哲学講座をしている。我がクラスは、今日の時点で、(ヘブライズムを割愛できたので)デカルトの第二証明(神の存在証明)まで終わった。ぐっと、西洋哲学史的なところだ。

毎年、EJUが終わると、私は西洋哲学史を講じている。マレーシアではこのようなカリキュラムはないらしく、新鮮に受け止めてくれている。ところで、中華系の学生の多くは中国思想もあまり知らない。マレー系の学生はイスラム教学は当然知っているが、それ以外は知らない。私が、在マレーシアの日本の大学進学の準備教育機関(PBT)にいて、こういう哲学を教えることは、それなりに意味のあることだと思うところである。

今日もちょっと、昨日エントリーした「儒家のカインコンプレックス」について話したら、仁・義・礼の意味はある程度理解できた学生達が、日本と韓国の相違を「カインコンプレックス」(兄弟間の葛藤:カインの名は旧約聖書に由来。)という表現で、十分に理解してくれた。しかも一瞬で、この表現に大いに納得してくれた。この知的レベルの高さが非常に嬉しい。

明日は、おそらくカントのアプリオリな認識形式をやることになると思う。講義内容のレベルは高いが、十分ついてきてくれるF40Aの学生達の日本語力を誇りに思う次第。

2018年11月27日火曜日

儒家のカインコンプレックス

韓国との問題は、あれからも好転する気配がない。と、いうか文政権が徴用工(と呼んでいる)問題に何ら公式発言をしていないし、反対に慰安婦の組織解散やソウル市長の日本製品使用忌避発言など新たな火種も出てきた。

私は、いくつかの記事や評論を読んで、これは大きく儒教的な問題ではないか?と考えるようになった。よく、中国・朝鮮半島・日本は東アジアの儒教圏だと1つに括られる。たしかに儒教はそれぞれの国の歴史に大きな影響を与えていると思うのだが、日本の儒教は微妙に違うと思うのである。

日本の儒教は、混合的・重層的な日本の思想全体の一部分でしかない、と私は思う。(記紀にあるような)日本古来の清き明き心を最深部に、それに仏教的な無常観や菩薩道、儒教的な仁義礼智信が積み重なっていると私は思っている。儒教というのは大きな影響があるけれど、日本の精神文化の全てではないわけだ。「水に流す」という古来からの社会的正義があり、無常観という時間的変化を当然のこととして受け入れる。この上に儒教は存在すると思うのだ。しかも、日本の儒教は、江戸時代は朱子学的の存在が大きかったが、幕末には陽明学の徒が力を持ち、倒幕に動いた。このことは、特に理気二元論的な朱子学の「礼」より、陽明学が重視する「仁と義」の実践こそが、日本では重視されることになった、と考えている。陽明学の影響は意外に大きいのではないか、と思うのだ。

日本の学校では、教師も児童生徒と一緒に掃除をしたりする。これは、中国や朝鮮半島では考えられないことである。長幼の礼に反するからである。かの中華人民共和国・建国直後、周恩来首相が人民と共に工事現場で汗を流したという逸話は有名である。これは極めて非儒教的(礼を無視した行動)で、新しい社会主義国家・中国の姿を示したわけだ。
私は、中国や朝鮮半島の儒教というのは、日本と異なり「礼」の位置が極めて高いと思っている。さて、韓国問題に戻すと、韓国の立場は、文化の伝播(特に儒教)の時系列的に、中国>朝鮮半島>日本である。つまり、日本は弟というか、長幼の礼の序列では下なのである。その日本が明治以降、現在にいたるまで、この礼の序列を崩したと見るわけだ。儒家のカイン・コンプレックスである。古代からの歴史的視点から見れば、長幼の「礼」を欠いているのは日本だと主張を理解することは不可能ではない。

ただ、日本では儒教的な思考の中心は「礼」ではなく、「仁」であり「義」である。相手がいやがるようなことはしてはならないし、喜ぶようなことをしていくのが日本の美学である。約束を守ることは命がけである。それが義であり、何より重視される。(小学生から時間を守ることをたたき込む。)これは日本の美学のひとつだろう。これらは、清き明き心と仏教とも融合したな概念である「武士道」に収斂されていると私は思う。そう、日本人にとって儒教的な発想とは、「礼」ではなく「仁」「義」なのだ。韓国にとっては、仁義ではなく礼。そう捉えると、また違った視点を持てるのではないだろうかと思う。

…とはいえ、同じ儒教圏だとはいえ、仁義を重視する日本は、今更の長幼の礼を主張されても、それがどーした?としか思えないよなあ、と思う次第。

2018年11月26日月曜日

ベナンへの仏 文化遺産返還

http://www.afpbb.com/articles
/-/3199067?pid=20748861&page=3
フランス政府がベナンの文化遺産返還に応じるというニュースが流れた。英仏やベルギー、オーストリアなどが収奪したアフリカの文化遺産は膨大な数に上るようだ。欧米列強のアフリカへのスタンスは、はなはだ酷いと思う。日本は、中国や韓国に対し、お詫びをし、保証(やODA)をしてきたが、欧米列強の上から目線はそう簡単に変わらない。

今回のフランス政府の決定は、遅きに失するものかもしれないが、私は歓迎したい。イギリスでもチリの知事がイースター島のモアイ像(本物である)の返還を要求しているというニュースが流れた。

こういう動きが世界で起こっていることは、当然である。現在の世界の反構造的暴力の象徴的な動きとして、文化遺産返還交渉をどんどん進めるべきだと思うのだ。正義は、欧米列強にはない。

http://www.afpbb.com/articles/-/3199067?page=3
https://www.cnn.co.jp/style/arts/35129033.html

2018年11月25日日曜日

西オーストラリア州の農業 考

パース紀行の番外編である。今回の旅でウェーブロックへの350kmの道程が長く、またある意味最も印象的だった。私は、アメリカでアイオワ州からイリノイ州のR80の道程で、トウモロコシ畑が続く様は経験しているが、麦畑は初めてあったし、妻に至っては360度地平線を見たのは初めてだったので、かなりのインパクトがあった。

というわけで、ちょっと西オーストラリア州(といっても、オーストラリアの1/3を占め、北部の熱帯地域まで含まれる広大な州なので、とりあえずパース周辺に関わる)の農業について調べてみた。
https://www.nochuri.co.jp/report/pdf/n0809re3.pdf
思ったとおり、このあたりは、小麦ベルトになっている。2008年時点で、西オーストラリアの小麦生産は全オーストラリアの36.1%を占めている。東オーストラリアの小麦生産は早魃の可能性があるそうだ。西オーストラリア州は地中海性気候で比較的に安定しているとあるので、オーストラリア全体が、天水による乾地農法を取っている可能性が高い。とはいえ、私は、アメリカ中西部に見られるセンターピポットをパース北部で見たし、同じく北部で風力発電に使われるような風車が林立している農場も見た。いくつかは停まっており、それはすでに収穫が終わったところのようであった。(というわけで新たに地下水をくみ出す必要性がないわけだ。)すなわち乾地農法のみではないといえる。しかも収穫後の農地には、三圃式農業のセオリー通り、肉牛や羊が放牧されていた。有機的な混合農業的な農法は、ヨーロッパの伝統にしたがっている。

ところで、西オーストラリア州の穀物生産(小麦と大麦が中心らしい)は、輸出向けの割合が大きく、人口も家畜も多い東部で早魃があって需要が拡大しても、輸送コストがかかるがゆえに西から東へ供給されることはあまりないらしい。これは意外な話ではあった。
file:///C:/Users/K/Desktop/n0809re3.pdf

西オーストラリア州の農用地面積は9674万ha、耕地面積は667万haである。これでも他州に対し耕地面積は多くオーストラリアで最大である。(約9000万haは放牧地であるわけだ。)西オーストラリア州で生産される小麦の品種はAWSと呼ばれ、日本では「うどん」に使用されるものらしい。(西オーストラリア州の農業省と日本の製粉業界と20年以上かけて研究開発してきた品種だとか。ちなみにラーメン用のプライムハードと呼ばれる品種は東オーストラリア産。)一方、大麦の生産も西オーストラリア州が最大で、主に食用、また飼料作物としても栽培されている。トウモロコシを栽培するにはオーストラリアは降水量が少ないらしい。大麦は三圃式農業的に、小麦や牧草とローテーション栽培されているとのこと。したがって、私が紀行中で書いた「小麦畑」という言い方は、その語の中に大麦栽培や牧草も含まれる故に、間違ってはいないようだ。
https://www.jetro.go.jp/ext_images/jfile/report/07000023/05001663.pdf
フリーマントル港 https://www.otemon.ac.jp/library/research/labo/cas/publication/pdf/38/4.pdf
小麦の輸出先は、2011年から2015年にかけての統計で、インドネシア(21%)、ベトナム(9%)、韓国(7%)、中国(7%)、日本(6%)、マレーシア(5%)、フィリピン(5%)、イエメン(4%)、イラク(4%)、タイ(3%)となっている。西オーストラリア州パース(フリーマントル港)は、これらの輸出国の絶好の玄関口になっているわけだ。(さらにその南方15kmほどににクイナナ港というのがあるらしい。こちはらはコンテナ形式ではなくバラ積み形式で船積みするらしい。)
file:///C:/Users/K/Downloads/Overview%20of%20Australian%20Wheat%20Industry%20RS%20Terry%20Enlight.pdf
https://www.otemon.ac.jp/library/research/labo/cas/publication/pdf/38/4.pdf

…ご褒美旅行だった今回のパース紀行も、やはりこうして教材研究に役立ってしまうのは、職業病かもしれない。(笑)

2018年11月24日土曜日

パース紀行Ⅹ 頑張れ日本女性

早朝のホテルの前/カモメが飛んでくる
パース紀行の一応最後のエントリーになると思う。昨日書いたように、ムスリムの人々との邂逅もあったが、日本人との邂逅も当然あった。観光客はさておき、2人の日本人女性について書こうと思う。

マレーシアにあって、東洋人の見分けは未だつかない。うちの学生は一発でわかるらしいが、私はまだまだ。しかもパースで、となるとさっぱりである。ホテルでちょっとしたトラブル(シャワーの水のコックが回らないと妻が困っていた。)があった時、とりあえずフロントに行ってみたら、対応してくれたのは日本人女性だった。親切に対応してくれたし、当然ながら日本語で対応してくれたのでほっとしたのだった。(結局、マネージャーがやってきて、コックを回したらOKだった。少し古いホテルなのでコツがあるようだ。笑)帰りに、メッセージを残しておいた。『お世話になりました。ありがとう。頑張って!』という短いものだけれど、このパースで頑張っている姿は、私がマレーシアという外国(最近はそういう感覚がかなり薄れてきた。笑)にいるからこそ、なにか感じるモノがある。
空港のハンバーガー店
空港でも同じような出会いがあった。ハンバーガー屋さんで頑張っている日本人女性。最初、つたない英語で注文していたのだが、丁寧な日本語が返ってきてびっくりしたのだった。1人でカウンターを切り盛りして頑張っていた。うーん、マレーシアなら3人分くらいの動きだ。(笑)パースで、日本人の労働生産性の高さを改めて認識させて貰った。

今回の旅は、マレーシアからの旅である。日本からではない初めての海外旅行。マレーシアとの対比、日本との対比も含めて、結局、ご褒美・観光旅行であったにもかかわらず、以後の授業に活かせそうな実のある旅になったように思う。

最後に旅を終えた夫婦の実感を述べたい。ウェーブロックへの350kmの道で続いた360度一面の麦畑が、最も強く印象に残っているが故に、「オーストラリアは(良い意味での)とんでもない国」というのものだ。

2018年11月23日金曜日

パース紀行Ⅸ ムスリムの旅人

パース空港にて ヒジャブ(トゥドゥン)を被った女性
パースには、意外にムスリムの旅人が多かった。同じホテルでも多くのマレーシアの人々と会ったし、ツアーでもインドネシアの人々と会った。ホテルの周囲には、ハラルの店もかなりあった。中東料理の店。イスラエルで食したひよこ豆のスープなどがメニューにあったし、ハラルのケバブとピザの店も。マレーシアでしょっちゅう見かけるハラルマークが店先に描かれている。

考えてみると、パースはマレーシア・インドネシアから最も近い西洋世界だし、当然なのだ。私などは、ムスリムが周囲を歩いているのが日常なので、別段なんとも思わないが、もし日本から来ていたら、かなりびっくりしたかもしれない。

私は人間観察(マンウォッチング)が大好きなので、気づいたこと。さすがにホテルの朝食はハラルではない。ムスリムの婦人は、ハッシュドポテトだけ食べていた。ご主人は、さすがにベーコンやサラミソーセージをパスしていたけれど、もう少し他のモノも食べていた。この辺の個人差は、ムスリムでもかなりの自由度があるが故と聞いている。

空港では、ハラルであろう弁当らしきものを食べているムスリムも発見した。おそらくホテルが用意したモノか、ハラルの店であらかじめ作っておいて貰ったモノだと思う。空港の店にはハラルメニューはないようだ。

そうそう、空港にはスラウ(礼拝所)があったのだが、狭く、しかも男女別にはなっていない。私は男女が同席して祈る姿を目撃してしまった。ちょうどスラウから出てきた男性がいたので、「このスラウは男女一緒なんだね。初めて見た。」と言ったらびっくりしていた。東洋人が『スラウ』という言葉を知っていたからだろう。「私は日本人だけど、マレーシアのKLに住んでいるんだ。」というと素晴らしい笑顔を見せてくれた。そんな、ムスリムとのふれあいもあったのである。

2018年11月22日木曜日

パース紀行Ⅷ ラグビーリーグ

809号室のTVである
私の旅は、非日常性を重視する。だから、PCをオーストラリアに持ってこなかった。PCがあれば日常性が高まってしまう。(妻はタブレットを持参していた。韓国問題の進展が気になるそうで…。)と、いうわけで、ホテルにいるときはTVのスイッチをつけることにした。私たちはマレーシアで普段TVを見ない。よって、非日常的なのである。(笑)

何を見ていたかというと、ひたすら13人制のラグビーを見ていたのだ。私は前任校でラグビー部の顧問(と言っても未経験者ので第3顧問というスタンス)だったくらい、ラグビーが好き。ところで、このラグビー、ちょっと変わっているのだ。タックルされて倒されたら、すぐボールを後ろに回し、ラインをつくって攻撃再開。スクラムもめっちゃゆるやか。押し合わない。ラインアウトでフォワードが取り合うこともない。要するに、極めてスピーディーなのである。最初は、モールもラックもないし、違和感があったのだが、ぶつかり合いは激しいし、なかなか面白くて、完全にハマってしまったのだった。
https://www.raiders.com.au/news/2018/05/07/nrl-unites-for-2018-indigenous-round/
このちょっと変わったラグビーは、「ラグビーリーグ」という名前であることがわかった。いわゆるフツーの15人制のラグビーである「ユニオン」とは違い、プロ選手としてやっているらしい。(ラグビーはアマチュアリズムが強いスポーツだ。)プロ故に、見せて楽しいようにルールを変更しているようだ。なるほど。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%82%B0%E3%83%93%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%82%B0
とにかく、あたりも凄いし、タックルと言うより押し倒す/かなり格闘技っぽい
https://www.skysports.com/rugby-league/news/12204/10178355/
super-league-salary-cap-needs-raising-says-leading-player-agent
オーストラリアのNRLをずっと見ていて気づいたことの1つに、トライかノートライかをよく審判がビデオ判定を要求するのだが、TRY!と同時にケンタッキーフライドチキンのCM画面が必ず出てくるのである。(笑)また各チームのユニフォームには、意外と日系企業のロゴがついている。トヨタやFUSO、SUZUKI。ダイキンなんていうのもあった。いやあ、プロである。
このラグビーリーグのチャンネルがもし我が家にあったら、ずっと飽きずに見ているだろうと思う。

追記(12月1日):Youtubu発見 
https://www.youtube.com/watch?v=3d1v-qzjM_g

2018年11月21日水曜日

パース紀行Ⅶ ピナクルズ

昼食後、念願のインド洋を望む
最後のツアーは、ピナクルズである。砂漠の中に林立する奇岩群。実は観光雑誌の中でも、最も心に残した場所であった。最大の謎は、どんなトコロにあるのか?というコトだった。砂漠の真ん中?地中海性気候の近くには必ずと言ってよいほど、砂漠があることが多いからである。

さて、ツアーは最初、Cavesham Wildlife Parkという動物園のようなところに着いた。相変わらず、オージー英語はよく聞き取れない。(笑)なんと、ここはウォンバットとコアラと写真を撮って、さらにカンガルーにエサをやれるというトコロだったのだ。オーストラリア観光=コアラ&カンガルーというベタな話だが、おまかせツアー旅行者としては従うしかない。しかし、ベタだが、いいのだ。童心に還ってなんか嬉しい。ウォンバットは、前の人と写真を撮りながら、スタッフに抱かれボコボコとうんこをしていた。(笑)なんか、ウォンバットが好きになったのだった。(ちなみにウォンバットの糞は四角い。)
ウォンバットと記念撮影
カンガルーにエサをあげる。意外に面白い。
 その後、いよいよピナクルズへ向かう。こちらもパースから北に250km。昨日よりは距離は短いもののやはり遠い。しかしながら東への道と少し違う。スワンバレーは、ワインの産地でブドウ畑もあるし、近郊なので園芸農業も盛んなようだ。もちろん、その先は小麦畑も多いが、意外に原生林も多かった。トイレ休憩は、何かの露天掘り鉱山の近くだった。あの巨大なコマツのダンプを生で見た。これも社会科教師としては非常に嬉しい。
さすがオーストラリア/露天掘りと巨大なダンプ
昼食はインド洋沿いのロブスター(というよりハサミのない伊勢エビである。)の店だった。そういえば、このツアーの昼食はグレードアップ(伊勢エビ)できるとKLで言われたが、我が夫婦はそういうことに無頓着で、フツーのフィシュ&チップスを食した。そして、晴天のインド洋…。美しいインド洋を見たいという想いもかなったわけだ。
あこがれのピナクルズ 意外に低木もあるがやはり奇景
さて、昼食後、ピナクルズに向かうのだが、これがなかなか現れない。まるで演出されているかのようだった。耐乾性の樹林を抜けたかと思うと、白い台地が点在していたり、石灰岩のような岩も見えてきたり…。あそこなのだろうか?と何度も思った。と、ふと気づいた。ピナクルズはカルスト地形なのではあるまいか?(後で調べてみるとやはり石灰岩で、周囲の樹木が枯れてこのような奇景が生まれたらしい。)やっと駐車場に到着し、5分ほど遊歩道を歩いてやっと眼前にピナクルズが拡がった。意外に低木も多く、砂漠化した秋吉台という感じである。とはいえ世界遺産。やはり素晴らしい奇景である。他のツアー客は元気で、だいぶ向こうまで行ったが、我々は遊歩道の近くで十分だった。妻も、「ウェーブロックよりはるかにいい。」とご満悦であった。インフォメーションセンターには、ここに生息する蛇やサソリ、奇妙な虫も展示されていて、あれ以上行かなくてよかったと思った次第。ショップではピナクルズのイカしたデザインのキャップを見つけ、購入した。妻と「今日のツアーは、よかったね。」と話していたのだが、まだ続きがあったのだ。
4WDのアクティビティ/車内から撮影
近くの真っ白な砂丘(ランセリン砂丘というらしい。)で、4WDに載り、スノーボードのようなもので滑るアクティビティがあったのだ。この4WD、もちろんアダムス社のもので、ここで待っていた。凄い迫力だったのだ。いかにもオーストラリアらしいアクティビティであった。私たちはついに砂丘をボードで滑ったりしなかった。ドイツ人老夫婦の頑張りを応援していただけ。しかも、この砂丘では車内以外でカメラ(愛機G1X)を出さなかった。ブルキナファソのサハラ砂漠で1台デジカメを壊しているからである。この時は通常のカメラバックの中にプラスチックバックを用意するほど慎重に守っていたのだった。「水と砂はカメラの大敵である。」昔聞いた、カメラのナニワ・心斎橋店のスタッフの名言である。

いやあ、ピナクルズの前後のアクティビティもすこぶる面白かった。帰路の時折変わる景色もありがたかった。昨日より1時間早くホテルに着いたのだった。

*本日は、新記録で7回(日本との時差の関係で帰国報告も同日になって8回)もエントリーした。明日からまた進路指導で学校だし、一気にエントリーした次第。非日常から日常へと戻って行く。

パース紀行Ⅵ ウェーブロック

長い時間をかけてついに到着したウェーブロック
2つめのツアーは、ウェーブロックである。パースの東350kmにある。パースから行く1日ツアーだが、日本で言えば大阪から広島の距離が約300kmだから、それ以上離れているわけで…。正直なところ、妻も私もかなり疲れたのだった。
途中休憩したヨークの街
さて、ツアーは、パースを出てヨークという歴史のある街に到着した。ここはなかなか趣がある小さな街で、アメリカで言えばサウスダコタ州のスタージスといった感じだ。妻は素朴そうなおばさんの店でジャムを2つ購入した。
とにかくずーっと360度・農地が拡がる(車中から撮影)
ここからが長かった。パース近郊は酪農地帯だと思われ、牧草のロールが点在していたが、ヨークから先は、ひたすら小麦畑が360度拡がっている。国道の両側には、耐乾性の樹木が植わっていて、防風林の役割と、おそらくは航空機による種まき・肥料などの配布のために区切られているのではないか、と思う。パースは地中海性気候なので、夏は乾燥し、冬に雨が降る。すなわち、11月は冬の降水で実った小麦の刈り取りの季節にあたるのだろう。コンバインが稼働していた。耐乾性樹木が畑の真ん中にぽつんとあったりして、美瑛のケンとメリーの木も真っ青である。このことから、航空機とコンバイン等の機械による労働生産性の極めて高い農業であることは間違いない。刈り取った畑には、牛や羊が放たれている。まさに三圃式農業のテキスト通りである。こういうことを発見し整理するのは社会科教師の宿命で、今回は楽しむために来ているのだが、西オーストラリアの農業について、輸出先は中国だろうかなどと、いろいろ考えてしまう。(笑)とにかく、景色は変わらない。3時間くらい、360度ずーっと小麦畑である。道も少しガタガタする。轍(わだち)が大きいようだ。というのも、トレーラー2台を牽引するコンボイトラック(ダブルス・トレーラーというらしい。)とすれ違うことが多いのだ。
奥からウェーブロックを見る
で、やっと昼食。ウェーブロックカフェに到着。このあたりだけ湿地帯だった。近くには塩湖もあるようだ。ウェーブロックは、花崗岩が数十億年という年月をかけてできあがった奇岩で、波のようなカタチに風化し、表面の線は雨水と、炭酸塩や水酸化鉄が表面に流れ込んで出来たらしい。長さ約110m、高さ約15m。
ウェーブロックの頂上から
私には期待通りだったが、妻はあまりの長距離移動で疲れ果てたらしい。しかもハエが凄い。ウェーブロックの上に鎖を使って登る。なかなかハードではある。素晴らしい眺めであった。広大なオーストラリア大陸。とんでもないトコロだ。ホテル到着はPM8:30だった。

パース紀行Ⅴ フリーマントル

フリーマントル マーケット
さて、いよいよ3つのツアーについてエントリーしたい。今回、フリーマントル、ウェーブロック、ピナクルズという3つのツアーをチョイスしたわけだが、これは20年前くらいに購入した観光雑誌の西オーストラリア特集編に由来する。まさか行けるとは思わなかったが、この3つの観光地の名前だけは、心に残されたのだ。だから、妻が3月に、11月は日本帰国ではなく、どこかへ行こうかと言った時、パースとこの3つの地名ががすらすらと出てきたのである。フリーマントルには、土日にマーケットが開き、大道芸人らが出て賑わう。また珍しい刑務所の博物館がある。それが心に残されたコトだ。ツアー3連チャンのトップはフリーマントル・ツアー。
悲しや/キングスパークから見た曇天のパース・ダウンタウン
まずは市内観光。途中キングスパークで自由時間となった。生憎の曇天で、対岸のダウンタウンは影でしかなかった。これは実に悲しやである。その後、高級住宅地を走り、フリーマントルに着いた。その間、運転手はずっとガイドをしてくれているのだが、全くリスニングできなかった。(笑)半日ツアーはここまで。帰りは自分たちで電車で帰ると伝えた。さらにオプションの「スワンリバー・クルーズはどうかね?」と勧める運転手を振り切って、街に出た。すでにパースの物価高に参っていたのだ。(笑)簡単な昼食(ケバブとサラダ)をとってから、妻の帽子をゲットした。(例のハエ帽子ネット付き)妻は、だいたい10ドルくらいが購入限界だと決めていたようだ。(これまでの海外旅行では、こういうことはしなかった、と妻の後日談。)

曇天で、歩いている人も少なく、なんとなくもの悲しい雰囲気だったのだが、フリーマントルマーケットに着いら、そこは全くの別世界だった。おおお。20年前の雑誌の通り、火を付けたジャグリングをやっている大道芸人・オジサン発見。見ていてなかなか面白い。いや、まさにテキスト通りだった事実に私は満足した。ジャグリングもよかったが、2階から見ていた人から、チップ(札)を帽子で受けようとしてわざと落とし、「もう1枚」と言った彼のウィットに感心した。…ええな。こういうの、ごっつうええ感じ。
妻と店内に入った。入り口にストリートピアノ・オジサン発見。YouTubeで見たことはあるが、実物を初めて見た。いろんな店があって、なかなか面白い。そんなに高くはない感じだった。妻は、(日本の)巻き寿司屋で、「大福餅」を発見した。1つ3ドル。日本のと差異は無し。美味い。本物。さらにアボリジニの店で貴重品を入れるバッグを購入。マレーシアでは、なかなか見つけられなかったものだ。果物店ではデパ地下よろしく味見をして回った。こっちのマンゴーも実に美味であった。
マーケットの内部
十分満足して、世界遺産であるフリーマントル刑務所へ向かった。ここで大サプライズ。同じコンドの住人のPBTのY先生と遭遇したのだ。彼女もパースに来ていることは知っていたし、冗談で「会えるといいですね。」と言っていたが本当になったのだ。同じ13:30のツアーに参加することになった。(Y先生も物価に閉口していた。)さて、このツアー、意外によかったのだ。日本語の解説の機械を渡され、妻と聞きながら回ったのでよくわかったのだった。英語ガイドだけだと面白さは半減したと思う。(ちなみにY先生は英語で勝負しておられた。)刑務所の生活、8時間も多人数で狭い運動場に放置されるというのは、極めて厳しい日々だったに違いない。しかもこのツアー、死刑執行の場所まで見せてくれる。あまりにリアルで驚いた。というわけで大満足だったのだ。ミュージアムショップでは、妻が私が欲しがっていたネック・ストラップを発見・購入出来た。やったー。
フリーマントル刑務所ツアー
刑務所の独房
駅を見つけ出し、電車で帰る。ローカルの青年に教えて貰い、チケットを購入。各駅停車だった。様々な人が乗り降りする。このほうが実に面白い。大自然も良いが、やはり人を見るのが旅の面白さだと思う。
おそらく中国に向かうコンテナ船
ところで、このフリーマントルには観光地としてだけの顔ではなく、パースの外港としての顔もある。巨大なコンテナ船とクレーンは貿易港としての顔も見せてくれた。このシーンは翌日のツアーに結びついていくのであった。

パース紀行Ⅳ ロンドンコート

ロンドンコートの入り口
パースの謳い文句は「世界一美しい都市」である。ヒューム(注:イギリスの経験論の哲学者)ではないが、絶対に世界一だとはいえない。しかし、もし美しい都市コンテストをしたら、少なくともエントリーされる十分な美しさだと私は思う。

まず、ゴミが落ちていない。(マレーシアから行くとよけいに強く感じる。)公園の面積が広く、芝生が綺麗に整えられ、緑豊かである。歴史的な教会や建築物も十分保存されている。そして、ダウンタウンのビル群もごちゃごちゃしていない少数精鋭であるという点が、大きいと思う。(ちょっとアメリカ西海岸のサンディエゴを思わせる。)
カンガルーの銅像が緑に生える
パース由来の偉人像だけでなく、こんな銅像も
しかもスワン川やインド洋に繋がるヨットハーバーもあり、極めて情緒がある。街を流れる時間もゆったりとしている。あちこちに銅像や彫刻などの芸術作品もある。自転車で走っている人も多いし、ダウンタウン内でもカモメがゆうゆうと飛んでいたりする。

最終日の朝にロンドンコートと呼ばれるショッピングストリートに行ってきた。1937年に立てられたチューダー朝風の建物をくぐると両側にショップが建ち並ぶ様は、なかなかの趣である。さりげなく歴史的な建物を活かしているところもパースの魅力だと思う。
ロンドンコート/クリスマス風装飾も
ロンドンコート/チューダー朝といえば、ヘンリー8世である。
これも最終日に気づいたが、パースは意外にベンチが多い。ゴミ箱も50mごとにある感じ。オーストラリアの人々の自然な「余裕のある豊かさ」を感じる。とはいえ、豊かさからドロップアウトしたホームレスの人たちがいたのも事実。ビッグイシューを売っていた姿を、同じく最終日に見つけた。当然ながら、全てにおいて100%はないわけだ。

パース紀行Ⅲ マリンド航空

パース空港にて帰路に撮影 機体はB737の最新型
前述したマリンド航空について、先にエントリーしておきたい。マレーシア国内は主にスパン空港(KL近郊のセランゴールにある)から、パースなどの国際線はKLIAから発着するようだ。価格帯はLCCだが、パーソナルモニターや無料機内食サービスがつき、預け入れ荷物が25kgまで無料(エアアジアは全て有料)という、エアアジアとは比較にならないサービスが売りのマレーシアの航空会社である。(インドネシアのライオンエアーというLCCとの合弁企業であるらしい。)機体はB737の最新型である。https://tokyo-garden.jpn.org/travel/malindo-air-report/

しかもエアアジアと比べて前後の座席の間隔が広い。81cm vs 71cm。これは嬉しい。ただし、日本には就航していないし、全て英語で予約する必要があり、今回は、前述の日本人会の旅行社のC氏が、マリンドを勧めてくれ、予約をみんなやってくれたがた故に使うことになったけれど、私たち夫婦が個人でリピートするのは厳しい。(笑)

ところで、往路では、パーソナルモニターのない機体で、まさに期待はずれだった。他は問題なしだったけれど…。ちょっと評価が下がったのだが、帰路はパーソナルモニターが付いていた。やったーである。私はこの2年半、エアアジアしか乗っていないので、ルフトハンザ以来である。
https://variety.com/2015/film/news/lego-movie-
sequel-release-date-batman-ninjago-1201475916/
すこしソリティアをして遊んでから、映画を見た。ワーナーブラザーズのレゴムービー。もちろん英語のみ。だが、オージーの英語ではなく、米英語なのでまだなんとかわかった。(笑)どうやら、救世主のような立場の主人公が、悪を倒すというストーリーだったようだ。この映画は私の大好きなレゴを使って作られているし、内容も画像処理も極めて面白かったが、1つだけ気になることがあった。それは、上の画像にも出ているヒロイン的女性(後で調べたらWyldstyleという名らしい。)が、社交ダンスが得意な女性芸人の「キンタロー。」にしか見えないのだった。(笑)

ともかくも、マリンド航空、英語が堪能で、東南アジアを旅する方にはお勧めである。

追記:(11/25)妻のWEB情報によると、マリンド航空は、台湾経由で北海道・千歳便が運行するかもしれないとのこと。エアアジアも福岡便を運行するらしいし、マレーシアと結ぶ便が増えてきた。

パース紀行Ⅱ ホテルとツアー

今回のご褒美旅行は、航空券、ホテル、オプショナルツアーの全てを日本人会の旅行会社にお任せした。(私は、ここの日本人・中華系スタッフとは、かなり懇意である。)中華系スタッフのCさんが、申し込みの時、「RM10で、三つ星から四つ星ホテルにグレードアップできますよ。どうしますか?」と聞いてきた。1泊につきRM10だと思ったら、全部込みでRM10プラスらしい。当然それでお願いしたのだった。

なによりバスタブがあったのが嬉しい。しかもシャワールームとは別になっている。普段KLのコンドではシャワーのみなので、私は枚方の自宅以来1年ぶりに湯に浸かることが出来た。ただ少し古いのと、朝食のメニューは4日間ほとんど変化なし。ちょっと四つ星ホテルとは言い難かったが、まあオケラーである。(笑)
ホテル前の通り/salvation army headquarter 
目の前は、救世軍の旧オフィス(救世軍は、イギリス国教会から生まれたメソジストから派生しているので、パースに救世軍の本部があっても全く不思議ではない。)だったビルで、下はインド料理とハラルの中東料理屋が入っていた。近くにはハラルのケバブ屋や韓国料理店がある。前述の安いスーパーもあったし、サブウェイもあった。お土産屋も数件あったし、パース駅にも近い。歴史有るイギリス国教会もいくつかあるし、ホテルの前の道は、ジャカランダの木が美しい芝生の公園(最初の画像参照)に続いていた。しかも、ツアーの集合場所まで1分。立地は五つ星だった。
アダムス社のツアーバス
ツアーは、3日間ともアダムスという会社で、毎朝7:20集合だが、他の集合地点を回る関係で、遅れたり、時間ピッタリだったりした。その後、パースのダウンタウンから少し離れたクラウンホテルに向かう。いくつかあるアダムスのツアーに振り分けられるシステムだった。初日、それがわからなくて動揺した。なにしろ、オージーの英語は訛っているし、かなり早口だし…。おもしろいのは、このツアーバス、前にかなり頑丈な網がある。オーストラリアは、野生動物にぶつかることも多いのだろう。3日目、何かにぶつかったらしい。運転手は説明してくれたが、やはりオージーの英語は聞き取れなかった。

パース紀行Ⅰ ハエと物価

パース駅前で屋台がたくさん出ていたが手が出なかった
さて、パース旅行のことをエントリーしようと思う。昨日書いたけれど、今回の旅行はなにかを学びにいく旅(一神教の故郷・イスラエルの旅やポーランドのユダヤ民の遺跡・アウシュビッツの旅)ではなく、1年間のご褒美旅行だったので、とにかく楽しもうと考えていた。
ところが、ところが…。

養蜂家のような妻/ウェーブロックにて
まず空港で送迎のバンを待っていたら、ハエがたくさんいて、顔にまとわりついてきた。
「なんやこれ?」想定外の事態に夫婦共々閉口した。実は、このハエ、パース市内にもいて、ツアーのバスを待つ間(朝7:20頃)にも大いにたかられびっくりした。もちろん、ウェーブロックやピナクルズなどの大自然の観光地でも当然ながら、莫大な数のハエにたかられたのである。妻は、フリーマントルで、ハエよけの網の着いた帽子を購入したくらいだ。見た目は養蜂家のようであった。(笑)後で調べてみると、春からハエが多くなるらしい。そもそもオーストラリアにはハエはいなかったらしいが、ヨーロッパ人が持ち込んだとのこと。「ふーん」では済まされないほどのハエとの戦いが全行程で繰り拡げられたのであった。

もうひとつ、閉口したのは、物価の高さである。1オーストラリアドルは、日本円では82円ほど。マレーシアのリンギになおすとRM3くらい。ところが、500mlのミネラルウォーターが1本3ドルくらいする。ということはRM9。水だけで言えば、マレーシアの9倍である。「ひえー。」と初日の散策時にスーパーを覗いた我が夫婦は衝撃を受けた。食事にいたっては、サブウェイのサンドイッチが17ドルした。リンギに直すとRM51。これって、KLなら無茶苦茶高いレストランでの食事の額である。(そんなレストランに入った記憶すらないが…。)今回の旅では、あまりリンギ換算をしないようにしようと夫婦で言っていたのだが、そんなコンセプトはぶっ飛んでしまったのだった。
幸い、近くのスーパーで1リットル1ドルというミネラルウォーターを発見した。マレーシアでは、RM1.5というところだが、パースでは破格の安さであることは間違いない。滞在中6本くらい買ったと思う。(笑)
最終日の夕食・ピザとステーキサンド+地ビール
よって、それなりに豪華に食事しようと考えていたのだが、初日はサブウェイのサンドイッチを2人で分け、第2日目はスーパーで買った韓国製のカップラーメンとサンドイッチ、第3日目は、開いていた質素な韓国料理店でクッパとビビンバで済ませた。(全部で40ドル弱だったが、これが美味であった。KLのなんちゃって韓国料理ではない。)というわけで、大いに節約したのだが、それなりに美味かったので結果オケラー(マングリッシュでOKの意味)であった。
最終日の夕食だけ、私の希望でハラル(イスラムの食事規定)でないピザをホテルのレストランで所望した。妻はステーキサンドに地ビール(1杯:7.5ドル=RM23以上するわけだ。これって、KLではちょっとしたレストランの食事代に相当する。)も注文した。ピザは美味で、しかも無茶大きくて食べきれなくて、テイクアウトしたくらいだったし、これも結局オケラーであったと思う。

日本からパースに旅行に来ても、かなりの物価高を感じるだろうが、在マレーシア日本人としては脅威の物価であった。こちらでRM1000両替していたのだが、結局もうRM1000両替することになったのだった。ハエと物価には、大いに悩まされたのだが、十分楽しいオケラーなご褒美旅行だった、と結んで、まずはパーズ紀行・最初のエントリーとしたい。

豪州・パースより無事帰国。

パースのダウンタウン(今朝撮影)
先週の木曜日の夕方にコンドを出て、KLIA2隣接のホテルに前泊し、マリンド航空という聞き慣れない航空会社の飛行機(後日この件はエントリーします。)で、オーストラリア・パースに出発しました。朝8時に出て2時過ぎに到着しました。一応、大まかな日程は以下の通りです。

16日金曜日/空港から送迎で中心街のホテルへ。ホテルの周りを散策。
17日土曜日/市内観光と港町フーリマントル半日ツアー。帰りは鉄道。
18日日曜日/パース東方350kmにあるウェーブロックツアー。
19日月曜日/パース北肩250kmにあるピナクルスツアー。
20日火曜日/11:40の送迎まで、近隣散策。15:00発で帰国。

要するに3種類のオプショナルツアーを楽しむという、お任せ旅行だったわけです。海外旅行では、こういうスタイルを取るのは実に久しぶりです。と、いうのも我が夫婦も歳を重ねたこと、1年間の私は仕事、妻はその銃後の守りのご褒美旅行というコンセプトだったので、できるだけ楽な旅をしようということになりました。ところが、ところが…。この続きは明日から何編かに分けてエントリーしようと思います。

2018年11月15日木曜日

巷談 中国近代英傑列伝を読む

陳舜臣の「巷談 中国近代英傑列伝」(集英社文庫/2006年)も先日読み終えた。長いこと、アヘン戦争以後の中国近代史を教えていないので、なかなか新鮮な話が多かった。ここで、語られているのは、周知の林則徐、李鴻章、康有為、孫文、魯迅、袁世凱など15人である。

特に印象に残っているのは、戊戌政変での梁啓超と譚嗣同の話。梁啓超は北京の日本大使館に亡命し、そこに譚嗣同が遺書を持って訪ねてくる。亡命を薦められた譚嗣同は、「君は西郷たれ。我は月照たらん。」と去って処刑された話だ。戊戌の志士たちは、いかに明治維新のことを知っていたかという好例だ。(注:西郷と尊王攘夷派の僧の月照は共に入水自殺しようとするが、西郷は生き延び維新の三傑となった。)

それと、これらの英傑は、なにかしら科挙と関わっている。当然ではあるが、郷試、挙人、会試、殿試などの言葉が本書に散らばっている。いかにこの科挙制度が人材を発掘すると同時に、失ってきたか、あるいは清の敵を作ってきたかなどの事例が満載である。

…林則徐=アヘンを燃やした、李鴻章=日清戦争時の代表などという知識は、極めて表面的であることがわかる。ところで、変法運動や戊戌政変の康有為は、かなり変わっている。万木草堂という、孔子・孟子以外に、仏教学・諸子学(おそらく、法家や墨家などの諸子百家)、宋明理学(おそらく朱子学)、西洋哲学、社会学(群学)、政治学、史学などを学ぶ当時としては破天荒な学校をつくったのだ。後、進士になれたが、西太后(と彼をバックアップした光緒帝の争い)にやぶれる。まさに波瀾万丈な人である。なんとなく佐久間象山っぽいなと感じた次第。

2018年11月14日水曜日

横尾流現代美術を読む(2)

横尾忠則・ビートルズポスター
http://beatles.fact-web.com/
article/33529669.html
結局のところ、私はデザインの世界に進まなかった。中学時代、美術は常に5を貰っていたし、絵を描くのがメシより好きだと思っていたが、今思うとメシのほうが好きだったのだと思う。(笑)横尾氏の膨大な作品群を眺むるに、内面からわき出てくるモノのパワーに脱帽せざるを得ない。

横尾氏はNYのピカソ展で画家に転向する(すなわちデザイナーがクライアントの制約から逃れることを意味する)インスピレーションを得たらしい。(私はピカソは好きではないが、その圧倒的な存在感は認める。)画家は、特に現代美術は何を描こうとしているのか。この芸術論は果てしない拡がりがある。横尾氏は三島由紀夫との関わりの中で、仏教の唯識的なとらえ方をしているようだ。以下、印象に残った文章。

パリビエンナーレ作品
http://megasameta.com/
鰯は一匹一匹は独立しているが、群れとして全体の中で生きている。それで僕は鰯のたとえを出すけれど、鰯一匹一匹は、単に一匹という「私」だと思うんだけど、それが大群に入ったときには全員の無意識とが一つになって、自分でありながら、同時に大群の意識というものにもなれるというか、魚が意識を持っているかは怪しいもので、たぶんないでしょうね。感覚だけで。だから、鰯をそっくり人間の悟りの状態に置き換えるというのは無理すが、それに近い気がしますね。人間だと、社会というか。全体的なものを常に感じているということなのかもしれない。

本能は無意識を通過していくのだという。三島由起夫は阿羅耶識にまでいったらしい。三島の最後の小説・豊穣の海は誰もわからないと横尾氏は言う。横尾氏は三島のようにはなれないとは言いつつ、それに近いもので創作しているようだ。少なくとも私にはそうとれた。だから、決まったテーマも画風の統一性はあまり問題ではないらしい。
Y磁路(4) https://blogs.yahoo.co.jp/morioka_hisamoto/38568251.html
とはいえ、ピンクの女シリーズだとか、赤の時代シリーズ、滝シリーズ、Y字路シリーズなどがある。おそらく、その時その時の横尾氏の無意識の賜物であるはずだ。このY字路シリーズも大好き。元は故郷の兵庫県西脇市になった模型店。そこから様々に発展した。
実験報告 https://www.cinra.net/news/gallery/21128/9
最後に、荒俣宏氏とのやりとりで生まれた「実権報告」という作品の話。描けば描くほど混乱していたこの絵を見て、荒俣氏が「人間図鑑ですね。」と言ったらしい。その時、学研の図鑑のイメージが湧き、絵の中に番号を描き込んだという。「番号で完成しましたね」という荒俣氏が「実験報告」というタイトルをつけてくれ、現在は東京都現代美術館のコレクションになっているという。このような無意識が横尾作品の強い味方になってくれるのだという話である。面白いではないか。