ラベル 近現代史 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 近現代史 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2026年7月17日金曜日

吉村昭 『戦艦武蔵』

またまた吉村昭を学院の図書館で借りてきた。初期の『戦艦武蔵』(新潮文庫)という作品である。これは歴史小説と言うより記録文学というジャンルである。造船という極めて複雑な工学的過程を自ら学び、膨大な資料や関係者へのインタヴューをもとに描かれた作品で、その読後感は独特なものがあった。

冒頭は、有明海沿岸の海苔養殖に必要な棕櫚(シュロ)が、手に入らないという話から始まる。九州から四国、和歌山にいたるまで、密かに買い占められていたのだ。この謎解きは、二号艦(武蔵という艦名はなかなか明かされない。)を、長崎の民間企業である三菱造船所で建造するにあたって、地形的に山がちで造船所が見渡せる故の、防諜装置(棕櫚を編んだ綱を垂らしで簾化し船台を隠す)として必要だったのである。風や火花などの影響を鑑み、様々な試行錯誤とテストの後、最善と判断された。

一号艦(=戦艦大和)は呉の海軍工廠で建造された故に、そのような必要はなかったのだが、二号艦は、様々な施策が必要だった。まずは、建造するに当たって山を切り崩したりして船台を前後左右とも拡大する必要があったし、防諜のために、警察や憲兵隊を大動員する必要もあった。造船所を望めるかのグラバー邸も子孫から購入したし、英・米の公使館の前に県が倉庫を建てて見えなくしたりとありとあらゆる方途で防諜活動を防いだ。

進水にあたっても、世界最大級の戦艦であるし、計算上、艦尾が船台の対面にある山にぶつかってしまうので、進水速度を緩める事が必要だった。昭和世代としては、電卓やコンピュータではなく計算尺を使い計算したであろう技術者の凄さを感じてしまう。結局、鎖を用いて浸水時の速度を緩めるという策が取られた。また進水した直後の防諜にも神経をすり減らすことになる。

この二号艦建造で、最もスリリングな展開だと私が思ったのは、呉から送られてきた設計図がたった1枚だけ紛失した際の話である。当然ながら、極めて厳重な管理体制がひかれていた。しかし、いくら探しても見つからない。多くの関係者が特高に拷問される事態となった。結局、三菱の工業学校を出たが設計部に回され、大した仕事を任されず不満を持っていた19歳の少年が、部署転換を望んでわざと失敗をしたのである。他の書類とともにボイラーで焼却したことが判明する。…その稚拙さとあまりに大きな影響を与えたことに、なんとも言えない気分になった。ちなみに、私の父親は神戸の三菱の職工学校出身である。海軍機の整備をしていた。

二号艦の防御システムは凄い。左舷に魚雷が命中して艦が傾いても、右弦に注排水して戻せる。たとえ、魚雷攻撃を受けても減速しない。また舵は、同時に損傷する可能性を鑑み、平行に設置するのではなく、前後にある。もちろん、世界最大級の鋼鉄で防御しており、実際爆弾を跳ね返す力があった。

主砲は46センチである。主砲を発射すると、その威力は凄まじく、甲板に乗員がいると吹き飛ばされる。ゆえに、主砲発射時は甲板には出れないようになっていた。この主砲のテストは伊予灘で行われたという。…佐田岬半島に住んでいた私としては感無量である。

https://www.asahi.com/articles/photo/AS20240708001571.html?iref=sp_photo_gallery_3
武蔵という名が明かされ、大和と共にトラック島(現ミクロネシア連邦)の環礁を拠点にしていた。(画像参照:手前が武蔵であるらしい。)この時の旗艦は武蔵であった。その後ブルネイに移動し、レイテ沖海戦で、実戦に臨み撃沈されることになるが、攻撃を受けての乗員の悲惨さは言うまでもない。陸上戦以上に悲惨である。…私は読んでいて、司馬遼の『坂の上の雲』で、日清戦争での秋山真之が負傷者を見てあまりの悲惨さに戦慄した光景を想起した。本書では、おそらく生存者へのインタヴューを元にした記述だと思うが、生々しすぎる描写に満ちている。さらに生存者たちは、武蔵が沈んだことを秘匿するため、様々な場所に軟禁されている。この事実も凄い。

磯田光一(文芸評論家)の解説では、本書を「1つの巨大な軍艦をめぐる日本人の”盲目的な集団自殺”の物語」(趣意)としている。武蔵の建造は、論理はどうあれ至上命題であり、効用や役割に不思議に第二次的な意味しかもたず神話的な象徴であり、不可能を可能に転化することを要求される。作者は、機密保持のための過酷な措置に対して不合理を告発する左翼作家の発想とほとんど関係のない地点で書いている。しかし”愚行”と見える武蔵の建造を、そういう批判眼をもって書いており、むしろ”愚行”に専念しうる人間の奇怪さ、それこそが人間の本質であるという認識を持っている。(趣意)また、作者は戦死者の内面を決して美化して描こうとしていない。叙述は即物的で、夢と現実の不一致、動機と結果の不一致を冷酷な客観性を持って描いている、としている。

…この解説に疑問の余地はない。現在も世界中で戦争は続いている。その事実に想いを馳せながら、いかに戦争が無益かを再認識させてくれる一冊であった。

2026年4月12日日曜日

沢木『天空の旅人』断片4

https://seinansky.com/qinghai/qh0103.html
沢木耕太郎の『天空の旅人』の断片エントリー4回目である。リチュ河を渡ってからもいくつもの5000m級の峠を越え、ついに西川はラサに着く。煩悩の数と同じ108日目であった。

ラサに着く前から、日本と中国の講和成立の噂が流れており、日本敗戦に変わっており、「アトムボムボ」という物凄い爆弾によって破壊されたという。ラサに住む漢人が提灯行列をしたのだが、チベット人に石を投げられた。同じアジアの小さな国が負けたというのに、それを喜ぶのは許せないということだった。チベットは吐蕃として恐れられていたが、仏教教化で戦闘力が衰え、康煕帝の遠征で属領化された歴史を持つチベットは中国への積年の恨みを晴らしてくれた日本に好意的たらざるを得ないのだった。

せっかくたどり着いたラサだったが、この日本敗戦を確かめるべく、インドに向かうことを決意する。チベット第二の都市・シガツェ(画像参照)へ巡礼の旅に出る。同行していたバルタンはミカンを知らなかったので皮ごと食べて苦くてまずいと嫌ったのだが、西川が皮を剥くのだと教えると逆に大好きになった。(笑)この街は農産物が豊富で、主食のツァンパ(下記画像参照)が安く、バターミルクもたっぷりと口にできた、とある。

https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/web/15/352321/061200030/?P=3
このミカン大好き・バルタンとともに托鉢しながら旅を続ける。ヤートンというチベットとインドをつなぐ商業上の要地に至った。ここからは初のヒマラヤ越えである。西川は『秘境西域八年の潜行』で7度のヒマラヤ越えをしたと書いているし、沢木のインタヴューでの記憶でも本人が7回と言っていたようだが、沢木は、9回越えていることを確認している。西川の勘違いらしい。

インドの最初の都市・カリンボンで、西川はチベット服を着た木村肥佐夫(同じ塾出身の密偵)と偶然会えた。彼らは蒙古語で日本の状況について語り合うこともできた。日本語が思うように出てこなかった、という。西川にとって天皇が無事だということが唯一の慰めだった。

2025年11月24日月曜日

ドイツ的キリスト者運動の事

https://ja.wikipedia.org/wiki
佐藤優氏の『哲学入門』もあと少しで一読、というところまできた。その中には、大きく取り上げたい話と、備忘録的に記しておきたいものもある。いずれ再読しながら書評を書きたいと思っている。
今回は、その備忘録的な内容の1つ。1930年代のナチスドイツ時代に、ルター派の一部が他のプロテスタント教会と統一し、「ドイツ的キリスト者」(Deutsche Chiristen)と呼ばれる運動を展開したことについて。

キリスト教を「非ユダヤ化」する試みで、イエスは当時パレスチナに駐屯していたローマ軍団兵の息子で、ユダヤ人ではなかったとした。イエスのユダヤ教に対する戦闘的な側面を強調し、旧約聖書のすべてを含むユダヤ人が書いた部分を却下、さらにカトリックを根絶し、プロテスタントの統一を図るといった具合。

なぜ今日この話題にしたかというと、期末試験後にホロコーストのパワーポイントを生徒に見せるつもりであるからだ。新たに、この話も挿入したいと思ったのだ。これまでわたしが作ったホロコーストのパワーポイントには、その背景として次のような言葉が出てくる。

「まず、ユダヤ人のシナゴーグや学校にひをつける。それから燃えないものはすべて埋めるか土をかぶせる。こうして石ころ1つ、燃えがら1つ、二度と目に触れないようにする。モーセは申命記13章に、邪教にふける全ての都市は火によって焼き尽くされるであろうと書いている。モーセが今も生きていたら、彼は率先してシナゴーグやユダヤ人の家に火をつけていただろう。」

…これは誰の言葉だろうか、と毎回生徒に問いかけてきた。正解を言った生徒は未だにいない。これは、マルティン・ルターの言なのである。申命記の邪教はオリエント社会の多神教だと見るのが正しいと思われるし、ルターが嫌悪しているのは、イエスを死刑にしたという各福音書の記述ならびに、ユダヤ共同体が社会になじまず独自の存在感を見せていたことが大きかったように推測できる。私は、ルターという人物をそんなに重要視していない。わりと教義的には曖昧な部分は曖昧で、当時の政治状況で持ち上げられた側面と、ドイツ農民戦争での掌返しといった面も感心できない理由の1つだ。

ともあれ、ルター派から、こういったナチスに迎合した宗派が存在した事実は、受験の世界史や倫理では登場しないわけである。もちろん、これに反対した「告白教会」などもあったことも付け加えておく。

2025年11月21日金曜日

中国が台湾侵攻したい理由

https://meesikoukou.blog.jp/archives/33385005.html
台湾を巡る中国と日本の大喜利が続いている。(画像参照)ものすごく簡単に言ってしまうと、中国が台湾侵攻を諦めない理由は、「易姓革命」である。古来中国では、王朝の転換は天命であるとされてきた。これまでもその正当性を巡って前王朝の滅亡に躍起になってきた歴史がある。中華民国が存在し続けることは、中華人民共和国にとって許しがたいことらしい。私などは、アルバニア決議案で国連の安保理常任理事国になった時点で、易姓革命はなったのではないかと思うのだが…。

2025年11月14日金曜日

社会科学習とコロナ禍の影

https://business.nikkei.com/atcl/opinion/15/218009/051700045/
学院の社会科教員Y先生との会話の中で、社会科学習にとって重要な時期は、小学校の高学年と中学時代の基礎的な事項の学びではないか、という話になった。たしかに、私自身の経験からも、この時期に詰め込んだように思う。今だに地理の国名や首都名、日本の県名や県庁所在地、主な山脈や岬名等は、小学生時代にに完全に頭に入れたし、日本史や世界史、政治分野のおよその流れもこの時期にインプットされている。

中学時代は、社会科好きの友人がいて、朝日年鑑などを読み合って背伸びして難解な用語を頭に入れたりもしたものだ。

ところで、今の高校生の年代は、この重要な時期、コロナ禍の影響をモロに受けた年代であるのかもしれないとY先生は言われる。なるほど…。偏差値は決して低くないのだが、意外に一般常識的なことを知らないことが多い。高校の社会科は一気に学習内容が深くなるのだが、その基盤が形成されていないように感じるというわけだ。

コロナ禍の時期は、学習をサボろうと思えばサボれた時期だ。学ぶ意識が高ければ自学自習できただろうが、コロナ禍に流された可能性は高いと私も思う。

…この会話の後、私はM高校に視察に来た中国の社会科教師のことを思い出した。彼は、文化大革命時代(画像参照)に学生生活を送った故に、英語を学ぶ機会を失い、一切英語が話せなかったのだ。日本視察を命ぜられるほどの教師であるのに、簡単な会話でさえ不可能で、さすがの私もコミュニケーションを取れなかったのだ。まさに、世代的悲劇である。コロナ禍は小さな文革といったところだろうか。

2025年8月9日土曜日

PP 近代国家論 国民国家

近代国家論の次の視点は、国民国家である。国民国家は、日本の近代化に於いて最も早く施策されたもので、日本史組に是非確認してもらいたいと思っている。この国民国家化は国民皆兵と同義語である。富国強兵のため廃藩置県を強行した西郷やその背後にいた勝海舟と、戊辰戦争を途中で抜けヨーロッパの軍隊を視察して国民皆兵の重要性を認識して帰国した山縣有朋についてはイラスト・名前なしで示した。見栄えもそうだが、授業では日本史組に質問したいところ。山縣はちょっと難しいかもしれない。

この国民国家=国民皆兵は今も徴兵制に繋がっている。徴兵制を今も継続している地図を見せたうえで各国の事情(特にスイスやスウェーデン、フィンランドなどの、中立国の立場とロシアとの関係性)についても伝えたいと考えている。スウェーデン、フィンランドのNATO加盟にも関係してくるからである。

国民国家化を阻止した黒歴史は、ベルギーの恣意的民族分断(ツチとフツ)やフランスの少数派優遇などがある。こういう現在裕福で力を持っているヨーロッパの黒歴史という事実は生徒に伝えておきたい。ちなみに、ルワンダの虐殺については、映画のポスターのみで陰惨な画像は使わなかった。

国民国家と民族の関係、ヨーロッパの引いた国境の無意味さを見事に表しているアフリカの地図を発見した。世界史組には、この国境線引きを決めた会議の名を質問してベルリン会議という回答を引き出したい。これはおそらく大丈夫だと思う。

国民国家の最後は、多民族国家のアメリカ・カナダ・オーストラリアの移民帰化時の「宣誓」を英文で紹介したPPも作っておいた。この三カ国の宣言の違いも興味深いと思う。

…地理総合(空間的把握)という科目の中で、世界史、日本史、政治・経済のコアな部分を語りながら、国民国家とは何かを語れればと思う。

2025年8月4日月曜日

教材研究 近代国家論/国民国家

https://blog.goo.ne.jp/reachoutschoolofenglish/e/3fafdbf36d00bb9e52696e958edbc67a
猛暑の日々が続いている。引き続き自宅にこもって教材研究の日々を送っている。本日のテーマは、国民国家である。民族や氏族を超えて、自分はこの国の国民であるという意識が国民国家であるわけだ。本年度の地理総合は、他の社会科目との関連を重視しているので、まずは日本の近代化から話を進めることにした。

日本近代史の最初の大ポイントは廃藩置県と学制だと私は考えている。薩摩や長州、水戸や会津といった藩中心の所属意識を変革したのだが、この裏面史は、富国強兵のため、学制による国民皆兵への準備である。「ハト・マメ・マス」という小学校1年生の国語の教科書は、東北地方の方言矯正を目的として書かれている。単なる方言矯正ではなく、軍での伝達をスムーズにする意図がある。当時の世界は、戦争行為は政治の延長であり、「権利」と考えられていた。傭兵から国民皆兵への変革は当時の列強の常識となっており、日本もそれにのったわけで、このことを単純に批判すべきではないと私は考えている。

現在も国民皆兵=徴兵制を取る国は64カ国ある。男女とも徴兵というのは5カ国。イスラエル、エリトリア、北朝鮮、そしてノルウェーとスウェーデンである。この2カ国に加えHDI上位国のスイス、デンマーク、フィンランドも徴兵制を取っている。このあたりは各国の歴史的背景があるので、授業では簡単に触れておこうかと思う。BRICSでは、ブラジル、ロシア、中国の3カ国。ASEANでは、タイ、ベトナム、マレーシア、シンガポール、カンボジア、ミャンマー、ラオス。さらに韓国やトルコ、メキシコもである。

反対に軍隊を保有しない国もある。太平洋やカリブ海の島嶼国や、バチカン、リヒテンシュタインなどのミニ国家が多い。コスタリカの憲法に「恒久制度としての軍隊廃止」とあるのは有名だが、実際には隣国ニカラグア国軍の3倍の予算をもつ警察=公安部隊がある。NATO加盟国ながら常備軍がないのはアイスランド。(米軍も撤退したままである。)国民国家=国民皆兵という視点では、こういった問題にふれることになる。

次に多民族国家と国民国家というテーマで語るつもりである。多民族国家とは、一般にはマジョリティの民族以外の少数民族が5%を超える国家と言われている。この定義だと殆どの国が多民族国家だといえるだろう。特にアフリカ諸国は、列強による国境線に苛まれており、民族やエスニック・グループの帰属意識のほうが強いのは当然である。

ベルギーは、ルワンダとブルンジで、意図的な民族分断政策を取り、ツチとフツに分けた。独立後に大虐殺事件が起こる。国民国家化の真逆だといえる。またフランスは、シリア支配の施策で、同じアラブ人ながら、スンニー派を差し置いて、少数派のアラウィー派のアサド政権をつくった。これも国民国家化の分断例である。

トルコは憲法でトルコ民族国家(=単一民族国家)と謳っているが、国土の1/3にクルド人居住区があり、1500万人/トルコの人口の19%となっている。建国の父:ケマル・パシャを侮辱すると不敬罪に問われる。複雑なところだ。

最後に多民族国家のアメリカ・カナダ・オーストラリアの国民国家について触れておこうと思う。アメリカのグリーン・カード(永住権)や参政権のある市民権について少し解説した後、帰化時に誓うアメリカの「忠誠の誓い」を紹介しようと思う。さらに、カナダ、オーストラリア(学院ではオーストラリアに姉妹校があり短期留学も毎年行われている。)の同様の誓いも紹介したい。一番上がアメリカで和訳を付けた。アメリカでは星条旗の多さに驚かされるが、なかなか荘厳な宣誓である。ちなみに「under God/神の下の」の語は、冷戦下無神論の東陣営を意識してつく加えられたものだとか。学院の生徒は英語が得意な子も多いので、ここからは和訳なしにした。二番目がカナダの「忠誠の誓い」である。カナダの君主(=UKの国王)への忠誠であるところが特徴的である。三番めのオーストラリアは、「国民としての誓い」で、一般的な、オーストラリア社会への順応を意識させるものとなっており、三者三様であるのが面白い。

I pledge allegiance to the Flag of the United States of America, and to the Republic for which it stands, one Nation under God, indivisible, with liberty and justice for all.

I swear that I will be faithful and bear true allegiance to Her Majesty Queen Elizabeth the Second, Queen of Canada, Her Heirs and Successors, and that I will faithfully observe the laws of Canada and fulfil my duties as a Canadian citizen.

I pledge my loyalty to Australia and its people, whose democratic beliefs I share, whose rights and liberties I cherish, and whose laws I will uphold.

2025年6月25日水曜日

続・アメリカの宗教事情のPP

https://weekly-economist.mainichi.jp/articles/20180821/se1/00m/020/085000c
いよいよ期末考査までの最終授業が始まった。2学期の中間試験の範囲は、世界の価値観の学びの上に、経済的な話を行おうと考えている。6月4日付ブログで、「アメリカの宗教事情のPP」の話題をエントリーしたが、その最終局面は、一神教を利子から比較対象した内容だった。

これによると、カルヴァン派が最も利子に対して最も早く公式に積極的肯定をしている。すなわち、後にフランスを追われるユグノーを吸収したオランダ、さらにはスコットランドなどのカルヴァン派が資本主義をリードしていく歴史に重なる。オランダは、カトリックのスペイン・ポルトガルの覇権をひっくり返し、スコットランドは、産業革命やアダム・スミスなどの自由主義経済学誕生の地となった。

これに英国国教会のヘンリー8世自ら金利を肯定したイングランドが合体することになる。大英帝国の覇権はこういう宗教的背景があるわけだ。ところで、アメリカ植民地の南部では、最初は英国国教会のアングロ=カトリックが主であったが、北部にピューリタンのカルヴァン派が流れ込み、後の工業化の源となる。

帝国主義で植民地を拡大したフランスが、覇権を握ったと言い難いのは、ユグノー不在で財政が悪化しフランス革命を導いたものの、カルヴァン派なしで、イギリスに遅れをとってしまった故かもしれない。ドイツ北部は、ルター派が多く、遅れはしたもののプロテスタント的な姿勢が功を奏したのかもしれない。

正教会は、金利禁止を伝統的に守ったがゆえに、資本主義の発達が遅れたと見ることは可能であるし、イスラム圏の近世・近代での経済的衰退も、その無利子体制では多くの資本形成がなされなかった故と見ることができる。

この金利という視点から資本主義の形成・発達を見た時、宗教的な特徴が顔を出し、それなりに納得できる歴史の見方でできる。こんな話を最初にしてから、これら一神教世界と全く関係なく、大発展した日本の価値観について中間考査範囲の前半は考えていこうかと思う。

2025年5月7日水曜日

温帯の授業 すべらない話

温帯は、日本のCfaを始め、Cw、Cs(地中海性気候)、Cfa(西岸海洋性気候)の4つの気候帯に分かれる。大体、Cfaは日本の気候なので殆ど触れない。Cwのイメージは香港。Awの友達で、夏は暑く降水量も多い。工業高校時代、香港に行くなら夏は避けたほうがいいと教えながら、実際家族でに行ったら、空港を出た途端にムア~とした空気に驚いた。ホテルに荷物をおいた後、少し散策したがパンツまでびしょ濡れになったことを思い出す。私の高校時代は、ブルース・リーを筆頭に香港映画全盛期だった。そこに登場する香港の人々は、ランニングシャツか開襟シャツで、コートを着た人物は、「少林サッカー」という映画以外見たことがない。(笑)

共通テストでよく出題されるのは、CsとCfbである。Csは、BSの友達といえる。夏は乾燥帯と一緒で植生も耐乾性のオリーブやブドウ、コルクガシといった特徴的なものである。たしかにイスラエルに夏行ったが一切雨は降らなかった。Cfbは、暖流と偏西風の関係で高緯度でも温暖(といっても最暖月の平均気温が22℃を超えない)で、1年中雨が多いが、Cfaとは全く違う。Cfbの雨は弱い。そのイメージは、トレンチコートである。WWⅠの塹壕(=トレンチ)戦で登場したコートで、ショボショボ降る雨なら傘いらずである。銭形警部は帽子とトレンチコートを着ているが、これで十分。傘をさすのは無粋の極みである。ちなみに、ニュージーランドもCfb。これは暖流を受けた偏西風がオーストラリア大陸の南岸を進んで、ニュージーランドに達するからで、Cs・Cfbともに大陸西岸に分布するのが法則だが例外といえる。ちなみにCfbにも桜は咲くが、花びらが舞うCfaと違い、花ごと落ちる。そんなことも語ると面白い。

2025年4月29日火曜日

「昭和の日」に想うこと

https://note.com/nenkandokusyojin/n/n0eaf7f360038
4月29日は昭和天皇のお誕生日である。昭和の時代は、天皇誕生日、戦前は天長節であったわけだ。私は、昭和天皇のことを以前かなり詳しく調べたことがある。実に興味深い話があるので、本日はそのことを思い出しながら記していきたい。

昭和天皇は、帝王学を身につけられていた。よって、普通人の感覚とは異なることがある。例えば、脱衣も着衣も自分ではされなかった。意外だが、英国に行かれて以来、洋風の暮らしぶりで、就寝時はパジャマ姿であった。最も印象的だった思い出は、ロンドンで自分で切符を購入したことだと言われている。この辺は普通人とかなり違うところである。

昭和の前期は、軍人の勢力が強かった時代だが、満州事変や日華事変の時は軍に対して、厳しく指摘をされ、当時の首相が辞任した。これに懲りてあまりきつくは言われなくなったようだが、2.26事件の時は激怒され、白馬にまたがり反乱兵を自ら征伐するような気迫を見せられた。暗殺された文官への思いが迸ったのであろう。

憲法上統帥権を持ちながらも、あくまで権威として接しておられたが、口調は穏やかでも軍部へは、不信感を口にされていたようである。天皇主権、統帥権が規定された大日本帝國憲法であるが、その筋は通しつつも、あくまでも権力ではなく権威をもって軍を統制しようとされていたわけで、戦犯であるという当時の連合国の主張はあたらない、と私は思っている。開戦に当たっても最も慎重であられたのは天皇であり、敗戦時は、軍の抗戦派に対し、最後の最後に自らの身命をかけて決断されている。この辺は、まさに帝王学の所以である。

意外な話を最後に。終戦直後、皇太子(現上皇)がカメラを欲せられた際、中古のものを与えられた。当時の国民の状況を鑑みて、皇室だからといって贅沢をゆるさないという、意外なほど普通の感覚である。人間天皇として、誰よりも新憲法の主旨を心肝に染められていたのではないか。

戦前は普通人と離れた感覚をお持ちであったのが、戦後は日本国憲法下の人間天皇として覚醒されていったと私は感じている。

2025年4月25日金曜日

1970年万博 ソ連館のパンフ

学院の社会科主任の先生から、「1970年大阪万博のソ連館のパンフレットがありますよ。」と見せてもらった。極めて貴重な資料であるので、スキャンしてPDFにエクスポートさせてもらった。何より私の興味を引いたのは、ソ連邦内の共和国であった各国の気合の入った国旗や国章である。もちろん、当時と今では呼び名も少しずつ変わっているし、国旗も大幅に変更になっている。この万博の20年後にソ連は解体することを、誰が予想したであろうか。

1970年当時は、まだ社会主義が元気だったし、書かれている内容も精一杯、日本国民にプロパガンダしているのが明白である。「革命は勝利した!」レーニンの革命的呼びかけなんかも書かれていある。

現在から見れは、嘘やろー、と言いたくもなるが、社会主義国家としての理想を追い求めている記事が目立つ。曰く、「全ての勤労者に市民的自由を」「全ての民族に平等の権利が与えられる」…ウクライナ紛争でこれらのプロパガンダの虚構が白日のもとになったが、見るも無惨な記事ではある。1970年のソ連は、1968年のプラハの春でチェコに武力介入し、さらに中国との国境紛争で激しく対立していた冷戦期の停滞時代だ。日本でも70年安保で左翼勢力が一気に衰退した時代でもある。国際的批判に対し、巻き返そうという意図が見え見えである。とはいえ、中1だった私は、こういうプロパガンダとは無縁で、ソ連館の本物のソユーズの宇宙船の展示を見上げて単純に感激したのであった。(笑)今は昔の話だが、1970年の大阪万博は、今回の万博と違って大いに行く価値があったと思うのである。

2025年4月18日金曜日

経済で読み解く現代史4

https://shop.zakkaya-poppo.jp/products/
「経済で読み解く世界史」(宇山卓栄著/扶桑社新書)の書評第21回目でいよいよ最終回。アメリカの軍産複合体についてである。 

WWⅡ後、アメリカはソ連の脅威に対抗するため、国家安全保証法により、国家安全保障会議(NSC)、国防総省、CIAを設立し、軍事・諜報機関の関連予算を引き上げる。1950年、国家安全保障会議は、NSC-68という文書で軍事力を緊急に増強する必要性を強調した。具体的には、軍事支出の水準を従来の4倍に引き上げ、議会の予算総額の1/3に抑えるという協定の破棄を求めるものだった。軍拡の財源は、低金利政策と物価安定を維持するために、国債発行を避け、非軍事政府支出の削減(GDPの比5.4%に)と増税(所得税はGDPの比1.32%に)で賄う方針を立てたのだが、問題は国民への説得だった。トルーマンは慎重に大統領経済諮問委員会に調査させる。ケインズ派の経済学者は、軍拡の有効需要による景気刺激効果を、また原爆・水爆の核爆弾製造は安価に大量生産が可能で効率的戦力整備である点も主張されていた。そこに朝鮮戦争が起こり、NSC-68は全面採用されたのだった。

1951年度の国防予算は$482億に膨れ上がった。統合参謀本部は$823億を要求したが、議会は$555億で承認、アメリカは、軍拡路線に急激に舵を切る。冷戦期のアメリカにおいては、軍拡路線の税負担は一般国民にスムーズに受け入れられた。WWⅡ以降、軍需物資の生産が鉱工業生産全体の大きなシェアを占める産業構造になっており、軍事産業に関わる膨大な数の労働者はそれを強く望んだ。1951年の軍拡まで軍需関係労働者の労働運動は活発化し、1400万人の労働組合となり年間500万人規模のストライキを展開していた。軍拡により雇用が安定し、民需産業より20~30%程度高い賃金を得られた労働組合は強力になっていった。アメリカ社会で巨大な権益を形成していたのである。

本来なら持続不可能な軍拡=財政政策であったが、高度経済成長により維持されたのである。「アメリカに必要なものは永遠に続く戦争である。」という大統領経済諮問委員会のウィルソンの言葉は、端的に内実を表していたのである。

1961年アイゼンハワー(画像は大統領選時の缶バッチ)は、大統領退任演説で肥大化する軍需産業を「軍産複合体」と呼び警告を発した。WWⅡのノルマンディー上陸作戦の英雄故に、実に重い言である。典型的な軍産複合体は、ロッキード社とボーイング社(航空機)、ノースロップ・グラマン社(軍艦・人工衛星)、レイセオン社(ミサイル)、ダウケミカル社とデュポン社(化学)、GE、ハリバートン社(資源生産設備)、ベクテル社(ゼネコン)、ディロンリード社(軍事商社)と言われ、石油メジャー(スタンダード石油系)なども含まれる。

アメリカは、現在もなお平常時も恒常的な戦時体制に匹敵する国防費を支出しており、アイゼンハワーの警告は、活かされているとは言い難いのである。

2025年4月17日木曜日

経済で読み解く現代史3

「経済で読み解く世界史」(宇山卓栄著/扶桑社新書)の書評第20回目。今回は、WWⅠ後のドイツ経済。ハイパーインフレの真実と財政の魔術師・シャハトについてである。 

WWⅠは総力戦で莫大な戦費が投入された。それ故敗戦国ドイツに天文学的な賠償金が課せられ、フランスとベルギーがドイツの心臓部ルール工業地帯占領という無茶をやったので、頭にきたドイツ政府は、賠償金のために膨大な紙幣増刷に走り、ハイパーインフレとなった、と今まで授業で教えてきた。これは一般的な解説である。しかし、その内実は違うと本書は教えている。

なにより、賠償金の支払いは、(金本位制下故に)金での支払い、あるいはそれに見合うドルやポンドの支払い限定であったからである。…目からウロコである。

このライヒスバンクの紙幣増刷は人為的なものであったらしい。中央銀行でありながら、市中銀行と同じく、融資を積極的に行っており、インフレが激しく進行することを政府筋から掴んでいた一部の担保力のある借り手が、ライヒスバンクや市中銀行から融資を受け、土地・設備なの資産を買い入れ、一定の時期が過ぎれば貸付金は、実質価値が下がり、貸付返済は軽くなり、結果的に資産を安く買い入れることができる。インフレがさらに進めば、購入した資産を担保にさらに大きな融資を受け、さらに資産買いに当てるという行動を際限なく繰り返し、保有資産を増大させることが可能になる。このようなオペレーションをとることを前提にした人為的な誘導であったと著者は考えており、誰が、あるいはどんな組織が得をしたのかを特定することは困難だが、担保力のある大資本、あるいは政府関係筋ではないか。結局中産階級を中心とした現金資産保有者は大損したわけである。

さて、1923年シャハト(本日の画像は彼を描いたコミック表紙)が新たな中央銀行総裁となる。彼が主導したレンテンマルクはドイツの土地不動産という実体により保証されたもので、その資産価値を超える通貨の発行(33億レンテンマルク)、国債引受高(12億レンテンマルク)を認めないとした。それまでのマルクとの交換レートは1:1兆で、単なるデノミネーションではなかった。これにより信用を生みインフレは収束した。

1924年にアメリカのドーズによりドイツ経済再建のためのドル資本の注入が行われ、ドルとレンテンマルクをペッグさせ安定させるため、臨時的に発行されたレンテンマルクは恒久的なライヒスマルクに転換、ドイツの通貨が保証された。実際ドイツ経済は回復したのだが、1929年の世界大恐慌で、アメリカ資本が撤退、ドイツはデフォルトに陥る。

ナチが台頭し、ケインズ的な有効需要政策(アウトバーン)や再軍備などで劇的に失業率を下げ、ナチ直属の労働組合に賃金の分配を監視させ公共事業の恩恵を労働者に行き渡らせもした。また食糧価格安定法で物価を統制した。

これらの公共事業の巨大な財源を赤字国債にたよるとインフレ化が必定。そこでシャハトが経済相とライヒスバンク総裁として起用される。シャハトは、ダミー会社のメフォ(MEFO:有限会社冶金研究協会)という政府外郭団体の金属調査会社を設立し、メフォに兵器発注を行わせ、メフォはその支払を手形で行った。この手形をライヒスバンクが保証、手形の償還期限は3ヶ月だが、最大5年まで延長可能として、膨大な手形を発行、事実上政府の資金借り入れの窓口とした。政府はメフォ手形により、国債発行、それを引き受けるための通貨増発をしなくて済み、インフレを回避したのである。シャハトは、このメフォの実態を機密扱いにして、財政に対する社会不安を紛らわし、インフレなしの財政出動を可能にしたのだった。財政の魔術師と言われた所以である。

ところが、メフォ手形によって得た巨額の借金はいずれ返済しなければならない。シャハトは、際限なく発行される手形に制限を加えるように集中王したが、ナチの軍拡路線は止まらず、赤字国債の発行も大規模に行いだした。ナチ支援企業がこの赤字国債を無制限に引き受け、それらを偽計的特別会計に国購入費を計上して欠損を隠していた。1938年、いよいよメフォ手形の5年の返済期限になった時、ナチはその対策に追われ、ライヒスバンクは27億ライヒスマルクの紙幣増刷を行う。シャハトはこれ以上の赤字国債発行は危険だと抗議文を出したが、解任された。

1939年以降、財政に窮したナチは、侵略によって他国の財産強奪して借金返済に当てる以外に方法がなくなったのである。

…私はこの辺の歴史には詳しいと自負していたが、またもや自己の見識の浅さに打ちひしがれてしまった。本書の価値は極めて高い。

2025年4月16日水曜日

経済で読み解く現代史2

https://www.klook.com/ja/activity/25008-las-vegas-hoover-dam-tour-los-angeles/
「経済で読み解く世界史」(宇山卓栄著/扶桑社新書)の書評第19回目。今回は、世界大恐慌とNewDeal政策の効果についてである。 

以前から、世界大恐慌におけるアメリカのNewDeal 政策が、ケインズ経済学を取り入れ、有効需要を国家主導で行ったこと、これが分岐点となって、戦後、サッチャリズムやレーガノミクスといった新自由主義が登場するまで主流となってきた、と授業で説いてきた。ただ、実際にはアメリカは、WWⅡに参戦してやっと経済が復興できたことも教えてきた。今回は、その内実に迫る内容である。

まず、NewDeal 政策の6つの要素を整理すると、①生産統制:AAA(農業調整法)・NIRA(全国産業復興法)②金融緩和:金本位制停止と貨幣供給増大③財政出動:TVA(テネシー川流域開発公社のダム建設)④労働者保護:ワグナー法(労働組合法)⑤高関税政策:ドルブロック(輸入遮断)⑥銀行規制:グラス・スティーガル法(銀行の証券業務事業禁止)となる。

大恐慌発生時のフーヴァー大統領は、財政出動せず、FRBも金利水準を維持し、金融緩和も行わなかった(=金本位製の維持・ドルの供給増を行わなかった)ので、無為無策と評されているが、当時の国際協調最優先にしたわけで、世界経済の秩序は守られたが、アメリカ経済は悪化の一途をたどった。ここは議論の分かれるところである。

さて、ケインズの有効需要理論は、上記の③に当たるわけだが、1932年のフーヴァー政権での政府支出はGDP比8.0%、1936年のルーズヴェルト政権では10.2%で、僅か2%強しか増加していない。赤字国債も1932年がGDP比33.6%から36年は40.9%の増加幅に留まっている。実際にはその規模は抑制されたものであったわけである。

一方、金本位制を停止し、通貨発行の自由裁量権を得たものの1929年当時に戻したくらいで、供給ペースは緩慢であり、民間の貸出、市場への資金供給も進んではいなかった。マネーサプライも財政出動の使途分が増加した程度であったようだ。よって、NewDeal 政策は財政政策としても、金融政策としてもほとんど効果はなく、政策開始の1年前の、景気が底打ちした1933年から自律的に景気回復局面に入った故に、アメリカ経済はマシになっていったと言われている。いずれにしろ根本的に景気回復軌道に乗るのは、1939年のアメリカのWWⅡ参戦による戦時需要にあったのは間違いない。

…本書では、NewDeal 政策はボロくそである。(笑)まあ、様々な議論があるところで、評価も様々である。実に社会科学らしい話である。

…フーヴァーといえば、CAとNVの州境コロラド川にかかるフーヴァーダム(画像参照)を思い出す。ラスベガスに向かう際に通過した有名なダムである。このダムは1931年から36年の大恐慌中に建設されたもの。また、WI州のミルウォーキーで、キングという高校を視察した際、その高校はNewDeal 政策の時に建設されたと聞いた。TVA以外にもそういう公共投資・有効需要はあったにちがいないが、統計上は決して歴史に燦然と輝く政策…というほどではないようだ。

2025年4月15日火曜日

経済で読み解く現代史1

https://www.tagesschau.de/wirtschaft/unternehmen/basf-konjunktur-stellenstreichungen-jobverlust-sparprogramm-chemie-100.html
「経済で読み解く世界史」(宇山卓栄著/扶桑社新書)の書評第18回目、いよいよ現代史に突入である。今回は、WWⅠまでの、英仏独米の経済状況についてである。

概要を先に述べると、イギリス・フランスが、ドイツ、アメリカに経済的な覇権を奪われるという流れになる。イギリスは、1880年以降工業生産のシェアでアメリカに1位の座を奪われ、20世紀に入るとドイツにも抜かれてしまう。これは、産業革命で成功したモデルが根強く残り、新しいビジネスモデルへの変革が行われず、設備も旧式化、中小企業が乱立、しかも彼らが利権団体を形成し現状維持の圧力となって議会に力を持ちすぎた結果、社会が硬直化したからである。

それに対し、ドイツはビスマルクによる国家主導での大規模な工業設備投資が行われ、独占的な巨大企業(電気産業のジーメンス、AEG、軍需産業のクルップ、化学産業のバイエル、BASFなど)が生まれ、金融でもドイツ銀行、ディスコント・ゲゼルシャフト、ドレスデン銀行、ダルムシュタットという「4D」という独占金融資本体制が形成された。

アメリカでは、南北戦争の北軍の勝利後、北部が主導権を握り、保護貿易体制のもと、産業育成が図られる。スタンダード石油、USスチール、GE、金融業ではモルガン、通信業ではAT&Tなどの独占資本会社が形成された。アメリカは、ドイツと異なり自由競争尊重の立場からシャーマン法などの独占禁止法が制定され、一定のバランスの取れた市場となり、新規参入企業も増大した。

イギリスでは、19世紀後半以後、慢性的なデフレ、低金利化、出生率の低下の三重苦に苦しみ、高金利の新興国や植民地への対外投資へ向かい、国内からマネーが流出、ポンド安が進む。植民地開発、対外資本投資で稼ぐ国家になる。フランスも植民地依存は同じで、アジア・アフリカ地域から綿花や染料などの原料を調達し、本国で加工し植民地に輸出し利潤を得る軽工業国になっていった。

植民地獲得競争に遅れたドイツは、大規模な鉄鋼、電気、化学などの重工業国となり、その輸出先はイギリス・フランスなどのヨーロッパ諸国であり、最も利益率の高い重工業というセクターをドイツが掌握する構造になった。イギリス・フランスが植民地獲得に成功したが故に、そこから脱却できずにドイツに経済覇権を奪われたわけである。WWⅠの遠因はここにある。

…これまで、英仏が、毒米に工業力で抜かれるという話を今まで授業で何度もしてきた。その内実が今日の内容である。なるほどと思う反面、今までその内実を掌握していなかったことを恥じる次第。私の見識もまだまだである。

2025年4月14日月曜日

経済で読み解く近代史4

https://www.oceandictionary.jp/scapes1/scape_by_randam/randam18/select1891.html
「経済で読み解く世界史」(宇山卓栄著/扶桑社新書)の書評第17回目は、アヘン戦争後の清とイギリスの経済攻勢の苦戦、そして中国が近代化しなかった理由について。

2001年にマディソンが刊行した「世界経済 千世紀の眺望」によると、1700年のGDP値は、西欧が$833億9500万(=約8.4兆円)、中国(清)は$828億(=約8.3兆円)、1820年では、西欧が$1637億2200万(=約16.5兆円)、中国は$2286億(=約22.9兆円)で、世界経済における当時の清王朝が巨大な存在であったことがわかる。しかし、西欧が当時1億3288万人、中国が3億8100万人であったので、1人あたりのGDPでは、18世紀の近代以後、西欧が大きく躍進しているのに対し、中国はラテンアメリカより低い時期もあって停滞している。中国の成長率はほとんどゼロ成長で、人口比と正比例しており、土地に束縛された小農民が自分たちの生存に必要な食料などの物資を自給するために生産活動をしていたといえる。

17~18世紀の清では、金融業の規制もゆるく、大都市では預金や貸付業務を行う「典当」や「銭壮」、為替や両替業務を行う「票号」という銀行も発達していたが、限定的で中国経済を牽引するほどの力はなく、資本の蓄積はあくまで中世的商業資本に過ぎなかった。このように、中国は、西欧の近代化に取り残されてしまう。

中国が近代化しなかった最大の理由は極端に低い労働コストにあった。当時、イギリスは綿製品の機械化で労働コストをおさえ、大量生産したが、中国では売れなかった。中国では綿製品は家庭で簡単な道具で紡がれ、織られていた。自給自足だったのである。結局、中国の綿製品のほうが安価であったゆえである。中国の農業生産性、利益性は高く、土地の痩せたイギリスと違い、あえて工業化をする必要性がなかったのである。

イギリスは、アヘン戦争で関税自主権を奪い、大儲けしようという魂胆であったが、上記のように売れず、反対に茶の輸入が増え、貿易赤字になっていた。中国への経済攻勢ができないので、武力で半植民地化を進め、貿易赤字を埋めるため、中国国内の金融、建設、海運その他のサービス業で利益をあげざるを得なかった。また、輸入超過の茶を植民地のインドやセイロンで栽培することになったのである。

…イギリスはアヘン戦争後、中国で大いに儲けた様に見えて意外に苦戦を強いられてきたのであった。また中国が近代化に遅れを取った理由は、労働コストの低さと農業生産で十分だった故である。こういう真実は、受験の世界史ではあまり語られない。実に貴重な視点を共有できたと思う。

2025年4月11日金曜日

経済で読み解く近代史3

https://www.hubbis.com/news/hsbc-malaysia-opens-new-head-office-in-trx-kuala-lumpur
「経済で読み解く世界史」(宇山卓栄著/扶桑社新書)の書評第16回目は、イギリスは、産業革命によっては意外に儲からなかったが、世界の覇権を握った理由について。

イギリスの国際収支の資料によると、1816年から20年の貿易収支は、-10.58(✕100万ポンド以下同じ。)で、1876年から80年では、-123,74と、この間ずっと赤字で、しかも増加傾向にあった。すなわち、イギリスの工業製品の輸出で儲けていたわけではなく、反対に赤字だった。しかし、貿易外収支(海運業、サービス業、海外金融業、海外投資の収益)で稼いでいたのである。1816年から20年の貿易外収支は、17.80。以後ずっと黒字で増加しており、1876年から80年では、148.56。よって、経常収支は、ずっと黒字である。しかも海外債権残高は莫大に増え、1816年から20年では、46.1だったのが、1876年から80年では、1189.4にまで増加している。以上の点から、イギリスが覇権を握った理由は産業革命による生産力拡大にあらず、と言えるのである。

イギリスは、三段階の悪辣な収奪システムによって覇権を握る。まずは、16世紀の私掠船の略奪(2023年9月3日付ブログ参照)、第二段階は17~18世紀の奴隷三角貿易、第三段階は19世紀のアヘン三角貿易である。いずれも受験の世界史でも登場する内容である。

ここでは、奴隷三角貿易において、イギリスはスペインやフランスとの競合者との戦争に勝利して以来、奴隷貿易を独占し、投資家は30%程度のリターンを得ていたとのこと。当初西インド諸島で砂糖のプランテーションで大きな利益を得ていたが、やがて綿花プランテーションもつくられ、さらなる需要のためにアメリカ南部にも拡大した。1783年、独立したアメリカは奴隷に家族をもたせ、子孫を永続に住まわせることで奴隷人口を増大させた。よってイギリスの奴隷貿易額は減少した。さらにアフリカ地域の人的資源が急激に枯渇し、奴隷の卸売価格が上昇、さらに砂糖・綿花の生産量増大で価格が低下し、奴隷貿易の利益は先細りになる。人道的な批判や世論も強まり、イギリス議会は1807年奴隷貿易禁止法を制定するが、19世紀半ばまで続く。さらなる砂糖・綿花の供給増で、自然消滅していった。つまりは、人道的云々ではなく、経済的理由で奴隷貿易から手を引いたに過ぎない。とはいえ、奴隷貿易で搾り取れるだけ搾ったわけである。

…今回はアヘン貿易については省略するが、その中心は、ジャーディン・マセソン商会で、アヘン戦争後、HSBC(香港上海銀行)が設立される。ジャーディン・マセソン商会をはじめとしたアヘン貿易商社の資金融通や送金業務を請け負った銀行である。HSBCは、マレーシアでもたくさんの支店をもっていた。私は関係を持たなかったが、それで良かったのだと思っている。

2025年4月10日木曜日

経済で読み解く近代史2

https://note.com/sekaishi_genba_/n/n7244784ebd48
「経済で読み解く世界史」(宇山卓栄著/扶桑社新書)の書評第15回目は、イギリスの産業革命のその後について。意外な事実が書かれていたのである。

前回の書評では、ワットの蒸気機関の開発について触れたが、当時の製鉄業は、木炭が使われていた。しかしイギリスの森林資源は不足しており、スウェーデンに頼っていた。18世紀になって、ダービー父子が石炭の不純物を取り除きコークスを発明したので、鉄を自給できるようになったのである。この製鉄業の飛躍は、鉄道や蒸気船の生産に向かい、流通面での圧倒的優位性がイギリスの綿製品市場の独占に寄与した。

しかし、この技術は、プロイセンにキャッチ・アップ(=後発国が先発国の開発した新しい技術を導入し工業化を推進すつため、後発国の技術進歩は急速で、経済成長率も先発国を上回ること)されていく。プロイセンの技術者はイギリスの機械技術の盗用に最も熱心だったし、ユンカー(大地主層)も商工業経営の投資に熱心だった。フランスはナポレオンの大陸封鎖令でイギリス製品を締め出し、イギリスの技術の盗用で産業技術の向上に寄与した者に勲章が与えられたりもした。イギリスの綿工業は大打撃を受け、アメリカ市場に向かうことになる。

イギリスは産業革命で大儲けしたように思えるが、後発国によって否応なく価格競争に巻き込まれ、19世紀以降は長期のデフレ基調になるのである。だが、イギリスは世界の覇権を握っていく。…その内容は次回。

追記:今日も2クラスで新3年生の授業をした。昨日同様、実に気持ちの良い授業ができたのであった。明日は残り全てのクラスを回ることになる。楽しみである。

2025年4月9日水曜日

経済で読み解く近代史1

https://awrd.com/creatives/detail/104669
「経済で読み解く世界史」(宇山卓栄著/扶桑社新書)の書評第14回目は、いよいよ近代。イギリスの産業革命の背景について。

産業革命と言ってしまうと急激な変化が起こったように聞こえるが、18世紀前半から100年の長期にわたる持続的なものであった。イギリスでは、すでに16~17世紀に毛織物を手工業で生産するモデルが構築されていたが、より早く、安く、大量に生産できる効率的で資本の回転率が良い新しいモデルが必要とされていたのだが、インド進出によって画期的な綿布(キャラコ)に出会う。軽くて丈夫、通気性もよく、シャツなどへの製品化もしやすいスグレモノであった。なにより綿製品が毛織物より優れていたのはは、水洗いが可能であること。綿花を栽培できないヨーロッパでは水洗いできない不潔な毛織物を着ていたために病原菌に侵されやすく、特に免疫のない乳幼児の死亡率が高かったのだが、18世紀以後、綿製品の流通すると、乳幼児の死亡率が劇的に改善されたのである。

…本書には書かれていないが、インドから綿布を輸入する貿易商は大儲けしたが、毛織物業者は壊滅状態に陥る。しかし毛織物業者は議会を動かし、綿布の輸入を禁止する法律を制定した。そこで、貿易商はカリブ海諸島や、アメリカ南部で奴隷制プランテーションを経営し、綿花自体を輸入していく。毛織物業者もそれまでのノウハウを活かし、綿織物に転換していくのである。

原料(綿花)のコストを下げることに成功したイギリスは、次に製造コストを下げるため、紡績機や織機の機械化に向かう。羊毛より綿花のほうが強く機械化に適していたのである。18世紀の前半は、この機械の動力は人力や水力だったが、トーマス・ニューコメンが蒸気機関を発明、炭鉱の排水用ポンプとして使われていた。ピストンの上下運動を、紡績、研磨、製粉などに使えるよう、円運動に転換させる技術を開発したのが、有名なワットで、これをバックアップしたのが、かのアダム・スミス(当時はグラスゴー大学の教授で、すなわちスコットランドが発祥の地)である。この技術開発には実業家のボールトンが資金援助と特許申請、さらに金属加工業者として技術面からも支えた。1780年代に円運動の蒸気機関装置が実用化し、独占的供給をしたものの、1790年代半ばまで開発資金の回収、黒字にはならなかったと言われている。

追記:今日は新3年生の2クラスに行ってきた。どちらも真剣に地理総合のイントロダクションに聞き入ってくれた。大満足である。

2024年12月25日水曜日

人類史上最もやっかいな問題6

「イスラエルー人類史上最もやっかいな問題ー」(ダニエル・ソカッチ著/NHK出版)の書評、第6.5回目。これまで見てきたように、パレスチナでは、そもそもスファラディ(イスラム教圏で比較的弾圧されることなく居住してきた人々)が共存していた。そこに、アシュケナジの社会主義的なシオニストが移住してきて、集団農場・キブツを建設してきた。その後さらにアシュケナジの移住者が増え、パレスチナ人と摩擦が起こる。やがて、アシュケナジの中でも右派が台頭し、その摩擦はイギリス委任統治時代に拡大する。WWⅡ後は、アシュケナジの何十万人という生存者がさらに移住をしてきた。

第一次中東戦争後の1950年、イスラエル国会は「帰還法」を成立させる。全てのユダヤ人はイスラエルに移住し、市民権を得る権利を有するというわけだ。イスラエル成立以後、最初の10年間で人口は2.5倍以上の200万人に達した。さて、一方、この中にはイスラエル建国で、居住していた国で反ユダヤ的機運が起こった中東や北アフリカから逃げ出してきたミズラヒムの人々が75万人以上いた。彼らは、イスラム圏(イラク、モロッコ、イエメンなど)にいたのでスファラディの中に入れられることも多いが、アシュケナジとは外見も違い、アラビア語を話す人々だった。主流派であった左派のアシュケナジは彼らを公平に遇していたわけではない。彼らは、文明的で生産的な市民になるべく再教育と啓蒙が必要な粗野な人々と見られていたのであった。

イスラエルに到着したミズラヒムは、滞在キャンプのテント村に押し込まれ、その後比較的大都市から離れた周縁部に送られたり、都市部でも危険なあまり好ましくない地区に定住した。この到着時の仕打ちがミズラヒムが、左派アシュケナジ・エリートに反発する遠因となっている。

ちなみに、ミズラヒムの超正統派は、スファラデイの超正統派と組んで、シャスという政党を支持している。シャスは、現在も与党でネタのヤフ政権を支えている。入植地からの撤退には断固反対の姿勢を崩さないのは、ミズラヒムの置かれている上記の社会的な問題が影響を与えているのではないだろうか。ただしパレスチナとの和平、あるいは紛争問題については無関心で、超正統派の社会福祉政策や軍役に就かないなどの超正統派の権利を守るための与党入という面が強い。一方、アシュケナジの超正統派は、ユダヤトーラー連合をもっており、与党だがシオニスト批判も行っている。

現状では、超正統派以外のミズラヒムはアシュケナジとの婚姻が続き、混合ユダヤ文化の様相を呈している。イスラエルの社会構造は実に複雑なのである。ただ、ミズラヒムのスタンスは、占領地を巡って実に重要であると思われる。

…イスラエル行以来、妻は、よくヒヨコ豆を料理に使う。これらの食材はミズラヒムの影響らしい。ちなみにミズラヒムのことを調べていたら、ニール・セダカが(トルコ系)ミズラヒムであるらしい。私は、彼のSUPERBIRDという曲が大好きで、聞きすぎて今でも英語で歌える数少ない曲の1つである。