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靖国神社は、ペリー来航以来の事変・戦争・国事に殉じた戦没者を「英霊」として祀る神社である。吉田松陰、坂本龍馬、高杉晋作、中岡慎太郎、橋本左内らの志士、乃木希典、東郷平八郎らの軍人、八甲田山行軍事件の遭難者、西南戦争・日清戦争・日露戦争・日中戦争・太平洋戦争の戦死者など246万柱が祀られている。西郷や江藤新平、前原一誠ら反乱者は祀られていない。となると、ここで、ちょっと疑問。この本に「朝廷守護にあたった会津藩士たち」とあるのだが、会津藩士で、蛤御門の変で戦死していたら英霊?。(ならば、久坂玄瑞はどちら?正四位が送られているから英霊かな。そんなこといったら西郷もかなり後だが正三位。息子は侯爵になっている。)それ以上にややこしいのは、戊辰の会津戦争で新政府軍と戦い戦死したものは非英霊?。会津戦争の生き残りで、西南戦争に参戦し倒れた者は英霊?という具合で、なかなかグレーな印象があるのである。それこそ、この本のタイトル『国家と私の行方』である。
1979年4月、ここに東京裁判のA級戦犯のうち有罪判決を受けた14名が、第六代宮司・松平永芳(松平春嶽の直系の孫にあたる)によって合祀された。死刑になった東條英機・広田弘毅・土肥原賢二・板垣征四郎・木村兵太郎・松井石根・武藤章の7名と、刑期中病死した平沼騏一郎・白鳥敏夫・小磯国昭・梅津美治郎・東郷茂徳と判決前に病死した水野修身・松岡洋右の7名である。このうち、広田・平沼・白鳥・東郷・松岡は軍人ではないので例外的である。「昭和の殉教者」として彼ら14人は合祀された。ちなみにB級・C級戦犯も死刑になった者は合祀されている。
さて、歴史認識問題として見ると、合祀されて以降、昭和天皇は親拝をやめられた。(毎年親拝されていたわけではなく合祀3年前の1975年が最後)合祀後6年間ほど、大平・鈴木・中曽根首相らが参拝していたが、1985年7月、中国政府(天安門事件の1年前なので鄧小平時代)が公式に非難した。「朝日新聞の報道があったためともいわれる。」と松岡は書いている。…なるほどである。鄧小平のカンはするどい。チャンスを見逃さなかったわけだ。
さて、靖国問題の10の議論軸が記されている。①憲法28条が保証している信教の自由から見れば、そもそも誰が参拝してもおかしくないという議論。②靖国が国家の公的な慰霊施設だとすると、玉串奉納などの祭祀にかかわる寄付・奉納を政府関係者や地方自治体がしてもいいのかという議論。つまりは政教分離に抵触するのではないかという議論。③靖国は戦死者を英霊として崇め戦争を肯定しているのだから、公的人物が参拝することは靖国神社のもつ歴史観を追認していることになるのではないかという、中国が主張している議論。④東京裁判が国際的に確定した戦犯判決を、無視あるいは軽視しているのではないかという議論・⑤日中戦争などの犠牲者の心情を逆なでしているという議論⑥日本国家として、日本の軍人と軍属者たちの戦死を慰霊するべき設定ができていないのではないかという議論。⑦A級戦犯は28名が起訴され、有罪宣告されたのは25名。生きて釈放されて復職してその後に死去した者、病死・絞首刑をされて遺体となった者がいる。これらから靖国神社が14名を選定したからと言って、日本国として殉教者を規定する基準とならないのではないかという議論。⑧神道の儀式や祭祀として戦死者・戦没者を祀ること自体が妥当なのかという議論⑨公人と私人によって参拝を区別できるのかという議論、私人の場合に公用車や側近や護衛官をつけるのはおかしいという議論。⑩天皇の靖国参拝はA級戦犯の合祀の後には行われていない、では天皇はこの英霊たちにどのような慰霊をされるのかという議論。
松岡は、これらを1つの整合性に持っていくのはほぼ不可能だと述べている。それは、日本の戦争責任をどこまで問えるのかという問題が待ち構えていて、それは日本だけが抱えている問題ではなく、20世紀が残した最大の難問でもあると。ハーバーマスの弟子だったハンナ・アーレントは、アイヒマン裁判を見聞して、「アイヒマンに戦争責任があるとすれば、それは残忍であったことにあるのではなく、むしろ凡庸であったことにあるのだろう」と『イェルサレムのアイヒマン』に感想を書いているとか。これは安易に日本にあてはまるものではない、そこが歴史認識問題の難しさであるとも。
…靖国問題について思うところを記しておきたい。まずは一般の遺族・国民の視点:靖国神社に軍人の英霊が祀られていることを良しとするのなら、信教の自由である故に何も問題はない。もっと言えば、公人とされる者も同様だと思う。ただ、私人として行くのなら、玉串料や公用車等は不要。警護もポケットマネーで行なうべきだろう。国家が特定の宗教を護らないという憲法の政教分離は貫かねばならない。靖国参拝=戦争の賛美であるという視点は、グローバル・スタンダードにはあたらない。各国にはそういう施設がある。私はアーリントン墓地や人民英雄記念碑しか実際に見ていないが、靖国をそういう場所だと見ればおかしくはない。ただ、境内にある記念館はそういう批判を助長するものだと思う。わざわざ境内に置く必要はないと思う。最大の問題は、神道以外の信仰を持つ者も英霊として祀ることへの疑義がある。当時は国家神道故問題はなかったのだろうが、(このようなことはないことを祈るが)これから英霊が生じたとしても、それは各人の自由意志に従うべきだ。続いて、東京裁判のA級戦犯合祀について。東京裁判自体がプロパガンダ、政治ショーである意味合いが強いので問題ない、と言いたいところだが、昭和天皇が激しく忌避されているところから、この合祀が果たして正義なのかという疑義をもつ。広田など民間人もわざわざ合祀していることにも納得できない。さらに、亀ヶ淵にある国立戦没者墓苑を靖国の代わりにという議論もあるが、これは民間人も含む戦没者の遺骨を安置している場所である。上皇陛下が太平洋の島々を慰霊に回られ、その際拾骨されたものも入っているだろう。英霊をここにという議論は少し無理があるように思う。だが空襲で犠牲になった方々も軍人も同じ戦没者である。公人は有効活用をしてほしいところだ。最後に、歴史認識問題だが、中国や隣国は、この歴史問題をゼロ記号と捉えており、プロパガンダや経済的利益強奪の温床だと考えているフシがある。様々な歴史認識問題が生み出した悪弊の事実がが判明した今、毅然とした態度で望むべきではないか。ほんと、日本は世界中で最も謝り続けている国であると思う。
この日本的敗北感が、次のテーマである。
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