2024年3月31日日曜日

イースターの日に

https://ichi-point.jp/easter01/
アメリカでは、去る29日に、今日3月31日・イースターの日を「Transgender Day of Visility,2024」(2024年トランスジェンダー可視化の日)とする大統権限による宣言が出たという。

https://www.youtube.com/watch?v=VBPkU9N-FxY

私はブディストで、関係ないといえばそれまでなのだが、アメリカの精神界が大きく変わっていく話なのであえてエントリーしておきたい。アメリカは、イギリスやフランスなどよりはるかにキリスト教色=信仰心が強い国である。様々なプロテスタント宗派が存在し、アメリカ政府の正当性を支えてきた。(宗派として見た場合は、カトリックが最大宗派:25%であるが、メタに見ると各宗派の総計ではプロテスタント:50%の国だといえる。)

イースターは、キリスト教圏ではクリスマス同様の意義ある日である。イースターでは卵とウサギが主役だが、ウサギは繁殖力の強い動物故に尊ばれてきた。この日をわざわざ選んで「トランスジェンダー可視化の日」としたことは、キリスト教者への悪意以外の何物でもないだろう。特にカトリックは、生命は神によって与えられたものであることが前提で、強く堕胎に反対している。彼らから見れば、「産めよ増えよ地に満ちよ」に反するLGBTの様々な権利の容認は神の意志の否定に映るだろうと思う。いわゆる(共和党支持層の)キリスト教原理主義者も同様で、これでまたアメリカは大きく分裂に動くのではないかとも思える。

梅田政権は、難民問題といい、今回の問題といい、アメリカを大きく改悪しようとしているように私には見える。民主党は前回の大統領選と国会議事堂事件で無茶苦茶したが、政策の方も明らかに分裂の方向に舵を切っているように思う。冷静に推移を見守りたい。

2024年3月30日土曜日

アーネスト・サトウを読む。2

https://www.gale.com/jp/c/the-papers-of-sir-ernest-mason-satow
「一外交官の見た明治維新(上・下)」の書評、第ニ回目である。数多くの植民地支配を行ってきた大英帝国の外交官であるアーネスト・サトウは、当然のように対象国の知識を集めている。これは伝統的な大英帝国の外交官の重要な職務であるようだ。

第三章「日本の政情」で、私がまず面白いと思ったのは、次の記述である。「当時の外国人は、日本の政情を次のように想像していた。主権者たる将軍と2・3の手に負えぬ大名との間に政治的な闘争が始まっている。これは将軍が無力で、その閣老が無能なため宗家たる将軍を無視するにいたった大名が、神聖な日本の国土を「夷狄」の足で侵させ、貿易による利権をすべて将軍家の手に収めさせるような条約に対して不満を抱いたために起こった闘争である。(要約)」

…要するに、(琉球密貿易で藩財政を立て直した)薩摩藩や、雄藩として様々な商品作物を開発、財政を豊かにしていた長州藩、土佐藩などが、幕府の開国によるさらなる利権独占に反対していたという視点は、当時の政情の一面を見事に捉えている。だが、アーネスト・サトウは違う見方をしているのである。

まずは、その後、天皇制と絡んで、日本史の教科書を読んでいるような詳しい内容が書かれている。見事である。今と違い情報量の少ない当時に外国人がこのような、かなり詳しい歴史認識を持っていたというのが不思議ですらある。さらに深い洞察(経験知でもある)だと思うのは、「将軍家も大名も愚鈍な傀儡に成り下がり。大大名の権力は名目上のものとなり、その実は家臣の中でも比較的に活動的で才能に富んだ者(その大部分は身分も地位も低い侍)が大名や家老に代わって権力を行使するようになった時1868年の革命が出現した。(要約)」という記述が出てくる。

…当時の社会構造への考察である。まさに封建社会の金属疲労が露呈したわけだ。これは、彼が薩摩や長州の中心者と懇意だったことから得た「経験知」であることは間違いない。薩摩は、島津斉彬という名君が下級武士であった西郷を引き立てた。その盟友大久保は、島津久光に取り入り力を得る。大久保は下級公家の岩倉と組んで権謀術数を振るう。長州もそういう一面がある。最たるものは、伊藤や山縣であろう。(木戸や高杉、井上馨などは比較的身分が高い。)土佐は、浪人だった坂本や中岡が有名だが、山内容堂はかなり保守的で、鳥羽伏見以降、後藤や板垣に引っ張られた格好になっている。

このアーネスト・サトウの「一外交官の見た明治維新(上・下)」を読み進めるうちに、維新の功労者たちの新たな側面の発見があるかもしれない、そういう期待が湧いてくる。

2024年3月29日金曜日

親友のお見舞いに行く。

昨夜、親友が心筋梗塞で入院しているとの報が入った。こういう時、すぐ駆けつけるべきだと私は考えている。幸い病院は近くで、バイクで行ける。昨夜は雨が激しかったが、朝から晴れてくれた。

何の前触れもなく(ただし、後で自分の病気を勉強したら、それなりの兆候はあったとのこと。)、胸が痛み大変だったそうだ。手術を1回受けて、だいぶ楽になったらしい。もう1回手術をするんだとか。意外に元気だったので、驚いた次第。30分ほど雑談をして帰ってきた。

帰宅時、近くの桜が満開で、遥かに京都の愛宕山が見えた。この清々しさは親友の状態が良かったことで倍増されたわけだ。

2024年3月28日木曜日

追憶 ボルチモア

ボルチモアで、シンガポール船籍のコンテナ船が、電源系統の故障で操縦不能になり橋桁に追突し、橋が崩落したという大事故のニュースが流れている。ボルチモアは、(ロスの空港のトランジットを無視すれば)私がアメリカで最初に足を踏み入れた地であり、思い入れも深い。その橋の位置を確かめてみた。

https://jp.trip.com/travel-guide/baltimore/
fort-mchenry-tunl-18697572/travel-image-264796987/
ボルチモアは、商都と呼ばれている。デラウェア州とメリーランド州の間のチュサピーク湾は天然の良港で、その最深部に位置している。問題の橋は、ボルチモアのダウンタウン(Googleマップではボルチモアと記載されたあたりである。)さらに南には視察で訪れた、国歌”星条旗よ永遠なれ”が作詞されたきっかけとなったことで有名な「フォート・マクヘンリー」(画像参照↑)があるのだが、そのさらに南に問題の橋があることがわかった。(画像参照↑↑)

https://4travel.jp/os_shisetsu/10314088
ところで、ロスからボルチモア空港まで国内線で大陸横断して着いたのは夜だった。今も忘れられない光景は、ホテルに向かうバスの車窓で発見したEXXONのガス・ステーションだ。授業でよく語っていた当時世界最大の企業、エクソン。今も私のアメリカの原風景の1つだ。ボルチモアは、川崎市の姉妹都市で、ウォーターフロントの再開発が行われ成功していた。水族館や、退役潜水艦(初めて中に入る経験をして大感激した。その後ニューヨーク、シカゴと潜水艦の中に入る事になったが、これがアメリカ旅行の楽しみの一つになった。)、ハードロックカフェやプラネットハリウッドなどの店が並び、実に開放的で賑やかな空間である。

大阪市教育委員会の視察で最初に訪れた際は、コーディネーターの女性が、バスで通過するドイツ人街、イタリア人街、黒人街などを周る中で、その特徴というか差異を教えてくれた。初日から多民族社会の洗礼を受けたわけだ。そういう意味でも、ボルチモアは私の最初のアメリカなのである。

工業高校時代の担任教師集団で再訪した時は、鉄道博物館やMLBのオリオールズの球場、ベーブ・ルースの生家なども訪れた。エドガー・アラン・ポーの出生地でもあり、医学の分野では最高峰のジョン・ホプキンス大学もあるし、ボルチモアは、意外に見どころが多い。東海岸を旅するなら、ボストン、ニューヨーク、ワシントンDCもいいが、ボルチモアまで足を伸ばすべきだと思う次第。

最後に、この事故で亡くなったり、怪我をした方、またこれから仕事が激減するであろう港湾労働者の方々に心からお見舞いを申し上げたい。大好きなボルチモアよ、永遠なれ…である。

2024年3月27日水曜日

アーネスト・サトウを読む。

息子が自宅に残している蔵書棚を見ていたら、アーネスト・サトウの「一外交官の見た明治維新(上・下)」があった。以前から読みたいと思っていたので、これ幸いと読み始めた。ただ字が小さいので読みづらいのだが…。(笑)

第二章 横浜の官民社会に、意外だったというか高校の日本史では殆ど触れないような内容が記してあり驚いた。「横浜で外国の商人が取引の相手をしなければならなかったのは、主として無資本の、そして商売に無知な山師連中であったのである。契約の破棄や詐欺は、決して珍しいものではなかった。外国商人は、荷の渡る見込みのない商品購入を目当てに、こんな当てにならない男どもに大枚の前金を払ったり、相場が下がれば荷受けを拒絶して自分のふところを傷めぬようにする者どもを相手に、本国へ製品の注文を発していたりしていたのだ。生糸には砂が混じっていたり、重い紙紐で結わえてあったりするので、代金を支払う前に行李(こうり)を一々念入りに検査せねばならず、茶も見本通りの良質品と信用するわけにはいかなかった。(中略)外国人の間に、日本人と不正直な取引者とは同義語との確信が極めて強くなった。両者の親善感情などは、あり得べくもなかったのである。」

…その後にサトウが記しているが、当時の日本人の外国人を「夷狄」とする軽侮の感情故の話らしい。日本人同士の取引を行うまともな商人では考えられないようなことが幕末の貿易では行われていたのである。わざわざ「夷狄」と商売しようとする輩は、たしかに山師的だったのだろうと納得する。まあ、金銀の交換で、こそっと外国商人が大儲けしていたし、どっちもどっちかもしれないが…。生麦事件や攘夷の行動などに対する当時の外国人の対応について、こういう根っこが存在していたのだった。ともかくも、興味深い内容なので、少しずつエントリーしていこうかと思っている。

2024年3月26日火曜日

世界の三大穀物3トウモロコシ

https://global-dive.jp/article/a2667/
意外だが、トウモロコシは、小麦・米より生産量が多い。まずは、生育適地の話。(これはこの本には載っていない。)温暖で適度の降水量があるところ。(トウモロコシは4℃で生育がとまり、20℃以下では生育が遅くなる。)しかし生育が急速に進む出穂以前に降水量が多いと根の貼り方が悪くなったり干害を受けやすくなる。出穂前後の約1ヶ月は、気温が23~24℃、降水量が100mmが適当、成熟期は高温・乾燥が良い。

さて、トウモロコシの用途では、飼料が食用より多い。日本も北海道や関東でスイート種(食用)を生産してはいるが、飼料用のデント種はほとんど輸入に頼っている。日本の肉類の自給率は53%だが、飼料の自給率を考慮すると8%になってしまう。日本が輸入している国は、主にアメリカ、ブラジルである。中国も生産量は多いが畜産の需要が伸び輸入国になっている。その他、アルゼンチン、ウクライナも輸出国に名を連ねている。世界的に最も生産量が多いのは、デント種(畑で枯れるまで乾燥させる。熟成すると糖分がでんぷんに変化するので食用にはならないが、コーンスターチ=でんぷんが有用で、様々に利用されている。)である。またバイオエタノールの原料にもなる。

アメリカの主産地は言うまでもなくコーンベルトである。アイオワ州、イリノイ州、ネブラスカ州を中心にミネソタ州、ウィスコンシン州、サウスダコタ州、カンザス州、ミズーリ州、インディアナ州といった周辺の州に広がる。日本へは、ミシシッピ(水上輸送)を経由して、ニューオリンズから海上輸送し、パナマ運河経由で運ばれるのが一般的である。一方、ブラジルでは、同じ土地で2度収穫できる(10月-2・3月と2・3月-6・7月)。1作目は国内消費、2作目はアメリカ産と時期がずれるので輸出に有利になる。

アイオワ州は、M高校がまだあった時、研修旅行で行った地だ。見渡す限り360度のトウモロコシ畑のI-80をシカゴに向けて走り続けたのを思い出す。

トウモロコシにはいろいろな種類があるのだが、アフリカでは白いメイズ(イギリス英語でトウモロコシの意味)と呼ばれていて、粉にして炊くのが一般的である。ケニアではウガリ、ジンバブエではサザ、ザンビアではシマと呼ばれている。こんなことも久しぶりに地理総合で話そうかな。バイオエタノールについても様々な面から考えるべきだろうと思う。

2024年3月25日月曜日

世界の三大穀物2 米

https://furusato.mynavi.jp/blog/rice-brand/
昔、米とと小麦のカロリー比較をっした場合、米の方が大きかった。しかし品種改良などの成果だろうか、現時点での100gあたりのカロリーは、米が356kcal、小麦が366kcalと逆転している。しかし、歴史的には小麦を主食とする地域は低カロリーを補うために、牧畜を行い、肉食や乳製品で補っていた。米には、そういう歴史的背景はなく、主食の王座を担ってきた。これがマクロに視た食の歴史なのだが…。この話の内容は、書評をエントリーしている「世界の三大穀物」には載っていない重要な地理的事項である。つまり、夏の高温と水が豊富な地域では米を栽培することが有利であり、冷涼な気候と水が少ない地域は、コメの生産が不可能な故に小麦を生産するという農業のヒエラルヒー的な視点があったわけだ。今はもう、農業は商業化しており、どれだけ儲かるかが、その尺度になっている。

さて書評に入る。米に関しては、日本の自給率は97%である。よって、この本では、いきおい日本国内の話が主流になっている。日本の米の生産高は、新潟、北海道、秋田と続く。寒さが厳しい地域が上位にきているのは、熱帯の作物である稲は光合成によってデンプンを作り、夜にはそのデンプンを消費する特性と関係がある。夜に気温が高いと稲は活性化し消費しすぎてしまう。よって、昼高温、夜低温という気候が最も適している。よって、北日本のこれらの県が上位にくるわけだ。しかも稲は大量の水が必要だが、これらの地域は積雪量が多く雪解け水恵まれている。

米はほとんどが主食用になる。作付面積で見ると、①コシヒカリ(33.7%:味の濃い料理や肉料理に合う)、②ひとめぼれ(9.1%:冷めても味が落ちないので外食・中食用に利用されている)、③ヒノヒカリ(8.3%:西日本中心で栽培、カレーに合うらしい)、④あきたこまち(6.8%:おにぎりに適してる)、⑤ななつぼし(3.4%:北海道に多く寿司などに重宝している)という順になっている。*中食というのは、コンビニなどで買い求め家等で食することを意味する。

なお、主食用以外では、飼料用の米(ブロイラーや採卵鶏、豚などに利用)もあるし、米粉(グルテンを踏まない米粉は世界的に市場価値が高いらしい。)をつくるためのうるち米や餅米も生産されている。うるち米は団子やせんべいに使われる。うるち米の生産高は新潟がトップ、餅米は、北海道、第二位は佐賀である。小麦でもSAGAが登場したが意外な話である。日本酒の原料となる酒造好適米は、山田錦という品種は兵庫、五百万石という品種は新潟がトップである。

ところで、日本の米消費量は大きく減少している。減反政策も進んでいるのだが、1995年から毎年77万tの海外米を輸入している。これはGATTのウルグアイ・ラウンドの交渉によるもので、「ミニマム・アクセス米」(MA米)と言われている。アメリカ、タイ、中国、オーストラリアなどから輸入しており、TPPでオーストラリアから6000t追加輸入している。MA米は主食としてより、加工用(味噌、焼酎、米菓等)に使用されているが、国際米より低価格で販売されているので多少の需要もあるが、保管に1tで1万円くらいかかるという財政負担のデメリットもある。飼料用や海外への食糧援助にも使われている。

一方、日本の品質の良い米は輸出もされている。香港、シンガポール、台湾、アメリカ、などに需要がある。マレーシアでも、そもそも日本食の人気が高く、かなり高価だったが日本米が売られていた。とても手が出なかったけれど…。(笑)

2024年3月24日日曜日

世界の三大穀物1 小麦

https://flour-net.com/column/australia_flour/entry-590.html
地理総合を教えることになったので、先日見つけた「地図でスッと頭に入る 世界の三大穀物」宮地秀作監修(昭文社)の書評をエントリーしたい。まず小麦の話。教材研究用に興味深い内容を整理しておきたいと思う。

地理を面白く感じる1つは、ケッペンの気候区分と農業の関連性だと私は思う。地理という教科は法則性を解き明かしていく、ちょっと理系なところがいい。小麦・米・トウモロコシといった穀物でも農学的にかなりの違いがある。この本は地理的な視点をメインに、家庭科的な要素もあって面白い。

さて、まず小麦の分類である。まずは、生産方法で、冬小麦と春小麦に分かれる。これは教科書でもよく出ている。もともと小麦は「越年生」(畑で冬を越す)の作物であるので、生育期間が長く収穫量が多い冬小麦が主流。春小麦は越年できない積雪や土が凍ったりする地域で栽培される。生育期間が短いので収穫量は少ないが、グルテン(グルテニンとグルアジンという2種のタンパク質で水を加えてこねることで絡み合ってできる成分のこと。弾力や粘り気を与え生地の伸びをよくすることがで様々な食感を生み出す)を多く含むのでパンの材料として優れているという特徴がある。次に外皮の色では、赤色小麦と白色小麦に分類できる。用途で分類すると、硬さとたんばく質の量が多い順に、強力粉、中力粉、薄力粉となる。日本が輸入している小麦でこれらをまとめると次のようになる。

①硬質赤色春小麦(1CW・DNS:カナダとアメリカ産の春小麦で強力粉でパンに使用)②硬質赤色冬小麦(HRW:アメリカ産の冬小麦で準強力粉、中華麺や餃子の皮に使用)③中間質白色冬小麦(ASW:オーストラリア産の中力粉でうどんに使用)④軟質白色冬小麦(WW:アメリカ産の薄力粉で、ケーキ、天ぷら粉、和菓子などに使用)となる。すでに法則性が見て取れる。こういうのが面白い。

このうち、オーストラリアのASW(オーストラリア・スタンダード・ホワイト)は、西オーストラリア州のパースに行った時、広大な畑を目にし、ほとんどが品種改良を重ね、日本のうどんに使われると教えてもらった。

これら普通小麦に対し、もっと硬質で、粒が非常に硬く柔軟で弾力性の強いグルテンを含んでいる「デュラム小麦」がある。パスタに加工される地中海沿岸産の小麦である。カナダのサチュカスワン州を中心に、一部マニトバ州やアルバータ州でも生産されていることを初めて知った。余談だが、カナダといえば春小麦だが、オンタリオ州の南部、ミネソタ州の対岸では冬小麦が生産されているそうだ。一方、アメリカは冬小麦地帯が広がる。サウスダコタ州南部からネブラスカ州、カンザス州、オクラホマ州、テキサス州中央部までと、ミシガン州、イリノイ州、インディアナ州、オハイオ州といった五大湖周辺、それにワシントン州でも一部生産されている。春小麦は、当然北部でモンタナ州、ノースダコタ州、サウスダコタ州北部、アイダホ州の一部といった地域である。日本向けの小麦はモンタナ州が主産地らしい。

世界的に視野を広げると、冬小麦の最大の産地は黒海に面したロシアとウクライナ。ロシアの西シベリア経済特区ならびにカザフスタンでは春小麦が生産されている。インド、中国(華北平原の冬小麦、黒竜江省の春小麦)も生産量は多いが輸出額は人口の関係で、EU諸国+イギリスより少ない。このあたりは、今まで教えてきた内容なので、ここまで。(笑)いやいや、笑い事ではない。ウクライナ紛争が、どえらい影響を特にアフリカ諸国に与えていることを授業では語気強く語らねばならない。

最後に日本の小麦生産だが、自給率は15%くらい。もちろん北海道が主産地で、うどん用の「きたほなみ」、パン・中華麺用の「ゆめちから」などを国内産シェア57%くらい生産している。意外だが、それに続くのが福岡や佐賀である。小麦の輸入港では、神戸、千葉、博多などと、大消費地近くの取り扱いが多い。面白いのは、香川県の坂出が、オーストラリアのASWに特化した港であることだ。授業で、その理由を質問しようかな。(笑)

ところで、日本の小麦の輸出入に関しては、米とともに「国家貿易」(特定の農産物を政府が独占的に輸出入する)をなっており、農水省が必要量をまとめて購入、政府売り渡し価格で製粉会社に販売することになっているそうだ。2007年以後は、相場連動性に移行した。政府売り渡し価格には、輸入価格(買付価格+港湾諸経費)にマークアップ(政府管理運営費・国産小麦の生産振興対策費用)を加えたもので、4月と10月の年2回価格改定がおこなわれるとのことである。これは知らなんだ。

2024年3月23日土曜日

ドストエフスキーの依存症

https://www.dsjn.jp/
何かの本で、ロシアの大文豪ドストエフスキーが、ギャンブル依存症であったと知った。実は、私はギャンブルには絶対ハマらない人生を送ってきた。麻雀は学生時代によくやったが、点3とか点5とか金をかけるのが嫌いで、「名誉」をかけてやっていた。(笑)パチンコも何度か行ったが、1000円も負けるとすぐやめた。友人に聞くと最近のパチンコでは負ける時は万単位だと聞いて信じられなかった。(笑)アメリカやカナダでカジノにも行ったし、スロットもやった経験があるが、授業のネタとしての経験を積んだに過ぎない。競馬は、誘われて1000円くらい付き合いでやったことが何度かある。信じられないが、初体験でマンハッタンカフェの単勝で勝ち、その直後の有馬記念では、1着マンハッタンカフェと2着に大穴のアメリカンボスがきて20万円ほど儲けたことがある。だが、その後はハマることはなく、JRAには勝ち逃げしたままである。

この私のギャンブルへの淡白さは、多分に、私が生まれる前に父親がボートレースにハマり、母親を随分泣かせたという話を聞かされていたからだと思う。ギャンブルは、非生産的であるというのが信条だ。

大谷翔平君の専属通訳の一平君が、違法賭博でドジャーズを解雇されたというニュースで大騒ぎになっている。大谷君をずっと献身的に支えてきたのに、実に残念である。まさに天国から地獄へ堕ちたというシチュエーションであるが、ちょうど結婚した大谷君をこれからは奥さんが支えるだろうと思うし、こういう話題を詮索するのは好きではないし、私の美学に反するのでここまで。ただ、どんなに有名人でも才能があっても、そういう依存症的な弱み(=煩悩の貪)を持っているのが、無明たる人間というものなのだろうなと思う。

偉そうに言う私も、喫煙とコーヒーの依存症からは、おそらく抜け出れそうにない。(笑)

2024年3月22日金曜日

心機一転 地理を教えることに

https://high.osaka-shinai.ed.jp/schoollife/guide/
66歳になり、Facebookを久しぶりに更新しました。そこで、明らかにしたのですが、4月からOS学院高校にお世話になることを報告しました。大阪市内ですので、通勤時間は学園の半分以下になります。実は、OS学院高校(以下学院と表記します。)は、カトリック系の女子校で、最初の勤務校の商業高校のすぐ近くにあり、当時の制服や頭髪の清楚さが強く印象に残っています。(今は共学校になっています。)

学園を紹介してくれたところに、もう少し近くでいい学校はありませんかと依頼していたところ、学院を推薦してくれました。年末に面接を受けたのですが、カトリックの学校であるということが少し不安でした。学校長のHPの挨拶にもヨハネの福音書が引かれており、ユダヤ教・プロテスタント・イスラム教についてはそこそこの見識を持っているつもりですが、カトリックについては見識が浅すぎると思い、面接までに焦ってカトリック関連の書を読みました。(笑:昨年のブログの一連の書評はその足跡です。)ところが、面接の際、あまり意識されなくとも結構ですと言われましたのでホッとした次第です。ただ、学校行事や日々の学校生活には、カトリックの精神が活かされているように思います。この際、せっかくなので学んでみようと思っています。

学校側からは、その後、3年生の7クラスの地理総合を担当するように要請がありました。私の専門から言えば、倫理の次は地理ですので、ありがたいことだと思っています。お聞きしますと、特進クラスの文系・理系クラスは難関国公立を目指しているとのことで、他の私大を目指す総合クラスや看護クラスとおよそ2分割して授業をしていこうかなと思っています。少数とはいえ、歴史総合・地理総合・公共で共通テストを受験する生徒もいるかもしれませんし、学校の要請を受けて、特進クラスは受験科目として対応するつもりです。残りの私大クラスは、とにかく楽しく地理の面白さと他の社会科との兼ね合いを重視しながらやっていこうかと考えています。

三崎高校以来の地理です。倫理とはまた違う広がりもあり、地理をベースに様々な教養や社会科学的視点を身に着けてもらえたらと思います。楽しみです。

2024年3月21日木曜日

後期試験でもサクラサク

https://www.unifes.jp/university/details/?code=u1105
国立大学の後期試験の発表があって、前期の第一志望はかなわなかったものの、近畿や関東の難関国立大学に合格したという報が相次いだ。嬉しいねえ。一人は昨年世界史の記述問題で関わった浪人生、もう一人は今年の文系の生徒である。

すでに関関同立などの私大抑えはあったのだが、最後の最後まで諦めず精一杯戦ったことを誇りに思う。最近は前期がダメだと、後期試験を受けず私大に流れるケースが多いらしいのだが、よく頑張ったなあ。ほんと学園の伝統の力を感じる。2人の成長を心から祈りたい。

2024年3月20日水曜日

軍務局長 武藤章を読む 4

https://studyhacker.net/prospect-theory
武藤章という人は、頑迷ではない。国際情勢を鑑み、当初自分が関わった日中戦争を終わらせ、日米開戦を回避するべきだと考えていた。これは意外である。日米開戦となれば海軍が主役で、やる気がないなら考え直すべきだとも言っている。どうも開戦時の首相・東條のイメージが悪いので、陸軍が開戦を主導したように見えるが、事実は異なるようだ。

しかし、アメリカの対日戦略により、日本は追い詰められていく。この新書では、興味深い理論が載っている。経済学における「プロスペクト理論」(画像参照)である。たとえば、A:確実に3000円支払わなければならない、B:8割の確率で4000円を支払わねばならないが、2割の確率で1円も支払わなくて済む。こういった場合、実験するとBを選択する人のほうが多いというのである。人間には「損失回避性」があり、Bに魅力を感じてしまうのである。

武藤は、開戦しなくとも3年後には資源が枯渇し、日中戦争も継続できず、アメリカとの外交交渉はさらに不利になると見ていた。開戦は希望なきリスクであり、国際情勢の推移(独ソ戦の結果が特に大きく影響する。)次第で、日本に有利に働くやもしれないと考えていた。

結局開戦したわけだが、武藤は3週間後には、東郷外相に「戦争はなるべく早く終結するのが日本に取って得策、東條には首相をやめてもらう必要がある。」と述べている。開戦の責任者が戦争を終わらせるのは難しいとの判断だった。同じ統制派であるとはいえ、武藤と東條は肝胆を照らす中ではなく、それが東條の耳に入ったのかどうかは定かではないが、現インドネシアの近衛師団の師団長として転出する。

サイパン島陥落の責任をとって東條が総辞職した後、武藤はフィリピンで指揮を取っていた「マレーの虎」山下奉文のの参謀長となる。皇道派だった山下とは実にうまくいっていた。綺麗好きの山下は、常にハエたたきを持っていたそうで、「老将の蝿叩きおり卓ひとつ」と詠んだ。この「老将」を山下は自分のことだと認めなかったというエピソードが残されている。

戦後、その山下奉文は、かつてマレーで敗北した英司令官立ち会いのもとで降伏文書に調印(彼はっその屈辱から自決しようと思ったらしい、)し、さらに軍事裁判にかけられ(銃殺なら軍事として戦死とみなされるが)絞首刑となる。見事な散り様であったことを米憲兵が記録している。彼は、後に武藤の東京裁判に関わる。

なぜ武藤章がA級戦犯となったかは、開戦当時、(凄腕で傲岸不遜という評判が誇張された)軍務局長であったということが最大の理由だと思われるが、なぜ死刑判決が出たのかはよくわからないというのが真実だろう。そもそも東京裁判が政治パフォーマンスであり、それを見切っていたが故に、山下奉文大将よろしく諦観して、判決時にニヤリとしたのだろう。私はその姿勢に「浩然之気」を感ずる。

2024年3月19日火曜日

軍務局長 武藤章を読む 3

https://www.kosho.or.jp/products/detail.php?product_id=348936532
さて、新書のタイトルにもある軍務局長とはいかなる地位か。陸軍省のトップは、陸軍大臣、さらに次官、その次に軍務局長がくる。いわばナンバー3である。陸軍には、内局として、大臣官房、軍馬局、整備局、平気局、経理局、医務局、法務局などがあったが、軍務局がその中心で、国防政策、軍の編成、動員計画、予算など陸軍に関する行政(=軍政)を司り、帝国議会との折衝も行った。いわば心臓部である。

昭和14年9月、武藤章は軍務局長に就任している。最初の仕事は、陸軍出身の阿部信行首相の意を受け、内閣強化のために、立憲民政党の町田忠次の入閣要請に出向いている。政治との関わりの最初である。武藤は留学以来、国際情勢に通じており、様々な論文も発表している。少し意外だが、政党党首の入閣については、超然内閣(政党との関係がない内閣)では、積極政策が実行できない故に必要だと認識していた。しかしこれはそれまでの陸軍と政党間の遺恨のため拒否された。武藤以前から陸軍の政治介入が行われており、元老の西園寺公望らは快く思っていなかったようだ。まずは政界の洗礼を受けたわけだ。

武藤は、WWⅠが総力戦であったことを何より憂慮しており、国力の増強を必要不可欠と考えていた。政党と議会が中心的な役割を果たす一国一党に近い、大政翼賛会の構想を持っていた。これは第二次近衛内閣で発足したが、「幕府的存在」という曖昧なカタチであった。とはいえ、第二次近衛内閣成立への武藤の存在は大きかったようである。ところが肝心の大政翼賛会は武藤の思いどおりには行かず、軍部の政治介入と言うには物足りない。

2024年3月18日月曜日

軍務局長 武藤章を読む 2

https://ganshoji.com/publics/index/37/detail=1/b_id=905/r_id=2318/
武藤章という人物はなかなか捉えにくい人物であるようだ。陸軍という組織にあって、官僚的な地位にあった時期が長く、兵を率いる長の時期が短い。ともすれば傲岸不遜だと評されることもあるが、その評の多くが陸軍官僚の時代のものである。

この新書を読んでいて気付いたことをまず書きたい。2.26事件などが「青年将校」が主導したとよく言われるが、武藤章も陸軍官僚としてドイツ留学を終え、兵学研究に務めた後、佐官になった頃からは、発言力が増していく。これは、日本の伝統的な組織の構造からくるものと私は思う。トップダウンの組織は日本では稀である。だいたいが、会議中ほとんどトップは黙して語らず、下の意見を参考に最後に決断だけ行うという美学のようなものがある。その場の空気が重視されるのである。

満州事変では、武藤がドイツ留学で知遇を得た石原莞爾がその空気を作った。武藤は事変当時、陸軍中央にあって無関係だったが支持に回った。日支事変では、武藤がその空気を作った。

さて、陸軍の派閥というと、皇道派と統制派であるが、最初は永田鉄山、小畑敏四郎、岡村寧次の陸軍士官学校16期生の3人が、ドイツのバーデン=バーデンで、陸軍改革(長州閥批判とWWⅠでの総力戦に耐えうる改革)を語り合ったことに始まるのだが、後に永田と小畑が対ソ戦略で対立したことが派閥争いの源となった。小畑はソ連の国力が未完成のうちに攻撃し満州への脅威を事前に取り除こうとしていたが、永田は時期尚早としていた。武藤は永田についていた。よって統制派である。

その永田鉄山(軍務局長・少将)が陸軍省内で(皇道派の)相沢三郎に暗殺される。(=相沢事件)当時軍務局軍事課高級課員・中佐だった武藤が局長室に駆け込み抱きかかえたが息を引き取ったとされている。その後の皇道派による2・26事件では、永田の仇討ちとばかりに、軍務局軍事課を武藤が鎮圧にまとめあげた。

武藤章には、こういう「空気」をつくる能力があったわけで、この後統制派が実権を握り、彼の発言力はさらに増していく。…つづく。

2024年3月17日日曜日

軍務局長 武藤章を読む

「軍務局長 武藤章」岩井秀一郎(祥伝社新書)が学園への長距離通勤・最後の本となった。武藤章という名前を聞いて、思い出すのはやはり東京裁判である。戦勝国の政治的プロパガンダに過ぎない東京裁判であるが、A級戦犯として、現上皇陛下の誕生日に処刑された1人であるのだが、なぜ武藤がそうなったのかが、この新書を購入した最大の理由である。

昭和初期の軍閥政治、特に陸軍の無謀が、戦争を招いたというのがステレオタイプの歴史観のような気がするが、果たしてそうなのか。皇道派と統制派の権力抗争や満州事変、日中戦争、そして米英蘭との太平洋戦争…。

武藤章は、石原莞爾とともに、その鍵を握っていたような気がする。明日から、少しずつエントリーしようかなと思う次第。

2024年3月16日土曜日

SPECAL THANKS 学園に捧ぐ

ー学園に捧ぐー

宝塚、生瀬を過ぎると風景が変わる。武田尾、道場。時には霧が濃い日もある。街中に風景がまた変わるとやっと三田。90分ひたすら座っている日々。居眠りもするが、尼崎を出て鉄橋を渡り、かの事故のメモリアルを通過する時は、必ず黙祷した2年間。

学園の坂はきつい。いろんな生徒と語り合いながら登った。最後の坂は回避して、図書館前から校舎へ。春は桜、夏は濃緑、秋は黄橙、冬は枝ぶり。四季を味わう。竹林は常に伸びることをやめない。学園の生徒の如くに。

学力は学習習慣の強固さで決まる。まさに文武両道。部活で疲れていても学習習慣がついているのが学園の良さ。それが伝統となって息づき、人気の秘密。

時折、学園の食堂へ。部活の生徒への配慮か。ボリュームのある定食。特別にスィーツがつくことも。

放課後は、広大な芝のグランドで、蹴球部、送球部、陸上部が歓声をあげている。野球部には専用の球場も。文化財指定の中学校舎からは、吹奏楽や軽音の音が漏れ伝わる。

高校校舎は決して新しくない。華美な私立高校の多い中、その分経費を抑え、保護者の負担を減らす質実剛健の精神が息づく。

これだけ優秀な生徒だと、教員集団はまとまりにくいのが公立。だが、教科指導も部活指導も両立している教員集団は仲が良い。そんな教員集団に支えられた2年間。

宝くじを当てて、近くに居を構えたかったのが本音。

4月から、また新しい挑戦が始まる。理想に生きる青春の気概を失わず、この2年間の経験値をさらに新天地で活かしたい。

*SPECAL THANKSとして、いろんな先生方へ御礼をエントリーしようと思ったのだが、今回は詩的に今の感謝の気持ちを書いてみた。

2024年3月15日金曜日

学園最後の日

成績会議への出席が学園最後の日となった。お世話になった多くの先生方に挨拶をした1日でもあった。また、2年生の生徒が部活の合間をぬって最後の挨拶にも来てくれた。ありがたいことである。

この2年間、朝5時前に起床し、6時過ぎの電車に乗り、往復4時間の通勤、午後9時には就寝という日々を送ってきた。休みの日も、夏季休業や冬季休業でもこの時間帯で生活してきた。これは老体にはなかなかこたえた。授業が多い日などは、就寝時によく足がつった。愛する学園を去る理由は、長距離通勤、ただこれだけである。

良い生徒と良い教師集団に恵まれ、幸せな2年間だったとおもう。思い残すことがないほどに走り続けてこれた。4月からまた新しい挑戦が始まる。苦労をかけた妻とともに、この半月間は、できればのんびりと過ごそうかなと思う次第。

2024年3月14日木曜日

久々のウーリーシンキング

2年生の公共の最後の授業は、成績も出した直後なので、久々のウーリーシンキングをやった。進学校である学園では、中学校時代こそ様々な取り組みをされているが、学年が上がるにつれ、こういうアクティヴィティはやる余裕がなくなっていく。たまたま、考査後にこういう時間が生まれたのでやれた、といってよい。ところで、ウーリーシンキングは、本当に久しぶりである。三崎高校では生徒の人数が少なすぎて実践できなかった。学園でも最後の最後になったので、約4年半ぶりになるのか…。当然ながら盛り上がった。

折角なので、他の先生方にも見ていただけたらと思っていたのだが、K先生が校内で広報していただいて、管理職の先生方(中学でこういう取り組みをされているらしい。)をはじめ、10人ほどの先生方が3クラス全ての時間に見学して下さった。ありがたいことである。見学に来ていただいた先生方にも生徒への質問という形で参加いただいた。各時間終了後、称賛していただき、実に恐縮した。

実は、明日の成績会議が、私の学園での最後の日となる。長距離通勤がさすが体にこたえてきたのである。他に何の不満もないのだが、さすがに遠い。往復4時間は老体には堪える。先日の最終講義の際、2年生にはその旨も伝えていた。最後の置き土産といった意味合いもあって、私も懸命にコーディネイトしたのだった。

2024年3月13日水曜日

サクラサク 伝統の力3

https://www.keio.ac.jp/ja/news/2017/4/14/27-20375/
昨年の11月25日付けのブログで、在日の生徒から質問を受け、私論をメールしたことをエントリーした。その生徒が、東京の超難関私大K大に合格したことを、今日進路主任と雑談する中で知った。いやあ、嬉しい。3年当初と比べて、無茶苦茶頑張ったらしい。やはり学園の伝統の力なのだろう。

今まで在日の優秀な生徒を支えてきた経験もある。H高校の時、世界史の個人的補講をずっと続けた生徒が、D大に合格してくれた。卒業式の日に、在日である旨を教えてくれたことを思い出す。

学園の彼も、H高校の彼も、様々な思いがあったろうが、だからこそ、こうして自分の志を貫いていってくれることが余計嬉しい。理想に生きて欲しいな。

ところで、今日はJRが京橋ー鴫野間で安全確認をした関係で、私の乗っていた新三田行きが西明石行きに京橋で変更になった。やれやれである。尼崎で宝塚線の快速に乗り換えたものの、満員。伊丹で座れたが、通常より10分ほど遅れたので、いつも乗る関西学院行きバスの姿はなく、久しぶりに神鉄で学校に向かったのだった。不愉快な朝の始まりだったのだが、前述のK大合格の報で一気にハッピーになった次第。(笑)

2024年3月12日火曜日

3.11から13年目に想う。

https://anime-tosidensetu.com/
一日遅れになったけれど、あの3.11東北の大震災から13年目を迎えたことについてエントリーせねばならない。今年は元旦から能登半島でも地震があったりで、決して歴史的な話ではない。妻に聞いた話だが、東京都知事が、都民に備蓄を呼びかけたそうで、いつ何時、どんな大地震が起こっても不思議ではない。

13年前、私はM高校に勤務していた。大阪では、震度3くらいで身体に感じるなあという程度の揺れだったが、それでも、正門前の畳屋のおじさんが飛び出てきて、「先生、地震や。」と言って、電線を指さしたのを覚えている。私は自分の体調不良かぐらいに思っていたが、その後、大変な地震だったことがわかった。妻からも何度もメールが届いた。妻は、リアルタイムで津波の実況を見ていたのだ。

翌朝、駅に向かう途中、ラジオ体操の歌が流れてきた。♪新しい朝が来た、希望の朝だ。という歌詞にこの時ばかりは違和感を強く感じた。

その後、女性教頭の”心配”による制止要請を振り切って、予定通り、秋田商業高校に出張した。秋田空港で、岩手の方を向いて黙祷・合掌した。ホテルで、何度か地震警報も鳴ったし、この頃特有の非商業的CMが流れていたのを思い出す。もうあれから13年もたったのだった。

昨日は、学園でも担任の先生方はSHRで、残る我々は職員室でも黙祷が行われた。「防災への備えとともに、生徒の生命を守るという教師の責務を忘れないように黙祷したいと思います。」との言葉とともに。

2024年3月11日月曜日

京大ファイブ・サクラサク

学園の文系・京大挑戦組が5人揃って合格した。すごい快挙である。しかも今日、皆で職員室に尋ねてくれた。昨日判明した2人に、3人がプラスされたわけだが、これまでの模試の成績などから、かなり可能性が高いと思われていた。それにしても、誰一人脱落することなく合格できたことに嬉しさも3乗である。

一方、2年生には考査の解答用紙の返却と、和辻哲郎の「旅行者の体験における弁証法」の私家版として、マレーシアやアフリカを例にとってパワーポイントを使って異文化理解への招待をした。木曜日は、いよいよ最終のワークショップで、ウーリーシンキングをやる予定である。場所は、2年生の教室に近い、縁起の良い京大ファイブの学んだ教室である。2年生にも来年の今頃笑顔でいてほしい。

2024年3月10日日曜日

サクラサク サクラサク

https://www.facebook.com/Kyoto.Univ/posts/
京大の合格発表の日である。すでに、2人の卒業生から合格の報を受け取った。ほんとよく頑張ったなあと思う。彼らの志を知っているだけに、是非志をかなえて欲しいと思う。

これで、関わった生徒が進学した関西圏の文系の国立大学で、まだなのは奈良女子大学くらいになった。学園にお世話になって、本当に良かったと思う。授業中のことを思い出す。1人はある話題に1人だけ食いついてくれた。1人は、授業後にレヴィナスの哲学で質問に来てくれたよなあ。

明日、学校に行って他の受験生の状況も聞けたらと思う。

2024年3月9日土曜日

紫の毛糸を買いに行ったら。

学年末考査後の試験返しが2年生最後の授業になると思っていたら、諸事情で各クラス1コマずつ来週の木曜日に担当することになった。その時点ではすでに成績は出ているし、新たに教えることもないことはないが、反対に難しい。熟考の結果、学園ではやっていないワークショップをすることにした。M高校やH高校、PBTで行ったウーリーシンキングである。三崎高校では受け持っていた生徒の人数が少なすぎてできなかった。学園でも受験対策が主なので、わざわざ時間を取ることができなかったが、これは絶好の機会である。

ところで、マレーシアまで運ばれ、四国経由で大阪の自宅に戻ってきたウーリーシンキングの毛糸の棒のうち、毛糸がついていない棒が1本ある。毛糸の痛みがひどく破棄した故である。再開するためには、新しい毛糸が必要であるので、今日妻の買い物ついでに100円ショップで紫のものを買い求めてきた。

同じ階に本屋があったので、少し寄ってみたら、凄い本を見つけた。「地図でスッと頭に入る 世界の三大穀物」宮路秀作監修(昭文社)である。ジャンル違いのシリーズ本の中で、これは凄いと思って手に取ったら、大当たり。小麦、米、トウモロコシ、さらにじゃがいもや大豆まで、主要農作物について、さまざまな角度から、かなり詳細な内容が書かれていて感心した。地理の教材にはうってつけである。またいずれ、書評を記そうと思う。

2024年3月8日金曜日

サクラサク 伝統の力2

https://shakai.tsukuba.ac.jp/hougaku/
今朝、生徒からLINEで関東の難関国立大学に合格したとの報が入った。2学期には、推薦入試の小論文作成にも関わった生徒なので、嬉しさもひとしおである。と、ともに学園の伝統の力を感じる。彼らは勉強の方法をよく知っている。中学入試のころから勉強する習慣が身についており、それを持続してきた故であろう。しかも学園は、文武両道が旨なので、多くの生徒が運動部で様々な試練も経験している。メンタル面でも強くなったに違いない。

これからも、さらに国公立大学の合格発表が続く。さらにサクラサクの報を楽しみにしている次第。

2024年3月7日木曜日

「公共」学年末考査のこと

https://www.management-consultant.info/?p=10935
2年生の学年末考査の範囲は、「公共」における日本思想史+仏教と儒家に設定した。教科書ではかなりページ数は少ない。だが、仏教の縁起や大乗仏教の哲学がわからないと平安・鎌倉仏教がわからない。これらをベースに西田哲学と理解させるいう流れと、儒家の基本を教えた上で、朱子学・陽明学・古学の流れ、そして朱子学から派生した水戸学という流れを説き、国学の流れを挟んで、さらに水戸学から派生した尊皇攘夷思想を基盤にして、尊王と攘夷の思想がどう発展したかを説いた。尊王思想のほうは、岩倉使節団の発見である新政府を保証するキリスト教会の日本的代替としての天皇制の宗教化、その元での恩寵としての自由民権運動、さらに反天皇教としての社会主義や無政府主義を説き、攘夷のほうは、幕末の海防論から蘭学、薩長の攘夷失敗から生じた欧米留学と明六社などの欧米寄りの外交論、一方で大アジア主義などを、かなりメタな視点から論じた。これにキリスト者の流れと和辻哲郎と、柳田國男らの民俗学(=新国学)を加えて締めたのだった。

受験科目故に駆け足でやった3年生の倫理から見れば、それ以上の全力疾走である。「公共」は、倫理もしくは政経と合わさって共通テストの科目となる。倫理を選択する生徒には、そのエキスを、政経を選択する生徒には十分な学びを、私大組には教養として十分な知識を与えたつもりである。
余談になるが、最後の記述問題では、最も印象に残った日本の思想家を問うた。およそ60%位の生徒が和辻哲郎の間柄的存在を挙げていた。自分の経験と照らし合わせても妙に納得したと書いていた。学園は文武両道で、部活に頑張っている生徒が多いので、よけいに理解しやすかったのではないかと思う。

ところで、新カリキュラムに移行している2年生から、考査の試験内容の中で、思考性を問う問題と知識を問う問題でのそれぞれの点数の成績記録が求められる。この1年間、生徒には授業では伏せてきた文章や資料をもとに応用問題として問うたり、理解度を求めて深い設問をしたりしてきた。私のように非デジタルの採点をする場合、かなりややこしい。思考性を教育目標として文科省が掲げることに文句はないのだが、現場ではそれなりに大変である。

2024年3月6日水曜日

高校教育現場の社会学4

https://www.huffingtonpost.jp/2015/03/31/nikkyoso-jtu_n_6975298.html
高校教育現場の社会学第4回目は、少し書きにくいことをエントリーしたい。左右の話である。私などは、左右のど真ん中に位置していると今でも思っている。世代的には、左の洗礼を若干受けているが、社会科の教師として、今もど真ん中であるべきだと思っている。

私が新任の頃は、組合活動が盛んで、団塊の世代がそれを牽引していた。左と言っても、大阪は同和問題で対立があって、三宅坂ではなく代々木系であった。中には、スターリン的でドグマチックな人もいて、困惑したし、給料日(当時は現金で支払われていた)に、知事選のカンパを半ば強要されたこともある。事務室に組合の幹部が座って集めるのである。さすがに辟易としたものだ。転勤した工業高校では、幸いなことに中学時代の親友の恩師が組合の分会長で好々爺であられたので、頼み込んで組合をやめさせてもらった。ちょうど家を無理して買った時だったので金欠であるという理由である。ただし、他の若い先生には内緒という約束だった。と、いうわけで以来、非組合員となったわけだ。

組合の先生も千差万別で、学校の電話で生徒の保護者に選挙応援を依頼していた非常識な人もいた。しかし人柄の良い人も多かったし、意外と後に管理職となった人もいた。”つきあい”と割り切っていたのだろう。しかし、だんだんと組織率は下がっていったように思う。(画像参照)私より下の世代は、興味がないとして最初から組合に参加しなかった者も多い。

とはいえ、ウタハタ(業界用語で、国歌・国旗)が法制化された時は、管理職と組合の激突となった。ちょうど私は、職員会議(当時はまだ、校長の権限は今ほど強くなく、文字どおりの会議だった。)の議長を務めていて、まずは反対意見を聞いた。かなり過激な発言が出たが、出すだけ出してもらった上で、国会で法制化された以上は仕方がない、と説いておさめたという記憶がある。その時の校長が人格者で、組合側からもリスペクトされていたのが大きいと思っている。また私の職責を大人として十分理解してくれていたので、何ら尾を引くこともなかった。

ところで、だいたいにおいて、体育の教師は左ではない。理由はオリンピックで国を代表し、日の丸を揚げるのがアスリートの理想であるからだと親友に聞いた。他の教科では、同世代以上では左の人が多い。どの教科にもいたので、教科ではくくれないと思うが、社会科は比率が少し高いように思う。授業で堂々と自らの思想を語っていた人もいた。私は、それは違うと思っている。右も左も同様に語り、生徒の判断に任せるべきだと思うのだ。それがプロだ。

余談だが、右系の議員が、卒業式で国歌を斉唱していない教師を摘発しようとしたこともあった。これはこれで、私はいかがなものかと思う。歌う歌わないは、教師も生徒同様自由であるべきだと思う。私は思想はど真ん中だが、ボーイスカウトの指導者(短期間だが副長をしていた)としての経験から国旗は極めて大切に扱うし、国歌も歌う。

前述のように、団塊の世代が現場から去り、組合の組織率が低下し、左の価値観も1990年を境に大きく変化した。現状はどうなっているのか、正直なところ、いくらコミュ力に自信のある私でも非常に聞きにくい話なので、よくわからないという曖昧な結論になってしまうのだった。

2024年3月5日火曜日

高校教育現場の社会学3

高校教育現場の社会学その3である。今回は学歴というか、出身大学から見た私の私感である。もちろんタイトルは社会学であるから、それなりの法則性を打ち出したい。(笑)
これまで多くの教育現場を歩んできた。京大・阪大・神大などの国立の難関校、大教大・京教大などの国立教育大学、現大阪公立である市大・府大・大阪女子大などの公立校、地方の国立大学、関関同立とそれに続く様々な私立大学(私はここに含まれる。)といったような出身校があるのだが、私の見た公立高校の現場では、関関同立出身者がメジャーだった。これが第一のテーゼである。

ここに、国公立の大学出身者が交じるのだが、京大の出身者は自分の出身大学のことは決して自ら口にはしないという特徴があった。周囲からもれ伝わる感じ。なるほどと思える優秀さ(教養のゼネラルさや事務能力の高さ)を持っている。一般の京大出身者からすれば高校教師という道はマイナーだろうが、部活の指導をしたいとか、家庭教師や塾で教える喜びを得たとかでこの職にある人が多い。もちろんだが、教科の専門的領域にはすこぶる詳しい。阪大出身者も同様だが、優等生のイメージがつく。神大出身者は、自分の出身校を自ら名乗ることが多い。難関校出身者には、この辺の微妙なスタンスがある。これが第ニテーゼ。関関同立の出身者の中にも、そういった微妙な空気がないことはないのだが、メジャーであるという安心感があまり目立たせない。

関関同立に続く私立出身者については、自らの専門領域や部活指導、クラス運営などで、その力を発揮する人が多かった。メジャーではないが、それ以上の働きをしようという微妙なコンプレックスがその原動力ではないかと私は推測する。これが第三のテーゼである。

公立の高校教師の世界は、給与面や校務分掌で長になることにおいては、全く学歴による差はないといえる。完全な実力社会だとは言わないが、それなりの教師集団内のコンセンサスが必要である。ただ、管理職となると、やはり学歴は少なからず見られるような気がする。というより、高学歴であればそれなりの管理職を目指すという資質を持っているといった方がいいかもしれない。ただ私の知る京大出身者はそのルートを好む人はいなかった。

高校教育現場では学歴は、あまり意味を持たない。そもそも企業と違って、その優秀さや実績を明確に数字で表すことはできないし、求められる資質も異なる。専門領域の学識が高くても、教える生徒にどれだけうまく伝えられるかが重要だし、コミュニケーション能力も大きい。まあ人間力がものをいう世界である故、学歴は教師にとってそれほど重要ではない。ただ、受験指導の際は、それを乗り越えてきた自分の歴史そのものであるから、私は大いにリスペクトする。だが、当然それを乗り越えるべく努力する微妙なコンプレックスが働くので、勝ることはないだろうが劣ることはないと思っている。

まとめると、(大阪の)公立の高校現場では、関関同立出身者がメジャーで、サンドイッチのように国公立層とその他の私大層がそれをはさんでいる。高校現場での学歴による優劣は、それぞれがプライドやコンプレックスを内在しながら働くし、受験指導以外の教師の重要な資質とは関連しない故にあまりない。ただ、管理職を目指す層は京大を除く国公立層に多い、ということになる。

2024年3月4日月曜日

三崎高校の卒業式 感無量

Facebookで三崎高校の卒業式の様子を見ることができた。最後の退場シーンだけだったけれど、感無量である。卒業生は、私が塾長をしていた時の1年生で、塾での指導のみだったけれど、大切な教え子たちである。今年も小規模校故のアットホームな卒業式だったようだ。おそらくこの2年間で先生方の顔ぶれも少し変わったのだと思う。地域創生の様々な取組についてますます発展的に頑張っているようだ。これからの三崎高校の益々の発展を祈りたい。

2024年3月3日日曜日

宮沢賢治 マグノリアの木

宮沢賢治を法華思想から読み解くというエントリー再開である。「風の又三郎」の中にある「マグノリアの木」を選んでみた。

まずは、非童話的な物語の概説。諒安という人物が、霧の深い険しい道を歩んで、眠りについた。そこに「これはこれ 惑う木立の中ならず しのびをならう 春の道場」という声がはっきりと聞こえてきた。すると霧が晴れ、マグダリアの木の花が咲いており、「けわしくも刻むところの峯々に いま咲きそむるマグダリアかも」という声が聞こえた。頂上には、歌を歌う子供が2人いたが、聞こえた声は子供のものではなかった。諒安が「マグダリアの木は寂静印(四法印の涅槃寂静)です。ここはどこですか。」と聞くと、子供たちと同じなりをした諒安と同じくらいの人が寂静の背後にいた。「あなたがですか。霧の中やらでお歌いになったかたは。」と聞くと「ええ私です。またあなたです。なぜなら私というものもまたあなたを感じているのですから。」諒安は、彼とこの険しい山谷一面にに咲くマグダリアを見た。マグダリアは、覚者の善であり尊い偈を送ると彼は語り、二人は恭しく互いに礼をしたのだった。

この童話を読んだ時、私はすぐ雪山童子を思い出した。涅槃経に説かれた釈迦の前世での求道心の強さを説いた有名な説話である。雪山とはヒマラヤのことで、釈迦は童子(子供)だったがここで修行をしていた。すると、「諸行無常 是生滅法」という偈が聞こえてくる。この偈の続きが知りたいと声の方に行くと、虎がいた。「ぜひその続きを聞かせてほしい。」と頼むと虎は、「空腹故に無理だ。」と答える。「ならば私を食してください。続きを聞かせてくれれば、本望。ただし、この偈を書き残したい。」と念願する。虎は「消滅滅己 寂滅為楽」と教えてくれる。雪山童子は、自分の指を切り、血でこの偈を書き残す。この不惜身命の求道心に虎の姿をしていた帝釈天は雪山童子を褒め称え、未来の成仏を説いたという話である。ちなみに、この「諸行無常 是生滅法 消滅滅己 寂滅為楽」が「いろは歌」(色は匂えど散りぬるを…)である。

この「マグダラの木」は、「これはこれ 惑う木立の中ならず しのびをならう 春の道場」「けわしくも刻むところの峯々に いま咲きそむるマグダリアかも」という偈というか歌が聞こえてくる話。雪山=ヒマラヤをイメージするような霧の険しい山谷は、宮沢賢治の想う修羅の現実世界であり、それを乗り越えた諒安に、涅槃寂静を意味するマグノリアの木が見えた、という「諸行無常 是生滅法 消滅滅己 寂滅為楽」の話そのものなのである。2人の子供がいることも、雪山童子の「童子」をイメージさせる。「私です。またあなたです。なぜなら私というものもまたあなたを感じている…」という箇所も、法華経における七喩で説かれる仏性の湧現を強くイメージさせる。最後の礼は、互いをリスペクトしている様子で、法華経流通分にある(全ての人の仏性の存在を確信し、全ての人を仏として拝礼した)不軽菩薩のイメージが膨らむ。この「諒安と同じくらいの人」は、仏か帝釈天かは分からないが…。

2024年3月2日土曜日

学園卒業式の日

3月1日は、学園の卒業式であった。今年の卒業生は2年間教えた生徒なので、親近感は昨年以上である。男子生徒とも、女子生徒とも一緒にたくさん記念写真を撮ったのだった。またもう卒業したので、連絡先も教えても良くなった。さっそく、GメールやLINEでともに撮った写真を送ってきてくれた。(前述のようにWi-Fiが使えなかったのだが、スマホに入ってきた。笑)

三崎高校の卒業式はLIVE配信されているはずだが、今年は学園と日程が重なって見れなかった。さきほどWi-Fiが繋がったので調べてみたが、まだ編集中のようだ。残念。みんないい顔で卒業していったはずである。

両校とも、大事な教え子たちが、国公立に挑戦し、結果待ちである。学園では、多くの生徒が状況を報告してくれた。東京の名門私大W大やC大に一般試験で合格し、余裕のある者もいた。私大組は、関関同立の志望校にかなりの生徒が合格しており、今年の文系はなかなか頑張ったようだ。三崎高校も同様であって欲しいところ。

最後のHRも終わり、グランドではサッカー部の卒業生が、後輩と最後の試合をしていた。(画像参照)聞くと4試合10分ずつの対戦とのこと。私が見ている間には、両者無得点だったが、やはり後輩が押していたと思う。(笑)今年の2年生は、なかなか強いらしいので、インターハイ出場を大いに期待したい。ちなみに、今年教えている2年生のサッカー部員は勉強の方もなかなかよくやっていて、きっと国公立やW大に行く生徒も多く出るだろうと思う。まさに文武両道である。

Wi-Fiがストップした3日間

我が家のWi-Fiが急にストップして使えなくなったので、ブログの更新ができないままであった。とにかく不便極まりない状態であった。(笑)まあ、機器の寿命のようで、諸行無常である。このところ、洗濯機、電子レンジ、そしてWi-Fiと続いている。石川県の被災地の皆さんのことを思えば大したことはない。早速、ブログを再開したいと思う。

EOのサービスセンターと妻が長時間(私も少しだけ)やりとりして復旧した。丁寧に対応していただいて、しかもテスト用(もしくは次の使用するかもしれない)機器を速達で送っていただいた上、四国の三崎で使っていた古い機器を使うことになったので、着払いで返却することになった。費用面での実害はない。電話代も0120だし。感謝しかない。せめて画像で宣伝に一役買っておこうと思う次第。