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ミシェル・アルベールの「資本主義対資本主義」が最も有名で、①アングロサクソン型資本主義(短期的な視野で意思決定と個人主義を重視する英米型)②ライン型資本主義(集団的で中期的な視野による日独型)③合成型資本主義(それらの組み合わせ型)という分類である。ブルーノ・アブーブルの「五つの資本主義」は比較制度分析によるもう少し厳密な分類で、①「市場ベース型」②「社会民主主義型」③「大陸欧州型」④「地中海型」⑤「アジア型」という分類で、①の「市場ベース型」が新自由主義にあたる。
粗雑な飛白で皮肉が効いているのが、ハムデンターナーとトロンペナールスの「七つの資本主義」で、①イギリスの資本主義(合理性を押し付ける資本主義+ジェントルマン資本主義+ボランティア資本主義の合体)②アメリカの資本主義(勝利に酔うための神話的資本主義)③フランス(気分によって変わる資本主義)④ドイツの資本主義(差異を普遍で超えたがる資本主義)⑤オランダ(個人と社会の対立っを調整する資本主義)⑥スウェーデン(社会品質をつくりたがる資本主義)⑦日本(強力しながら競争する矛盾した資本主義)となっている。これが一番面白い。
松岡は、会計制度はグローバル・ルールにしておいて、その運用は各国各民族がお国柄を発揮しているのなら文化人類学的である。(すなわち文化である。)だが、その分析・分類の結果優秀な資本主義システムを他国に押し付けることはしてなはらない、なぜなら文化は他国に押し付けるものではないと言っている。
そもそも資本主義のモデルは、イギリスで(奴隷貿易やアヘン戦争の)三角貿易と「みんなが合理的な進歩を望んでいる」という社会ダーウィニズムである。そこにアメリカが得意な「プレイヤーが勝ち残るための優勝劣敗のシナリオ」が加わって、新植民地主義を新たな市場にしてグローバルに広がっていった。しかし、サッチャリズムやレーガノミクスに代表される「勝つためだけの資本主義」が戦果の後に吐き出していったものには回復し難い問題や取り返しがつかない問題が残滓してしまう懸念があると。
その内容を、ダニエル・ベルの「資本主義の文化的矛盾」で整理している。
①解決不可能の問題だけを問題にしている病気②議会政治がゆきづまるから議会政治をするという病気③公共暴力を取り締まれば私的暴力が増えていく病気④地域を平等化すると地域格差の対立が起こっていく病気⑤人種間と部族間の対立が起こっていく病気⑥知識階級が知識から阻害されていくという病気⑦いったんうけた戦争の屈辱が忘れられなくなる病気
ベルは資本主義そのものを批判したわけではなかったが、ボードリヤールは「消費社会の神話と構造」などの著書で、市場における価値の等価な交換なんてとっくになくなっているのではないかと指摘した。市場でどんなにモノの価値が需給バランスをとろうとも、それとは別の金融資本が動いているから、市場で交換されるのは本物の価値ではなくなっているということである。さらに、「生産と消費がシステム自体の存続のために食われてしまっている」と指摘した。銀行や百貨店の統合などがその例で、どんな企業でもどんな団体でも勝ち残るためには「構造的な窮乏感」を演出することだけがシステムの活性化を促すたった1つの手段になっているということになる。
前述(17日付ブログ参照)のドゥルーズ=ガタリの『アンチ・オィディプス』で機械と欲望とが、資本主義と分裂症とが、それぞれ分かちがたく渾然一体となっているという『くっつきすぎる矛盾』が現実化しているわけだ。
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