2022年7月22日金曜日

20世紀哲学と文学の暗示

松岡正剛「国家と私の行方:西巻」第9講には、『20世紀の哲学と文学が暗示したこと』というタイトルがついている。歴史を主軸に捉えている故に、倫理の授業での学習の順とは少し異なるのが新鮮である。松岡正剛の視点で、備忘録的にエントリーしておきたい。

ヴェルヘルム2世時代からWWⅠ・WWⅡ敗北と歩んだドイツ(ドイツ語圏)を中心に、この後の世界観・社会観・人間観に多大な影響を与えたユニークな思想力や表現力が宿っていて、それはマルクスやダーウィン・スペンサーとは異なるものであった。松岡は5点にわけて主張している。

フロイトは個人と社会に潜む「内なる闇」を気づかせた。社会進化にはいくつもの抑圧が働いていることに注意を促した。だが「外なる闇」もある。ユングは集合的無意識で、個の心理だけでなく類の心理に道を開いた。(フランクフルト学派の)フロムはフロイトの「抑圧」とマルクスの「疎外」の繋がりを指摘した。

まず第1に、このような、近代社会は人間の「心理」という領域を犯していたということ。

フッサールの現象学の「意識」「現象学的還元」は、弟子であるハイデッガーによって、現象学的に存在を問うことに発展した。その解答が「現存在」である。ハイデッガーの説く世界内存在としての実存は、デカルト的な自己に宿るのではなく、スペンサー風の進化する精神に宿るのでもなく、自己と他者の「間」に交流しているものとみなされる。さらに、限界状況を自覚したヤスパースに続いていく。(普通、倫理では実存主義は、キリスト教的なキルケゴール+ヤスパース、無神論的なハイデッガー+サルトルで教える。そのほうが理解しやすいからである。フッサールから説くのは高校生にはかなり難解である。)フランス人であるサルトルも加えて、彼らは、自分に中心を置かない世界観を提唱した。自分に中心を置かないということは、自分と世界が区別なくつながっている、世界や社会の歪みはそのまま自分の問題になるわけだ。

第2は、「私」という人間は世界の全体を理解したり了解しきれないのではないか、ということ。それならむしろ世界を理解しきれない「存在や「実存」という視点から出発して、さまざまな「現象」に向かうべきだろうということ。

第3は、第2の思想を確認する方法は、哲学でも文学でも美術でも音楽でも可能であるが、その表現は従来の芸術を一変してしまうような様相になる可能性があるということ。

カフカ(ドイツ語圏のチェコ人)の「変身」で「私」と「世界とのかかわり」は説明できない事を描いた。何らかの変化はあるけれど、それが社会的な意味を持つとは限らず、それどころか自分の実存はあるが、それしかないということである。松岡正剛は、一切の「理由」や「変化」は説明できないことを書いた。これこそヘーゲルからハイデッガーにおよんだドイツの「世界のかかわり」の文学化だとしている。次にフランクフルト学派のホルクハイマーやアドルノの話になり、「中心をもとうとした社会は崩壊する。」と述べたのだが、この影響で、ユダヤ人作曲家シェーンベルグなどの「無調音楽」としての12音技法を生ましめた。中心のない音楽で「カフカの音楽化」だと大胆に主張している。

第4に、世界も社会も「私」も、安易な「中心」をもつべきではないということ。そんなことをするから中心どうしが闘い合うことになる。

(高校倫理の範囲にはない)フランクフルト学派のカール・ウィットフォーゲルは、「解体過程にある中国の社会と経済」の中で中国の「水力社会」(中国文明の特徴である治水灌漑をおさめた王によって支配してきたが、国内では機能できても周辺部に及ぶと東洋的専制主義として歪められていくことを指摘)の研究をした。これは、社会の進化が唱えられても、それはいずれ国家がこれを壊すだろうという見方である。これは実際、ソ連でレーニンのプロレタリア独裁がスターリンの一国社会主義に飲み込まれた。中国もしかり文化大革命で矛盾に達してしまった。ウィットフォーゲルは、文明は絶えず「多中心」にならなかればならないのではないかと考えた。

最後に、第5は、存在や意識は、いったんそこにまつわる夾雑物(きょうざつぶつ)を捨てよということ。その多くは、存在が当初から纏うつもりがなかったものがたくさんくっついてくるからである。しかしそういうシャツを脱ぐには、そもそも空間や時間の中に挟まれている「私」というものを、その自分の場から外してかからないと、何も始まらないということ。

第1から第5に及ぶこのような見方は、ドイツにとどまらず、フランスにもイギリスにもアメリカにも日本にも萌芽していく。WWⅠ後のフランスでは、フォビズム、キュビズム、シュルレアリスムなど実験的な表現方法が連打され、無意識の領域は抑圧されたものではなく表現の寵児になった。サルトルの「嘔吐」もカミュの「異邦人」もカフカ同様の主人公である。19世紀的な社会進歩というヴィジョンは崩れ去っていったわけだ。

…いやあ、勉強になった。世界史と倫理のリンクは、(時代背景は重要なのだが)倫理側からはあまりやらない。だが、社会構造も哲学も文学も芸術も上部構造故に、歴史の流れの中で見るのが本来の学びの姿なのだと再確認した。ただ、フッサールからハイデッガーに直接つなぐのはかなり難しいと思う。第5の内容は、この記述だけでは難解に思えるがが、ハイデッガーやサルトル、フランクフルト学派の哲学をもとに咀嚼すると、十分理解可能な記述である。

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