2022年7月31日日曜日

東大の「民主主義」講座

https://www.youtube.com/watchv=0djLFfZeTeY&ab_ch
annel=%E6%9D%B1%E5%A4%A7TV%2FUTokyoTV
明日から、政治経済の夏期講座でほぼ準備を終えた。と、思ったら、たまたま私のYou Tubeのオススメ欄に、東大の宇野重規教授の「民主主義とはなにか:歴史から考える」という高校生と大学生のための講座が登場した。無茶長いので、面白そうなところだけ見てみた。

40分くらいのところで、M・ウェーバーの話が出てくる。WWⅠ後のドイツで、ワイマール憲法の起草に関わったらしい。初耳である。ただ、ウェーバーはかなり悩んでいたようだ。それは、議会の政党人の無力さと、ドイツ国民が政治思想を学んでいないという状況で民主的な憲法を作っても混乱するだけではないか。しかも、ドイツ国民はビスマルクのような、カリスマ性のある指導者についた経験がある。そこで、大統領の権限を強化することにした、という話。結局、この結果ナチの台頭を許すことになるのだが…。

…私の感想:M・ウェーバーは、実は有名なエディプス・コンプレックスで、母親を守るために父親を客死させている。その彼が、強大な父親像を憲法に書き込んだように思うが。

また、ハーバーマスの弟子・ハンナ・アーレントの「全体主義の起源」で、19世紀のヨーロッパは階級制社会で、それぞれの階級からこぼれ落ちる人々がいた。これらはじき出された人々(モッブ)は、自分たちを排除した民主主義社会を敵視し、代理制民主主義を破壊に回る、それが全体主義であると。

…ナチに協力したハイデッガーの弟子であるユダヤ系のアーレントは、かなり複雑な思いだったろうなあと思う。「全体主義の起源」は、全体主義に流れたモッブについて詳細に述べられている大著らしい。興味を惹かれた次第。

民主主義の4つの危機として、2016年のブレグジットとトランプ現象、権威主義国の増加、AIの専制?、コロナ危機と民主主義、といった議論が世界中でされているという話につながる。民主主義がうまくいってないという議論である。宇野氏は、民主主義は常に問題があるが乗り越えてきたと主張していた。

ところで、この宇野氏は、2018年と2020年の学術会議への推薦を政府に蹴られた人である。少し調べてみると、特定秘密保護法に反対する学者の会、安全保障関連法に反対する学者の会では呼びかけ人になっている。だから、何だと言われると困るのだが、最後に民主主義の意義について語っているところは、こういう背景を知った上でなかなか見どころ・聞きどころでもあった。学者らしく、理性的に自分の論を語っていた。

昭和の欲望機械


ドゥルーズ=ガタリの『アンチ・オィディプス』の用語で「欲望機械」というのがある。まあ、平たく言えば人間のことなのだが、語感が強烈である。生産年齢ギリギリになった今となっては、少欲知足で、パンナコッタ(6月29日付ブログ参照)をちょっと口にするとか、あわしま堂(7月21日付ブログ参照)のわらび餅が食べたいとかくらいの話なのだが、若い頃はやはり「欲望機械」であったと思う。

https://www.mac-paradise.com/htmls/1100000066491-9.html
高校時代は、SONYのラジオが欲しかった。スカイセンサー5500。(上記画像参照)時代は、ラジカセに向かっていたのだが、これがかっこよくて欲しかった。大学時代には、先端的な友人がパソコンを所持していて、カセットレコーダが記憶装置であり、自分でブログラミングしてゲームを楽しんでいた。凄いなと思いつつ、完全文系の自分には欲しいと思えるものではなかった。しかしその後、教師になってから、友人宅でマッキントッシュのクラシックⅡを見て感激した。当時30万円くらいしたと思う。高嶺の花もいいところだった。しかし猛烈に欲しくなった。免許を取ったあと、クルマも欲しかった。どんなクルマでも買ってやると言われたら、日産のBe-1が欲しかった。限定生産で手に入らない高嶺の花だった。
https://web.motormagazine.co.jp/_ct/17340602
こうしてみると、昭和から平成にかけて、私も「欲望機械」としていろいろなものを購入した。ラジオはともかく、パソコンは何台買ったのかもう数えられないし、クルマも、国産車では、いすすとマツダ車以外は乗った。いい時代だったような気がする。だから、何だと言われると困るが、ふとそんなことを夢想した、というお話である。

追記:このエントリーをした後、You Tubeでもう引退するという吉田拓郎の「マークⅡ」のライブを聞いていたら、最後の歌詞が染みた。「年老いた男が川面を見つめて時の流れを知る日がくるだろうか。」拓郎自身も、そして私も、時の流れをひしひしと感じている。高校時代から拓郎を聞き、弾き、歌い、して良く知っている曲だが、あらためて染みた、実に染みた。

2022年7月29日金曜日

民主主義の問題とはなにか?

来週から政治経済の夏期講座が始まる。今日は、小論文指導と夏期講座の準備で久しぶりに学園に行ってきた。(先週は、自宅でひたすら教材研究をしていた。)政経なので、やはり話題になるのは、民主主義と資本主義である。民主主義の問題点と現在の新自由主義のグローバリゼーションの問題点について最終的に触れていく予定である。直接的に共通テストと関係ないかもしれないが、今年の新カリキュラムから始まっている「公共」という公民教科の改革点は、生徒が調べ、思索していく姿勢の育成であるから、意義は十分にあると考えている。

チャーチルの有名な言。「これまでも多くの政治形態が試みられてきたし、またこれからも過ちと悲哀にみちたこの世界中で試みられていくだろう。民主主義が完全で賢明であると見せかけることは誰にもできない。実際のところ、民主主義は最悪の政治形態という事ができる。これまでに試みられてきた民主主義以外の政治形態を除けば、だが。」イギリス人らしいアイロニーに満ちた表現で、さすがノーベル文学賞受賞者ともいえるが…。

民主主義は、ギリシアの民主政以来、衆愚政治に陥る危険性がある。ロックが抵抗権を唱え、ルソーが特殊意思ではく一般意志を唱えても、民主主義にはポピュリズムの罠が常に潜んでいるし、議論に時間がかかるというマイナス面もある。また、民主主義のパートナーとして表現の自由が保障されたマスコミが必要だが、このところ完全に信用を失っている。

最近、あまり話題に出したくない、醜悪な政治的暴露が多い。あのアメリカ大統領選挙以来、何を信用していいのかという不信感が生まれたし、プロパガンダ合戦の様相が、あらゆる情報にあらわれている気がする。小論文指導で、今日は生徒とそんな話をしていたのだった。憲法改正案について課題を出していたのだが、今週はいろいろな疑惑が出てきて実際大学側も出題しにくい状況になっている。幸い、時事問題にも精通している生徒なので、共感しながら話が弾んだ。3時間半ほど、私も充実した時間を過ごせたのだった。

2022年7月28日木曜日

アフリカの貧困&繁栄ポルノ

https://ascii.jp/elem/000/001/677/1677692/
久しぶりに、小論文指導でアフリカ開発経済学もやろうと思っている。で、途中まで読んだ「アフリカ希望の大陸」を開けていることろだ。第7章の「商業の地図」に面白いことが書いてある。以下ほぼ抜粋。

ヨソモノは、アフリカ大陸の市場をずっと無視してきた。援助の流入や「貧困ポルノ」(注目や寄付金を集めるために、貧困を材料にして同情を呼ぶような形で仕立てたメディア)がアフリカにはカネがないと刷り込んでいる。経済学者たちは、上から目線で人口あたりのGDPや変動する金利、援助まみれの政府予算といった気の滅入るマクロ経済指標にばかり注目する。…湾曲的に「政治リスク」と呼ばれるものに対する恐怖は誇張されすぎだ。クーデターや強制収容、その他開発途上国で起こり得る事業について投資家に補償を行う世界銀行の多数国間投資保証機関(MIGA)は、過去25年間でたったの6回しか支払いを行っていない。しかもアフリカはそのうち2回だけだ。

「貧困ポルノ」どころか「繁栄ポルノ」のような事実がある。BRICsを含めた世界の開発途上国地域より高い投資利益率を誇っている。世界で最も急速な経済成長を遂げている国の上位10カ国のうち、7カ国がアフリカに位置する。国連のポスターに映し出されたホコリまみれの足の向こうで、アフリカの中流階級は好景気に沸いている。…アフリカ開発銀行は、BOP(最貧困層)を底辺とするピラミッドの中程に位置する人々が3億5000万人はいると推計している。1日$2という貧困指標の10倍稼ぐ人々がアメリカの人口と同じくらいいるえわけだ。だからといって「太った国」の中流階級と同じようなものではない。(映画や輸入菓子、高性能な携帯電話といった小さな贅沢を楽しみ、ケーブルテレビや家庭用バソコン、我が子を質の高い私立学校に通わせると言った感じである。)これまでのアフリカについてよく聞かれていたような話た統計がもはやあてはまらなくなっているのは事実だ。ーもっと今までもあてはまっていたかどうかも怪しい。

「1人あたりのGDPが低いということは、ナイジェリア人は携帯電話は買えないはずです。でもナイジェリアには6000万人以上の契約者がいるのです。明らかにつじつまが合いませんよね。」とプライベート・ファンドのマネージャーR氏の言。

…これには少し注釈がいる。アフリカの携帯・スマホは、ほとんどが中国・深センなどで作られており、アフリカ人バイヤーの手で輸入されている格安のものが多い。アメリカ等の技術を盗み製品化しているという噂が絶えない。安かろう・悪かろうであるのは確かだ。日進月歩しているだろうが…。だからといって、アフリカ人をせめているわけではない。そういう世界があるわけだ。先日、そういった中国製の激安PCを詳細に点検するYou Tubeを見ていた。スペックなどの解説では、「ゴミ」扱いしていたのだが、きっとアフリカでは重宝されているのだろうと思う。多少遅くても動けばいいというスタンスだと思うのだ。きっと彼らは「太った国」の人間よりうまく使うはずだ。

2022年7月27日水曜日

大谷翔平選手のトレードを望む

https://tmbi-joho.com/2018/01/19/dodgers-origin/
日本時間の8月3日まで、MLBのトレードが行われる可能性があるそうだ。まさにプラグマティックというか、ポストシーズン出場の可能性が低いチームから戦力を買い求め、有望な若手を複数でトレードするのが、アメリカの流儀らしい。MLBでのトレード経験者の上原氏などが、日本の事情とは違う旨を発信してくれている。トレードされ買い手が多いというのは評価の証であるわけだ。

大谷選手のエンゼルスは、投手陣の不調で監督が解任され、ほぼポストシーズンは絶望的らしい。オーナーもGMも、監督代行もあまり印象が良くない。大谷選手が入団した時のGMは解任され、今はNYメッツにいるそうだ。高校時代に濃厚に接触したスカウトは、LAドジャーズにいるらしい。アメリカンリーグもナショナルリーグも、今季からDA制になっている。細かな相性(DHにいい選手がいるとかいないとか、先発投手の状況など)はあるだろうが、このメッツとドジャーズが有力らしい。他にもヤンキースとかいろいろ候補が上がっているけれど…。

ただ、問題はFAではないので、大谷選手がどこに行き方かろうと、エンゼルス球団の判断で決定される。まさに選手は、商品なのである。ここにきて、エンゼルスはトレードしないだろうという予想が強まっている。理由はいろいろあるのだろうが、観客動員数が凄いことは大きいだろう。大谷選手を見るために、スタジアムに足を運ぶファンが多く、それはアトランタでも同じ、カンザスシティでも同じ。ましてフランチャイズは、ドル箱だからだ。

だが、本人の事を考えると、是非トレードで出て、もっと野球を楽しんで欲しいと思う。本人は、どういう状況であれベストをつくすだけというサムライスピリットで頑張ってくれている。今日も21号をセンター方向に打ち込んでくれたし、四球でもバットを大切に起き、手袋等を脱いで、バットボーイに礼を言いながら手渡すといった仕草だけでも彼を見に行く勝ちがあると思う。

私などはドジャーズに行ってほしい。理由は、ドジャーズのユニフォームが一番似合うだろうと思うといったしょうもない理由なのだけれど…。

悪意ある外国人との共生考

https://mesomablog.com/5414.html
安倍元首相の暗殺事件については、多々疑わしい点がある。これについて一度エントリーしようとしたが、やめた。今日は国葬反対デモについて記しておきたい。私は今回の国葬には国家の体面や外交的な効果から、反対ではない。同時に国葬反対を唱えるのも自由だと思う。しかし、上記の反対デモの画像を見ると「止めろ」を「上めろ」と書いている。普通の日本人の知性では考えられない間違いである。

かなり高い確率で、外国人であるという推察ができる。5月17日付ブログで記したが、中国共産党の国民動員法による工作活動だと見るとのが最も適当だろう。

https://mesomablog.com/5414.html
あるいは、20年7月26日付ブログで記した安倍元首相を慰安婦に土下座させた彫像をつくった傷ついたコギトの隣国の工作活動かもしれない。いずれにせよ、悪意のある完全なプロパガンダである。

私はESD(持続可能な開発のための教育)の徒であり、異文化理解や共生についてかなり学んできた。異文化理解や共生は可能だと思っている。また、マレーシアの留学生とともに学び留学を応援してきた。

ただし、それは「反日」というゼロ記号を振り回し、悪意を持っている外国人との共生まで含むものではない。昨日も記したが、歴史認識問題を結局おざなりにしてきたツケがここまで悪化させてきたと思う。もう、戦後教育の行ってきた一億総懺悔を脱していかなくてはならない時期にあるように思う。

2022年7月26日火曜日

敗戦国としての日本論3題

松岡正剛の「国家と私の行方」のエントリーも、いよいよ大詰めである。昨日のラストに記した日本の敗北感について。松岡は、この日本の敗北感さらに日本の意思決定プロセスの不在、永続敗戦論と、3人のの著作を挙げて言及している。

まずは「東京プリズン」「愛と暴力の戦後とその後」などを書いた赤坂真理。『日本は、一度のつまづきで再起しにくいシステム社会なのである。あるいはセーフティネットをつくりながら発展する余裕がなかったのかもしれない。』『日本国は、開国させられた屈辱とショックと危機感から戦争の世紀に打って出て、奇跡の快進撃を遂げた末、深煎りしすぎて大負けし、国を焦土として無条件降伏するまでになった。その間、変わらなかったのは天皇の実在、もうひとつは日本が一貫して他者のルールの中で戦わざるを得なかったことだった。』

カレル・ヴァン・ウォルフレンの「日本/権力構造の謎」。彼は国会、内閣、自民党、野党、官僚機構、警察権力、財界、圧力団体とおぼしい農協。日教組・医師会・法曹界・連合、さらには宗教団体などをたっぷり調べたうえで、欧米社会の分析で成立するようなロジックにはならないことに思い至る。『日本は主権国家として最善の国益を選択しているのだろうと諸外国から思われているが、実はそのようなことができていない国なのではないか。』『日本は自由市場経済を徹底していると主張しているが、どこかでごまかしているか、あるいは内側の顔と外側の顔を使い分けているのではないか。』『おそらく日本は世界中がまだ定義すらできていない体制をとっている国なのだろうが、その体制にとって自覚も分析もできていないのは当の日本自身なのではないか。』彼の推測的結論は『日本の権力は、きっと極度に非政治化されるように見えるシステムになっているのではないか。そのシステムは議会や内閣や官僚が制度的に掌握しているのではなく、複数のアドミニストレーター(管理者)によってそのつどツボが押さえられると見るしかないのではないか。おそらく日本人はそう見えるような努力ばかりをしているに違いない。つまりは日本はアドミニストレーターの天国ではあっても、その天国は日本という「国家」なのではなく、そうしたバラバラのシステムの漠然とした「顔」の統合体でしかない。だからこそ日本は長らく東大法学部出身のアドミニストレーターをあらゆる政界・業界・法曹界・公安界のトップに迎えてきたのではなかったか。』というもの。彼はさらに神道・仏教・儒教の三大精神体系の役割を考えてみたり、日本人の価値観が大学や小中学校、家庭や会社で育まれているという仮説を立て分析しているが、なんら「国家」「日本文化」のことを教えないことに驚愕する。また『日本には責任をとって自殺したり沈黙したりしてしまうレスポンシビリティ(行動責任)があっても、政治的な説明をしようとするアカウンタビリティ(説明責任)がない。』と落着点を見出した。またその後、日本のマスコミの問題について、『日本のジャーナリズムは「社会秩序の維持が仕事だ」という勘違いをしていて社会が変革される方向のために努力していない。マスコミはジャーナリストの責任を問わないで他人の責任ばかりを問うている。』としている。

3人目は白井聡の「永続敗戦論」で、領土問題、拉致問題、安保条約の問題、TPP問題という順に日本の立ち位置を検討して、戦後レジームが「国体」にあったことを強調する。北一輝の思想、すなわち大日本帝国憲法の天皇を、現人神として「神聖にして侵すべからず」と密教的な天皇としながら、明治の政治家と官僚たちは、国家を運営するための機能や機関=顕教的天皇としての利用したしくみを見抜いた思想だが、これは戦後レジームでも「戦後の国体」として生かされているした。このような日本は永続敗戦の状況にあるというのである。

松岡は、日本人は現在の日本に「かつての日本」があると思いすぎているのはないか、現在の日本の現状をもう少し目を見開いて見たほうがいいのではないかと述べている。かつて、レヴィ=ストロースは、「日本は、自らの価値観を放棄するほどにヨーロッパの価値観に傾倒することは一度もなかった。」と書いて、日本に潜む「二拍子のリズム」(裏腹とか本音と建前)に言及したことがり、トインビーは、「日本は西洋病に患ってきた時間が長すぎる。これでは日本文明としての見解を政治家も学者も提出できないままになる。」と憂えたことも記されている。

…この13講の後半部も実に勉強になった。思うところはたくさんあるが、あえて記さないでおく。ところで、来週から政治経済の夏期講習で4日に渡って講義する機会があるのだが、松岡正剛の編集力は、そのまま「メタ」な視点と言い換えてもいいかもしれない。『近現代史から政治経済分野をメタに捉える』というテーマで行なうつもりで準備を進めている。

2022年7月25日月曜日

靖国神社の現在地

https://times.abema.tv/articles/-/8656480
松岡正剛「国家と私の行方:西巻」のエントリーを続ける。第13講は、「歴史認識問題と日本の語り方」というタイトルである。その中で、今日は靖国参拝問題を取り上げたい。だいぶ前に、靖国神社についてエントリーしたことがあるが、改めて松岡の違う視点も取り入れて考えたい。

靖国神社は、ペリー来航以来の事変・戦争・国事に殉じた戦没者を「英霊」として祀る神社である。吉田松陰、坂本龍馬、高杉晋作、中岡慎太郎、橋本左内らの志士、乃木希典、東郷平八郎らの軍人、八甲田山行軍事件の遭難者、西南戦争・日清戦争・日露戦争・日中戦争・太平洋戦争の戦死者など246万柱が祀られている。西郷や江藤新平、前原一誠ら反乱者は祀られていない。となると、ここで、ちょっと疑問。この本に「朝廷守護にあたった会津藩士たち」とあるのだが、会津藩士で、蛤御門の変で戦死していたら英霊?。(ならば、久坂玄瑞はどちら?正四位が送られているから英霊かな。そんなこといったら西郷もかなり後だが正三位。息子は侯爵になっている。)それ以上にややこしいのは、戊辰の会津戦争で新政府軍と戦い戦死したものは非英霊?。会津戦争の生き残りで、西南戦争に参戦し倒れた者は英霊?という具合で、なかなかグレーな印象があるのである。それこそ、この本のタイトル『国家と私の行方』である。

1979年4月、ここに東京裁判のA級戦犯のうち有罪判決を受けた14名が、第六代宮司・松平永芳(松平春嶽の直系の孫にあたる)によって合祀された。死刑になった東條英機・広田弘毅・土肥原賢二・板垣征四郎・木村兵太郎・松井石根・武藤章の7名と、刑期中病死した平沼騏一郎・白鳥敏夫・小磯国昭・梅津美治郎・東郷茂徳と判決前に病死した水野修身・松岡洋右の7名である。このうち、広田・平沼・白鳥・東郷・松岡は軍人ではないので例外的である。「昭和の殉教者」として彼ら14人は合祀された。ちなみにB級・C級戦犯も死刑になった者は合祀されている。

さて、歴史認識問題として見ると、合祀されて以降、昭和天皇は親拝をやめられた。(毎年親拝されていたわけではなく合祀3年前の1975年が最後)合祀後6年間ほど、大平・鈴木・中曽根首相らが参拝していたが、1985年7月、中国政府(天安門事件の1年前なので鄧小平時代)が公式に非難した。「朝日新聞の報道があったためともいわれる。」と松岡は書いている。…なるほどである。鄧小平のカンはするどい。チャンスを見逃さなかったわけだ。

さて、靖国問題の10の議論軸が記されている。①憲法28条が保証している信教の自由から見れば、そもそも誰が参拝してもおかしくないという議論。②靖国が国家の公的な慰霊施設だとすると、玉串奉納などの祭祀にかかわる寄付・奉納を政府関係者や地方自治体がしてもいいのかという議論。つまりは政教分離に抵触するのではないかという議論。③靖国は戦死者を英霊として崇め戦争を肯定しているのだから、公的人物が参拝することは靖国神社のもつ歴史観を追認していることになるのではないかという、中国が主張している議論。④東京裁判が国際的に確定した戦犯判決を、無視あるいは軽視しているのではないかという議論・⑤日中戦争などの犠牲者の心情を逆なでしているという議論⑥日本国家として、日本の軍人と軍属者たちの戦死を慰霊するべき設定ができていないのではないかという議論。⑦A級戦犯は28名が起訴され、有罪宣告されたのは25名。生きて釈放されて復職してその後に死去した者、病死・絞首刑をされて遺体となった者がいる。これらから靖国神社が14名を選定したからと言って、日本国として殉教者を規定する基準とならないのではないかという議論。⑧神道の儀式や祭祀として戦死者・戦没者を祀ること自体が妥当なのかという議論⑨公人と私人によって参拝を区別できるのかという議論、私人の場合に公用車や側近や護衛官をつけるのはおかしいという議論。⑩天皇の靖国参拝はA級戦犯の合祀の後には行われていない、では天皇はこの英霊たちにどのような慰霊をされるのかという議論。

松岡は、これらを1つの整合性に持っていくのはほぼ不可能だと述べている。それは、日本の戦争責任をどこまで問えるのかという問題が待ち構えていて、それは日本だけが抱えている問題ではなく、20世紀が残した最大の難問でもあると。ハーバーマスの弟子だったハンナ・アーレントは、アイヒマン裁判を見聞して、「アイヒマンに戦争責任があるとすれば、それは残忍であったことにあるのではなく、むしろ凡庸であったことにあるのだろう」と『イェルサレムのアイヒマン』に感想を書いているとか。これは安易に日本にあてはまるものではない、そこが歴史認識問題の難しさであるとも。

…靖国問題について思うところを記しておきたい。まずは一般の遺族・国民の視点:靖国神社に軍人の英霊が祀られていることを良しとするのなら、信教の自由である故に何も問題はない。もっと言えば、公人とされる者も同様だと思う。ただ、私人として行くのなら、玉串料や公用車等は不要。警護もポケットマネーで行なうべきだろう。国家が特定の宗教を護らないという憲法の政教分離は貫かねばならない。靖国参拝=戦争の賛美であるという視点は、グローバル・スタンダードにはあたらない。各国にはそういう施設がある。私はアーリントン墓地や人民英雄記念碑しか実際に見ていないが、靖国をそういう場所だと見ればおかしくはない。ただ、境内にある記念館はそういう批判を助長するものだと思う。わざわざ境内に置く必要はないと思う。最大の問題は、神道以外の信仰を持つ者も英霊として祀ることへの疑義がある。当時は国家神道故問題はなかったのだろうが、(このようなことはないことを祈るが)これから英霊が生じたとしても、それは各人の自由意志に従うべきだ。続いて、東京裁判のA級戦犯合祀について。東京裁判自体がプロパガンダ、政治ショーである意味合いが強いので問題ない、と言いたいところだが、昭和天皇が激しく忌避されているところから、この合祀が果たして正義なのかという疑義をもつ。広田など民間人もわざわざ合祀していることにも納得できない。さらに、亀ヶ淵にある国立戦没者墓苑を靖国の代わりにという議論もあるが、これは民間人も含む戦没者の遺骨を安置している場所である。上皇陛下が太平洋の島々を慰霊に回られ、その際拾骨されたものも入っているだろう。英霊をここにという議論は少し無理があるように思う。だが空襲で犠牲になった方々も軍人も同じ戦没者である。公人は有効活用をしてほしいところだ。最後に、歴史認識問題だが、中国や隣国は、この歴史問題をゼロ記号と捉えており、プロパガンダや経済的利益強奪の温床だと考えているフシがある。様々な歴史認識問題が生み出した悪弊の事実がが判明した今、毅然とした態度で望むべきではないか。ほんと、日本は世界中で最も謝り続けている国であると思う。

この日本的敗北感が、次のテーマである。

2022年7月24日日曜日

アンチ・オィディプスの現代

http://ueshin.blog60.fc2.com/blog-entry-680.html
前のエントリーの続きになる。松岡正剛は、「世界を同質の資本主義にするためのものだったのか?それがグローバル資本主義の正体なのか?」という問いかけに対し、第11講の後半に、『資本主義は一様ではなかった』という章を立てている。

ミシェル・アルベールの「資本主義対資本主義」が最も有名で、①アングロサクソン型資本主義(短期的な視野で意思決定と個人主義を重視する英米型)②ライン型資本主義(集団的で中期的な視野による日独型)③合成型資本主義(それらの組み合わせ型)という分類である。ブルーノ・アブーブルの「五つの資本主義」は比較制度分析によるもう少し厳密な分類で、①「市場ベース型」②「社会民主主義型」③「大陸欧州型」④「地中海型」⑤「アジア型」という分類で、①の「市場ベース型」が新自由主義にあたる。

粗雑な飛白で皮肉が効いているのが、ハムデンターナーとトロンペナールスの「七つの資本主義」で、①イギリスの資本主義(合理性を押し付ける資本主義+ジェントルマン資本主義+ボランティア資本主義の合体)②アメリカの資本主義(勝利に酔うための神話的資本主義)③フランス(気分によって変わる資本主義)④ドイツの資本主義(差異を普遍で超えたがる資本主義)⑤オランダ(個人と社会の対立っを調整する資本主義)⑥スウェーデン(社会品質をつくりたがる資本主義)⑦日本(強力しながら競争する矛盾した資本主義)となっている。これが一番面白い。

松岡は、会計制度はグローバル・ルールにしておいて、その運用は各国各民族がお国柄を発揮しているのなら文化人類学的である。(すなわち文化である。)だが、その分析・分類の結果優秀な資本主義システムを他国に押し付けることはしてなはらない、なぜなら文化は他国に押し付けるものではないと言っている。

そもそも資本主義のモデルは、イギリスで(奴隷貿易やアヘン戦争の)三角貿易と「みんなが合理的な進歩を望んでいる」という社会ダーウィニズムである。そこにアメリカが得意な「プレイヤーが勝ち残るための優勝劣敗のシナリオ」が加わって、新植民地主義を新たな市場にしてグローバルに広がっていった。しかし、サッチャリズムやレーガノミクスに代表される「勝つためだけの資本主義」が戦果の後に吐き出していったものには回復し難い問題や取り返しがつかない問題が残滓してしまう懸念があると。

その内容を、ダニエル・ベルの「資本主義の文化的矛盾」で整理している。

①解決不可能の問題だけを問題にしている病気②議会政治がゆきづまるから議会政治をするという病気③公共暴力を取り締まれば私的暴力が増えていく病気④地域を平等化すると地域格差の対立が起こっていく病気⑤人種間と部族間の対立が起こっていく病気⑥知識階級が知識から阻害されていくという病気⑦いったんうけた戦争の屈辱が忘れられなくなる病気

ベルは資本主義そのものを批判したわけではなかったが、ボードリヤールは「消費社会の神話と構造」などの著書で、市場における価値の等価な交換なんてとっくになくなっているのではないかと指摘した。市場でどんなにモノの価値が需給バランスをとろうとも、それとは別の金融資本が動いているから、市場で交換されるのは本物の価値ではなくなっているということである。さらに、「生産と消費がシステム自体の存続のために食われてしまっている」と指摘した。銀行や百貨店の統合などがその例で、どんな企業でもどんな団体でも勝ち残るためには「構造的な窮乏感」を演出することだけがシステムの活性化を促すたった1つの手段になっているということになる。

前述(17日付ブログ参照)のドゥルーズ=ガタリの『アンチ・オィディプス』で機械と欲望とが、資本主義と分裂症とが、それぞれ分かちがたく渾然一体となっているという『くっつきすぎる矛盾』が現実化しているわけだ。

ゲーム理論と米国資本主義

https://www.pokerdou.com/column/nash-equilibrium-1/
松岡正剛の「国家と私の行方」で教材研究を進めるシリーズも、いよいよアメリカを中心とした資本主義への洞察に入った。

ポピュリズム(大衆迎合主義)はなぜ台頭したのか、から話が始まる。それは、民主社会と消費社会がべらぼうに大きくなって、メディアや技術の力で、がんじがらめに接合したからだと松岡は説明する。スペインのオルテガは「大衆の反逆」の中で、『体臭は自分では何も考えずに、皆と同じであると感じることで安心する集合体である。』また『(大衆の)観念は思いつき、信念は思い込み』とも言っている。すぐに心変わりする大衆は無責任に兆候を現実に変え、投票動向や勾配動向など「数」として表れ、「質」の決定が起こる。新しいリヴァイアサンである。それが最も顕著であるのが、マスカルチャー(大衆文化)のアメリカである。

そのアメリカはゲーム理論に溺れたと松岡は言う。「ドミノ理論」以来、冷戦下で抑止力のための「ゼロサム・ゲーム」などキューバ危機もこれで乗り切れたのだが、ベトナム戦争では大失敗する。アメリカ人は、このゲーム理論が大好きである。その理由は「自分たちが最も理性的で、一番合理的な計画と行動ができる。」と思っているかららしい。ただし、この矜持には決定的な欠陥があって、相手もそこそこ合理的であるという想定をしていて、それをはるかに上回るシナリオを作れるという過信しなければ気が済まないらしい。ゲーム理論では、第1段階ではあまり合理的ではく普段の行動や慣習に基づく判断を行なう。(アヘン戦争や黒船来航、湾岸戦争やイラク戦争)第2段階はプレイヤーの数が増え、個々のプレイヤー同士の間に変数が生じる(WWⅠでバルカン半島を狙う独と露がオスマン・トルコを巻き込んだ事例など)第3段階では、それまで以上の複合的な戦略が必要になる。いわゆる「ナッシュ均衡」(ゲーム理論でプレイヤーの行動が互いにベストレスポンスになっている状態)である。アメリカの戦略家はこういう難度の高いゲームの解明に夢中になったが冷戦が終わり、一挙に金融ゲームの理論に転用されたわけだ。ところで、このゲーム理論の最大の陥穽(かんせい:落とし穴)は、合理的思考を超えたウサマ・ビンラディンの9.11・自爆テロやヒトラーのような狂気のプレイヤーが登場すると成立しないわけだ。

さて、このゲーム理論を用いた戦略計画者のことを「ネオコンサバティズム」と言う。80年代以降の世界戦略を軍事面も経済面でも指導したスループの総称であり、その考え方の総称でもある。冷戦前期とアメリカ一強時代の後期で違う。前記については、フランシス・フクヤマによると、次の4思想を貫こうとしていた。
①民主主義と人権を重視し、広く各国の国内政策、レジームを重視する。
②アメリカの力を道徳的目標に使うことが必ずできるという信念をもつ。
③重大なる安全保障問題の解決には、国際法や国際機関は頼りにならないと確信する。
④大胆な社会改造は予想し難い弊害をもたらし、改革の目的まで損なうという見逃しをもつ。
これはまさに、戦後日本に適用したシナリオである。しかし、後期のネオコンは、新たなシナリオ「新自由主義」を立てる。戦後のアメリカの繁栄は、反共主義・新植民地主義とともにこの新自由主義という強力な経済政策によって得られた。

新自由主義は、ドル・ショック後のサッチャリズム・レーガノミクスの「反ケインズ政策」で、福祉国家=大きな政府を縮小し、国家による基幹産業への関与を減らし、税率を下げ、民活・規制緩和を進める政策である。保守党右派のサッチャーは鉄の女と呼ばれるが、ソ連の国防省の既刊紙(ママ)「赤い星」が揶揄したもので本人が気に入ったらしい。「私は意見の一致を求める政治家ではない。信念の政治家だ。」「意見の一致には危険が潜む。何についても特定の意見を持たない人々を満足させようと試みることになりかねない。」「強者を弱くすることによって弱者を強くすることは出来ない。」などの名言があるそうな。反ポピュリスズム、バリバリである。面白い発言にはこんなのもある。「ヨーロッパは歴史によって作られ、アメリカは哲学によってつくられた。」…この言葉の真意はわからない。アメリカの代表的思想はプラグマティズムであるが、これを哲学の範疇にいれていいものか悩むところだからだ。
レーガンの経済政策の方は、政府が通貨の供給量を調整するマネタリズムと戦略防衛構想SDIで一方で成果を上げつつも、世界中にマネーゲームを撒き散らした功罪もある。
①社会保障費と軍事費によって経済を発展させ強いアメリカをつくる。
②減税によって労働意欲の向上と貯蓄の増加を促し、投資意欲を促進する。
③規制を緩和して民間企業が強いアメリカに貢献できるようにする。
④通貨高を誘導してマネーサプライ(通貨供給量)の伸びを抑制しインフレを低下させる金融政策を実施する。
ハイエクやフリードマンの市場原理主義的な経済理論が基盤にあるが、ここで松岡は、新自由主義と個人主義を同義語として見る。とともに、その個人主義の問題を指摘する。この個人主義は、人間の判断や行動は必ずや合理的に説明できるはずだというもので、前述(22日のブログ参照)のフロイトやユングの「闇」もカフカやカミュの「非中心」も、全く無視されている、と。市場で言う自由と社会の中の自由、個人としての自由を一つの理論や政策で重ねてしまっている。もっとはっきり言えば、新自由主義は、単に自由の名を借りたプレイヤーためだけの新たなゲーム理論に近いものではないか。アメリカ主導の資本主義のための自由にすぎないのではないか。資本主義の仕組みは「世界を同質の資本主義にするためのものだった」のか?それがグローバル資本主義の正体だったのか?という問いにつながっていくというわけだ。

…今回の第11講には、こんな記述もあった。新自由主義を批判したアマルティア・センの著作名である。『合理的な愚か者』。ところで、隣国のウォン安が止まらないらしい。0.5%という大幅な利上げを行ってもダメで、株安も進んでいる。しかも政府がクレジットカードの使用で内需拡大しようとした政策が裏目に出て、家庭内の債務が膨大に増え、17%強の家庭が収入以上の債務返還にさらされているとか。当然ながら、これまでのことを棚に上げて日本に通貨スワップの要請などしてこれないだろう。いや、『非合理な愚か者』は、ゲーム理論を超えてくるかもしれぬ。(笑)

2022年7月23日土曜日

安易な中心 ヴィルヘルム2世

ビクトリア女王とヴィルヘルム2世
https://bokete.jp/odai/tag/%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%
83%AB%E3%83%98%E3%83%AB%E3%83%A02%E4%B8%96
松岡正剛の「国家と私の行方」を読んでいて、ふと頭を過ったのはドゥルーズの脱コード化という概念である。昨日のエントリーの松岡が指摘した20世紀の世界観・第4には次のようにある。

第4に、世界も社会も「私」も、安易な「中心」をもつべきではないということ。そんなことをするから中心どうしが闘い合うことになる。

https://blog.goo.ne.jp/taitouku19/e/44767764f8cda13b94f41bb206db375c
ドゥルーズは、コードについては概要次の通り。(上記画像参照)プレモダン(近代以前)では、神・王・父などの権力がそのまま円錐型の社会に直接的に作用している。それがモダン(近代)では、権力は流動する貨幣に移る(つまりは権力は変動する)ことになり、ポストモダン(近代以後=現代)では、スキゾ化が進み、リゾームとなる。経済的に見れば、モダンの例は金融資本主義、ポストモダンの例としては、多国籍企業や国際金融資本といったところになるだろう。また政治的には、プレモダンの例は列強の帝国主義、モダンの例はパクス・ブリタニカからパクス・アメリカーナ、ポストモダンの例は冷戦崩壊後の民族主義の台頭などが挙げられると思う。

さて『安易な「中心」をもつべきではない』という松岡の第4の世界観、そしてプレモダンの権力の代表例として、ヴィルヘルム2世について調べてみようと思う。
ヴィルヘルム2世は、29歳でドイツ皇帝・プロイセン王となり、鉄血宰相・ビスマルクを辞職させ親政を開始、ビスマルクのアメとムチによる社会主義鎮圧法を廃止し、結局それが仇となってWWⅠ末期のドイツ革命でオランダに亡命することになった残念なトップである。WWⅠの元凶とも長く言われており、幼少の時からイギリス人の母との確執をもっていて、外交政策ではイギリスに対抗し3B政策を推進した。皇帝としては、軽口でデイリー・テレグラフ事件(イギリスでのインタヴュー記事で不用意な発言をして国内外で大きな非難を浴びた。)や黄禍論の世界的流布など、失言でいろいろと問題を起こしている。性格的に苛烈で周囲に対し偏見が強く、また側近のオレインブルク侯爵との同性愛疑惑もあったり、なかなかスキャンダラスな人物である。まさに安易な中心の代表例だといえるだろう。

『安易な中心』という概念は、ヴィルヘルム2世のみではない。20世紀にはそういう政治指導者が多かったように思う。いやほとんど、と言って良いだろう。安易ではないと思えるのは、その善悪や人間性をも無視したとして、チャーチル、F・ルーズベルト、ホー・チ・ミン、ド・ゴールなどであろうか。(とは言っても皆闘っている。ホント、20世紀は戦争の世紀だ。)スターリンや毛沢東も安易ではないが、反対に安易でなさすぎる故に闘い合ったのかもしれぬ。ヒトラーは意外にうすっぺらく安易な感が強い。しかもそれ以上に狂気的な側面が強すぎる。こういうカテゴリーでは捉えきれない。

では、20世紀の日本はどうか。「日本の天皇制は、空虚な中心である。」とは山口昌男の言だったと思うだが、私は、この考えを支持する。明治天皇は、帝王学を身に着けた安易でない国家元首であったと思う。いくら明治憲法がプロシア憲法をもとにしたものであったとはいえ、天皇主権は空虚であったようだ。明治天皇は、五箇条の御誓文の下にあろうとされていたし、明治憲法作成にあたっては全会議に出席しつつも自己の意見は言われなかった。成立後は、その下にあられた。まさに法の下の天皇である。かの日露戦争開戦事には、明治天皇は日本の滅亡を深く危惧し反対であったと言われる。伊藤や軍も、当時の内閣も国民の(無知な)熱情に押された感が強い。昭和天皇も、軍部独裁に大きな抵抗感があられたようだ。(だからこそ、靖国神社にA級戦犯が合祀されて以後参拝されていない。)だが、空虚な中心であることを守られ、最後の敗戦決定についてのみ責任を取られた。ヴィルヘルム2世とはかなり違う。

ちなみに戦後の昭和天皇、ならびに上皇陛下は、日本国憲法の下にあることをなにより重要視されておられた。これは今上陛下も同様である。空虚さに対する姿勢は、全く安易ではない。天皇制は(安易の対義語である)至難を天皇御本人に強いているといってよい。だからこそ国民に尊敬されているのである。A家の方はそれをわかっていない。この空虚たる天皇制を守ることは、東大に入ることなどより、よっぽど至難である。敗戦後の大混乱を乗り越え、経済発展した日本社会の統一感は、至難である空虚な中心があったからだと私は思っている。

2022年7月22日金曜日

20世紀哲学と文学の暗示

松岡正剛「国家と私の行方:西巻」第9講には、『20世紀の哲学と文学が暗示したこと』というタイトルがついている。歴史を主軸に捉えている故に、倫理の授業での学習の順とは少し異なるのが新鮮である。松岡正剛の視点で、備忘録的にエントリーしておきたい。

ヴェルヘルム2世時代からWWⅠ・WWⅡ敗北と歩んだドイツ(ドイツ語圏)を中心に、この後の世界観・社会観・人間観に多大な影響を与えたユニークな思想力や表現力が宿っていて、それはマルクスやダーウィン・スペンサーとは異なるものであった。松岡は5点にわけて主張している。

フロイトは個人と社会に潜む「内なる闇」を気づかせた。社会進化にはいくつもの抑圧が働いていることに注意を促した。だが「外なる闇」もある。ユングは集合的無意識で、個の心理だけでなく類の心理に道を開いた。(フランクフルト学派の)フロムはフロイトの「抑圧」とマルクスの「疎外」の繋がりを指摘した。

まず第1に、このような、近代社会は人間の「心理」という領域を犯していたということ。

フッサールの現象学の「意識」「現象学的還元」は、弟子であるハイデッガーによって、現象学的に存在を問うことに発展した。その解答が「現存在」である。ハイデッガーの説く世界内存在としての実存は、デカルト的な自己に宿るのではなく、スペンサー風の進化する精神に宿るのでもなく、自己と他者の「間」に交流しているものとみなされる。さらに、限界状況を自覚したヤスパースに続いていく。(普通、倫理では実存主義は、キリスト教的なキルケゴール+ヤスパース、無神論的なハイデッガー+サルトルで教える。そのほうが理解しやすいからである。フッサールから説くのは高校生にはかなり難解である。)フランス人であるサルトルも加えて、彼らは、自分に中心を置かない世界観を提唱した。自分に中心を置かないということは、自分と世界が区別なくつながっている、世界や社会の歪みはそのまま自分の問題になるわけだ。

第2は、「私」という人間は世界の全体を理解したり了解しきれないのではないか、ということ。それならむしろ世界を理解しきれない「存在や「実存」という視点から出発して、さまざまな「現象」に向かうべきだろうということ。

第3は、第2の思想を確認する方法は、哲学でも文学でも美術でも音楽でも可能であるが、その表現は従来の芸術を一変してしまうような様相になる可能性があるということ。

カフカ(ドイツ語圏のチェコ人)の「変身」で「私」と「世界とのかかわり」は説明できない事を描いた。何らかの変化はあるけれど、それが社会的な意味を持つとは限らず、それどころか自分の実存はあるが、それしかないということである。松岡正剛は、一切の「理由」や「変化」は説明できないことを書いた。これこそヘーゲルからハイデッガーにおよんだドイツの「世界のかかわり」の文学化だとしている。次にフランクフルト学派のホルクハイマーやアドルノの話になり、「中心をもとうとした社会は崩壊する。」と述べたのだが、この影響で、ユダヤ人作曲家シェーンベルグなどの「無調音楽」としての12音技法を生ましめた。中心のない音楽で「カフカの音楽化」だと大胆に主張している。

第4に、世界も社会も「私」も、安易な「中心」をもつべきではないということ。そんなことをするから中心どうしが闘い合うことになる。

(高校倫理の範囲にはない)フランクフルト学派のカール・ウィットフォーゲルは、「解体過程にある中国の社会と経済」の中で中国の「水力社会」(中国文明の特徴である治水灌漑をおさめた王によって支配してきたが、国内では機能できても周辺部に及ぶと東洋的専制主義として歪められていくことを指摘)の研究をした。これは、社会の進化が唱えられても、それはいずれ国家がこれを壊すだろうという見方である。これは実際、ソ連でレーニンのプロレタリア独裁がスターリンの一国社会主義に飲み込まれた。中国もしかり文化大革命で矛盾に達してしまった。ウィットフォーゲルは、文明は絶えず「多中心」にならなかればならないのではないかと考えた。

最後に、第5は、存在や意識は、いったんそこにまつわる夾雑物(きょうざつぶつ)を捨てよということ。その多くは、存在が当初から纏うつもりがなかったものがたくさんくっついてくるからである。しかしそういうシャツを脱ぐには、そもそも空間や時間の中に挟まれている「私」というものを、その自分の場から外してかからないと、何も始まらないということ。

第1から第5に及ぶこのような見方は、ドイツにとどまらず、フランスにもイギリスにもアメリカにも日本にも萌芽していく。WWⅠ後のフランスでは、フォビズム、キュビズム、シュルレアリスムなど実験的な表現方法が連打され、無意識の領域は抑圧されたものではなく表現の寵児になった。サルトルの「嘔吐」もカミュの「異邦人」もカフカ同様の主人公である。19世紀的な社会進歩というヴィジョンは崩れ去っていったわけだ。

…いやあ、勉強になった。世界史と倫理のリンクは、(時代背景は重要なのだが)倫理側からはあまりやらない。だが、社会構造も哲学も文学も芸術も上部構造故に、歴史の流れの中で見るのが本来の学びの姿なのだと再確認した。ただ、フッサールからハイデッガーに直接つなぐのはかなり難しいと思う。第5の内容は、この記述だけでは難解に思えるがが、ハイデッガーやサルトル、フランクフルト学派の哲学をもとに咀嚼すると、十分理解可能な記述である。

スペンサーの社会進化論

松岡正剛は、「国家と私の行方:西巻」第8講で、19世紀後半の世界史を俯瞰するにあたって、2つの思想を提示している。一つは1948年のマルクス・エンゲルスの共産党宣言。もうひとつは、1861年のスペンサーの社会進化論である。今日は、倫理の授業であまりふれたことがないスペンサーについてエントリーしようと思う。以下松岡正剛的視点で記す。

スペンサーの社会進化論は、1859年のダーウィンの「種の起源」が発表され、彼の進化生物学の影響のもと形成されていく。まず「社会静学」で社会有機体説という仮説をたて、「科学の起源」「心理学原論」で精神や文化にも進化がありうると説く。社会の進化や文化の進化には、「異質」が生じることによって起こる。同質的な社会から異質なものが出てきた時、それを総合的に捉えさえすれば、必ず進化が確立されると見たわけである。

…そもそも私が、倫理の授業でスペンサーやコントを重視しないのは、西洋哲学の木という学習プランの周縁に位置すると考えていたからである。変に寄り道せず、ヘーゲルから現代思想、構造主義・ポスト構造主義と学習を進めるほうがわかりやすいからである。

19世紀後半の世界史は、進歩史観がたしかに基盤にある。ちなみに現在にもそれは永続しているように思われる。かの1970年の大阪万博のテーマは「人類の進歩と調和」であった。こういった進歩への無知のベール的な信頼に対し松岡正剛は疑義を挟む。『ダーウィニズムもマルクス主義も社会ダーウィニズムも、不均衡なシステムの割れ目にこそ生じていくからいいのではないかと思います。むろんそのヴィジョンや方法が当初は世界に広がる可能性をもつというふうに語ることは必要なことでしょうが、しかしながら、そのことと、その思想が世界を覆って人々の信念を牛耳るということは、全く別なことなんですね。』

19世紀後半から20世紀初頭にかけて、帝国主義列強は世界の84%を支配した。この背景には工業力があり、鉄鋼の生産力が軍事力や国力を押し上げた。20世紀初頭の工業力は、100年前と比べてイギリスは2倍、アメリカは3倍、ドイツは4倍。(ちなみにロシアは9倍。:これらは元の数値との比較である。)肥料・染料・薬品・プラスチック化合物などの多くはイギリス以外の国で技術開発された。パクス・ブリタニカの危機であった。ヨーロッパの人口は異常に膨れ上がり(2億人から4.5億人)、国境をまたいで人口移動が起こった(4000万人がアメリカ、オーストラリアや南米に700万人が移住)のも20世紀初頭の特徴で、これらはジャガイモの普及による人口支持率の上昇と医療の発達によるものと言われる。やがて、アメリカとドイツがイギリスを抜き去るのである。

これら流れの根底に、進化論的な「自然淘汰」から「優生学」があり、そして「ドイツ帝国は世界帝国となる」と宣言したヴィルヘルム2世の「黄禍論」と発展した。3B政策と3C政策が取られ、やがてオスマン・トルコでの英独の衝突=WWⅠとなるわけだ。

こうしてみると、スペンサーの社会進化論は、たしかに大きな存在ではある。でもやはり倫理で教えにくいのは確かだ。(笑)

2022年7月21日木曜日

思慕 あわしま堂のわらび餅


夏の楽しみの一つに冷やした「わらび餅」がある。三崎にいた時、買い物ついでに必ず買って夫婦で分け合って食べていた。「一杯のかけそば」ならぬ「わらび餅」である。まあ、安いものが多かったが、時々贅沢して、あわしま堂のわらび餅を買うこともあった。このわらびもちが最高である。食感といい、きなこといい、絶品である。

あわしま堂は八幡浜市に本社工場を構える和菓子(洋菓子もつくっている)会社である。よくその横を車で走ったものだ。何度か直売所にも寄ったことがある。

大阪に帰って、わらびもちを当然ながら売っているのだが、あわしま堂のものはない。残念でしかたがない。で、調べてみたら、京都・伏見区に京都工場があることがわかった。しかも工場直売所もあるようだ。一度行ってみようかな。

追記(22日)散歩がてらに向かった最寄り駅から少し離れたMというスーパーで、あわしま堂・京都工場の商品を発見。但しわらび餅はなかった。うーん、残念。

2022年7月20日水曜日

和魂漢才と元和偃武

松岡正剛の「国家と私の行方」、第3講から後は、世界史と日本史の話が中心となる。今回のエントリーは、第4講の日本と中国の関係について記しておきたい。
松本正剛は、日本のデュアルスタンダード(あえて自覚的という意味合いを含め、双方向に行き交いができるダブルスタンダードの意味)である和魂漢才について、「日本は古来以来すっと中国的なものをつねに一方の軸において、他方で日本的なるものをつくってきました。」と言う。

中国でスタンダードだった仏教というシステムを持ってきて、それを一方で鎮護仏教という国の軸に置きながら、他方では寺院と神社を混ぜたような神宮寺をいっぱいつくり日本風の編集をしてきた。天皇の称号も8世紀以後からは、神武天皇まで遡って、漢風諡号(しごう)と和風の諡名(おくりな)の両方をつけた。ミマキイリヒコは漢風諡号では崇神天皇という具合である。現在も同様で、明治天皇:睦仁の如くである。このスタートは、壬申の乱を挟んで、天智天皇(漢風)と天武天皇(和風)の兄弟天皇が成立して以降で、古代国家のごく初期から、「和漢」という対比性を天秤にかけて「漢」を意識しながら様々な「和」をつくってきた。内裏においても、政治を行うフォーマルな大極殿は中国式建築、カジュアルな生活の場・清涼殿は和式の高床式というふうに。古今和歌集ではその序文に真名序(漢字)と仮名序を並立させている。日本は常にフォーマルは中国にある認めていた。華夷秩序の中で、日本は挑戦やベトナムのような冊封国家にはならなかったものの、怖れていたのである。ところが、ちょうど徳川幕府が確立するころに明王朝がスローモーションのように崩壊していった。非漢民族である女真族による清王朝の登場である。

これをチャンスと見た家康は、中国離れのシナリオをつくる。家康は、藤原惺窩や林羅山に命じて、中国的な国家システムとイデオロギーでつかえそうなものは導入した。身分社会故に儒家はぴったりである。宋の時代に一大編集がされて新儒学というべき朱子学(君主と臣民がどのように国をおさめればよいか、その為ににどんな学習(=四書五経)をし、そんなふうに生活倫理をまればいいのかを説いている。)がその最たるもので、これを日本独自の儒学を確立させるのである。伊藤仁斎、荻生徂徠、中江藤樹、熊沢蕃山、山崎闇斎、山鹿素行らの活躍はこのムーブメント上にある。一方で契沖、賀茂真淵、本居宣長らによって国学が確立されていく。

ところで、この時期、清王朝に屈することを拒み、国家の海外経営を考えていた朱舜水(しゅしゅんすい)という人物がいる。長崎に招かれていた。この人の噂を聞いた徳川光圀が江戸に招き、日本の歴史の正統性を学ぶことになる。当時の幕府の藤原惺窩や林羅山の記した歴史書は余りに朱子学そのままで日本の実情や歴史に合わないと考えていた光圀は、大日本史の編集方針を朱舜水に託すのである。こういう逸話は実に面白い。これもまたデュアルスタンダード的編集であると言えよう。

少し時代が戻り、デュアルスタンダードではないのだが、家康の様々な処置で、徳川日本は「元和偃武」(げんなえんぶ:国内の武力による内戦を一切認めなかったということ)を迎える。武道とか剣道は元和偃武によって生まれた。西軍の敗北でたくさんの浪人があふれたが、仕官のために建に励むもののその使い道がない。むやみに刀を振りまわすと武家諸法度にひっかかるので、技の型っを磨いたり、内面に向かった。しかしそれがかえって新たな精神性うあ日本美学を陶冶することになった。松本正剛は、これを日本文化における「負のはたらき」と見ている。日本の伝統文化には、この葉隠や五輪書のような武士道(明治以降に作られた語であるとのこと)や枯山水、侘茶や、鉄砲の禁止から花火が生まれたりといった具合である。この「負のはたらき」という視点もまた面白い。

2022年7月19日火曜日

自民党改憲草案の考察2

自民党の改憲草案で、次に注目したいのが第98条「緊急事態の宣言」第99条「緊急事態宣誓の効果」である。今回の参議院選挙で改憲の発議の可能性が高まったが、第9条より理解が得やすそうなのが、この項目で、完全に新設である。多くの国が緊急事態を想定して憲法に記してあるのだが、日本には悪しき前例が合って、GHQの草案ではあえて抜いたようだ。ちなみに、上記画像は北海道新聞での賛否。必要が42%、必要ないが13%、どちらともいえないが42%と微妙だ。今回は、画像で草案を提示したい。(拡大可能)

緊急事態宣言の草案は国会の議決に重きをおいていることが明白である。ただ、関連する法の内容が問題であるような気がする。もちろん戒厳令の如きものではないだろうが…。

さて、問題となるのは、3の第14条(法の下の平等)・第18条(奴隷的拘束及び苦役からの自由)・第19条(思想および精神の自由)・第21条(集会・結社・表現の自由、通信の秘密)その他の基本的人権を最大限尊重するという項目である。おそらく、ここが最大の論議になるだろうと思われる。

…阪神淡路大震災の時も東北大震災の時も、日本の民度の高さが世界に喧伝された。法的な整備がなくとも日本は大丈夫だと思う。今回のコロナ禍でも、みんな真面目にマスクを付けている。有事の際は前例はないが、地下鉄サリン事件のような内乱罪に近い状況もあった。できれば基本的人権が、国家権力の知としての公共の福祉という記号に侵されることがないのがベストだが、さてさて…。

2022年7月18日月曜日

自民党改憲草案の考察1

小論文指導のこともあるので、自民党の改憲草案について順次考察していこうと思う。まずは、第1章天皇と第2章安全保障について。

http://tcoj.blog.fc2.com/blog-category-2.html

改憲案では「天皇は日本国の元首であり、日本国および日本国民統合の象徴であって、その地位は、主権の存する日本国民の総意に基づく。」となっている。要するに、国家元首であることを明確にしている。国際的にも認められている事実であり、明示することに異論はないところだ。第2条の皇位の継承は現状のままである。第3条には国旗及び国歌が規定されている。「国旗は日章旗とし、国歌は君が代とする。第2項日本国民は、国旗及び国歌を尊重しなければならない。」第4条は「元号は、法律の定めるところにより、皇位の継承があった時に制定する。」これらも現状を明示にしているにすぎない。もしかしたら、第3条の第2項に左派からいちゃもんがつくかもしれない。ボーイスカウトの副長であった私からすれば、すべての国の国旗や国歌について尊重するのは至極当然のことなので、この文言には賛成だ。後、第8条までは天皇の国事行為についてであるが、多少の変更はあるものの全く問題はないように思う。

さて、第2章の「安全保障」である。第9条は、「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動としての戦争を放棄し、武力による威嚇及び武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては用いない。第2項 前提の規定は、自衛権の発動を妨げるものではない。」となっている。大きく変わったのは、第2項である。現状は「前項の目的を達するために、陸海空軍その他の戦力はこれを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。」要するに、自衛権の発動は国際的にも当然の権利であるし、現自衛隊が陸海空軍ではないというレトリックは現状に合わないということだ。私は、自衛権もない、という護憲派の主張はおかしいと思うし、国際的にも自衛隊は軍として認められている。これも表現が抑えられつつ、よろしいのではと思う。

続いて、9条の2として、「我が国の平和と独立並びに国および国民の安全を確保するために、内閣総理大臣を最高指揮官とする国防軍を保持する。2国防軍は、前項の規定による任務を遂行する際は、法律の定めるところにより、国会の承認その他の統制に服する。3国防軍は、第1項に規定する任務を遂行するための活動のほか、法律の定めるところにより、国際社会の平和と安全を確保するために国際的に強調して行われる活動及び公の秩序を維持し、又は国民の生命若しくは自由を守るためにの活動を行うことが出来る。4前二項に定めるもののほか、国防軍の組織、統制及び機密の保持に関する事項は、法律で定める。5国防軍に属する軍人その他の公務員がその職務の実施に伴う国防軍の機密に関する罪を犯した場合の裁判を行なうため、法律に定めるところにより国防軍に裁判所を置く。この場合においては、被告人が裁判所へ上訴する権利は、保障されなければならない。」となる。

自衛隊から国防軍という名称になるわけだ。自衛軍よりは国家権力の匂いがきついかな。2はシビリアンコントロールの徹底、3はPKOや「国民の生命若しくは自由を守るためにの活動を行うこと」とは災害時の任務について記されているのだと信じたいが、基本、軍というものは国家権力の暴力装置であることは間違いない。この認識は持っていないと行けないと私は思う。さらに、機密保持について法律で定め、最場所を置くという規定が出てくる。こういう法制化が改憲とセットになっているわけだ。スパイ天国の日本への危機感の表れだろう。決して悪いことではない。

9条の3「国は、主権と独立を守るため、国民と協力して、領土、領海及び領空を保全し、その資源を確保しなければならない。」これは、自民党サイドの答えにあるように、国民に国を守る義務を課せたいところだが、徴兵制論議に発展するのは必定で、義務規定は困難と判断したようで、国を守る意識義務に近いものらしい。この条文の主語も国である。国民ではない。国民は協力する存在でしかない。

と、まあ今日はここまで。私は改憲派でも護憲派でもないスタンスだが、自民党の描いている改憲案は以外にソフトな表現で、既成事実や国際的な視点から見ても真っ当なことが多そうだ。左派が論議することすら否定するとしたら、それはやはりおかしいのではないか、と思う。ただ国防軍という名称は自衛軍や防衛軍のほうがいいような気がするし、9条の3はなくてもいいのではと思う。当然のことでわざわざ加えなくてもいいのではと思う次第。

2022年7月17日日曜日

都会の絵の具とは何か

You Tubeの「みのミュージック」を見ていたら、ミュージック・マガジンによる70年代・80年代の日本の「歌謡」ベスト30という企画をやっていた。洋楽中心のチャンネルなのだが、貪欲に勉強しているらしい。さて、そこで「木綿のハンカチーフ」が上位に入っていた。私も名曲だと思う。この中に『都会の絵の具にそまらないで帰って』という歌詞がある。まさにこの曲の中心的なコンセプトなのだが、ホント俊逸な表現である。(歌詞→)https://www.uta-net.com/song/4548/

『都会の英の具』とは何か。それはまさしく資本主義的社会システムそのものである。地方に残っている恋人は、「流行りの指輪」を欲していない。最終的に都会の絵の具に染まってしまった彼と別れることになり、涙を拭く(最も単純に生産され、安価な商品としての)「木綿のハンカチーフ」を欲する。これが地域間格差以上のことを歌っているように思えるのは、今読んでいる松岡正剛の「国家と私の行方」の第2講を読み終えた直後だからだろう。

第2講は、「みんな」と国家と資本主義というタイトルで書かれている。その内容は多岐にわたっている。国家についての結論的な部分は、ネーション・ステートすなわち「戦争ができるみんなの国民国家」であり、フランスのルネ・ジラールの著書「世の初めから隠されていること」にあるように、国家は民営化が押し進めながらも、警察や裁判を国が引き受けている事情は、国家の暴力性にあるというわけである。これには納得である。松岡正剛という人は、立花隆や佐藤優に並ぶ読書家であり、日本を代表する知の巨人の一人であると思う。

さて、資本主義の考察も、署名にあるように「18歳におくる」という添え書きどうり平易に記されている。アダム・スミス、マルクス、アマルティア・セン、ハイエク、シュンペーターなどの資本主義批判を解説した後、意外な結びに入っていく。ドゥルーズ=ガタリ共著の「アンチ・オィディプス」(1972)である。(私はドゥルーズが好きだが、さすがにこの書について倫理の授業で教えたことはない。)せっかくなので、倫理の授業をしているつもりで松岡正剛本にしたがってエントリーしておきたい。

一言でいうと、この大著は「欲望と機械がくっついた状態」を問題にしたものと記している。我々の身体や欲望は、サラのままでは取り出せない、自由もサラではない。ことごとく道具や機械やシステムとぴったりくっついている。我々は通貨とくっつき、眼鏡とくっつき、鉄道や自動車とくっつき、病院や精神医学や死とくっつき、PCやケータイとくっついている。いったんくっついたらなかなかとれない。そういうことを強調し、ドゥルーズ=ガタリは、「機械状」(マシーヌ)と名付け、我々の資本主義は「欲望機械」であると断じた。戦争は様々な武器や軍事という機械とくっついているから欲望機械のお化けのようなものであると。

この「アンチ・オィディプス」は「千のプラトー」というタイトルの本と二冊一組になっており、「資本主義と分裂症」というサブタイトルがついている。分裂症(現在は総合失調症)は、資本主義が作ったということを示している。分裂症の本質は、欲望が内部に向かって押しつぶされたものであるから、資本主義が欲望の市場を作っているのだとしたら、資本主義は「欲望を内部に詰め込んで人間の精神を犯す機械」だという主張となる。技術と欲望が不即不離になっており、そのくっついたものから現代の様々な精神病が生まれているという指摘である。

ここからは、少し「現代フランス哲学」(久米博:新曜社/1998)を参考に少し深掘りしておく。ガタリは精神医であり、前述の機械状の理論から、フロイトやラカンらの「パパ・ママ・ボク」といった家庭主義に閉ざしたエディプス・コンプレックス理論(ギリシア神話のエディプス神話の悲劇から導かれる男子が父を殺し、母を娶ることを欲する心理学説)の精神分析に対抗する意味合いが、「アンチ・オィディプス」というタイトルに込められているわけだ。(エディプスとオイディプスは読み方の違い)同時に、フロイトやラカンは、エディプス化された無意識は神経症化されるのとしたのに対し、分裂症化したと説く。

…木綿のハンカチーフで歌われた「都会の絵の具」とは何か。欲望機械そのものである都会に出た彼は、恋人が危惧していたとおり、機械状化してしまった。都会の絵の具とは、資本主義の生産と欲望が生み出す様々なモノとの「くっつき」状態である。「現代フランス哲学」をもう少し参照すると、ガタリは分裂症を自然人だと見る。『分裂症は、生産し再生産する欲望する機械の宇宙である。』うーん。すると、「涙拭く 木綿のハンカチーフをください」と望む女性は、この欲望機械の中で実に貴重な存在なのだということになる。だからこそこの曲が分裂症の我々の心をうつのであろう。

2022年7月16日土曜日

松岡正剛 国家と「私」の行方

市立図書館で、大前研一を返却して新たに松岡正剛を借りてきた。「18歳から考える~国家と「私」の行方」東巻・西巻という2冊である。さっそく興味深い記述があった。第1講・歴史的現在と編集力の後半、日本は日本を同編集すべきかー18歳からの歴史観の部分である。長くなるが、以下、原文のまま抜粋。

現在日本は、1951年9月8日に日米間で調印されたサンフランシスコ講和条約をもって、敗戦直後からのアメリカの占領統治を脱して「独立」したということになっています。このとき同時に結ばれたのが日米安全保障条約と日米行政協定です。以来、日本は強力な安保体制の中に入りっぱなしです。日本中にアメリカ軍の基地があり、その約75%が沖縄に集中することになったのは、もちろんアメリカの軍事的地政学的な判断によるものです。それゆえ、これによって日本はあきらかに「アメリカの傘」の中にいるままになったのだから、果たして真に「独立」しているのかどうかも疑わしいという見方も成立します。

私も半分くらいはそう思っています。日本はアメリカの「属国」だろうとか「51番目の州」だろうなどとは言いませんが、サンフランシスコ講和条約を読む限り、そもそも独立国の条件である自治権と外交権のうちの、自治権しか認められていないようにも思えるのです。これは、苫米血英人(とまべちひでと)さんの翻訳の受売りですが、講和条約の日本語訳は「連合国は、日本及びその領水に対する日本国民の完全なる主権を承認する」となっているので、一見独立が認められたと読めるのですが、訳し直すと「連合国は、日本の人民による日本とその領域の十分なる自治を認める」となって、自治権だけが承認されていることになってしまうというのです。ちなみにこの段階では沖縄はアメリカの施政権のもとに管理されているので、日本には入りません。

が、それはさておくとして(本当は「さておく」わけにはいかないのですが)、その後の日本はめざましい「復興」をとげて高度経済成長を達成し、少なくとも経済的には「自立」している経済大国になったとみなされてきました。エズラ・ヴォーゲルは「ジャパン・アズ・ナンバーワン」とさえ褒めた。(ママ)でもはたしてそうなのでしょうか。日本の政治とと経済が自立しているのかといえば、いささかあやしいと言わざるを得ません。そのことのティピカル(典型的・代表的)な例が小泉内閣時代の「郵政民営化」にあらわれているのです。当時、諸君が子供だった時期、日本は「構造改革」をはたそうとしたのですが、そして」その目玉として「郵政民営化」に着手したのですが、それはアメリカのシナリオ通りのままだったのです。

アメリカが1970年代に入って、ドルショックとオイルショックを受け、プラザ合意に向かってドルを切り下げていったのは、対日貿易赤字が大きな原因でした。そこでアメリカは一連のドル安定政策をとったのですが、それでも日本市場へのアメリカ製品の輸出はいっこうに伸びません。アメリカはこれは日本の保護主義が障害になっていると判断して日米構造協議という折衝を始めました。日本がバブルに浮かれていた1989年のことでした。クリントン政権のロバート・ゲーツCIA長官は「これからはCIAの業務の4割を経済分野に注入し、その中心を日本に向ける」と言っていた。(ママ)まずは、大店法を改正してアメリカの小売が日本に入りやすくし、1993年にはクリントン大統領と宮沢首相が日米包括経済協議で合意すると、翌年からは「年次改革要望書」が毎年アメリカから日本に突きつけられることになります。じつは、この中身がそのまま「日本の構造改革」だったのです。建築基準法の改正、司法制度改革(裁判員制度の導入)、労働者派遣法の改正(人材派遣業の規制緩和)などが次々に要望書通りに着手されていったのです。それでもアメリカ側からするとこれだけでは大きな金融資産が流れ込んでは来なかった。アメリカのアテが外れます。そこで目をつけたのが、日本には総額350兆円が郵便貯金と簡易保険に眠っているということでした。要望は「日本の郵便事業は外貨の参入を妨げている非関税障壁なので、構造改革によって民営化するべきだ」というふうになります。この要望に堪えたのが小泉郵政民営化改革でした。

なぜこんな、話をあえてしたかといえば、今日の日本は日米安全保障条約と、この構造改革路線の上に完全に乗っかっているからです。ついでにいえば、この郵政改革のあと、アメリカが要求してきたのは医療分野と保険分野の構造改革でした。これをいま進捗させようとしているのがTPP交渉です。すいぶんはしょって説明しましたが、このような日本の現状から私達は世界と日本の現代史を展望しなかればならないのです。もっと端的にいえば、現在の日本はアメリカの地政学的戦略にほぼ閉じ込められた状態で、新たな編集的展望を考えるしかないのです。最近集団的自衛権を中心とした安保体制の改変が議論されているのも、この流れのうえでのことです。

注:この本は2015年12月発行。上記の医療・保険分野の構造改革はトランプ政権がTPP不参加としたため一応流れた。さらに集団的安全保障については(だいぶ修正が加えられたが)アメリカの要望に沿ったカタチで閣議決定された。

…私は以前から、日本は51番目の州だと自虐的に表現してきたので驚くことはないが、郵政民営化については、小泉の田中派・郵政族つぶし=選挙での集票力低下が最大の理由だと思っていた。ちょっと驚いた次第。

2022年7月15日金曜日

私の sgt.pepper's ジャケット

https://www.youtube.com/watchv=DuuwABWmycs&ab
_channel=%E3%81%BF%E3%81%AE%E3%83%9F%E3%83
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「みのミュージック」というYou Tubeで、ビートルズの名盤中の名盤、sgt.pepper's Lonely Hartts Clulb Bandのジャケットを自分風にアレンジしてみたという企画があった。実に面白い。(画像参照)ビートルズのジャケットには、エドガー・アラン・ポーやカール・ユング、ボブ・ディラン、マルクス、フロイト、アラビアのロレンス、アインシュタイン、シク教のグルたちや日本の福助人形、ヒンドゥー教のラクシュミーの人形なんかも入っている。ウィキによると、69人もいるらしい。

私もひとつ考えてみたい。ただ画像をうまく処理できないので、とりあえず並べてみたい。まあ、影響を受けたり、リスペクトしている、あるいは単純に好きな有名人というカテゴリーで行こうと思う。
梅原猛:「哲学の復興」という著作が私の人生の方向性を決めた。
サルバドール・ダリ:最も好きな画家といっていい。
マハティール・ビン・ムハンマド:マレーシア元首相。
ピーター・オルワ:ケニア人の音楽家・作家。我が永遠の友。
J・P・サルトル:倫理の授業で熱が入る実存主義哲学者。
忌野清志郎:日本最高の反体制・ロックミュージシャンである。
緒方貞子:UNDHRからJICAへ。日本最高峰の女性である。
アマルティア・セン:開発経済学の祖であり世界への貢献度が高い。
新渡戸稲造:日本初の国際人。知性と人格が大きく評価されている。
上田正樹:日本最高のソウルシンガーである。
加川良:日本最高のフォークシンガーである。
マルク・シャガール:ユダヤ系の画家。独特の画風が好き。
立花隆:戦後日本が生んだ知の巨人である。
上田馬之助:私の最も好きなプロレスラー。悪役を貫いた。
大森実:はっきり、彼はジャーナリストと言える人物。
勝海舟:彼の先見性と行動力・人脈が明治維新を実現した。
山岡鉄舟:幕末に活躍した胆力の剣豪。後に明治天皇の教育係。
周恩来:毀誉褒貶は多々あるが、超一流の政治家だと思う。
ジャック・デリダ:仏の哲学者。彼の哲学理論は面白い。
ブルーマン:NYCのエンターテーメント。複数人存在する。
松平容保:会津藩主。京都守護職。その人生は男気そのもの。
沢木耕太郎:私の最も好きなノンフィクションライター。
ラダ・ビノード・パール:東京裁判で正論を掲げた正義の人。
大佛次郎:天皇の世紀の著者。幕末維新ものでは最高峰。
徳川慶喜:ある意味明治維新の最大の功労者だと私は思う。
児玉源太郎:日本軍人の中で智略・胆力ともに最高だと思う。
佐藤優:私は彼の著作を最も多く読んでいるような気がする。
リッチー・ブラックモア:Deep Purpleのリードギタリスト。
オットー・フォン・ビスマルク:世界史上最強の政治家だと思う。
杉原千畝:ユダヤ人を救った外交官。日本の誇りと言える。
小渕恵三:地味だが私の評価は高い総理。60年にアフリカ訪問。
横尾忠則:最強のデザイナーにして、画家に転身した。
クワメ・ンクルマ:ガーナ初代大統領。汎アフリカを指し示した。
セレツェ・カーマ:繁栄の基礎を築いたボツワナ初代大統領。
後藤新平:政治家というより日本最強の行政官。
浦沢直樹:大好きな漫画家の一人。MASTERキートン等。
田中好子:キャンディーズのスーちゃん。永遠なれ。
イチロー:今も風呂の下駄箱は51番である。
アグネス・ラム:青春期最強のアイドルである。
ジョン・レノン:言わずもがな。
ポール・マッカートニー:言わずもがなⅡ。
ジョージ・ハリソン:言わずもがなⅢ。
リンゴ・スター:言わずもがなⅣ。
中村哲:アフガンに命を捧げた医師・国際協力士。
笑福亭鶴瓶:芸人から選ぶとすれば、京産大出身鶴瓶かな。
小林まこと:1・2の三四郎や柔道部物語の漫画家。
宮崎美子:ミノルタのCM以来大好きな女優。
ロナウジーニョ:世界のサッカー選手ならこの人。
中村俊輔:日本のサッカー選手では、この人のフリーキック最強。
宮本慎也:よくYou Tubeに登場する。人格的にも好き。
スタン・ハンセン:最強の外人レスラーですな。
ユル・ブリンナー:荒野の七人以来のファンである。
大谷翔平:今は、この人のみが日本の希望かな。
高倉健:日本の男優で一人選ぶとすればやはり建さんである。
中田考:現在は在野のイスラム学者。元同志社大教授。
小寺謙吉:お世話になっている学園の校祖。凄い人物である。

そしてあと3人、最もリスペクトしている人物を挙げたいのだが、今回はおいておきたい。前に置く小物は、やっぱりハードロックカフェ系とアフリカ系になると思う。

2022年7月14日木曜日

仏革命の死刑執行人

https://bushoojapan.com/world/2021/09/08/105846
シャルル・アンリ・サンソンというフランス革命時の死刑執行人の話・3部作をYou Tubeを昨日見ていた。教科書では教えない世界史の事実を見事に描いていた。革命後期、ジャコバン派の恐怖政治期の話である。ロペス・ピエール本人は理想主義者で人格者であったらしいが、あまりの潔癖さが暴走したのは有名。革命前からこのような死刑執行人の家系があり、当然ながら差別的な扱いを受けていた。第4代のシャルルは知性豊かであり、自己の任務に矛盾を感じながら、理不尽な仕事を続けていた。

https://www.youtube.com/watch?v=RP9db9FAIzA&t=3s&ab_channel=%E3%82%86%E3%81%A3%E3%81%8F%E3%82%8A%E3%83%A2%E3%83%B3%E3%83%89%E3%81%A1%E3%82%83%E3%82%93%E3%81%AD%E3%82%8B

https://www.youtube.com/watch?v=lf4GKWDEWgI&t=60s&ab_channel=%E3%82%86%E3%81%A3%E3%81%8F%E3%82%8A%E3%83%A2%E3%83%B3%E3%83%89%E3%81%A1%E3%82%83%E3%82%93%E3%81%AD%E3%82%8B

https://www.youtube.com/watch?v=hMIMoCqFDu8&t=3s&ab_channel=%E3%82%86%E3%81%A3%E3%81%8F%E3%82%8A%E3%83%A2%E3%83%B3%E3%83%89%E3%81%A1%E3%82%83%E3%82%93%E3%81%AD%E3%82%8B

注釈はなし。是非、見ていただければと思う。きっと感銘を受けるはず…。

2022年7月13日水曜日

プリズンの満月 吉村昭

このところ吉村昭にハマっていて、アマゾンで「プリズンの満月」を注文し、先日読み終えた。この本は、学園・市立そして地元の図書館にも文庫本が置かれていなかった故である。とはいえ、送料込みで300円強。長い通勤時間のことを考えると買うのに逡巡はない。(笑)この本のタイトルを見て、巣鴨プリズンの話であることはすぐ分かった。ただ、予想が外れたのは、いわゆるA級戦犯が処刑された後の巣鴨プリズンの話であったのだ。A級戦犯が処刑されるまでは当然ながら米軍が管理していた。朝鮮戦争が始まり、米軍の人員削減のため、日本人刑務官が巣鴨プリズンにも動員されることになる。その動員された主人公は架空の刑務官である。ただ、吉村昭の作品であるから念密な史料をもとに書かれている。

最初は、日本人刑務官は、A級はもとよりB級・C級の戦犯に直接接することは出来ず、米軍のカービン銃を持たされ外に向って警備させられていた。これは戦犯を奪還しようとする者が現れた時のための警備である。日本人刑務官は最初そういう敗戦国国民としての忸怩たる思いに苛まれる。表題となった『プリズンの満月』は、そういう時期の描写から取られている。

前方を警備している同僚が足を止め上方を見ている。主人公もその方向に目を向ける。(ここからは引用である。)『驚くほど大きい満月が、庁舎の上に昇っている。血のついた鶏卵の黄身のように朱の色をおび、月面の陰翳(いんえい)も浮き出ている。…かれは月に眼を向け、日本の月が昇っている、と胸の中でつぶやいた。月光は、獄房の中にもさし込んでいるにちがいなく、窓に身を寄せ、鉄格子越しに月を見つめている戦犯の姿が思い描かれた。死刑確定者は、その月を眼にしながら何を考えているのだろう。過ぎ去った日々のこと、家に残した家族のこと、そしていつかやってくるかしれぬ自分の死のことを思っているに違いない。』

こういう初期の日々から、次第に米軍監督下とは言え、歴代の日本人所長は頑張って待遇改善に奔走していく。連合国の悪意から戦犯を護る姿に感銘を受ける。日本人の中にも、戦犯に同情し郊外の菜園に向かうトラックに手を振る人々もいたし、左派系のマスコミはことさらに戦犯批判を強めていた。中でも、慰問の話は感動的である。幼き松島トモ子氏が洋舞「かわいい魚やさん」を踊り、戦犯たちの何度ものアンコールに答えた話や、後に巣鴨に収容されるフィリピンの戦犯(死刑囚だったが帰国後赦免された)の作詞作曲による渡辺はま子の「ああモンテンルパの夜は更けて」の話など、実に泣ける。

いい歴史小説だった。読者自身が刑務官同様、戦犯に同苦していく小説である。今回は特に主人公はフィクションだが、あまり表に出ていないA級戦犯処刑後の巣鴨プリズンの事実経過がよくわかった。と、同時に終戦直後の悲惨な状況もである。それは、まさに「血のついた鶏卵の黄身のように朱の色をおび、月面の陰翳(いんえい)も浮き出ていた」のであった。

2022年7月12日火曜日

ブルーアンモニア燃料の話

https://www.youtube.com/watch?v=izkxb5TV7Jo&ab_channel=%E3
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ウクライナ戦争によるロシアの天然ガス供給への経済制裁で、ヨーロッパが他の地域の天然ガスを買い占め、世界的な高等が起こっており、多くの国々で計画停電などが起こっているようである。エネルギーの安全保障問題は、実に重要な課題である。

SDGsの理念は重要だと私は思っているが、石炭・石油より炭素排出量の少ない天然ガスが発電の主力となったことが招いた非持続可能的な現実が、そこにある。「一人も取り残さない」という理念は、「はしごを外せ」に変化している。これが構造的暴力以外の何ものであろうか。

さて、日本はCOP26で、ヨーロッパ諸国の言う2030年までに石炭火力発電所をゼロにという目標を否定し批判を浴びた。フクシマのこともあり、日本の電力供給における石炭石油発電は必要不可欠であるからである。しかも、日本はサウジアラムコの開発した「ブルーアンモニア燃料」(CO2をほとんど出さないというふれこみの石油燃料)の実用化に向けたプロジェクトを開始していたのである。これはも安倍外交の成果だと言われている。COPでは失笑ものだたったらしいが、2年かけて3箇所の発電所で生誕や石油と混合しながらの実験を重ね、先日、IHIがブルーアンモニア燃料のみの専燃発電に成功、たしかに99%以上削減に成功したという。…凄いなIHI。日本の理系バンザイ。

経産省から一気に他のプラントや燃料貯蔵へGOサインが出て、日本がこの新燃料の推進役として世界をリードしていきそうだ。COP22で、この発電方法をいずれアジアに広めると政府は言ったらしい。こういう気概や実に良しである。

2022年7月11日月曜日

ABE no Diplomacy

https://www.youtube.com/watch?v=EaodO2Jjcpk&t=175s&ab_channel=%E5%A6%99%E4%BD%9BDEEPMAX
まだ安倍元首相の事件については、よくわからない。いろいろと新情報は出てきているが、どうのこうの言える状況ではまだないと思っている。ただ、安倍元首相については、外交面で実に成果を上げていたと私も思う。かのトラさんと世界で唯一うまくやった政治家であり、プーチンやイランともうまくやっていたといえるだろう。外交というのは、内政以上に難しいと思われる。

一方、安倍元首相は、近隣諸国には、保守というかパトリオットとして、毅然とした態度をとっていた。相手が相手だけに、遺憾砲を撃つだけの外交ではなかった。当然ながら批判対象になっており、今日のYou Tubeでは、「安倍元首相の死を祝うセール」が開かれているなどというとんでもない情報がもたらされている。(画像参照)こういう近隣諸国に媚びへつらう必要がどこにあるだろうか。安倍首相の土下座彫刻を作ったもうひとつの近隣国の情報はあえて見ないようにしている。「反日」をゼロ記号としてプロパガンダしているような国々を相手にする事自体、馬鹿げていると思う。ただ、この画像は拡散したい。親中派の政治家はどう思うのだろうか。

首相の座を降りたとは言え、政治力を温存していた安倍元首相亡き後、自民党はどう動くのか。参議院選で大勝したが、それをどう使うのか、あまり期待はしていないけれど、良識ある動きをして欲しいものだ。

*何度も申し上げているが、この画像を見て、中国語故に中華系は全て同一と誤解されると困る。本土の反社とつるんだ中国共産党支配下のプロパガンダが作り上げたものであって、私の教え子であるマレーシアの華人とは全く関係ない。彼らは日本文化や本来の仁や義、そして礼をわきまえている民主主義者である。そのことを改めて声を大にして言っておきたい。

2022年7月10日日曜日

参議院選挙当日の争点考

https://www3.nhk.or.jp/news/html
/20220710/k10013710561000.html
遅まきながら、参議院選挙の当日に争点について改めて記しておきたい。マスコミでは、物価高・経済政策が第一の争点と言っているが、経済政策が争点なのはいつものこと。こういう国民の政治思考はまさにアメリカナイズされたものだ。ただ今回のインフレは、日本独自でどうのこうの出来る問題ではない。これだけグローバル化が進み、コロナ禍の影響で、他国のサプライヤーの生産力や物流なども大きく影響している。さらにウクライナ戦争は、世界的なエネルギー資源と食料生産のバランスを崩した。これにいかに対応するかはたしかに政治家の重要な責任だと思う。各党の選挙公報を見ても、暮らしを守るなどの美麗美句もコピーが溢れている。消費税を野党は批判しているが、これに対する財政面での対応はいささかお粗末であることはいがめない。なにかふわふわとしたゴマカシで選挙を乗り切ろうとしているようにみえる。こんなことでは投票率もと思って調べてみると、前回を上回っているようだ。これは、一昨日の事件の影響が大きいと思われる。大平政権下の総選挙の再来となる可能性が高い。

今回の参議院の最大の争点は、私は憲法改正だと思っている。憲法改正といっても、第9条ではない。(自衛戦争の可否はすでに事実上決着しており、6割の国民が自衛隊の存在を支持していると言われている。自衛隊へのきつすぎる制約は緩めてもいいような気もするが…。)緊急事態条項がない故に、コロナ禍対策の実効性が進んでいないとの思惑が政治家にはあるようだ。日本国憲法では、戦前の治安維持法などの乱用が指摘され、GHQも草案の時点で盛り込んでいない。(ドイツ憲法にはナチス化を防ぐカタチで緊急事態条項があるそうである。)たしかに、有事などの際に必要性は感じなくもないが、諸刃の剣であることは間違いない。日本は憲法に緊急事態条項がなくとも、超日本的な和の精神で世界的に実効t力を見せつけていると私は思う。

アメリカの大統領選挙以来、世界的に民主主義が揺らいでいる。特に言論の自由は蝕まれている。こんな中で、緊急条項の憲法改正が行われていくことに、私はかなり危惧している。私はもうすぐ生産年齢ではなくなるが、息子の世代や教え子たちのことを考えると安易に賛成できない。

今回の選挙を勝利すれば、自民党は、改憲に動ける体制を構築するだろうと思う。第9条ではなく緊急事態条項については、野党と十分審議可能で、絶対的護憲を看板にしている野党の時代は終わるだろう。そしてAIを基盤にした管理社会へますます進んでいく。それより早急に日本を守るためにやるべきことがあるだろうと思うのだが…。私は改憲でも護憲もない。だが、果たして、これでいいのだろうか鬱勃たる思いに沈んでいく。そんな参議院選挙当日である。

ロールズ&フロムの思想から


ロールズの正義に関する哲学用語に「無知のヴェール」というのがある。公正な配分を目指す場合における自己の情報がすべて遮断されている状況を指っしている。

私はこのところ、自己の損得とかいった問題ではなく、違う意味で私も含めた多くの人間が「無知のヴェール」に覆われている状況ではないかという疑念を抱いている。

この肥大したグローバリゼーションの中で、ネット上で情報が入り乱れている。今回の西大寺の事件についても、マスコミが流さない映像なども流失していて、様々な不可解な部分が多い。(詳細はあえて書かないが…。)

「無知のヴェール」に覆われているままでいることは、フロムの「自由からの逃走」に当てはまるような気がする。フロムは、自由であることから逃れようとする依存や従属のメカニズムを分析している。ナチスの独裁を許したのは、こういう大衆心理だと。

有名なフリーアナウンサーが、事件後緊急でYou Tubeを上げていた。自らの安心のために、陰謀論を信じるのは危険だという趣旨である。たしかにレトリックは整っているが、マスコミの中にいた彼の言もまた私は信じることができない。

何が真実で、何が正義なのか。私にはそれを知るすべを持たない。ならば、ウィトゲンシュタインの如く、「語り得ないものには沈黙せよ」と結論付けたいところだが、ここで言われる「語り得ないもの」とは写像理論で捉えられない形而上学的な問題であるので、ぴったりとはまらない。

…「無知のヴェール」を払いつつ語らないと、「自由からの逃走」に加担してしまう。この矛盾こそが今の私の状況である。

2022年7月8日金曜日

日本の給料が上がらない理由

今朝の安倍元首相のテロ事件で日本中大騒ぎであるが、詳細がよくわからないので、とりあえず以前から予定していたエントリーをしようと思う。

ある生徒の小論文対策で、政治的な課題を考えているのだが、先日市立図書館で大前研一の日本の論点の最新版を借りて読んでみた。サブタイトルは、「なぜ、ニッポンは真面目に働いても給料が上昇しないのか」である。

このサブタイトルについては巻頭言で触れられている。30年間も日本の給料は横ばい状況で、これは世界に類がない異常事態である。30年間で2倍以上になった国が数多く存在しているのに、である。OECDの国際比較では、2020年の日本の平均賃金は約437万円で加盟35カ国中22位、平均の約558万円に対し120万円少ない。ちなみに平均給与の伸びは0.4%で消費者物価指数は2.7%の伸びである。デフレだから実質的にプラスだという論は誤りである。

なぜ日本では真面目に働いても給料が上がらないのか、その理由は単純で、企業の労働生産性が低いからであると大前は結論付けている。日本の一人あたりの労働生産性は、OECD37カ国中、26位。G7では50年以上最下位である。ただし、製造業の生産性は低くない。足を引っ張っているのは、ホワイトカラーの間接業務で、総務・人事・経理・法務などの間接業務のデジタル化による生産性が向上していない。デジタル化を進め担当者1人で10人分の業務をこなせば生産性は10倍になるが、間接部門の人数は減っていない。日本の企業が本気で取り組めば、労働生産性を上げることが可能だが、9割の失業者を出したくない故に人員削減に手を付けていない。この悪循環が原因だというわけだ。

ドイツでは2000年代に「アジェンダ2010」という生産性向上に取り組み、雇用市場、賃金協定、失業保険制度、年金制度の改革を進める一方で、デジタル化で仕事を失った人々の再教育に取り組んだ。大学や大学院で再教育を受けるリカレントや新しいスキルを身につけるリスキリングを受けることで、失業しても再就職しやすくなり、雇用の流動性が高まり新しい産業が育った。このシュレーダー首相の改革がEU内でドイツがリーダーシップをとれるような経済改革が成功したからである。

とりあえず要点をまとめると以上のようになるのだが、かなり痛みを伴う改革であり、小手先の政策ではなく、各省庁の様々な政策をまとめていかねばならない。ぶっちゃけ、今の日本の政治家にはとてもやれないだろうと思うのである。

2022年7月7日木曜日

ブミプトラ政策のメリット

https://mobile.twitter.com/taraco_pber
スウェーデンとフィンランドのNATO加盟は各国の批准に移った。おそらく批准されるだろうが、先日エントリーしたように、私などは、スウェーデンを始めとするヨーロッパ各国の反イスラム意識の高まりを強く意識してしまう。

SNSの進歩で、普通のムスリムの人々も、簡単にイスラム復古主義の主張ににアクセスできるようになった。この影響は大きいようだ。移民・難民の人々にはヨーロッパは予想以上に居心地が悪く、復古主義の主張に同調する可能性は高い。復古主義の高まりは、シャリーアによる支配を望み閉鎖的になっていく。こういう地域が増えて辟易としたスウェーデンは、クルディスタンをはじめとしたムスリムを切り捨てたと思えてならない。

マレーシアにも、復古主義政党はあるがマイナーな存在である。穏健なマレー人の国民性が大きいと思うが、なにより、ブミプトラ政策で、イスラム教を国教とし、マレー人を優遇していることが、イスラム復古主義の台頭を押さえているように思える。ブミプトラ政策にも(特に中華系・インド系マレーシア人にとって)様々な問題はあると思うが、ちょっと逆説的に言えば、平和裏に多民族を国民国家として束ねる機能があるように思えるのだ。

イスラム復古主義は、ヨーロッパを始め中東でも不満を持つムスリムを吸収・拡大し、治安を悪化させている。マレーシアには、ブミプトラ政策でそういった不満が結集する要素が少ないのではないか、と私には見える。

野球部の練習を見る

期末考査に入った。夏の大会を目指しての野球部の練習を見に行ってきた。学園には、中学の野球場と高校の野球場がある。(凄い。)昔は甲子園に出たこともある伝統ある野球部なのだが、このところサッカー部に押され気味だそうだ。高校から入学する生徒も1クラスあって、もちろん野球がやりたくてくる生徒もいるらしいが、なんといっても文武両道の学校なので成績上のハードルが高くて、野球が上手いだけではなかなか入れないらしい。

前置きはさておき、今日も熱中症に注意という感じだった。採点を途中で止めて、高校の野球場へ初めて足を運んだ。ちょうどマシンを使っての打撃練習中で、外野三方向に2人ずつ守備練習も兼ねて守っていた。H高校なら、もっと人数がいるのだが、こちらは悠々と練習していた。さすがは私立なのである。ノックをしているかなと期待していたのだが、30分ほど見ていたが今日は打撃練習中心だった。

文武両道と口で言うのは簡単だが、やっている生徒は大変だ。だが、人生のこの時期にしかやれない経験なのだと思う。私などは、運動が苦手で思いもよらなかったが、人生全体で考えるとやっておく価値は十分にあると今になって思う。頑張れ3年生。文武両道、質実剛健。

2022年7月6日水曜日

夏は高校野球の季節

http://www.belca.or.jp/l94.htm
夏の高校野球の季節である。これまで、何度も試合に足を運んだ元大阪市立のI工業高校の野球部は合同チームに編成されてしまい、N高校は学校自体の存在がなくなってしまった。というわけで、硬式野球のチームを持っているのは体育科を有するH高校のみ。組み合わせを見てみると、またもや最強のOT高校とすぐ当たるようだ。毎度のことだが、くじ運が悪い。悪すぎるのである。私がいた頃は代々の主将が、予選のくじ引きが近くなると早朝清掃活動をしていて、運を引き寄せようとしていた。カントの言う善意思(利益を目的としない善)ではないので、ちっとも運が向かなかった。(笑)でも、高校野球はなにがあるかわからない。頑張ってほしい。

S学園も見事に強豪・TH高校と同じブロックになった。兵庫県はこのブロック制でベスト8を決めるらしい。春季大会ではTH高校と対戦が組まれたが、理由があって辞退した。今回はそのリベンジである。対戦する球場が高砂市だと言われては、大阪からは遠すぎてさすがに応援に行けない。期末考査中も特別練習をするはずなので、せめて練習(高校用の専用野球場)を見に行こうと思っている。野球部の生徒もたくさん教えているので、サッカー部に続いて頑張ってほしい。

ところで、秋田商業高校野球部にも期待を寄せている。サッカーは県決勝でインターハイ出場を逃したみたいだが頑張ってほしい。完全なる我田引水だが、秋田商業が甲子園に出てきたら私が応援に行けるというジンクスが生きていて、イスラエル旅行の時も帰国を待っていてくれたような組み合わせ(出場校最後の登場)であった。今春、6年ぶりに大阪に戻ってきた。秋田商業の幸運のじじい(女神ではない)は大阪にあり。こちらも頑張ってほしい。

2022年7月4日月曜日

現代思想の遭難者たち 2

「現代思想の遭難者たち」の書評、続編である。いしい氏はどうもハイデッガーをいじるのが特に好きなようである。この漫画は、ハイデッガーが、ナチスの協力者出会ったことに対して、質問を受けるという内容である。長々とハイデッガーは語るのだが、この漫画の最大の面白さは最後の最後にある。

「ボーズ ニクケリャ ケサマデ(坊主憎けりゃ袈裟まで)」と、坊主=ナチス、袈裟=ハイデッガーの意味でが言うわけだが、これに対する学生たちの反応が、面白い。「先生、どこかダーザイン、いやダサインですけど。」

学生の台詞にあるダーザイン(Dasein)とはハイデッガー哲学の中核をなす「現存在」のこと。ダサイと見事に韻を踏んでいるわけだ。

このダーザイン(Dasein)、高校の倫理の教科書にも出ている。よって、まともに倫理を学んだ最近の若者には理解可能なのである。我々の頃には、こういうドイツ語を学んでは来なかった。倫理の共通テスト&センター試験が長年にわたり少しでも難化しようと努力してきたことがわかるのである。(笑)

2022年7月3日日曜日

現代思想の遭難者たち

先日、我が家の書庫で、いしいひさいちの「現代思想の遭難者たち(増補版)」を見つけた。マレーシアに行く前は私の書庫だったのだが、今は私の蔵書は整理されて息子の書庫と化している。この本はどこかの古本屋で買ったらしい。いしいひさいちは、昔、「頑張れタブチくん」で人気を博した漫画家である。あまり期待せずに手にとって見たのだが、なかなかおもしろい。

ニーチェやフロイト、ウィトゲンシュタイン、デリダ、フーコーなんかが漫画にされている。もちろん、彼らの思想をもとにウィットに富んだオチで締めくくられているのである。面白いものを少し紹介しようと思う。

左の漫画(画像は拡大可能)は本の最初にある漫画で、哲学を学ぶ大学生たちが脇役として登場するのであるが、ゼミに遅れるという友人に起こされる話である。その起こし方が、「純粋理性批判、実践理性批判、判断力批判」というカントの三大批判書のタイトルである。これにすぐ反応して起きた学生。最後のオチは、出席しないとプラトンからやり直しになるというセリフとこの三大批判書のタイトルを叫んだことを『カント・ダウン』と称していることである。まあ、ダジャレなのだが…。

右の漫画は、ハイデッガーがナチスの協力者となったこと(これは有名。)について書かれている。宣伝相のゲッペルスに、SS(親衛隊)の幹部が、ハイデッガーの『存在』について意見を述べている。死に向かう存在を主張しているハイデッガーは、思想的な「道具存在」として有用だと述べ、さらに「人柄は悪く、女性にだらしない」という問題もあると述べている。(これも事実らしい)これにゲッペルスは、見かけは統制が取れていて中身はルーズというのが、ナチスの新体制を「体現存在」しているとして問題ないと話している。その後ろでヒトラーが「コラッ」と起こっているというオチである。

また少しずつ紹介できればと思う次第。

2022年7月2日土曜日

参議院選挙期日前投票

https://www.ehime-np.co.jp/article/news202205290039
参議院選挙である。今回は、伊方町から大阪へ帰ってきたのだが、住民票の移動日の関係で、伊方町に選挙権が残ってしまった。伊方町の選管から先日封書が来て、我が夫婦に伊方町まで投票に来るか、大阪で不在者投票してくださいと書いてあった。こっちで投票しますと宣誓書などを再送したら、今度はゆうパックが来て、なんとも大げさな諸書類が送られてきた。で、今日、地元の選管に確認したら支所で対応してくれるとのことだったので、行ってきた。早めに行かないと我々の投票用紙を、枚方の選管から伊方の選管に送ってもらわねばならないので、間に合わないと困るのである。

結局、投票所とは全く別の机で、夫婦して投票した。選挙区・比例区とも実に厳重に密封して、枚方選管に今夜持っていき速達便で送ってくれるとのこと。いやはや、ご苦労さまである。憲法第15条・参政権の重みを今回は強く感じた次第。

というわけで、今回は愛媛選挙区(画像参照)と、これは大阪とも共通の比例代表に投票を終えたわけだ。参議院は、かなり微妙な存在である。時代とともに貴族院の化粧直し的存在から少しずつ変化してきた。どう贔屓目に見ても衆議院の優越は甚だしいし、アメリカの上院のような人口比を無視した州の代表の院でもないし、貴族制の残るイギリスの貴族院でもないし、果たして必要なのかという問いがつきまとう。

今回は、府選管から送られてきた全8面の比例区の選挙公報をちょっと考察してみたい。私は、この比例代表が参議院の最大の特色だと考えているからである。少数政党でも、比例区で当選することが可能なシステムであるからだ。党によって、紙面の割当が違うのは、議員数によるものであろう。もちろん議員を有しない政党は小さい。こういう政党が何を主張しているのか、少し見てみると明らかな時代の流れを感じる。

それは、昔風の言い方で言えば右派が多いことだ。「戦後体制っを打破せよ。嘘とごまかしの戦後体制固定化を図る自民党・反日野党結託政治に終止符を」と大書きしているS党。「天皇陛下は父系を堅持」を最初に挙げているN党、同様の政策を掲げ「自主憲法制定、国防力強化」をうたうK党などが目立つのだ。この3党は合同してもいいくらい基本理念が似ている。

これらの政党に対し、日本資本主義論争の労農派、55年体制での社会党左派、社会主義協会の流れをくむ社民党は、「がんこに平和」とのロゴ。「希望は憲法」とも。「戦争反対、外交の力で沖縄南西諸島を戦場にさせない」そうだ。

マスコミは全く取り上げないようだが、ネットで話題のS党は、こういう書面の公報では、主張を脱構築している。メインのロゴは、「あなたの気づきが日本を救う」である。3つの重点政策では、1.子供の教育、2.食と健康、環境保全、そして3.国のまもりとあるのだが、最後の国のまもりには、こうある。「日本の舵取りに外国勢力が関与できない体制づくり」ご丁寧に、”外国勢力が関与できない体制”には下線が引いてある。最大の争点はあえて記さず。主戦場はネットと言うことなのだろう。

ずいぶんと時代が変わったように思う。政治の世界もまたドゥルーズの予言・ポストモダンのリゾーム化が進んでいるようだ。

2022年7月1日金曜日

北欧2カ国のNATO加盟 考

https://wedge.ismedia.jp/articles/-/26029
スウェーデンとフィンランドがNATOに加盟するという話が一気に進んだ。難色を示していたトルコが、グルド人の独立を支援していたスウェーデンに、10万人もいるというクルド人の中で、トルコがテロ犯罪者として指名手配している者の引き渡し、クルドへの支援活動の中止、トルコへの武器輸出禁止の経済措置の撤廃といった、かなりハードルの高い条件を提示し、それらを全て飲んだという報道が流れた。

北欧、特にスウェーデンは人権活動に熱心で、多くの難民や移民を受け入れている。そのアイデンティティを捨ててのNATO加盟である。またスウェーデンは独自の中立政策を取ってきた。軍事的にも独自の戦闘機(サーブ)を開発・配備していて、これもかなぐり捨てたといえる。それほど、ロシアは脅威なのだろうか。フィンランドは度々ロシアから侵略されていて、いままで泣く子を起こさないようにしてきたが、ここに至ってスウェーデンに同調した格好だ。

…正直なところ、私はスウェーデンの掌返しには驚いた。クルディスタンは見事に見捨てられたわけだ。結局のところ国益なのだろうか。という見方が普通のような気がするのだが、ここで違う視点も提供したい。偶然だが、今日帰路に「イスラム2.0ーSNSが変えた1400年の宗教観」(飯山陽:河出新書)を読んでいたら、スウェーデンの事情が少しわかってきた。

ムスリムが集住することで治安が悪化し、警察や当局者すら立ち入れない「ノー・ゴー・ゾーン」がドイツやイギリス同様にスウェーデンでも生まれているようだ。2019年にイタリア公共放送局がスウェーデンの「ノー・ゴー・ゾーン」を取材した。この時は在伊・スェーデン大使館はその存在はないと反論したのだが、スウェーデンの野党・穏健党は、地域のほぼ全域がイスラム法によって統治されている地区ではシャリーア警察が闊歩していると指摘している。2016年には、ストックホルム、ヨーテボリ、マルメなど大都市を含む全国各地で放火や路面電車への投石などが発生、2000台以上の車が放火されたといい、手榴弾やダイナマイトによる爆破事件も起こっている。戦争状態にない国としては考えられないほどの頻度と地元警察が嘆いているという。この治安問題がスウェーデン最大の国家課題であるらしい。

…もちろん、これらの治安悪化の原因がクルディスタンではないだろうが、スウェーデンでは反イスラム感情が高まっていることは想像に難くない。マレーシアの穏健なムスリムと接してきた私には想像だにできないが、これもまた現実である。スウェーデンは、そちらに舵を切ったといえるだろう。

…しかもNATOは、そのうち拡大NATOとして、オーストラリア、ニュージーランド、日本をも含む集団安全保障組織になるかもしれない。(韓国は例のF35のブラックBOX開封問題で米国からかなり不信感を持たれているが、結局入ってくるかもしれない。)今回のマドリード会議で、ロシアをはっきりと敵国扱いとし、中国を準敵国扱いにしたからである。

様々な論点がありそうな、北欧二カ国のNATO加盟問題…である。