2023年5月19日金曜日

本居宣長の漢意的逆説

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「不識塾が選んだ資本主義以後を生きるための教養書」(中谷巌/集英社インターナショナル)から、興味深い記述をエントリーしておきたい。「日本人らしさの逆説」というコラム。中心となる教材は「からごころ」(長谷川三千子/中公叢書)である。平成22年度の「日本の思考のかたち」について議論した時の課題図書である。丸山眞男と小林秀雄がそれぞれ晩年に寄り添い読み込んだのが、本居宣長である。日本人であることとは何かという命題は実に難しい。本居宣長は、それを発見し、そのことで自らは日本の内からはみ出したと、長谷川氏は記している。それを「からごころ」(漢意)と呼んだ。

『これは人類普遍の原理である、という言い方はある1つの文化が、他の文化に自分たちのものの見方を押し付けようとする決まり文句であるが、それを日本人は疑わないどころか、自分の言葉として繰り返している。これこそが、漢意(からごころ)という名の文化的倒錯である。』と宣長は見抜いていた、という。

日本人には自ら気づいていない特技が3つあるという。まず、①漢字の訓読という習慣。これによって、漢字・漢文をj国語のうちに消化した。もし、漢文を外国語として受け止めていたなら、日本人は日本語と中国語のバイリンガルになっていただろう。我々の祖先は、そもそも漢字を「言語」を表すものではなく、純粋な資格情報システムと見なし、異言語支配という危険な要素を取り除いたのだ。②返り点をつけるなどして日本語として読むことに成功し、さらに③漢字の音だけを借用してかな文字を発明した。中国語を学ぶ必要はなく、漢籍を理解し咀嚼できるようになった。日本人は中国語を上手に無視したのだが、知らず知らずに我々の心は、からごころ(漢意)に染まることになった。宣長が批判しているのはここである。

この漢意があったゆえに、明治の近代化が可能になった。圧倒的な西洋文明に接した時、かつて中国文明(漢文)を取り入れながらも中国語としては無視したように、西洋文明を受け入れ、西洋を無視できた。日本人は、優れた文明を目の前にした時、それを普遍的なもの、グローバルスタンダードだと思いこむことができる。(漢籍を学ぶことは中国化ではなく普遍的な文化・文明を身につけることだった。)長谷川氏は、この漢意のあり方は、日本人古来の「いにしえごごろ(古意)」と”メビウスの輪”であると言う。どんな外来文明をも取り込む漢意のあり方は、いにしえから続く日本人のあり方だからである。日本人であろうとすれば、かえって「日本人らしさ」から離れてしまう逆説があるわけだ。コラムのタイトルはここに由来する。

最後に長谷川氏の洞察。「我々は、自分たちが何者であるか、その本当の姿を見ないことによって、我々らしさを保って生きている。しかしそうして「見ない」日々を重ねて生きていけば、やがては破綻が現れるであろう。その最たる例は、「日本国憲法」である。9条をめぐる議論ではなく、この憲法が漢意によって作られたものではいかということである。この憲法全体を貫く精神のないことのおぞましさが、人の心を蝕み始める時が来る。」…うーん、卓抜した見方だと私も思う次第。倫理の日本思想史でもこの漢意には必ず触れるので、私の中でも改めて深化したように思う。

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