2023年5月31日水曜日

キルクーク 資源の罠

https://mainichi.jp/articles/20171017/k00/00e/030/166000c
クルディスタンといえば、昨日記したように、地理で教えるイラク北部のキルクークの地名が浮かんでくる。「クルド人を知るための55章」には、この辺の詳しい記述があって興味深い。

WWⅠ後、オスマン帝国のモースル州をイラクに組み入れたのはイギリス。この辺の悪どさは流石である。当然ながら、ここの石油資源はイラク建国後もその支配下に置かれた。(この本に記載はないがBPかシェルだろうと思う。)1970年代の資源ナショナリズムで国有化され、名実ともにイラクの富となったのだが、1960年代からクルドの反政府ゲリラが活発化しており、イラク政府はクルドを油田地帯から遠ざけようと、県境を変更したり、クルド人地区を他県に併合したり、南部に強制移住させたりした。これによって石油施設で働くクルド人は激減した。またパイプラインは1977年に敷設されたが、クルド人居住区を迂回させている。1970年には、政府とクルド政党の間で自治合意が結ばれていたのだが、キルクークを自治区に含むか否かで数年後に合意は破綻する。まさにキルクークは、迫害の象徴であったわけだ。

反政府ゲリラ活動が続いていたこともあって、キルクーク以北のクルド人居住区での資源開発は進展せず、1990年代にイラク軍が撤退し、事実上の自治区になってからも、技術や資金のないクルドが本格的開発を行うことはできなかった。製糖工場のパーツで簡単な石油精製施設を作り日産3000バレルの生産がやっとだった。当時のイラクの(南部の)石油生産量はイラク戦争直前の2002年でさえ日産200万バレルで、クルドの石油生産は無視できるほどのものだった。

2003年のイラク戦争後、フセイン政権が崩壊、民主化プロセスの下2005年に連邦制の新憲法が制定された。翌年、新石油法(政府が一元的に国内の天然資源を管理する)で、アラブ政党と自治区内の資源開発の最終決定権を主張するクルド政党は対立、暗礁に乗り上げる。クルド自治区は、地域法として自らの石油法を制定、地方分権を定めた憲法を盾にして国際石油会社へ猛烈なロビイングを開始した。外資を締め出した中東地域にあって、なし崩し的に既成事実化した。シーア派政権に変わったイラクと関係がこじれていたスンニー派のトルコ政府は、裏庭で算出される石油・ガスは魅力的であったし、イラク・クルドと良好な関係をもつことは、トルコ・クルドのゲリラ(PKK)取締にも有効と判断、従来のパイプラインにクルドのパイプラインを接続させた。自治区はついに、イラク政府に頼ることなく採鉱・開発・生産・輸出の一連の主導権を得たのである。

イラク政府は、トルコへのパイプライン輸出開始と同時に制裁措置として自治区への予算配分を停止した。自治政府の想定では、日産100万バレルに達し、予算配分なしても十分やっていけると判断していた。だが、国際市況で1バレル$100を超えていた価格は2014年に$50を割り込み、しかもイスラム国がモースルを陥落させ自治区に進撃を開始。安定したビジネス環境は吹き飛んでしまう。輸出量は日産20万バレルにまで落ち込んだ。しかも、イスラム国によるアラブ人難民が押し寄せ大混乱となる。幸い、べシュメルガがイスラム国との戦闘でキルクーク油田を接収し日産60万バーレルまで引き上げたが、今度はイスラム国との戦闘ということでイラク軍がキルクークの街と油田を奪還した。その後は、パイプラインは維持されているものの、輸出量は半減し、石油を引き渡すかわりに予算配分を再開するようとの交渉が行われ、難航している。

イランのクルディスタンにとって、キルクークの油田はまさに天然資源の罠であり、紛争の罠であったわけだ。

2023年5月30日火曜日

クルドとユダヤの関係 考

「クルド人を知るための55章」を読んでいる。中東問題を考える上で無視してはならない問題だ。ステレオタイプ的に言えば、クルディスタンは、スンニー派ということになっているが、クルディスタンの宗教事情はかなり複雑なようだ。特に、スーフィー(神秘主義)も多いらしいし、ヤズィーディー教徒もいるようだ。そもそも、かなり広大な範囲に分散しているし、その地方地方で共同体があり、統一的な運動体になり得ていない。故に独立運動も停滞しているようだ。基本的に多民族からは僻地の山岳民族と蔑視される傾向があるようだ。

今回少し驚いたのは、クルディスタンの地域にユダヤ人コミュニティーがあり、かなり親密な関係を築いた歴史があるようだ。特にイラクでは1940年代に反ユダヤ政策が取られ、ユダヤ教徒の脱出(イラン経由の移民空輸作戦が行われ12万人が脱出)が続いた。その中に現在、エルサレム近郊に15万から20万人近いクルド系のユダヤ人がいるとされるそうだ。クルディスタンとユダヤの関係は、イスラエルとの関係に置き換えられ、イスラエルのクルド支援という関係が続いている。

1966年8月、イラクに配備されたソ連製のミグ21戦闘機をイスラエルが奪うという事件がおきた。キリスト教徒のパイロットがミグを操縦してイスラエルの空軍基地に着陸したのである。もちろんモサド(イスラエルの諜報機関)の作戦で、クルド空爆の任務を与えられたことに耐えきれずの決断だったという。家族も奇形実行の日、ピクニックを装ってイラン国境を超え、空路イスラエルに入国した。このエスコートをしたのはクルド人組織だったという。

イスラエルにとって、クルディスタンをパートナーに持つことの意味は大きい。クルドのペシュメルガ(イラク領クルディスタン自治政府が保有する軍事組織)をイスラエルの軍事企業が訓練しているという事実もあるようだ。2015年には、イスラエルがクルド原油(イラクの有名な油田地帯・キルクーク産のものかと思われる。)の1/3を購入したと話題になった。イラク政府とクルディスタン自治政府の対立で、イラク政府が買い手に強硬姿勢を取るようで、クルドの原油は格安のようだ。歴史的な親近感だけでなく、実利的な問題もあるようである。

2023年5月29日月曜日

エルドアン勝利とアフリカ

https://www.institutmontaigne.org/en/expressions
/portrait-recep-tayyip-erdogan-president-republic-turkey
トルコ大統領選挙は現職のエルドアンが勝利したというニュースが流れてきた。特に応援していたわけではないけれど、ちょっとホッとした。激動する中東情勢にとっては、NATOや西側に対して是々非々なので、イスラエルをさらに抑える力が働く。シリアとの関係は微妙だが、アラブ連盟に復帰したシリアとトルコは難民の帰還問題に関しても進展する可能性がある。(野党候補の勝利ならおそらく進まない。)ロシアとウクライナの仲裁に関しても唯一期待できるわけで、現状維持ではあるが、あらぬ方向への転換でないところがいいと私は思っている。

また意外に、アフリカとエルドアンのトルコは関係が良好であるそうだ。アフリカ諸国は固唾を飲んで見守っているという報道もあった。かの有名になったトルコのドローン兵器は、サヘル諸国の対テロ戦に使われているらしい。軍事支援だけでなく、様々な支援もしているらしい。アフリカ・ウォッチャーとしても、ホッというところ。

2023年5月28日日曜日

カルヴァン派と民主主義

https://withnews.jp/article/f0180907001qq000000000000000W03510101qq000017877A
カルヴァン派とくれば、近代資本主義であるが、民主主義にも大きな影響を与えている。死刑になった国王といえばルイ16世。フランス革命を想起するが、ピューリタン革命のチャールズ1世の方が早い。クロムウェルの父は、ジェントリー階級出身で、枢密院顧問官。ヘンリー8世を助けつつ、国王に対して議会の支持が必要なように持っていった首相格の人物。クロムウェルはそういう名家の出身。カルヴァン派として回心してから、いつ死んでも神のご意思という性格に変わって内乱を指揮した。国王殺しも神の意志であると信じてやったと思われる、というようなことが「日本人のための憲法概論」に書かれている。世界史理解は、やはりカルヴァン派理解が必須だ。

メイフラワー契約も有名だ。マサチューセッツ植民地のコモンウェルスの運営方法などを決めたもの。独立前のアメリカはピューリタンと言うか国教会の分離派=会衆派が多いが、全てではない。しかし、アメリカの民主主義の原点的な位置づけがされていることも事実。

「日本人のための憲法概論」を読んでいて、面白いと思うのは、これらの民主主義は、デモクラシーではなく、共和主義であることだ。クロムウェルは、共に戦った水平派の「人民協約」のデモクラシー的平等の提案を否定しているし、マサチューセッツでは、回心したかどうかが選挙権に関わっている。アメリカの独立革命下でも共和主義的な州憲法が合衆国憲法以前に制定されている。ここでも制限選挙は当然の理として扱われている。

というのも、ギリシャのデモクラシーが結局衆愚政治化してしまったことが印象を悪くしていたようだ。合衆国憲法にデモクラシーのデの字も出てこないのはそういう理由にあるらしい。さらにフランス革命時の普通選挙後に登場したロベス・ピエールの恐怖政治はさらにデモクラシーの評判を下げたわけで、アメリカでデモクラシーの語が再登場するのは独立から半世紀以上必要だったという。意外だが、その語を冠にした民主党のほうが、共和党より早くできている。それぞれ第7代ジャクソン時代と第16代リンカーン時代である。

また、民主主義は、キリスト教的「契約」の概念上にあり、選挙の公約はまさに契約。日本の政党のように建前だとは考えない。この辺以外に重要だと思うので、「公共」の授業の際に生徒に伝えておこうと思っている。

2023年5月27日土曜日

You Tube ベルーガの神戸到来

https://www.aviationwire.jp/archives/276581

You Tubeで、5月10日の エアバス・ベルーガの神戸空港到来を知った。エアバス社製造の海上保安庁のヘリコプター2機を運んできたそうだ。伊丹空港から移ってきた海上保安庁の基地が神戸空港にあるからだという。来たのは2号機。(1号機はすでに退役したとのことで、最も古い機体のようだ。)

このベルーガは、マルセイユから、ドバイやムンバイ、台北など6都市を経由して、関空に一度着陸、入国手続きなどを済ませて、たった20km先の神戸空港に来たらしい。そもそも元の機体A300ー600とエンジン性能は同じらしく、容量が2倍と大きい分、空気抵抗の関係で航続距離が伸びないらしい。…なるほど。

https://www.aviationwire.jp/archives/276621
このベルーガは、エアバスの機体が各国で作られているため、部品を頻繁に輸送している。ヨーロッパ内であるから、航続距離は長くないので問題ないとのこと。よって、今回はかなり特例な長距離輸送&南回りである。というのも、ウクライナ紛争の関係で、そもそもエアバス社製のヘリの輸送に利用していたロシアやウクライナの輸送機を使うことができないこと。しかもヨーロッパと日本の最短コースであるロシア上空を西側の航空機が飛べないことなどが、今回のベルーガ来航の謎解きらしい。

https://trafficnews.jp/photo/121574
私は、こういう異形の航空機が大好きである。ベルーガ、是非生で見たいものだ。そうそう、NASAのスーパー・グッピー(上記画像参照)も見たいな。こちらはベルーガ以上にレアな存在。そのうち航空博物館に行くことになるだろう。おそらくオハイオ州・デイトンの空軍博物館。ワシントンDCのスミソニアン航空宇宙博物館には入り切れないだろうと思う。

2023年5月26日金曜日

イギリスの貴族院のこと

https://twitter.com/heritage_tbs/sta
tus/764234523378724864?lang=de
いよいよ「日本人のための憲法言論」(小室直樹)の内容についてエントリーしようと思う。「公共」の授業で、政治分野を面白くするために読んだと言っても良いのだが、なかなか過激な論調なので使える部分を中心にまとめたい。だいぶ熟慮したうえで、イギリスの政治制度、アメリカの政治制度、そして日本の政治制度を対比しながら、日本国憲法に踏み込んでいきたいと考えている。

まずは、イギリスの政治制度なのだが、そもそも議会が成立したのは、中世から近世にかけて、国王と貴族階級のパワーバランスが問題になっている。当然ながら、中世の封建制度下、貴族と契約を結んでいた国王は立場が弱かった。税の問題や傭兵の問題など貴族の協力無しには成り立たない故に、貴族を集め一気に交渉したいという思惑から議会が生まれた。貴族側は伝統的な慣習を国王に守らせるためにこれに答えたわけで、民主主義といえば議会という現在のテーゼは成立しない。もちろん、議会は貴族院である。上院という名よりもイギリスは貴族院といったほうが、はるかに正しい。やがて、庶民院が「模範議会」という名で世界史に名を刻んでいくが、これも庶民=一般大衆ではない。ジェントリーやヨーマンといった準々貴族・準々々貴族の議会で、全人口の1%にも満たない代表である。

ヘンリー7世くらいから、貴族階級への対抗措置として、彼らを優遇し始めるのである。ヘンリー8世の宗教改革では、彼らを味方につけ国王至上法を成立させた。ただ、この後、議会の影響力は強まり、国王は議会と折り合いをつけていく必要が生まれた。かのエリザベス1世は見事に議会に自分の意思を代弁させ、スペインに勝ったわけだ。しかし、その後のスコットランドから来た国王連中は、そのへんが未熟でヨーマンのクロムウェルに討たれることになる。ピューリタン革命から名誉革命に至る混乱後、現在の君臨すれど統治せずの原則が確立されたわけだ。

現代の貴族院は、だいぶ様相が変わっている。当然ながら庶民院の方に優越がある。また世襲貴族の議員数は制限されているし、社会に貢献した一代貴族=男爵が中心になっているので、単純小選挙区制で、ともすれば一時的な世論に流されがちな庶民院への補完機能を保っていると最近は言われている。

https://www.meisterdrucke.jp
…イギリスの貴族院の成り立ちは、極めて現実的で非民主主義的なものであるが、名誉革命以後は、ローマの元老院を彷彿とさせる。ローマの元老院における貴族は、高い専門性と誇りを持っていたエリートである。もちろん長いローマ共和政治のなかで紆余曲折はあるものの、民会との関わりの中で、人類史上の様々な政治的実験を繰り返してきた。ローマに学ぶことは多い。この辺の人類の財産とも言うべき経験値が、イギリスでは一代貴族中心の貴族院に蓄積されているかのようだ。(そこまで専門性はないので、あくまでもイメージではあるのだが…。)

2023年5月25日木曜日

祝 マンゴー購入と神戸の事件

先日のフィリピン産パパイアに続いて、タイ産のマンゴーがやってきた。さらにおたふくソースで使われているの大粒のサウジアラビア産のデーツも、である。これらは、妻があまり行くことが少ない国道1号線沿いの某スーパーで見つけたもの。いやあ、マンゴーも楽しみである。気分はマレーシアである。

ところで、昨日、ガンビア人ムスリムが神戸の神社で器物破損などの容疑でつかまったそうだ。ガンビアは、西アフリカのセネガルに周囲を囲まれたガンビア川三の国。有名なTVドラマ「ルーツ」の舞台である。ムスリムが90%をしめると外務省のHPにある。もう少し詳しく調べると、スンニ派で法学派はマーリク学派のようである。シャリーアで、第二の法源であるハディースに、正統カリフ時代のウマルの制定した法を加えているのと、イジュマー、キャースに”ウルフ”と呼ばれるシャリーアと直接矛盾しない地方(特にメディナ)の風習も含んでいる。これらが、今回の偶像破壊的な事件と関係するのかどうかはわからない。日本イスラム教会は速攻で、この事件を起こしたガンビア人を非難したようだ。復古主義の過激派はともかく、一般のムスリムは他者の内面に決して踏み込まない。かなり特殊なムスリムであると思う。

2023年5月24日水曜日

西田哲学の絶対矛盾自己同一

https://weekly-economist.
mainichi.jp/articles/20210
803/se1/00m/020/016000c
「不識塾が選んだ資本主義以後を生きるための教養書」(中谷巌/集英社インターナショナル)の小川尚登氏の西田哲学のコラムの続きである。難解な「絶対矛盾自己同一」について。小川氏はこれを現代風に言うと「創造するための方法論」だとしている。この言葉は閉塞する現代において矛盾に満ちた世界を矛盾のまま捉えることが必要だということを強く我々に突きつけている。神を超え、理性で超克できる様に見えた人類の文明は臨界点にさしかかっている。民主主義も資本主義という制度のあり方を根本から問い直し、議論を進める必要があるということである、とも。西田哲学は、「問い続けよ」と言っている。この絶対矛盾という言葉は重い。相互理解し寄り添っていくということは不可能だという認識のもと自己同一を達成せよということなのである。

和辻哲郎は、風土の中で、日本人の特性を「しめやかな激情、戦闘的な恬淡(てんたん:あっさりとしていること、執着しないこと)」と表現している。この言葉の矛盾に満ちた言葉の背後の影を感じることこそ、西田哲学の純粋経験であり、絶対矛盾自己同一であろうと小川尚登氏は締め括っている。…なるほど。面白い。

中間試験後は、倫理の授業は日本思想史に突入するのだが、和辻哲郎から入ろうと考えている。日本の思想を全体的に把握するのにふさわしい思想家であるからだ。

2023年5月23日火曜日

西田哲学の純粋経験 A B C

「不識塾が選んだ資本主義以後を生きるための教養書」(中谷巌/集英社インターナショナル)を開いて、私が最も興味を持ったのは西田哲学の内容だった、と以前書いた。本日のエントリーは、小川尚登氏の「西田哲学とスティーブ・ジョブズと題されたコラムについて記したい。まず西田哲学の全体像について記されている。

ここでは、詳細を避け、西洋哲学とのベクトルに違いについてだけ記しておきたい。「超越的な知性の絶対を求める静的な西洋哲学とは違って、東洋の真理とは静止したものではなく、無常という動的なものであるから、わかった(=分析できた)と思うではなく、つねに探求し続けていくことが重要である。(中略)どこまで掘ってもさらに掘り下げていかなければならない底なしの世界が東洋思想なのである。」というのが、小川氏の主張。…たしかに。西田哲学とは仏教の西洋哲学的言語化であるので、縁起説が基盤になっている故、そうなる。

この前提の上で、西田哲学の「純粋経験」について述べられている。(西田哲学は)掘るのである。いかに掘り下げていくかというところに意識が向いている。自己を見せびらかすのではなく隠していこうとする、これが純粋経験である。純粋経験とは、今を大切にし、自己を知的に研ぎ澄ませながらも、その一方で自己をなくすことで世界と共鳴していくプロセスと言うことができる。純粋経験は、新生児の意識や花を見てきれいだと思った瞬間、ピアノ演奏で勝手に指が動いたり、何者かに弾かされている感じなど、感覚や知覚、記憶や想像、感情や意志等すべての精神現象を対象にしている。

「善の研究」を読むと純粋経験には、三段階あることがわかる。純粋経験A:最も究極的で理想的な純粋経験としての「知的直観」。純粋経験B:反省的思惟のように、主客の分裂を前提とする分別的作用や判断的作用。それらの作用を通し、統一的惑者(=純粋経験A)が生まれる。純粋経験C:ここの意識の背後あるいは根底にある普遍的な原罪意識。

純粋経験は、C→B→Aと弁証法のように発展していく。ただし、弁証法と言っても静的な最終到達点(ヘーゲルの歴史哲学では自由)はなく、純粋経験は、不断に分裂と統一を繰り返しながら体系的に自発発展していく普遍的な意識の流れ、あるいは生命の流れである。

純粋経験Cは、リベラルアーツであるというのが小川氏の結論である。単に本を読み共用を身につけるだけではなく、自分なりの仮説を立て他者にプレゼンしていくプロセスの中で切磋琢磨していく必要があり、CがあってこそBがあり、Aがあるわけだ。

スティーブ・ジョブスが2005年にスタンフォード大の卒業式で行った有名なスピーチで強調したのは、まず”点をつなぐ”ということで、自分を信じて打ち込むことが重要であると述べている。彼は学生時代から東洋思想に深く傾倒し、それが経営哲学に組み込まれた。これは純粋経験C。それがBを経てCの知的直観に達した、と小川氏は分析する。また彼は膵臓がんに侵され死を覚悟していた時期でもある。知的直観を鍛えろというスピーチは、西洋人インテリが東洋思想に耳を傾ける時代がきたような感覚があるが、日本人として西田哲学を学ぶ意義は大きいと小川氏は説くのである。

2023年5月22日月曜日

祝 パパイア入手。


妻が、業務スーパーで、パパイアを買ってきた。残念ながらフィリピン産(フィリピンに大変失礼ではあるが…。)で、マレーシアのパパイヤよりかなり小さい。とはいえ、大好物のパパイアである。食べるのを楽しみにしている。マレーシア産のライチ・マンゴー・パイナップルのナタデココ・プリンも6個入り一パック。ハラルマーク付き。1つ50円換算。安い。最後に、サウジアラビア産のデーツ。これらも食べるのが楽しみ。

大阪に帰ってから、あまり贅沢はしていないのだが、こういうマレーシアを連想させる食品には目がない我が家なのであった。(笑)ところで、PBT最寄りのメガ・モールで大火災があったようで心配している。当分休業なのだと思うけれど、一刻も早い再開を祈っている。

教師の条件は謎となること。

「一神教と国家」(中田考・内田樹)の書評、最終回。中田氏のあとがきより。素敵な記述をエントリーしておきたい。内田氏のことを、謎の人、生まれながらの教師と評した後、『結局のところの、教師の条件は、1つだけあり、それは生徒にとって謎であることであり、謎でなくなった時、その人は師たることを終える。なぜなら知を起動するのは好奇心であり、未だ想像もできないことへの憧憬だからである。その効用が予めわかっているようなもの、それを学ぶことで何が得られるか容易に想像できてしまうようなもの、そんな出来合いの知識を教える者は職人か、商人であって、教師ではありません。(中略)教師の仕事は生徒の学びのトリガーとなることであり、それだけである。学びの主役は教師ではなく、生徒にある。』とある。

これは、もちろん大学の教師像ではあるけれど、ここで中田氏が語ろうとしていることは、高校教師たる私にもよく理解できる。だからこそ、このブログを備忘録としてわずかながらも日々、知を集積しているわけだ。私も「謎」の人であり続けたい。

2023年5月21日日曜日

日本人のための憲法概論

「不識塾が選んだ資本主義以後を生きるための教養書」(中谷巌/集英社インターナショナル)を読んでいて、これは手に入れたいと思った本が先日届いた。「日本人のための憲法概論」(小室直樹/集英社インターナショナル)である。著者は、京大の理学部数学科、阪大大学院経済学研究科を経て、フルブライト留学生としてミシガン大学大学院で計量経済学、ハーバード大学大学院で心理学と社会学、MIT大学院で理論経済学を学び帰国、東大大学院法学政治学研究科博士課程修了。東大法学博士。理系でありながら社会科学を極めたような方で、故人である。

今、200ページほど読んだところなのだが、実に面白い。「公共」の授業の参考になればと思い、読んでいるのだが少しになる箇所があった。パウロを12使徒の一人と記述されているところである。パウロは12使徒には入っていない。(断言)そこで、この本の信憑性は大丈夫なのか?という疑問が湧いた。で、ウィキで著者のことを調べてみて驚いた。橋爪大三郎氏の師匠であることがわかったのだ。また東大では丸山眞男に師事している。一方で保守派の論客と見られており、左派のような右派のような…。なんとも偉大な碩学であり、同時に、奇人という一面もあったようだ。とにかく、このまま読み進めていこうと思っている。

2023年5月20日土曜日

リヴァイアサンは越境者を潰す

http://arita-episode2.jp/ja
/history/history_6.html
「一神教と国家」のなかで、中田考氏と内田樹氏が興味深い話をしている。リヴァイアサン(領域国民国家)は、越境者を潰してきたという歴史である。中田氏のイスラム教は世界中でアラビア語を共通語としていることこそグローバリズムであるという話から派生してた話である。

内田氏は、ウェストファリア条約後に敵視されたのが、カトリックとユダヤ人だったと言う。彼らは国民国家の概念にうまくなじまなかった。ユダヤ人は国なき民で領域国民国家への帰属意識や忠誠心を持ちようがない、そんなノマド的なあり方がヨーロッパでは忌み嫌われ、ホロコーストに繋がっていく。あまり知られていないけれど、カトリックもとはかなり確執があった。政教分離は19世紀末だけれど、あの頃のフランス文学を読むと、何かあればイエズス会の陰謀にされるくらい悪者扱い。スキャンダルも物価上昇もイエズス会のしわざだと街頭でデモが起こっている。つい18世紀まで聖職者が貴族と並んで権勢を誇っていたのに、一気にイエズス会のような国境を超えるものが目の敵にされた。

同じように、目の敵にされ、暴力的に弾圧されたのが東インド会社。(今日の画像は東インド会社に注文された伊万里焼)イギリス、フランス、オランダで、クロスボーダー的で大船団を仕立てて富を集めた東インド会社は、条約締結権た徴税権、交戦権まで持っていた。領域国民国家を超えるグローバルな存在。よって、近代国家成立する過程で全部潰された。フランスではフランス革命直後に、イギリスでもオランダでもほぼ同時期に解体され、利権はまるごと国庫に持っていかれた。

内田氏は言う。領域国民国家の土台が脆弱だという危機感があったのではないか。ただの恣意的な線に過ぎない国境線というものが人間を隔てる決定的な切断線で、これを超えて利害が一致する者はもはや人間ではないという話を作り込んでいった、と。中田氏は、この排外主義が形を変え名を変え装いも新たにアメリカ型のグローバリゼーションと呼ばれるものになっている。アメリカは1つの国であると同時に世界であると考えている。自分たちのやっていることはナショナリズムなのにグローバリズムだと思いこんでいる。かなりとんでもないことだと思うと結んでいる。…なるほど。

2023年5月19日金曜日

本居宣長の漢意的逆説

http://blog.livedoor.jp/ijinroku
/archives/50209390.html
「不識塾が選んだ資本主義以後を生きるための教養書」(中谷巌/集英社インターナショナル)から、興味深い記述をエントリーしておきたい。「日本人らしさの逆説」というコラム。中心となる教材は「からごころ」(長谷川三千子/中公叢書)である。平成22年度の「日本の思考のかたち」について議論した時の課題図書である。丸山眞男と小林秀雄がそれぞれ晩年に寄り添い読み込んだのが、本居宣長である。日本人であることとは何かという命題は実に難しい。本居宣長は、それを発見し、そのことで自らは日本の内からはみ出したと、長谷川氏は記している。それを「からごころ」(漢意)と呼んだ。

『これは人類普遍の原理である、という言い方はある1つの文化が、他の文化に自分たちのものの見方を押し付けようとする決まり文句であるが、それを日本人は疑わないどころか、自分の言葉として繰り返している。これこそが、漢意(からごころ)という名の文化的倒錯である。』と宣長は見抜いていた、という。

日本人には自ら気づいていない特技が3つあるという。まず、①漢字の訓読という習慣。これによって、漢字・漢文をj国語のうちに消化した。もし、漢文を外国語として受け止めていたなら、日本人は日本語と中国語のバイリンガルになっていただろう。我々の祖先は、そもそも漢字を「言語」を表すものではなく、純粋な資格情報システムと見なし、異言語支配という危険な要素を取り除いたのだ。②返り点をつけるなどして日本語として読むことに成功し、さらに③漢字の音だけを借用してかな文字を発明した。中国語を学ぶ必要はなく、漢籍を理解し咀嚼できるようになった。日本人は中国語を上手に無視したのだが、知らず知らずに我々の心は、からごころ(漢意)に染まることになった。宣長が批判しているのはここである。

この漢意があったゆえに、明治の近代化が可能になった。圧倒的な西洋文明に接した時、かつて中国文明(漢文)を取り入れながらも中国語としては無視したように、西洋文明を受け入れ、西洋を無視できた。日本人は、優れた文明を目の前にした時、それを普遍的なもの、グローバルスタンダードだと思いこむことができる。(漢籍を学ぶことは中国化ではなく普遍的な文化・文明を身につけることだった。)長谷川氏は、この漢意のあり方は、日本人古来の「いにしえごごろ(古意)」と”メビウスの輪”であると言う。どんな外来文明をも取り込む漢意のあり方は、いにしえから続く日本人のあり方だからである。日本人であろうとすれば、かえって「日本人らしさ」から離れてしまう逆説があるわけだ。コラムのタイトルはここに由来する。

最後に長谷川氏の洞察。「我々は、自分たちが何者であるか、その本当の姿を見ないことによって、我々らしさを保って生きている。しかしそうして「見ない」日々を重ねて生きていけば、やがては破綻が現れるであろう。その最たる例は、「日本国憲法」である。9条をめぐる議論ではなく、この憲法が漢意によって作られたものではいかということである。この憲法全体を貫く精神のないことのおぞましさが、人の心を蝕み始める時が来る。」…うーん、卓抜した見方だと私も思う次第。倫理の日本思想史でもこの漢意には必ず触れるので、私の中でも改めて深化したように思う。

2023年5月18日木曜日

不識塾が選んだ教養書

市立図書館で、「不識塾が選んだ資本主義以後を生きるための教養書」(中谷巌/集英社インターナショナル)を借りてきた。手にとってみたら、西田哲学のことが書いてあったので面白そうだと思ったのが最大の理由である。この本は、不識塾という企業研修の場で行われているリベラルアーツの教材として使われている本の紹介とその研修内容について書かれたものであった。https://www.fushikian.jp/program/fushiki/

ただこの不識塾、その辺の企業研修とは違う。スケールがでかい。後のCEO候補のためのもので、研修旅行代や書籍代も含んでいるとはいえ、参加費は1人500万円。

西田哲学の項は、また後日エントリーするとして、この不識塾の存在意義について私なりに思うところを述べていこうと思う。日本企業もグローバル化の中で海外勤務も増えているが、実際のところ、現地の企業幹部などと折衝する場合、現地の歴史・地理・文化・民族性などの無知からうまくいかない場合が多いらしい。日本では、大学の教養課程がとりあえず設定されているけれど、欧米のような学士過程でリベラルアーツを十分に学ぶということがほとんどない。戦前の旧制高校のようなデカンショ(デカルト・カント・ショーペンハウエル:西洋哲学全般と見た方がいい)で半年暮らすような教育はGHQの指導で廃止されてしまった。日本のエリート層といえど、受験の世界史・日本史を詰め込んだにすぎない。そこで、この塾を成立させた中谷氏は、多くの優秀な講師陣とともに、未来を嘱望されている幹部ビジネスマンに実学ではなく、あくまでリベラルアーツを学ぶことで、教養の土台作りを行っているわけだ。

私は、この趣旨に大いに賛同できる。この本を読みながら、いろんなことを思い出した。マレーシアでは国教のイスラム教をさらに調べた。PBTの学生にもいろいろ教えてもらい、学びを深化させた。マレーシアの政治制度(憲法)や経済についてもだいぶ調べた。何より興味深かった故だが、それはアメリカに初めて行った研修旅行でも同じで、帰国後10年間莫大に本を読み、さらに渡米して学びを深化させたし、アフリカ学もまさに同様。私はビジネスマンではないし、こういうリベラルアーツ的な学びは、すぐ授業に活かせるので実学っぽいのだが。(笑)属性のあまりなかったヨーロッパなど他の地域についても、事あるごとに深化させている。興味は、きら星のごとく尽きない。だからこそ、外国人とコミュニケーションが取ることに躊躇しない。(ただ通訳さんが必要だが…。)

昔の話になるが、JICA大阪の高校生セミナーなどの機会に、研修で来ていた多くの国の方とも、地理的な教養がものを言った。M高校英語科の生徒は、私より英語力があるのに、パラグアイやアルメニア、ラオスといった国々のことを殆ど何も知らないし、日本の紹介にも知識が少ないので会話が成立しないということに気づかされていた。これはこれで、高校生とっては大事な学びだと思う。ありがたいことに、その後様々な大学で学び、国際派に成長してくれた。企業の現地ビジネスマンが高校生同様では話にならないわけだ。

また、PBTから秋田大学の国際債資源学科の文系コース(資源政策コース)に何人かの国費・私費の留学生を送り出してきた。聞くと3回生からは全て英語での授業であるらしい。しかも政治的、経済的、法学的、開発・国際協力的、環境的など様々なコースに分かれるのだが、異文化コミュニケーション&文化人類学的分野まである。鉱山開発にあたって、現地のリベラルアーツ的な素養がなければ決してうまくいかない故だ。実際に来馬された秋田大学の先生方にも詳しくお話を聞き、そんなことを説いて勧めた経緯がある。実に面白い大学教育をしていると思うのだ。秋田大学とは、東北大震災直後秋田商業高校に出張した際にも鉱業博物館に行かせていただいたし、御縁が深い。(2011年3月19日ブログ参照)

まずは、この本の最初の感想をエントリーしてみた。またここで推薦されている本についても、さっそく1冊注文したのだった。

2023年5月17日水曜日

そして第12代イマーム

十二イマーム派が成立する最終段階は、「お隠れ(ガイバ)」になったイマームの「再臨」に対する信者の待望感である。「シーア派イスラーム-神話と歴史-」には、イランの小学5年生向けの教科書の内容が記されている。その概略は、第12代イマームは、第11代イマームの子で「ムハンマド」の名を授けられた。預言者ムハンマドは、イマーム(第3代)ホセインの末裔で9番目の子供は私の名前で呼ばれ、別名をマフディーであり、彼の到来をムスリムにとって果報とする、と述べている。このイマームのお隠れは、世の中の状況がイスラム世界の政府の基盤が整うまで続く。神の命令で現れるイマームを迎えるまで社会を良くするために信徒は奮闘しなければならない、というものである。

この再臨する第12代イマームは、アリー、ホセインとともにシーア派教学の三本柱を形成するほど重要で、信者の宗教生活における緊張感は、マフディー到来への期待によって持続される。マフディー到来の年は確定できないが、イスラム暦1月10日(フセイン殉死の日)というのが有力である。フセインがイエスが果たしたような罪の償い的な役割を購うという意味合いがあるようだ。

再臨は、夜明け頃、メッカのカーバ神殿で再臨すると信じられ、先立って天変地異(日食や月食)が起こるとのこと。外見は若者で、黄色のターバンを被り、羊を導く杖をもつ預言者風。だが誰一人気づかない。日が暮れると、天使ガブリエルとミカエルが降りてきて語りかけ、祝福の宣言を行う。夜が明けるまでに、真の信者313人(ムハンマドがメッカ軍と戦ったバドルの戦い参戦者数)が集合、さらにホセインと共にカルバラーの戦いで殉死した72名が加わる。さらに一説によれば、黒のターバンを唯一被ったホセインとアリーの従者12000人が随行する。人々に忠誠を求めた後、手から光が輝き出て、クルアーン48章10節を伝える。そしてカーバ神殿を破壊し再建することに取りかかる。(以前の邪悪なものを根こそぎにする。)その後、メディナに進み、アリーの都・クーファへ進む。近郊のカルバラーにも多くの人が集合する。さらに伝承によれば、この日、天から5000人の天使が下ってきて、さらに正しい人々の名を記した剣が天より下がり、神の戦いが始まる。これは、画期的な世直しの契機である反面、あくまで復活・最後の審判に至る直前の出来事である、と。

なかなか興味深い話で、これまでほとんど知らなかったシーア派理解、しいてはイスラム理解が少し進んだ気がする。最後に超重要だと思われること。十二イマーム派は、先日記したように、シャリーアの体系の最後・キャースが理性に置き換わっている。イラン革命以後、宗教指導者(ウラマー)の専制支配が続いているが、この裏付けとなるのが、ウラマーの理性への法体系的信頼であることだ。マフディー再臨まで、ウラマーが頑張っていくということなのだろう。

2023年5月16日火曜日

第7代から第11代イマーム

https://www.al-islam.org/gallery/photos/image11th.htm
「シーア派イスラーム」にはあえて記載がないのだが、その後のイマームについて調べてみた。第7代イマームは、ムーサー・カーズィム。21歳の時、父の跡、イマームを継いだが長男ではない。長男イスマイールを支持していた者は、分派してイスマイール派を立てた。第7代はアッバース朝によって獄に下され数年後毒殺されてしまう。ちなみに、イラン革命の指導者ホメイニ師は彼の子孫だと称していいるそうだ。第8代イマームは、アリー・レザー。アッバース朝がちょうど2つに分割された時期で、マアムーンは、シーア派の歓心を買うためイマームを呼び寄せ、後継者だとした。しかし、後継者のまま毒殺されてしまう。第9代のイマーム、ムハンマド・タキーは、8歳でイマームを継承した。マムアーンが庇護し、地位を保った。当初イマームの知識の継承が危惧されたが、先代の知識が瞬時に移ったかのような姿(ウラマーとの公開討論)を見せた。マムアーンの死後は著名な学者として人気を博した。アッバース朝カリフの教唆で妻の手にかかって急逝したと伝えられている。第10代のアリー・ハーディーも6歳でイマームを継いだ。軟禁生活を余儀なくされ、シーア派は弾圧された。しかし、彼は様々な言語(ペルシア語・スラブ語など)を取得し、予言者としても有名であった。39歳で毒殺されている。第11代ハサン・アスカリーもまた、軟禁されて毒殺(27歳)されたのだが、クルアーンの解釈書を著している学識者であった。

というわけで、第7代のイマーム以降は学識は保持しているものの、アッバース朝による軟禁と毒殺の歴史なのである。

2023年5月15日月曜日

第2代から第6代イマーム

http://www.hajij.com/ar/islamic-events/item/986-1392-06-12-05-14-34
「シーア派イスラーム-神話と歴史-」のイマーム論を続けたい。第2代イマームは、アリーの長男のハサンである。祖父・ムハンマドに概観と性格・気質が似ていると言われたほど愛されていたが、ムアウィアの陰謀でメディナで毒殺されたらしい。
第3代イマームは、弟のフサインである。彼は、前述のカルバラの戦いでムアウィアに破れ死ぬのだが、パトス的側面を代表するイマームである。殉教の際にも暗殺者を心遣うことが『殉教者の園』に描かれ、前述のタァーズィーエで演じられる。
もう一つ重要なことは、フサインの妻はササン朝最後の王(ヤズデギルド3世)の娘(シャフルバヌー)で、イランとのつながりがここに生まれる。ウマルがカリフの時代、シャフルバヌーは、捕虜となり奴隷に売られかけたが、ムスリムのうち誰かを選び結婚することになった。彼女が選んだのが後に第3代イマームになるフサインだったわけだ。カルバラの戦いの時、女子供はダマスカスのウマイヤ朝にフサインの首級とともに連行された。その中に兄弟が全て殉死したのに、病身であったがゆえに生き延びることになったのが、シャフルバヌーが生んだ(シャフルバヌーは、その直後に亡くなった)アリー・ザイヌル・アービディーンで、彼が第4代イマームとなる。彼は、メディナに戻り、積極的に政治に関与することはなく、耐えざる祈りと周囲への教育に日々を送ったとされ、1日1000回の礼拝を行った。カルバラーで父や親族の殉死を目の当たりにした体験故に、追悼のうちに過ごしたとも言われる。アリーと風貌が似ている良き性格の、忍耐の人であった。
第5代イマームは、このザイヌル・アービディーンと第2代イマーム・ハサンの娘との間に生まれたムハンマド・バーケル。彼もウマイヤ朝の陰謀で毒殺されている。また弟のザイドはウマイヤ朝に対して反乱を起こした人物で、ザイド派が生まれている。

第6代イマームは、ジャファル・サーデク。彼は、シーア派のロゴス面を代表しているとされている。というのは、この時期ウマイヤ朝が没落、反ウマイヤ朝でムハンマドの叔父にあたるアッバース家のアッバース朝が興隆した時代で、アリーの血統とシーア派はうまく利用されることになる。サーデクも各地を転々とさせられた。しかし、彼が力を入れたのは、父以来の教義面の研究・教育で、十二イマーム派の教義を明確にし、同時にスンニ派の4大法学派のハナフィー派の開祖ハニファーやマーレク派の開祖マーレクらが学んでいる。この第5代・6代のイマーム伝承は、ムハンマドの伝承と他の10人のイマームの伝承を合わせたものより多いといわれている。

シーア派では、法的判断の基準として、クルアーン、ハディースとイマームの伝承、イジュマー(共同体の総意)に加えて理性の働き(アクル)を加えている。神には2つの証明があって、これを通じて神の意志を知る。内的な理性、外的な預言者であり、時に理性は内的な預言者、預言者は外的な理性と呼ばれる。理性によって打ち立てられたものは、宗教(法)によって打ち立てられたものに等しいというわけである。スンニ派のキャース(類推)はないわけだ。この辺の相違はなかなか難しいし、興味深いところだ。

2023年5月14日日曜日

アリー・アビー・ターレブ

https://www.shutterstock.
com/search/hazrat-ali
「シーア派イスラーム-神話と歴史-」では、かなり詳細なイマーム論が掲載されている。ムスリムの中でも、ウラマーなどの法学者、世俗的知識人、一般信者の三種にわけて、初代イマーム(第4代カリフである)アリー像が語られている。捉え方が違うというわけだ。今回のエントリーは、まずアリー(アリー・アビー・ターレブ)について見てみようと思う。

アリーは、ムハンマドと30歳ほど離れた従兄弟(ハーシム家一族)であり、ムハンマドに養育され、寝食を共にしていた。最初の男性の信徒(最初の信徒は妻のハディージャ)である。ヒジュラの時の戦士として活躍、イスラム暦2年には娘(ファーティマ)の婿(アリー21歳、ファーティマ15歳)となっている。ムハンマドの後継者としては申し分なかったのだが、ムハンマドの死の直後、アリーら親族が、遺体の洗浄など葬儀の準備をしている間に、初代カリフとして、アブー・バクルが決まってしまったという事実がある。結局(ムハンマドの死の時は、年齢が若かったと見られた)アリーは、第4代カリフとなるのだが…。

ウラマーによるイマーム・アリー像は、ムハンマドから、直接、公然と後継者としての承認を受けた、あるいは暗黙のうちに承認を受けた事に対して最重要視していること、その絶対的信仰が中心となっている。イマームとは、ウンマ(共同体)の政治、宗教のみならずあらゆる問題に対する指導者であり、預言者の代理および後継者としての機能を果たす。イマームが存在しなくてはならない理由は、共同体が常に過誤を犯す傾向があるからで、これを矯正する必要があり、イマームがシーア派の共同体に送られているのは神の恵みだとされる。イマームの資格は、信者・共同体のすべてのことについて最もよく知っている、最も学識のある者でなくてはならない、また預言者同様無謬性を持っていなければならない、さらにハーシム家の者でなければならないという3点が挙げられ、この他に勇敢であること、完全なる資質を保持し、勇気・寛容・男らしさ・慈愛を持っていること、肉体的欠陥がないこと、性格的欠陥がないこと、そして奇跡を行う能力があることが列挙されている。

前述の「ムハンマドから、直接、公然と後継者としての承認を受けた、あるいは暗黙のうちに承認を受けた事」については4つの事件(ムハンマドが親戚縁者に対し最初の宣教をした時、誰も耳を貸さなかったが、10歳ばかりのアリーのみが入信したこと、カイバルの遠征時とタブーク遠征時の2回、「汝と余の関係はアロン(モーセの兄で出エジプトの協働者)とモーセの関係の如き」とムハンマドが述べたこと、ガディール・フンム事件の時公然とアリーを後継者だと説教したこと)が(シーア派・スンニー派両派の)ハディースに記されている。

世俗的知識人のイマーム・アリー像は、欧米で教育を受けた知識人は、合理主義的立場から旧来のイスラム的価値観を重視・再評価・再解釈を試みている。アリーを知的、社会的、人間的知性の典型をして把握し、彼によって開始されたシーア派の真髄を現代に合致した形で理解する必要性を説いたりしている。

一般信者のイマーム・アリー像は、様々な俗信的要素および土着的要素が濃厚で、宗教的感情の表現が表現がしばしば極端にまで露骨である。たとえば、タァーズィーエは、一般信者の宗教的情熱が最も生のまま発言する。これは、3代目イマームのホセイン殉教がモチーフだが、アリー一族の悲運が最大のテーマである。タァーズィーエは、本来死者への哀悼の意味だが、19世紀後半期にモッハラム月(1月)最初の10日間に劇場で受難劇が演じられ、10日目(アシュラー)にクライマックスを迎える。これが、PBTの(スンニ派の)学生たちが、シーア派はクレイジーだと言っていた、上半身裸で互いをムチなどで打ち合い血を流すアシュラーである。…なるほど、たしかにすごい宗教的情熱だと思う。

イマーム・アリーは、様々な人の間で多様に受け止められているが、嶋本氏は、「真に影響力をもつ宗教は、単なる思弁の産物でも、また露骨な感情流出の結果から生まれたものでもない。熱烈な信仰や禁欲主義は、時として極端で過激な党派主義に陥ったり、あるいは社会からの逃避をもたらす。また逆に、宗教を冷徹な理性の力で理解し去ろうとするのは愚の骨頂と思われる反面、宗教に確固とした理論的枠組み、組織化がなければ、その宗教を永続化させることはできない。教義とそれに基づく社会活動の規範としての宗教は、合理性を持ち、それゆえに永続性を持つと考えられる。両者の間に程よい調和がなければならない。現代シーア派の思想家が、ロゴスとパトスの両面から宗教を理解し、アリーを両者の体現として把握している点は、宗教的シンボルを以上の脈絡で理解する際、非常に示唆的であると思う。」というハサン・サドルの見解は示唆に富んでいると述べている。…たしかに。

2023年5月13日土曜日

十二イマーム派について

枚方市のと図書館で、「シーア派イスラーム-神話と歴史-」を先日借りてきて「一神教と国家」に続いて読んでいる。著者の嶋本隆光氏は大阪外大(現阪大)教授で、シーア派研究の第一人者であるそうだ。

私はあまりシーア派については知らない。新潮選書の「シーア派とスンニ派」(池内恵/2018年)を一読したくらいで、政治面からのアプローチが主だった。この本は、教義面から十二イマーム派について深く考察されている。この本を借りた理由の一つに、先日学園で世界史担当の若い先生から、「カリフと(シーア派の)イマームの相違」について問われたことに由来している。「ほぼ同じだと思うけど…。」とあいまいな回答をしたのだった。この際、きっちりと学ぼうと思ったのだった。シーア派のイマームについては、七イマーム派とも呼ばれるイスマイール派(ファティマ朝でカリフと呼ばれていく)や、世界初のシーア派王朝(アリー朝)を立てた五代目のイマームをザイドとするザイド派などがあってややこしいのだけれど、イランの十二イマーム派が最も勢力が大きいし、現代の中東にも大きな影響を与えているので、この本は実に有効だと思うのだ。

2023年5月12日金曜日

大人買い。

このところ、イスラム教のエントリーが続いているので、ちょっと休憩。休日にはできるだけ妻と歩くようにしているのだが、スーパーマーケットのMという店に行くことが多い。時々安売りをしているのだが、私のお目当ては、幼い頃から大好物の「別寅の梅焼き」である。(四国ではついぞお目にかからなかった。関西ONLYなのかもしれない。)最近はインフレで128円の値札がついている。以前は88円だったのに酷い話だ。ところが先日78円になっていたので、大人買いをしてしまった。(笑)小腹がすいたときに、ちょっと1個という具合で食べている。ささやかな幸福感。…それだけの話しなのだが。

2023年5月11日木曜日

シリアのアラブ連盟復帰

https://jp.freepik.com/premium-vector/arab-
league-member-states-flags-wavy-national-
flags-of-countries-of-arab-league-arab-world-flags_23552422.htm

どうやら、アラブ連盟から排除されたシリアが復帰するようだ。この事実は、サウジが音頭を取って、アラブ諸国全体が、反米、親BRICSへと舵を切ったと読み取れる。

中東でのアメリカの影響力はさらに低下するだろう。トルコの大統領選挙の結果次第でさらに状況が大きく変わる。日本は決して無関心ではいられない。

2023年5月10日水曜日

法人概念はムスリム最大の敵

https://yaf.ps/page-1245-en.html
「おどろきのウクライナ」(橋爪大三郎+大澤真幸)では、イスラム教国では法人の概念がないので民主主義が成立しないという話が出ていた。中田氏と内田氏の「一神教と国家」の対話でも、この「法人」について語られている。実に興味深いので、またまたイスラム教関連のエントリー。

まず内田氏がイスラム国家に独裁政権が多いことに言及。それに対し、中田氏は反対派を全粛清するからとあっけらかんと回答。内田氏は巨視的に見れば独裁制は労多くして実りが少ないと食い下がる。ここで、アラブ世界で独裁制が起こりがちな原因を、もともと部族主義で族長という大きな存在が、(オスマン帝国崩壊後)カリフ制が崩れ、国民国家の成立時点で、西欧的な国民国家の概念と結びついてしまった最悪な政体だからとしている。トップにいるのが個人であれば、いかにワンマンでも大した力はもちえないのだが、国家は法人であり、機関で全然レベルが違う。全てを牛耳る強大な権力になって危ない独裁体制が出現する。トップが個人か法人かでは、とてつもない落差があることを彼らはわかっていない。国家とはスルタン、カリフのようなものだろうと思っている。その根底には、神がお決めになった法に依って成り立っているのであり、人間の支配などどうでもいいと考えている面もあって、イスラムにとって法人概念が最大の敵、最大の偶像だと思っていると述べる。

中田氏の持論である、カリフ制復興を全体主義の国になると言う人がいるけれど、全く逆で、カリフ制のリーダーは個人であり、法人ではない。逆に法人概念がなくなるので、保険とか保障もなくなり、教育も個人になり、基本的に税金も取れなくなるので大規模なプロジェクトもなくなる。全体主義にはならない。大きな政府はなくなる。イスラムには相互扶助の文化があり、それに支えられた共同体がるので政府がなくてもカリフがいればやっていける。

内田氏から、部族主義と族長について再度質問。これに対し、平たく言えば、族長のところに部族の全ての資源を集中して、族長がみんなに再配分するカタチ。ドカンと集めてパッパと分配する気前の良い族長ほど良い。これは、イスラム共同体の、というより遊牧民の文化である。遊牧民の場合、共有財産(家畜など)が大きいので、そうなるのだけれど、リーダーの独壇場になるわけではない。彼らは一人では生きられない、群れから離れられない。共存しなければならないので、いやでも反対者も多数派に従わざるを得ない。この遊牧民の民主主義は、判断を誤ったら死ぬので絶対間違ってはいけない民主主義である。ところで、族長は大きな権力を持っていて、資源を集めることが汚職のように見えるけれど、それによってリーダーとしての権威が保たれるもの(=拡張主義。独裁ではない。)で、卑怯でも特権でもない。ところが近代国民国家の概念と悪く結びつくこととなりおかしく変容してしまったという側面がある。西欧では、絶対主義を倒して国家という法人が現れた。国家はどの国王より強固なシステムを持った機関である。西欧はその危険性や問題点がわかっているので解毒剤として人権思想とか(西欧の)民主主義(三権分立など)を用意した。しかし、イスラムはそれがないところに国家という外枠だけがいきなり入ってきた。それがもともとの族長の拡張主義と合体してとんでもないこのになってしまったのである。

補足として、中田氏は、遊牧民社会では判断を謝ると死んでしまうのでいろいろな場面で軍隊的な厳しさが加わる。即断即決で切り抜けなければならない。スピードも求められるし、皆に信頼されている強いリーダーが求められると述べている。ここが農耕文化の日本などとの相違である。

内田氏は、中田氏の論を受けて、PLOのアラファト議長(画像参照)が死んだ時、スイス銀行の個人口座に$3億とも$42億とも言われる資産が残っていたことについて、彼の感覚でいえば」PLOは法人ではなく部族集団であり、自分が族長なのでPLOの資金を全部いったん集め、適切に分配すると思っていたのだと思う。即自即決、上意下達、闘う組織の原理としては極めて合理的と評した。

…さて、私はこの中田氏の論は正しい、と考えている。法人概念はイスラム最大の敵であり、最大の偶像崇拝だというのは、遊牧民文化、族長の概念、西欧との差異などから、極めて合理的に導かれた論理である。さすが日本最高のイスラム法学者である。では、日本を代表する、橋爪・大澤両社会学者の結論とのマッチングは、どう考えれば良いのだろうか。中田氏は、この本の中では「イスラム教には法人の概念がない。」とはっきりとは言っていない。だが、再読していただければわかるが、日本の知識人の一人である中田氏は、法人の概念を理解したうえで対談でこの語彙を使っているが、アラブの指導者たちが理解していないことを嘆いているように私は読み取った。(=下線部)

…したがって、「イスラム教に法人の概念はない」というテーゼは、中田氏の説である程度裏付けされたと思う。このテーゼを文字どうりに受け止めた場合、もし法人の概念が、クルアーンやハディースににあれば、指導者もまたムスリムである故に、内田氏が指摘するような酷い独裁政体のイスラム国家は現れないと思われるからだ。また、最後の内田氏のPLOのアラファト氏の遺産の件のように、われわれの視点は欧米的視点に慣らされており、独裁と決めつけているのかもしれない。ならば「イスラム教に法人の概念はない」というテーゼは、「イスラムを欧米的な民主主義の視点で評価すること自体がおかしい。」ともいえるかもしれない。だが、中田氏の指摘するように「イスラムの指導者は法人という概念を知らないがゆえに誤っている。」というのが、真意のように私は思う。

イスラム理解の束 その3

KL チャウキットの屋台街
「一神教と国家」の中で、中田考氏が語っている、ちょっとレアなイスラム教のこと、その3。内田氏が、キリスト教に存在する異端審問とか魔女狩りみたいなものの存在を問うと、中田氏は、ムスリムは人の内心に踏み込むようなことない、というか、人の心はわからないと考えると回答している。だから干渉しない。イスラムには教義決定機関もないし、キリスト教的な正統、異端という概念もない。もちろん様々な分派があり、自分たちのほうが正しいと考えるが、キリスト教徒とはかなり違う。スーフィーのハッラージュやシーア派のシャヒード・サーニーの処刑の例が若干あるが、宗教的というより政治的なものである。またムスリムであることで身に危険が及ぶ場合は信仰を隠すことを”タキーヤ”と言い、シーア派では命じられており、スンニ派でも許されている。キリスト教では、人間の内面に精神が確固としてあると考えるが、イスラムではあまりそういう事を考えない。そもそも内面に最初から悪魔とかが入っているのが当たり前と考える。だから内面より行為を重んじる。中田氏は「カトリックの告解制度」は恐ろしいと思っている。人の内面を暴き出して、人を支配していくということであるからだ。イスラムでは罪を犯してもできるだけ人には言わない。あくまでも神と自分の関係だから。…たしかに、マレーシアでも、礼拝をさぼる者があっても誰も非難しないし、ヒジャブを被らない女生徒に対しても「そういう家庭もあるから。」とさっぱりしたもので、(日本ならありそうな)イジメもなかった。イスラム復古主義者はともかく、一般のムスリムの世界では、そういう意味で他者に実に寛容であるわけだ。

レヴィナスが専門のユダヤ教に詳しい内田氏は、神と人間の関係がある意味、絶望的に遠いと感じている。戒律にしてもなぜこのような戒律があるのか説明がつかない。人間の世界の実用性や合理性で戒律の意味を論じてはならないことを叩き込むためにあるような気がするとも。キリスト教では、戒律の採否は人間に委ねられている。他の一神教と違い、キリスト教では神と人間の距離が近いように感じると述べている。…同じ一神教でもこのような相違があるわけで、…実に深い。

中田氏がシリアの反政府勢力の支配地域に入った時の話。無政府状態であるが何の問題もなかったとのこと。秩序も保たれ、戦争でモノはないけれどイスラムの相互扶助で結構安らかであった。無政府状態は北斗の拳のような弱肉強食になるというのは妄想。ボッブズよりロックのほうが正しい。しかも、ムスリムがボーダーレスなグローバリストであることを再認識したとのこと。カザフスタンやウズベキスタンの人々がシリアに逃げてきて、なごやかに亡命していたとのこと。…凄い。中田氏のカリフ制再興論は現実味があるわけだ。

2023年5月9日火曜日

イスラム理解の束 その2

「一神教と国家」の中で、中田考氏が語っている、ちょっとレアなイスラム教のこと、その2である。

ラマダンの時期、モスクやレストランでは食事がタダで振る舞われる。(多民族国家であるマレーシアでは、そのようなことはなかったが、中東ではあるようだ。)モスクはメンバーシップがないので、誰でも入れてお金がなくても食べられる。「ドゥユーフっラフマーン(アッラーの客)」と呼ばれるらしい。肉も出て、わりと贅沢で、気兼ねもいらないとのこと。貧乏な人でもラマダンの時は1ヶ月腹いっぱい食べれるわけで、施しの文化というか福祉政策でもあるわけだ。(ちなみに、マレーシアでは国王による、すべての人に開かれた無料の食事会が開催される。その日たまたまバスに乗っていて、貧乏な人がわんさかと乗ってきてびっくりしたことがある。またモスクで牛を解体してタダで集まった人たちに分け与える犠牲祭もあった。)

ムスリムのユダヤ教・キリスト教観について。今日のユダヤ教は、ラビ・ユダヤ教と呼ばれるもので、キリスト教とほぼ同時期に並行して成立したもの。キリスト教もまた成立当初は後にユダヤ教と呼ばれる宗教と別の宗教であるという自意識はなかった。イスラエルの民の宗教としか呼びようのない名無しの宗教であった。ヘブライ語聖書にはアダムやノアが出てくるが、彼らをユダヤ教徒だと呼ぶ者はいない。考えてみれば不思議である。イスラムは単純明快な答えを持っている。神の啓典を授かった者はすべて預言者で、アダム以来の預言者の宗教はすべてイスラムである。ユダヤ教のユダヤは歴史的固有名詞であり、イエス・キリストも特定の人物をさす固有名詞だが、「服従」「帰依」を意味するイスラムは一般名詞あり、イスラムの普遍主義を端的に表している。全ての預言者の教えはイスラムであり、それが唯一の正しい宗教である。しかし、時代と状況の違いにより教えの詳細は異なり、表現が違っている。モーセの授かった啓典が律法(トーラー)、イエスの授かった福音は、ユダヤ教徒が持つヘブライ語聖書、キリスト教徒が持つ新約聖書とは全く別のものである。なぜなら、モーセ五書もマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの四福音書は聖書記官が編集したモーセの伝記、イエスの伝記であるからで、イスラムにおけるモーセの律法、イエスの福音は授かった神の言葉のみである。また、現在のラビ・ユダヤ教は、モーセの律法とは別に、モーセの口伝律法があり、ラビがその権威ある正統な伝承者と主張して、ラビの学説集であるタルムードを第ニ聖典としたし、キリスト教では弟子たちの言葉を編集して新約聖書としている。イスラムは、神から遣わされた預言者がもたらした啓典のみを人間が従うべき指針としているので、許しがたい被造物神化に他ならない。よって、ユダヤ教はモーセの律法をイスラエルの民が歪曲、改変したものをラビが集大成したもの、キリスト教はイエスの福音を直弟子の後の世代が誤って解釈し歪曲されてつくられた宗教だとしている。

…ここで、中田氏は、クルアーンの第一章の「扉」の最後の「お怒りを被った者」(ユダヤ教徒への批判)「迷ってもいない者たち」(キリスト教徒への批判)の真意を語っているのである。

2023年5月8日月曜日

イスラム理解の束 その1

https://www.newsweekjapan.jp/worldvoice/
makino/2022/07/post-37.php
「一神教と国家」の中で、中田考氏が語っている、ちょっとレアなイスラム教のことを集めてみた。

シーア派では、スンニー派で許されているタコや貝は食べない。写真は、偶像ではなく影や鏡のようなものと判断される。

ヒゲに関しては、ハディースにあごひげは手でつかめるくらいに伸ばしなさい、くちひげは切るあるいは剃るとあるそうだ。

「目には目を、歯に歯を」について、イスラムでは、許すのが一番良く、それができない時同じことをやりまえしていい、それ以上の過剰な復讐は決して行ってはいけないとなる。ユダヤ教ではこの同じ目にあわさないといけない、義務であり厳しい。反対にキリスト教では許さないといけない。これも別の意味で厳しい。イスラムは柔軟である、とのこと。

ところで、今日は昨日の大雨でまた早朝からJRが止まった。京阪バスと京阪を利用して京橋へ。東西線は動いていたが、尼崎駅ではプラットホームは危険なほどの人、人、人。コンコースまであふれていた。なんとか無理矢理に宝塚線に乗ったが、結局1時間目の授業には間に合わず振り替えていただいた。3時間もかかった通勤時間。おまけに立っている時間が長かった。精根尽き果てた1日であった。脆弱なJR学研都市線、なんとかして欲しいものだ。

…今日はここまで。スミマセン。

2023年5月7日日曜日

新科目「公共」の一神教解説

「公共」の教科書を見ても、資料集を見ても、実に倫理分野は薄っぺらである。理系の生徒にはこれくらいでいいかもしれないが、文系の生徒には、公共+倫理、公共+政経といった組み合わせより、倫理+政経のほうがはるかに意味があると感じている。とはいえ、必修科目になったので、論理的な思考を伸ばすという科目の特性もあるので、試行錯誤しているところだ。

今回は、そんな「公共」で必要にかられて、一神教の整理をプリント上でしてみた。倫理から見てもまずまずかなと思う。(これはGW以前に作成したもの。(画像は拡大可能)現在は中間考査作成に突入している。笑)我ながらシンプルにできているように思う。

ユダヤ教の律法の矢印はかなり大きくして、その膨大さを意識した。イスラム教のシャリーアは、フィクフ(厳守すべきものやどちらでもいいものなど5種の構造)があるし、比較的融通がきく故小さくした。教義面での対比で、聖典の内容面も含めた比較、原罪がイスラム教にはないこと(私はこれは大きな相違だと思っている)、終末は共通していることの3つに絞った。倫理ならもうすこし詳しくやるが、「公共」ではこれくらいが適当だと思う。来年、政経を選択する生徒にも、倫理を選択する生徒にも適度な教材かと自負している次第。

2023年5月6日土曜日

イスラム教と国家 考 2

https://polandballes.miraheze
.org/wiki/Arabia_Sauditaball
「一神教と国家」(中田考・内田樹/集英社新書)の備忘録として続けてエントリー。中田氏の言から。イスラム圏では、本来世俗と宗教を分けない。人間が生きる上で行う殆どすべての営為に神の判断を借りる文化である。それでも今は西欧的な価値観に右へならえして、かなり世俗的になりつつある。トルコのような国からイランのように厳格な国まで強弱はあるが進んでいる。…近代の領域国民国家は、西欧の世界支配システムなので、西欧が国家承認さえすれば、存在することが住民に厄災をもたらそうが、独立主権国家として存在してしまう。しかし本来は、ある地域の人々が、独立の国家を作ることに意味があるとすれば、少なくとも2つの条件を満たす必要がある。1つは、その国の内部に1つの国家として束ねられているだけの顕著な同一性があること、もう1つは、その国家と外の国家の間に境界が必要なほどの異他性があるということ。その点から言うと、イスラムの国家はあまり独立している意味がない。…宗教儀礼に用いる言語はすべて同じアラビア語。食文化や住文化と言った違いはあっても、ムスリムであれば度の国に行っても、一緒に祈ることができる。モスクに行けば16億の同胞とそのまま繋がれる。宗派の違いによって細かいことはあるが、大枠で一体である。

…中田氏は、最もイスラムの価値観に厳格なのは、ここでイランだとしているのが面白い。ワッハーブ派のサウジではないのだった。そういう視点から、今回アメリカ離れを起こしているサウジが、シーア派とはいえアメリカより遥かに価値観を共有できるイランと国交回復し、イスラムの大義から、イスラエルとの戦争を回避させようとしているように見えてくるのであった。

2023年5月5日金曜日

イスラム教と国家 考

「おどろきのウクライナ」(橋爪大三郎・大澤真幸)には、国家の成立には、「普遍的なもの:国民が信頼している思想・宗教」が、権力者や政府を認証する必要があるという、非常に社会学的な話が出てくる。中世のカトリックが専制的な王権の後ろ盾となった歴史的経過から来ている。ホッブズのリヴァイアサンには、国家は教会にかわり世俗的な権力をもつものという概念があり、それはリヴァイアサンの正式名称「リヴァイアサン、あるいは教会的及び市民的なコモンウェルスの素材、形体、及び権力」にも表れており、国家政府は「法人」とされている。現在もこの社会学的な国家の構造は生きていて、公定教会である英国国教会を普遍的とするイギリスやカナダ、同じく公定教会であるルター派を普遍的とするドイツ、カトリックを普遍的とするイタリア、多くの宗派に分かれているがプロテスタント教会をを普遍的とするアメリカ、カトリック国でありながら政教分離したフランスは哲学を普遍としている、といった具合である。これらの民主主義国家は、当然ながら、法の支配や人権思想、普通選挙制による国民国家である。(本年4月6日付ブログ参照)

中国には、天による易姓革命的な普遍性があり、権力を支えているが、民主主義国家ではない。ロシアもまた、正教が普遍性を保障しているが、民主主義国家ではない。(ソ連時代は、マルクス=レーニン主義が普遍性を保証していた。)これらの国家は、普遍性と権力が一体化あるいは歴史的に並立してきた。故に民主主義が確立していく土壌がないといってよい。面白いのは日本で、普遍性は、岩倉使節団による熟慮の末、欧米のキリスト教を排して、天皇制に置かれている。(欧米の普遍性に気づいた事自体が明治人の優秀さを示している。)戦前の一時期、天皇機関説が問題視されたが、普遍性と権力は分離されている故に、日本では民主主義が成立し、近代国家化し、先進国の仲間入りができているといえよう。

さて、今日の本題は、イスラム教の国々の場合である。「おどろきのウクライナ」では、イスラム教に「法人」という概念がないことが指摘されている。よって、普遍的なイスラム教はあれども民主主義的な政府は存在できないわけだ。この辺をもう少し考えたくて、「一神教と国家」(中田考・内田樹/集英社新書)を読んでいる。中田氏と内田氏の対話の中で、イスラム教徒は、基本的にノマド(遊牧民)であることが出てくる。遊牧民には、なにか問題が起こった時、農耕民のように悠長に議論している暇がない、決断力のあるリーダーが「他の人達には見えていないもの」を個人的慧眼によって洞察し、おのれの部族を引き連れていく必要がある。まさにモーセが羊の群れを牧者が導いていく姿に擬せられるというわけだ。内田氏は、プロテスタントで「牧師」という言葉を使うことに注目している。中田氏は、アラビア語で、「民」は”ライーア”、文字どおり「羊の群れ」という意味だと答えている。このようなノマド的伝統がイスラム国家で民主主義を育むことを拒んでいると思われる。イスラム教国の王国・首長国がその端的な例である。

ただし、何度もこのブログで記しているが、マレーシアは少し事情が異なる。まずノマド的な風土ではないこと。イギリスの植民地支配の影響を強く受けていることから、独立時に民主国家としてスタートした。だが、このようなイスラム的伝統は、憲法上、(5年に一度スルタンかの選挙で選ばれる)国王に行政権が付与されているところにわずかながら見える。多分に儀式的・形式的ではあるが、元宗主国のイギリス国王には行政権はない。それ以上に、各州のスルタンは宗教的指導者であり、その権威のほうが重要であるようだ。よって、マレーシアは、イスラム教国家の中では珍しい折衷した国家システムを持っているといえる。

今大統領選挙で話題のドルコも、オスマン帝国崩壊後は政教分離を明確にして民主国家となっている共和国らしい共和国である。イランは”イスラム”共和国であって、事実上政府は、普遍的なイスラム教シーア派と合同している。イラクもシーア派が多数派だがスンニー派のフセイン政権が以前統治しており、この普遍性の分裂が国民国家化をかなり困難なものにしている。(最大の普遍性の分裂状況にあるは、現在崩壊寸前のレバノンだともいえるだろう。)イスラム教国家といえど、様々である。

この普遍性+法人政府=民主国家という方程式、たしかに有意義だが、意外に完全にあてはまる国が少ない欧米的価値観のように思えるのだが…。

2023年5月4日木曜日

黒船外交 NATO東京事務所

https://www.pixiv.net/artworks/106140629
3日のロイター通信によると、東京にNATOの連絡事務所が解説されることがわかった。そもそも日経アジアがニュース元らしいが、私は憲法記念日に合わせた発表故に、実に「黒船的=外圧的外交」であると私は感じている。外務省は現在のところ何も発表していない。(こういう姑息さが日本の民主主義に危惧を抱かせる。)https://jp.reuters.com/article/nato-japan-idJPL6N37009F

日本はNATOのパートナー国であるらしいのだが、もっともらしい理由で”事務所”を開設することになったようだが、まさに蟻の一穴。米軍基地がNATOの基地となり、いずれ自衛隊の基地もNATOと共有されていくのだろう。おそらく装備もかなり共有される気がする。たとえば、陸自の使用する弾丸がNATO弾とは微妙に違うのだが、いずれ銃器もNATO仕様になって、輸入することになる可能性もある。これまで様々な自衛隊関連の本を読んだが、国産でまかなうと需要が少ないので高価になるというデメリットがあるが、安全保障を輸入に頼るというのは危険でもある。意外にNATOの後方支援生産基地となり、ライセンス生産で貢献させようというNATO側の意思があるのかもしれない。非核三原則同様、武器輸出三原則もそうなれば絵に描いた餅である。

昨日も記したように、私は改憲派でも護憲派でもない。安全保障の重要性は言わずもがなだが、平和の概念が基軸になっている日本で、この国のカタチを変革するのなら、十分に議論されることが望まれる。

ともかくも、近い将来、日本がNATOの集団安全保障に組み込まれるとなれば、現行憲法下では不可能である。今回の東京事務所開設は、改憲のための黒船来航であることは間違いない。

2023年5月3日水曜日

憲法記念日に寄せて

https://subestamp.com/post-29306/
憲法記念日の今日からGW。枚方市の図書館に妻と歩いて「東大のクールな地理」を返却し、また本を2冊借りてきた。今日はびっくりするほど幹線道路には車が多い。皆お出かけなのだろうか。私は、出かける予定などなく、倫理の中間試験をひたすら作成していた。(笑)

共通テストになってから、倫理の試験も例外なく難化しているように思う。少なくとも読むべき内容が増え、原典資料も多く出題されてきた。そもそも学園の生徒の学力が高いので、授業のスピードも試験のハードルもかなり上げている。もちろん、倫理分野の私の”すべらない話”は多少短くはなるが健在である。「教え子諸君、安心してください。ちゃんと笑かしてますよ。」(今日の画像参照)

ところで憲法記念日、各党の憲法に対する声明が出されているようだ。改憲が党是の自民党は当然だが、野党でも改憲の必要性を説くところもでてきた。私などは、その前に親中政策を撤回すべきではないか、と思っている。大阪に巣食う病根のような政党は、やっていることと言っていることが全く違う。ウケを狙っているだけであるとしか見えない。

私は、社会科教師として政治的には、ど真ん中でありたいが、このままでは日本はどうなるのかと危惧している。改憲についても、必要だとも思うし、一方で緊急事態の制限に対しては白紙委任するのは恐ろしい。とにかく、先年の米大統領選挙以来、民主主義というものに完全に不信を抱いてしまった。常に、その情報は真実なのかという疑念が湧くのである。ちょっとだけ、憲法記念日に寄せて…。

2023年5月2日火曜日

「石原莞爾」を読む。

市立図書館で「陸軍の異端児 石原莞爾」(小松茂朗/潮書房光人社)を借りて速攻で読み終えた。以前から石原莞爾という軍人には興味がったのだが、やっと十分に知ることができた。この本は、かなり石原を持ち上げている本で、ウィキの記述と異なる部分もある。(まあ、ウィキもどこまで信用していいかわからいが…。)

まずは、その相違点からエントリーしたい。石原は満州事変の首謀者の一人である。満州事変をどう見るかは、実に難しい。帝国主義の時代であり、日本が対ソ戦略として中国東北部を勢力圏に入れようとしたことは、悪と断じることは簡単だが、この本では、石原莞爾の八紘一宇の理想主義的な面と、戦略家・軍人としての実力、統帥権下の関東軍と参謀本部の確執などしっかりと描いている。問題は、この本では、戦犯指定から逃れた石原は「自分は満州事変の首謀者であり戦犯である。逮捕すべし。」と主張しているという。ウィキでは、戦犯のがれの供述書を書いているとある。どちらが本当なのであろう。もし、この本の通りならば、発狂したとされる大川周明よろしく、東京裁判をかなり混乱させたはずだし、私は意気を感ずる。

石原莞爾は、たしかに異端児である。天才的な戦略、陸軍における無意味な規制の排除、兵への深い思いなど、軍人としては異端児だが、かなりの人物であることは間違いなさそうだ。しかも、皇道派でも統制派でもなく、思想がない東條を批判し続け予備役にされたが、筋を曲げなかった。この点は評価されるべきだろう。

東京逓信病院に入院中に東京裁判の検事たちに、第1級の戦犯はトルーマンとした石原莞爾の主張は理にかなう。配布したビラに、「もし日本国民が軍人に協力するならば、老人、子供、婦女子を問わず爆殺する。」とあり、「国際法では非戦闘員は爆撃すべからずとあるのに、実行した。このような蛮行を行いながら戦犯を作るなど本当に恥ずかしくないのか。」

もし、このような主張を堂々と行った事実があるなら、やはり石原莞爾は大した人物だと思うのだ。

民主主義と資本主義は両輪?

「公共」の授業で、社会科学の常識として、民主主義と資本主義は両輪のようなものというのがあるのだが、現在世界第2位のGDPを誇る中国の資本主義は、民主主義がないのに発展しているのはなぜか?という内容をやっていた。「公共」の授業は、こういう思考を与える事が重要だと私は思う。

民主主義については、法の支配とか人権思想とか、普通選挙による(ヨーロッパの)社会類型の変化などをすでに語っている。資本主義については、私有財産制、利潤追求の自由、企業活動の自由などの原理を確認した。私有財産制は、ジョン・ロックの財産権によって確立したことも付け加えた。民主主義の人権と大きく関わることを発見してくれれば嬉しいトコロ。財産権、自由権の保障が資本主義発達の基盤となるわけだ。これが、定説。しかし、中国には、経済繁栄の経験値はあっても、専制政治ばかりで民主主義はついぞ確立していない。なのになぜ今発展しているのか?

それは、中国の社会類型がヨーロッパとは反対で、支配される側は、自由な個人であるからだというのが正解。欧米の概念だけで見ると理解できない。まさに新しい社会科学的視点なのだ。

今回の「公共」の授業はかなり実験的で、この社会類型論、法人たる国家を普遍的なるものが保障するという国家論、さらに民主主義・資本主義・国民国家という近代国家論の3つの視点で、大きく国家を見ていこうというものである。それぞれが密接に関わっており面白いのだが、2年生の生徒には少し難解だと思う。とはいえ、熱心に聞いてくれている生徒が多いのも事実である。