この童話を読んだ時、私はすぐ雪山童子を思い出した。涅槃経に説かれた釈迦の前世での求道心の強さを説いた有名な説話である。雪山とはヒマラヤのことで、釈迦は童子(子供)だったがここで修行をしていた。すると、「諸行無常 是生滅法」という偈が聞こえてくる。この偈の続きが知りたいと声の方に行くと、虎がいた。「ぜひその続きを聞かせてほしい。」と頼むと虎は、「空腹故に無理だ。」と答える。「ならば私を食してください。続きを聞かせてくれれば、本望。ただし、この偈を書き残したい。」と念願する。虎は「消滅滅己 寂滅為楽」と教えてくれる。雪山童子は、自分の指を切り、血でこの偈を書き残す。この不惜身命の求道心に虎の姿をしていた帝釈天は雪山童子を褒め称え、未来の成仏を説いたという話である。ちなみに、この「諸行無常 是生滅法 消滅滅己 寂滅為楽」が「いろは歌」(色は匂えど散りぬるを…)である。
この「マグダラの木」は、「これはこれ 惑う木立の中ならず しのびをならう 春の道場」「けわしくも刻むところの峯々に いま咲きそむるマグダリアかも」という偈というか歌が聞こえてくる話。雪山=ヒマラヤをイメージするような霧の険しい山谷は、宮沢賢治の想う修羅の現実世界であり、それを乗り越えた諒安に、涅槃寂静を意味するマグノリアの木が見えた、という「諸行無常 是生滅法 消滅滅己 寂滅為楽」の話そのものなのである。2人の子供がいることも、雪山童子の「童子」をイメージさせる。「私です。またあなたです。なぜなら私というものもまたあなたを感じている…」という箇所も、法華経における七喩で説かれる仏性の湧現を強くイメージさせる。最後の礼は、互いをリスペクトしている様子で、法華経流通分にある(全ての人の仏性の存在を確信し、全ての人を仏として拝礼した)不軽菩薩のイメージが膨らむ。この「諒安と同じくらいの人」は、仏か帝釈天かは分からないが…。
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