2023年5月10日水曜日

イスラム理解の束 その3

KL チャウキットの屋台街
「一神教と国家」の中で、中田考氏が語っている、ちょっとレアなイスラム教のこと、その3。内田氏が、キリスト教に存在する異端審問とか魔女狩りみたいなものの存在を問うと、中田氏は、ムスリムは人の内心に踏み込むようなことない、というか、人の心はわからないと考えると回答している。だから干渉しない。イスラムには教義決定機関もないし、キリスト教的な正統、異端という概念もない。もちろん様々な分派があり、自分たちのほうが正しいと考えるが、キリスト教徒とはかなり違う。スーフィーのハッラージュやシーア派のシャヒード・サーニーの処刑の例が若干あるが、宗教的というより政治的なものである。またムスリムであることで身に危険が及ぶ場合は信仰を隠すことを”タキーヤ”と言い、シーア派では命じられており、スンニ派でも許されている。キリスト教では、人間の内面に精神が確固としてあると考えるが、イスラムではあまりそういう事を考えない。そもそも内面に最初から悪魔とかが入っているのが当たり前と考える。だから内面より行為を重んじる。中田氏は「カトリックの告解制度」は恐ろしいと思っている。人の内面を暴き出して、人を支配していくということであるからだ。イスラムでは罪を犯してもできるだけ人には言わない。あくまでも神と自分の関係だから。…たしかに、マレーシアでも、礼拝をさぼる者があっても誰も非難しないし、ヒジャブを被らない女生徒に対しても「そういう家庭もあるから。」とさっぱりしたもので、(日本ならありそうな)イジメもなかった。イスラム復古主義者はともかく、一般のムスリムの世界では、そういう意味で他者に実に寛容であるわけだ。

レヴィナスが専門のユダヤ教に詳しい内田氏は、神と人間の関係がある意味、絶望的に遠いと感じている。戒律にしてもなぜこのような戒律があるのか説明がつかない。人間の世界の実用性や合理性で戒律の意味を論じてはならないことを叩き込むためにあるような気がするとも。キリスト教では、戒律の採否は人間に委ねられている。他の一神教と違い、キリスト教では神と人間の距離が近いように感じると述べている。…同じ一神教でもこのような相違があるわけで、…実に深い。

中田氏がシリアの反政府勢力の支配地域に入った時の話。無政府状態であるが何の問題もなかったとのこと。秩序も保たれ、戦争でモノはないけれどイスラムの相互扶助で結構安らかであった。無政府状態は北斗の拳のような弱肉強食になるというのは妄想。ボッブズよりロックのほうが正しい。しかも、ムスリムがボーダーレスなグローバリストであることを再認識したとのこと。カザフスタンやウズベキスタンの人々がシリアに逃げてきて、なごやかに亡命していたとのこと。…凄い。中田氏のカリフ制再興論は現実味があるわけだ。

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