ラベル 2010 国際交流部 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 2010 国際交流部 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2011年3月8日火曜日

国際交流部仕事週間

中国修学旅行2010 天壇公園
学年末も入試も終わり、ホッと一息つきたいところであるが、今週は「国際交流部仕事週間」という感じである。昨日から今日に書けて、昨年の中国修学旅行の紀行文集の印刷をしていた。この紀行文集、だいぶ前に情報Aの時間を少々いただいて生徒諸君がWordで書いたモノを、私が構成し長い間醸造していた。(笑)52ページもあり、両面で印刷するのでかなり時間がかかる。試験も終わって、先生方がほとんど印刷室を使わない今がベストの時期なのだ。昨年は、立ちっぱなしでやって、夜、強烈に足がつった。(笑)その反省から、今年は椅子を用意して、佐藤優の「大川周明」を読みながら焦らずやっていた。製本作業は今日である。本校では会議室に製本の機械がある。1人でコツコツと製本。さらにホッチキス止め。地味な仕事である。国際交流部というと、華やかそうに見られがちだが、仕事は段取りと雑務の集合体である。(どんな仕事でもそうだが…。)

今日は午後からは、大阪市主催のオーストラリア派遣の選抜試験であった。現1年生が対象である。英語科の生徒はちょうどオーストラリア研修旅行と重なるので、国語科生徒が対象となる。それでも4名の生徒が名乗りをあげた。英語の筆記・リスニング、私の作ったオーストラリアの基礎知識を問う社会の問題、さらに小論文と3種類のテストを1時間でこなさねばならない。さらに面接である。もちろん日本語と英語の面接になる。今回は、問題の採点だけでよかったが、こういう試験があると毎回一から作り直す。

明日は、その結果をもとに部会が開かれる。さらにその後、来年度の修学旅行の業者決めのヒアリングがある。その進行は私の仕事である。もちろん、ヒアリングの後は会議で業者を決定する。なかなか骨の折れる仕事である。決定したら、委員会へ送る計画書類の作成が待っている。
金曜日には、早くも夏のオーストラリア研修旅行の第1回保護者説明会が行われる。今回も司会は私だ。なんやかんやと忙しいのである。しかしながら、やりがいがある。全ての仕事が「地球市民」の育成へと繋がっているからである。

ところで、昨日医者に行ったら、若干血糖値が下がっていた。263。まだまだマトモではない。新しい薬が増えた。朝に1錠。アメリカの毒トカゲのDNAから取ったやつかもしれない。私の体にトカゲのDNAが入ってくるのはちょっと…なあと思う。(笑)

2011年1月29日土曜日

上海の高校生を熱烈歓迎

写真の使用許可をもらうのを忘れたので無人の画像です
昨年夏に、本校から上海に府の訪中団として派遣された2年生の生徒のところに、ホームスティするという中国の高校生2人が本校に来校した。もちろん昨日のことである。(昨夜は、国際交流部の新年会だったので、帰宅が”今日”になった関係で更新ができなかったのである。後輩の口の悪いI先生をはじめ、K老師、Y先生、I先生と無茶苦茶盛り上がったのだった。)
 2010年度は、本校国語科2年生が北京に修学旅行に行っただけではなく、3回も訪中団の一員として、数人の生徒が交流事業に参加した。尖閣諸島問題など日中が険悪な時期だっただけに、よく考えると凄い話である。私は、国家と国家ではなく、市民レベルのこういう営みは『地球市民』育成のためにも重要だと思っている。

 さて、当初の予定では阿波座にある某ホテルを9時に出て、地下鉄を乗り継いで来てもらう予定だった。訪中団来校の日程が入る前に3年生の学年末考査の日程が決まり、現代社会の試験が1時間目に入っていたからだ。極めて丁寧なカラー刷りの案内を生徒に持たせて、歓迎レセプションの時にレクチャーしてもらっていた。ところが、いっしょに友好協会の方が本校まで付き添っていただけるとのこと。ありがたいなあと思っていたら、さらに発展して車で送っていただけることになった。当初9:30到着でプランを立てていたのが、9:00到着になり、困ったなあと思っていたら、当日さらに10分早く到着したのだった。あちゃー。
 ここで、救世主登場である。K老師(老師は中国語の通訳資格を持っておられる。凄い人なのだ。)が、校長室での通訳をしていただけることになっていたのだが、校長との挨拶だけでなく、様々な会話の間をとっていただいた。もちろん中国からの訪問生徒は、超優秀な生徒なので英語がかなりできる。特にリスニングは完ぺきだった。しかし、中国語で迎えられるとは思ってもみなかったのだろう。かなり安心したようだ。なにより、本校の玄関には『五星紅旗』がはためき、『熱烈歓迎』の幕まで張ってある。かなり喜んでくれたようだ。(本校には2年に1度くらいは中国からの訪問団がどっときたりするので、そういうグッズがちゃんとあるのである。)なんとか、時間を稼いで、2時間目、校内を案内した。私のサバイバル・イングリッシュを助けてくれたのは女性のI先生(彼女は本校英語科4期生でもある。)で、試験をしている2階の教室棟だけ避けて案内した。彼女たちは小さいながらも小奇麗でユニークな構造の本校を気に入ってくれたようだ。5階のゼミ室で、1年生のE.com(ALTと少人数で行う英会話の授業)をちょうどやっていた。R先生の姿があり、オイデオイデしてくれたので、突入した。10分ほど1年生に交じって授業を受ける。(昔々、R先生が反対の立場でシカゴの教育委員会の先生を連れて校内を回っている時、私の倫理の授業に乱入したこともあるのでオアイコである。笑)体育館まで言ったら、ちょうどチャイムが鳴った。
 ここで本校のホスト生に、2人を託す。3限目情報基礎A、4限目数学Ⅱ、5限目E.com、6限目国語Ⅱ(現代文)と授業に参加する。それぞれの授業担当の先生方は気持ちよく引きうけていただいた。ありがたいことである。

 放課後、2人とホスト生、教職員で、記念写真を撮った。私はそれ以前に撮った写真をCDに焼いて手渡した。1枚だけ5時間目にE.comで撮った写真をプリントしてCDにセットしておいた。こういう心遣いが国際交流の最も重要なことであると私は思う。彼女たちはホストやその友人たちと、心斎橋へ向かいプリクラを撮りにいくとのこと。(笑)アメリカの子もオーストラリアの子も、中国の子もプリクラが好きらしい。

2011年1月24日月曜日

MWsと留学生、旅立ちの日

地理A MWsと最後の授業にて
本日、朝にMW校留学生5人と、本校の留学生6人が、それぞれ帰国と留学のため旅立った。国流部長のY先生が見送りである。さらに昼には、アメリカU校への留学生2名が旅立った。これもY先生が見送り。3年生の最後の授業もあって関空からとんぼ返りで、学校に戻り、またまた関空へ。大変である。
 今年のMWsは、とにかく元気だった。地理Aの授業にずっと入ってもらったのは初めてである。内容は、『高校生のためのアフリカ開発経済学テキスト』を使っての、かなり難解な内容だが、本校英語科1年生の説明や、私の熱意だけのサバイバルイングリッシュでなんとか授業は成立していた。(笑)最後の授業でも”デモクレイジー”の説明など、ちょっとシミュレーションっぽくやったが、C君やB君がそれぞれのってくれて、なかなか盛り上がったのだった。写真を見てもみんなアジア系なので、完全に同化してしまっている。(笑)
 また、今年のMWsは、たくさんお土産を置いていってくれた。私も含めて、国際交流部として関わったり、授業で関わったり、クラス担任で関わったり、日本語教師として関わったりした先生方に、1人ずつ額に入れた写真と手紙を置いていってくれたのである。今までこんなことはなかったので驚きである。私が思うに、担任として関わったR先生の”超気がきく・もてなしの心”がその中核にあるような気がする。ホストの生徒たちも寄せ書きの色紙を用意したりして、たくさんお土産を用意していた。さすが、R先生だと思った次第。

 MWs、元気で!また日本においでやあ!そして留学生、五感でなんでも感じ取り、これからの学びに活かして欲しい。成長が楽しみである。

…ともあれ今年の国際交流の最大のヤマを、今日超えたのだった。

追記:中村臣宏さん、読者登録ありがとうございます。福祉の仕事どう?またコメント下さい。

2010年12月15日水曜日

スイス航空アフリカ便の存在理由

 スイス航空は、なぜアフリカの17カ国へ飛んでいるのでしょう。
それは、ここには石油、禁、ダイヤモンド、銅、鉄、プラチナ、木材、ココア、ナッツ、ゴム、タバコ、スパイス、果物、コーヒー、綿花、それに珍しい動物やすばらしい砂浜があるからなのです。
デア・シュピーゲル誌の広告(1972年) アフリカの選択/マイケル・B・ブラウンから引用。
 この文章は、「高校生のためのアフリカ開発経済学」の初版の最初のページにイントロダクションとして私が置いたものである。最新ヴァージョンでは、ブルキナ在住のIさんの詩「バナナ売りの少女」をイントロダクションに使い、アマルティア=センの貧困から学習するように再編した関係で、アフリカの文化を理解する様々なキーワードを学んだ後に置いている。

 このスイス航空の広告コピー、実は欧米のアフリカ観をいみじくもよく表している。アフリカの選択の著者、マイケル・B・ブラウンの指摘である。今日は、地理Aで、試験を返した後、この文章を元に授業を組み立てた。英語科の方は当然、MW校の留学生6人もいっしょである。

 まずテキストを読む。…のだが、英語科では代表生徒に、太字の部分を英訳させた。(1年生でありながらなかなかたいしたモンであった。)黒板に、アフリカにある項目を書いて、MWsにも確認していく。私が生徒に理解させたいことは、我がブログの読者のみなさんなら、もうおわかりだと思うが、「人間」や「文化」といった視点がないこと。つまり欧米は、アフリカの人間や文化に価値を置いていないこと。その誤りを正したいのである。(当然マイケル・B・ブラウンの指摘でもある)

 そこで、日本の航空会社の広告コピーを考えさせてみる。文脈はスイス航空と同じ。日本には…があるからなのです。MWsに聞いてみた。「フジヤマ」「ミヤジマ」…おっ!いいぞ。「ニッポンバシ」…?大阪の電気街、東京で言えば秋葉原である。「おたくの殿堂」、アニメ?マンガ?「イエス、ワンピース。」なるほど。「タコヤキ」「オコノミヤキ」…、「カモン、大阪とちゃうで。」盛り上がってきた。「キョート」「ナラ」…本校生も「温泉」とか「東京タワー(?)」とかいろいろ挙がる。これらとアフリカの「石油…綿花、野生動物・砂浜」の文章を対比させてみる。すると「人間」や「文化」という視点がスイス航空の文章にはないことが解るのである。今日もなかなか盛り上がったのであった。

 ところで、ブルキナの、ゴロンゴロンのマルシェ(週一回の市)で、スイス人父娘と出会った。私と全く同じトゥアレグ族のターバンを巻いていた。(笑)私は、彼らもアフリカに『人間』を見に来ていたように感じた。スイス人の名誉の為あえて『蛇足』しておきたい。

2010年12月1日水曜日

MW留学生s in 地理A

今年のMWs
先週の月曜日に、1人遅れて来日したWさんを入れて、現在6名のMW留学生が本校で学んでいる。彼らは、日本語を学んでいるが、日本語での普通の授業を受けれるほど日本語が達者であるというわけではない。いくら本校でも、英語で普通教科を教えることができる教員は、そういない。彼らの時間割の中で唯一、英語科以外の普通教科がある。それが私の地理Aである。こう表現すると、恰好いいが、当然、私は、英語で授業できるほどの英語力はない。まあ、いつものサバイバル・イングリッシュで頑張っているわけだ。だいたい、日本語60%、偽英語40%というところである。英語科の1年生の選択クラスで15名ほどの授業である。ここに6人が混じっている。当然、進度は遅くなる。本来本校生にしている授業だし、期末考査もある。今日は、アフリカの農業が、モノカルチャーのプランテーションであるというのは幻想である、ということを資料を通じて教えるのが最大のテーマだった。出てくる言葉は、「輸出総額に占める農産物の割合」とか、「可耕地面積」とか、やたら難しい。(常設ページ:高校生のためのアフリカ開発経済学テキスト参照)
 さすがに、サバイバル・イングリッシュではどうにもならない。そこで、最初日本語で説明し、本校生が留学生に教える、というプランを思いついた。ただ、前述のような難解な日本語を一応英語で教えておいた方がよい。彼らの担任で英語科のR先生に英訳をしてもらい、私は、それをメモっていざ授業に臨んだのである。なかなかいいアイデアだった。本校生は、懸命に留学生に伝えようとしており、留学生も真剣に聞いている。(今年のMWsは、無茶苦茶ファンキーであるのだが、私の地理の時は極めて真面目だ。ちょっと不思議である。)面白かったのは、韓国の出身どうしの本校生とMW生が並んで座っているのだが、ハングルで説明していた。(笑)「OKスミダ?」と聞くと「ダイジョウブデス。」という返事が返ってきた。(笑)また、せっかく英訳してもらった英語を、カタカナ表記でメモしたものだから、発音が悪く、全然通じなかったりもした。本校生から、大笑いでブーイングも出た。
 さてさて、こんな授業だから、試験範囲まで届かなかった。その分、本校生に対しては、後の補習で補ったのであった。当然日本語100%である。
  ふー。疲れたのである。(笑)

2010年11月11日木曜日

アフリカ日和 その5 マタツー

昨日は、少々体調を崩してブログをお休みしてしまった。(反省)「50を超えると、どうもイカン。」とは、今朝のK老師との会話である。学校では、早々と(と、いっても事務から見ればギリギリらしいが)来年の修学旅行・研修旅行の立ち上がりの委員会がもたれた。どうも体調がイカンなどとぼやいている場合ではない。(笑)明日は、またMW校の交換留学生3か月組が、4人関空に着く。1年生の家庭でホームステイ開始である。国際交流部は、今すこぶる忙しい。
 
さてさて、今日はまたまたアフリカの話を書きたい。現代社会の授業で、アフリカにおける農村と都市との移動の話をしていた。交通事情も悪いのに、彼らはよく移動する。ケニアの国道など、メンテナンスが悪くて、アスファルトにたくさん穴ぼこがあいていたりする。そこを猛スピードで車が走っていく。アフリカのドライブは、十分心臓に悪いのである。(笑)
 特に、ケニアには、マタツー(マタトゥー)という乗り合いバスがある。日本で言えば、トヨタのハイエースといった商業車が、小型のバスに改造されている。これが、ケニアの交通の主力だ。ナイロビ市内を循環するものや、郊外を結ぶもの、長距離といろいろある。私が、JICAで、ケニア視察旅行をした頃は、ちょうどスピーカーでレゲェをガンガン鳴らしながら走るペイントした派手なマタツーは禁止になった直後だった。早川さんの『アフリカ日和』には、そのマタツーのことが書かれていて、粋なあんちゃんの箱乗りとかを楽しみにしていたのだが、あまり見れなかった。その代わり、多くが日本車で、なんとか幼稚園とかのペイントがそのまま残っていたり、どこどこの消防署と書かれた救急車型もあったりで、何度も大笑いしたのを思い出す。そんな思い出話が、生徒は大好きなようだ。その乗り方も、アフリカらしく、満員すし詰めで、ヤギを車中に乗せたり、ニワトリを抱えて乗る奴もいるし、長距離のものなど満員になるまで出発しない。だが、ポレポレ(ゆっくりいこう)なのだ。そう、何事もポレポレ。それでハクナマタタ(問題ない)。アフリカの人びとの、そういうたくましさが私は大好きだ。何人か、是非乗ってみたい!と言ってくれた。いつの日か、実現させて欲しいなと思う。
<今日の画像は、Googleで集めたマタトゥー図鑑といったところ。参考までに。>

2010年11月9日火曜日

風の強い日はシカゴを語ろう

今日は、やたら風の強い日であった。風が強いと言えば、シカゴである。シカゴはミシガン湖からの風が強く、大火にあって一度焼け野原になっている。その時の市長がコンベンションをやって、今の摩天楼を作っていったという歴史がある。風の中、外で喫煙していて、今日あたり、アメリカ研修旅行の国流通信速報版について書こうかなと思ったのである。
 担任のT先生より、写真のメモリを預かり、パッパッパと作り、玄関のイーゼルに張っておいたのだが、生徒諸君、特に英語科の2年生が喜んで見てくれている。その証拠に、毎日コアラの位置が変わっている。(もちろん今も3匹元気である。10月5日付ブログ参照)ありがたいことだ。
 さて、今日は中国修学旅行・アメリカ研修旅行の実施を終えて、来年度へ向けての付き添い教員による反省会が開かれた。その内容はブログで公開することは、当然出来ないが、様々な議論があった。
  こうした旅行だけでも、多くのドラマがある。ネコブル(トラブルと呼ぶほど大きな問題でない故に猫ブル)もたくさん起る。それらをうまく乗り切っていかねばならない。こうした経験知は、必ず次につながっていくのである。「金八先生」などには決して描かれない地道な世界だ。

 恥かしながら、今朝は睡眠不足で、ウトウトしていたら、京橋で乗り過ごしてしまった。気がつくと地下を電車が走っていた。(学研都市線から東西線に入ってしまっていた。)初めての経験である。結局、大阪天満宮から谷町線で学校へ向かった。と、いうわけで今日は早寝をすることにした。今日のブログはここまで。(笑) 

2010年11月3日水曜日

アメリカ研修旅行団帰国の報

今夕、アメリカ研修旅行に行っていた英語科2年生が全員無事帰国したとの連絡を受けた。このアメリカ研修旅行、航空路線は、毎回異なるが、アイオワ州デモイン空港について、その後U校生徒宅でホームスティ、その後シカゴで半日観光して1泊、早朝にオヘア空港を出て、日本に帰国という大まかな日程は変わらない。私の時は、ユナイテッド航空が午前中は団体客を乗せないと直前に発表し、大騒ぎして航空路を変更、伊丹早朝(7:30)発のANAで成田へ飛び、ANAのシカゴ直行便を利用、オヘアからデモインへ飛んで、昼には着いていたのだった。今年は、昼のユナイテッド航空関空発、サンフランシスコ経由シカゴ経由デモインである。デモインに到着はかなり遅い。疲れたであろうと思う。
 さて、私の時(4年前)、U校を朝バスで出て、R80を一路シカゴへという日程にした。途中、イリノイ州に入る前にミシシッピを渡る。とはいえ、まだまだ上流なのであまり実感がわかない(笑)シカゴでは、科学産業博物館に入り、館内のフードコートで食事をとることにした。レストランで食事する時間がもったいないと私は思ったのである。アメリカの博物館は、日本とはかなり違う。なにより写真撮影OKなのが凄い。私は、これまでアメリカで航空博物館を中心に様々な博物館に入ったが、このシカゴ科学産業博物館は5指に入る。なにより、Uボートである。9月28日付のブログでも触れたが、潜水艦を間近で見れるという体験は日本ではあまりない。(ニューヨークのイントレピット航空宇宙博物館や、サンフランシスコ、ボルチモアにも潜水艦の展示があるが…)美術部の英語科2年生には、「是非見ておいで」と言っておいた。<今日の画像はそのUボートである。>その後夕闇せまるシカゴの摩天楼を一望して、空港近くのホテルへ向かうのである。私の時は、ここにシカゴ大学のBOOKSTOREが入っていた。シアーズタワーに昇るのもいいが、時間がないのである。無茶苦茶もったいないが…。シアーズタワーから、東を見るとミシガン湖が海のように広がり、南を見ると、スラム街が広がり、西を見ると遥か地平線が、そして北を見ると、ビッグジョンを始めシカゴの摩天楼が一望できる。(まあ天気にもよるけれども…。)研修旅行の目的は、あくまで語学研修である。ホームステイして自分の会話能力を試し、これからの学習につなげるのが第一である。また是非シカゴに来るようにすればいい。シカゴは全米の交通の要所である。また来る機会も必ずあるはずだ。そう言ってごまかしたことを思い出す。
 さてさて、2年生の英語科の諸君は、どういう感想を持ったのだろうか。楽しみである。

2010年10月28日木曜日

中間選挙のアイオワへ

本日午後、アメリカ研修旅行に参加する英語科2年生が全員無事旅立った。どうやら今秋のアイオワは寒いらしい。最低気温は1℃だとか。と、いうわけで、今日の画像のU校のマスコットは、雪が降っているわけである。先ほどもNHKのクローズアップ現代でやっていたけれど、U校への研修旅行の時は、いつも中間選挙か大統領選挙の真っ最中である。私の担任の時も中間選挙であった。アイオワの家はだいたい芝生があって、そこに支持する議員名などが書かれた立て看板や幕が立て懸けてあったりする。ちょうどハロウィンとも重なって、おもしろい風景である。今年は、アメリカも経済不況で、ティーパーティーという共和党の運動が盛んらしい。アメリカの精神(個人の自由の尊重)に立ち返れと言う白人保守層の運動であるらしい。合衆国憲法を配り歩いて、その原理主義的な立場を鮮明にしているらしい。…なるほど。なるほど。
 日本にいると、アメリカ人は政治好きなんだな、くらいに思えるかもしれないが、この政治に関する重大な日米の文化的相違がある。初めてアメリカを訪れた時、その大きな衝撃的事実を知った。
 それは、日本ではサラリーマン(私も広い意味でそうだが)など勤め人は、税金を給料から天引きされているので、税金をどれくらい納めているのか、あまりよくわかっていないということである。この形だと、どうしても納税意識が低くなる。ところが、アメリカでは、全ての人が、自分自身で申告するのである。自分で1年分の領収書を集め、自分で申告書を書き、納税する。苦労する分、納税額への関心も高いし、当然その使途である政治への関心も高くなるのである。

 アメリカの公立学校は、そういう関心の高い税金(まさに血税である!)で運営されている。小学校などは、コミュニティの意見を当然反映せざるを得ないし、保護者(納税者)が学校運営に口をだすのは当然である。校長は、ある意味コミュニティのカネを預かって、いかに効率的に、しかも成果をあげる学校を運営するかを問われる経営者であるといっていい。当然良ければ給料は上がるが、無能なら解任である。一般教員も同様で、高校レベルなら、進学実績や特色ある授業などが個々に評価され、個別に契約を結ぶのである。ボストンの高校で、私は台湾出身でIT教育でゴールデン・アップル賞というのをもらったという優秀な先生に車で送ってもらったことがある。校長は、彼女のような優秀な教員をスカウトできて満足している、と言っていた。完全に経営者である。彼女の授業が受けたいと、優秀な生徒が集まるのであろう。

 この納税システム、邪魔くさがりの私にとっては、ノーサンキューだが、公立学校がこういう緊張感に立たされ、競争しあうというのは悪くない、と私は思っている。日本人は、アメリカを理解しているようで、こういう基本的な事実をあまり知らない。アメリカの政治理解の基礎、しいては文化風土の基礎ではないか、と私は思っている。異文化理解は、こういうところから教えたい。

2010年10月26日火曜日

河内音頭 IN 月壇中学

 中国修学旅行シリーズ、一応の最終回。今日は月壇中学との交流について書こうと思う。月壇中学は北京で唯一日本語を第一外国語としている学校である。<右の画像はその正門。電光掲示板に熱烈歓迎と本校名が表示されている。>本校以外にも多くの日本の高校と交流関係にある。ただ、本校はその中でもここ5年連続して訪問し、かなり重要な交流校と認知されていると私は思っている。前回も校長が交流式典に出席されたし、今回も所用を終え、交流式典には間に合わなかったが、その後はずっと本校校長と懇談されていた。月壇中学の校長は、どっちかというと北京市のえらい方で、実務は副校長に任せておられるので、2年連続校長と懇談できたとうことは、本校に対してそれなりの重視の表れなのである。(この辺、社会主義国の役職の序列云々を重視するマスコミ報道みたいだが…。)この月壇中学は、かなり優秀な学校で、北京大学をはじめ、素晴らしい進学実績を誇っている。日本留学でも、東大、名大、筑波大、早大、慶大など錚々たる大学名が並ぶ。
 とはいえ、交流は交流である。進学実績なんか関係ない。日本語はできるが、シャイな生徒諸君が多い。今回は、式典で本校生徒が”3人丸暗記同時中国語スピーチ”を披露した。監修のK老師が、太鼓判を押したメンバーだ。月壇中学の先生方も非常に誉めておられた。さらに、本校生のアトラクションは、「河内音頭」だった。全員が浴衣に着替えての本格的なものである。最初見ているだけだった月壇中学の生徒(写真ではスカイブルーの体操服を着ている)に、担任のT先生が声をかけ(日本語だ。しかし彼らは日本語が堪能である。)、徐々に輪に入っていく。いい交流だった。その後、校舎見学、教室での懇談、さらに少し暗くなった運動場で、レクレーションを楽しんだ。交通事情もあって若干延着した我々を、時間オーバーして精一杯もてなしてくれたのだった。
 実は、現地ガイドの王さんが、月壇中学の卒業生で、毎回細かいところまで面倒を見てくれる。今回も、彼の念密な打ち合わせのもと、無事に交流が出来たのであった。ありがたいことである。本校生徒、そして月壇の生徒たちの満足げな顔を見ていると、マスコミ上の様々な日中の問題はふっとぶのである。王さん・劉さんとともに、月壇中学の友人とも、地球市民的つながりを結んでくれたら、私はこの修学旅行の意味がさらに深まると考えている。

追記1:今日は多くの生徒に「カラダ、大丈夫ですかぁ?」と聞かれた。かなり心配をかけたようである。授業では、それを払拭すべく汗をかいて熱血の講義をしたのだった。現社では、アマルティア=セン、倫理ではキルケゴールとヤスパース。久しぶりの渾身の授業であった。追記2:higashi101さん、読者登録ありがとうございます。コメントもお願いしますね。

2010年10月25日月曜日

間前一小歩、文明一大歩

今日は、体験入学の代休日である。ちょっと早めにブログ更新をしたい。中国修学旅行シリーズの続きである。私は、昨年、今年と続けて北京に行ったわけだが、だいぶ以前に行った個人旅行での北京とも絡めながら少し考えたい。
 1つ目は、なによりも車の多さである。個人旅行で訪れた頃は、ダイハツとVWのタクシーが目立ち、高速道路も出来つつあった。ホテルから無謀にも、ハードロックカフェ・北京にタクシーを飛ばした。頼りは、硬石飯店の住所と止まってるホテルの住所のみ。英語など通じない。タクシーは、胡同(前日のブログ参照)の人力車よろしくカーチェイス状態で、何度も死ぬかと思った。今、北京の高速道路をあんなに飛ばすことは、余程の深夜でもないかぎり出来ないだろう。完全に飽和状態である。劉さんのガイドによると、平日に、1/5ずつの一般車の通行を規制しているらしい。月曜日なら1と6、火曜日なら2と7という風にナンバーの最後の数字で、規制の曜日が設定されているという。(ちょっとうろ覚えだが…。)北京オリンピックの時は、奇数偶数で規制されていたので、もっと車の稼働率が悪かったはずだ。規制を緩くした分、車の販売台数が増え、しかも、高級車と言ってよい新車がガンガン走っていた。
 2つ目は、「勇気優先」である。この車の交通ルール、まさに弱肉強食である。当然、政府・軍関係車、トラック・バス、高級車、大衆車、軽自動車、バイク、自転車、そして人間と、すさまじいヒエラルヒーがある中、一瞬のスキをつきながら前へ前へと進むのである。劉さんに言わせると、北京の交通ルールは「勇気優先」となるのである。生徒が感心していた。(笑)
 
この車の莫大な増殖と、勇気優先の修羅場を、今回は強く感じた次第。場所は、北京雑伎団の公演会場前の信号である。<写真はその会場。まだ人通りが少ない時点での撮影。>とにかく筆舌に尽くしがたい移動風景である。莫大な車、人、クラクション。壮絶な戦いと言ってもいい。私は,足を痛めた故に車いすを使用している生徒もいたため、最も危険な位置で生徒達の移動を見守っていたのだった。人と車に酔った、という感想だ。雑伎団公演は、今回は2階席で満員だったこともあり、講演が始まってから、まだまだ人が入ってきた。生徒の横に他の団体客が遠慮なく座っていく。さらに、劇場のスタッフに注意されると、大声で反論する。勇気優先は、交通ルールだけではないのである。

 この我々日本人から見れば多少揶揄したくなるような喧騒は、なにより中国の人々の数の多さからくる宿命的なものだと私は考えている。「和」を保てるのは、肉親・血縁。そして地縁が限界であり、それ以上になると極めて難しくなる。日本のスタンダードで測るべきものではない。とはいえ、今中国政府は、これをなんとかしようと懸命である。劉さんが、朝のバス停で整列乗車を呼び掛けるボランティアの紹介をしていた。オリンピック以来、街が飛躍的に近代化し、綺麗になった。それを有効に使いこなすには、「脱勇気優先」のスタンダードが必要である。その一つの現れであろう。

 今日のタイトルの「間前一小歩、文明一大歩」は、某公衆トイレで見つけた金属プレートの文句である。<写真参照>男性用トイレの前にあったので、意味は明瞭であろう。しかし、深く読んでみると、この脱勇気優先問題、長い時間をかけて一歩一歩中国が進んでいかなければならない大問題であると私は思うのである。北京「首都」空港では、ライターを持ち込ませない。喫煙所以外で喫煙する勇気ある者がいるからであろう。これには、まいった。(笑)

2010年10月24日日曜日

劉さんの「私、子供産みますヨ」

 昨日は、中学生のための「体験入学」で登校日(授業は1・2限、午前中準備・午後体験入学)だったのですが、熱が下がらず(38℃)、結局休むことになりました。地理Aの授業もあり、体験入学の役係もあたっていたのですが、どうすることもできませんでした。妻に背中から腰にかけて湿布を貼ってもらい、関節や筋肉の痛みに耐え、ジュースやゼリーやアイスクリームなどの食事で1日じっと耐えておりました。今朝ようやく平熱に戻った次第です。

  さて、今日は、今回の中国修学旅行で最も印象に残ったことについて書きたいと思います。胡同(フートン)でのことです。
 今回は、昨年の行程に若干変更を加えました。昨年行った「頤和園」と「明の十三陵」をやめて、「胡同」を入れたのです。 昨年の生徒諸君のアンケートの結果と、タイトなスケジュール緩和が、その理由です。さて、この胡同、要するにに古い北京の町並みで、アメリカで言えば、「歴史地区」といったところでしょうか。北京の膨大な数の近代的ビルと高速道路で停滞する車の列に圧倒される我々に「清朝時代の中国」を感じさせてくれるところだといえます。さて、この胡同、人力車で散策するとことまで往復するのですが、あいにく小雨が降ってきました。(午前中の万里の長城はなんとかもったのですが…。)<画像を参照>この人力車、私は個人的に、自分が偉そうにしているようで気に入らなかったのですが、時間の関係もあって、そんな感傷もクソもないまま、慌てて乗り込むはめになりました。すると、数十台の人力車が、まるでカーレースさながらに同時にスタート、スピードを競うのです。もちろん、前方から車は来るわ、人は来るわ、横にぶつかりそうになるわで、物凄いスリルがあるのです。なかなか面白かったというのが、私の感想です。生徒は、どう感じたのでしょうか。
さて、胡同の散策を終え、バスに戻ってみると、劉さん(先日紹介した現地ガイドさん)がいません。後で、聞いたところによると、携帯電話を人力車の座席に忘れた生徒がいて、その世話をしてくれていたのでした。本来、この人力車、安い賃金で働く車夫はチップが生命線。今回は団体なので、私もチップを払いませんでしたが、わざわざ携帯電話を届けてくれた車夫に、劉さんがチップを払わないわけがありません。聞くと20元支払ったとか。「私が出すよ」「ダメ!いらない。」「劉さんに払わすわけにはいかない。」「ダメ!いらない。」普段は、”愛想の塊”のような劉さんが折れません。とりあえず、この時はは私が引いたのでした。その日の本校教員だけのミーティングで、これは本校が払うと決めました。北京空港で最後の最後に校長に渡してもらうことにしました。
 そして、北京空港。結局、校長が渡しても、劉さんは頑として受け取りません。「私、子供産みますよ!」というのが、劉さんの拒否の言葉でした。
 これには、少し解説が必要です。劉さんは、若く美人なので全くそう見えませんが、既婚者です。3年前、本校の修学旅行のガイドとして登場した時は、未婚でしたが、昨年の修学旅行前に結婚されました。ただ「私は一人っ子政策の第一世代なので、子供を産む勇気がありません。子供が子供を育てられませんヨ。」と、子供は、まだまだと言っていたのです。つまり、「子供を産みます。」というのは、「次の修学旅行でガイドしませんよ。」という”脅し”だったわけです。

 この劉さんと王さんという現地ガイドのお2人は、今年で連続3回目。今回は特に尖閣諸島問題で実施されるかどうか、非常に心配していたそうです。2人にとって、本校のガイドは、単なる”仕事”ではなかったのです。姉の世話をしたから、その妹の世話をするという感覚というか、”内輪”の感覚があるのです。だから、車夫にチップを支払うのは当然で、金銭の問題ではないということなのだと私は理解しています。その証拠に、劉さんは、私が持っていた二元札(今はもう発行されていない)に「珍しいですね。」というので、その札をあげたら大喜びましたし、ホームヴィジットのため用意していたけど、使わなかった「日本の民芸風お手玉」をあげたときも、喜んで受け取りました。でも、生徒の為の二十元は受け取らなかったのです。「私、子供産みますよ!」という拒否の言葉には、自分の全てをかけた本校生徒への想いがこもっているのです。この気持ちが、嬉しい。涙がでるほど、無茶苦茶嬉しいのです。
 王さんも北京空港で1年ぶりに再開した瞬間、私が、彼にハグしにいったことに感激してくれていました。「本当に嬉しかったです。」彼にそう言ってもらえて、私も嬉しかったです。王さんも、北京空港から天壇公園に向かうまで興奮気味で、バスの中で自分で何を言っているのかわからなかったとか。それくらい今回の本校のガイドを楽しみにしていてくれていたことを、後で知りました。王さん・劉さん彼ら2人の想いが、本校の中国修学旅行を支えているのです。本校は、中国・北京になによりの「財産」をキープしているのと私は思うのです。

 昨年彼らと出会った国語科3年生に、先日授業でこういう問いかけをしました。「万が一、尖閣諸島の問題が悪化し、中国と日本が戦争になったとして、君たちは、王さん・劉さんに銃を向けれるか?」
  
  …全員が沈黙しました。
 
 これが、地球市民の平和学だと私は思っています。

2010年10月22日金曜日

男の美学・発熱に敗北

定刻通りに家を出たが、どうも熱っぽい。お世話になった先生方への挨拶や、お土産を置いてまわり、職員朝礼で国際交流部としての公式のお礼を述べた。今日は1・2、5・6限と授業がある。1時間目の日本史Bの授業を終えたら、吐き気がした。今まで長い教員生活でこんな事は初めてである。2時間目の倫理は4人だけだし、自習にしてもらい、ちょっと休んだ。その後国際交流部通信を作ることにした。明日は、体験入学で中学生が来るし、2年生の国語科の生徒も玄関に速報版があればきっと喜んでくれるだろう。ところが、遅々として進まない。私のCPUの稼働度がかなり低い感じがする。これと明日2年国語科に配布するアンケートを作った。もうボロボロで、とても5・6限の授業などできる状況にない。見かねたK老師や周りの先生が「帰りや、帰りや」と言うので、甘えることにした。自宅にタクシーで帰り、体温を測ると38℃3分あった。3時間ほど爆睡した後、無理してもH城鍼灸院には行きたかったので、妻と行ったら、史上最高に痛い鍼を打たれた。右の薬指のつめの下である。死ぬかと思ったのだった。ゼリーや梨などの夕食を終え、やっとパソコンに向かうことが出来た次第。いろいろ書きたいことが山積みだが、体調を考えて明日にしようと思う。

2010年10月21日木曜日

中国修学旅行より帰国

定刻より若干早く関空に着きながらも、枚方行きのバスの時間の関係で、10時過ぎに自宅に帰ってきました。いろいろと細かな問題はありましたが、無事全員帰国できて、ほっとしています。
 <写真は、北京空港でみんなを見送ってくれている、中青旅のスーパー現地ガイドの劉さん(左)と王さん(右)>
 北京での詳しいことについては、明日以降に書いていきたいと思います。
 今日はさすがに疲れているので、すみません。

2010年9月28日火曜日

アイオワのモノポリー

今日は第2回研修旅行説明会であった。私は今日も司会である。例によって、日程の詳細や持ち物、機内の荷物についてなどの説明があった。
 ところで、私の学年のアメリカ研修旅行について、ちょっと書いておこうと思う。実はちょっとほろ苦い思い出がある。私のクラスは男子が6人いたのだが(非常に少数派である。)、その中の1人、K君としておこう。彼が、研修旅行前に「気胸」という病に侵され、入院してしまったのだった。私は、なんとしてでも連れて行きたかった。この時、私は担任だったが、日程やしおりなどほとんどを担当していた。アイオワでのホームスティの後、シカゴ観光の時間がある。数少ない男子に、シカゴの科学産業博物館の「Uボート」を見せたかったのである。昼食をレストランではなく、この博物館内で済ませることを提案していた。食事の時間を節約すれば、その他にも”人体の輪切り”や、B-727の内部や、アポロ8号も見れるし、空母から発艦し着艦するシュミレーターにも乗れる。さんざん男子諸君を煽っていたのだった。何度も見舞に行き、お父さん、お母さんとも相談した。旅行前に退院はできたのだが、「気圧の変化に対応できなかったら大変なので、みなさんに迷惑をかける。」とお父さんからキャンセルの連絡を受けたのだった。K君は、妙に真面目な男で、直前の結団式にも参加した。私は、それが辛かった。顔を見ていると涙が出た。U校へのお土産のために作ったオリジナルの日本手ぬぐいに、K君の名前を書き、クラス写真の時、男子がそれをかざして、共にいる気持ちで研修旅行を終えたのだった。

 ところで、旅行前、K君のお母さんから餞別をいただき、「なにかお土産を買ってきてやってください。」と言われた。もちろんクラスの全員が思い思いに買ってきたが、私が彼にその餞別を使って買ったのが、今日の画像の「アイオワのモノポリー/IOWAOPOLY」である。彼に、「卒業したら、男子と私で、研修旅行に行こう、そこでこれをやって遊ぶのだ。もちろん、全員大学に合格してなっ。」と言ったのだった。周りにいた男子も、「絶対、行こう!」と言ってくれたのだった。

 卒業式が終り、国公立の前期試験の結果が出て、さらに後期試験の結果も出た。K君は残念ながら浪人することになった。約束通り、みんなで旅行した。悲しいかな、岐阜の高山から富山へ行く1泊2日の温泉バスツアーの旅だった。(若者の卒業旅行らしき集団に1人おっさんが混じっている変な団体だった。笑。)ホテルで、夜遅くまで、このモノポリーをやった。当然、カードがみんな英語だった。生徒はすらすら読むが、私が引いたものは生徒に訳させた。(恥ずかしい。)さらにトランプの”大貧民”で盛り上がった。隣の部屋で寝ようとしていた2人の女子生徒(彼女たちは、”K君の研修旅行”というこの企画に賛同し参加してくれた稀有な存在であった。)に、「うるさい!」と怒鳴られたのを思い出す。

 蛇足だが、K君も含めた浪人組にこうハッパをかけた。「合格祝いをみんなでやろう。」長い1年だった。K君もなんとか地方の公立大学に合格が決まった。20人くらいの生徒が集まってくれて、某生徒の保護者が経営されている沖縄料理店でおおいに合格を祝った。(堅いかもしれないが、未成年なので、アルコール抜きだった。)この日、私の”4年間の担任”の日々が終わったのである。

 今年の研修旅行、私は、一人も欠けることなくアイオワの大自然と、U校生徒との温かい交流をしてくれることを望まずにはおれないのである。

2010年9月25日土曜日

尖閣諸島問題と中国私論

MW校訪問団帰国へ
5時前起きで、R・M先生を連れて、7時に学校に着いた。食堂には、すでに2組のホストファミリーが来られていた。9連泊もお世話いただいて頭が下がる思いである。電車で、車で、続々とホストファミリーが到着する。我々国際交流部だけでなく、教頭や来年7月に渡豪する1年英語科の担任のR先生やU先生もお見送りである。いつも通り、長堀通に待機していたバスに乗ってもらって別れである。今回は、中国修学旅行の仕事が主だったのでサポートに徹した訪問団だったが、それでも別れは寂しい。目を真っ赤にして別れを惜しむ姿に、いつもながら感動するのである。

尖閣諸島問題と中国私論
今回の尖閣諸島の問題について、私論を期しておきたい。私は一時、中国現代史にハマってかなりの量の関係書籍を読んだ。もちろん専門家ではないし、これまた現場の一教師の私論であることを念頭に読んでいただきたい。

昔々、初めて中国を訪れた時、上海のホテルの朝食は一応バイキング形式を取っていた。パン2種類と中華粥、ドリンクはコーヒーとオレンジジュース、殻つきのゆでたまご、そして果物は、土がついたミカンだけだった。妻は、「なんじゃこりゃ」と絶句した。しかし当時の私は、「中国は、ここまで発展したのか」と思ったのである。

1949年の中華人民共和国の成立以来、中国は「紅」と「専」、すなわち毛沢東主義的な農村社会主義路線と、劉少奇や鄧正平らの資本主義的修正路線の間で揺れ続けてきた。「紅」の大躍進政策では、膨大な餓死者を出した。鉄鋼生産を打ち出し、農民は鍬や鋤を土法で屑鉄に変えてしまった。彭徳懐の批判以来毛沢東は失脚し、劉少奇の「専」で中国経済は立ち直る。しかし、またまた文化大革命で「紅」化し、中国の経済発展は遅れる。(何年か前、中国から本校に教員の訪問団がやってきた。私と同世代の社会科教師は、代表団に選ばれるほどの優秀な人物らしいが、なんと一言も英語を解さなかった。聞くと文革世代であった。哀れである。)四人組の台頭、周総理の死、毛沢東の死…不死鳥の如く甦った鄧正平の力で、「専」の政策が復活し、以後、白い猫も黒い猫もネズミを取る良い猫として、怒涛の市場開放が始まったのである。

中国現代史が我々に語りかける事実、それはなにより、中国の人口の多さからくる政策の善し悪しが甚大な影響を及ぼすということである。大躍進や文革による死者の数は半端ではない。「一国家」というカテゴリーではくくれないほどの影響がある。だからこそ、中国の統治者は、政策をひとつ間違えると大変なのである。今や、これだけ資本主義化が進んだ故に、中国共産党は、イデオロギー集団ではなく、テクノクラート集団と化している。彼らは常に、13億の中国”人民”に、ある程度の”満足”を与えなければならない。そのため、中国には経済格差を是正しながら、常に高度経済成長をし続けなければならないのである。
中国に欧米的な意味での民主化を一気に図るというのは、あまりに危険な実験すぎるのではないか、と私は思っている。13億の”人民”を束ねるためには、強大な専制的権力がどうしても必要悪となる。自由をある程度制限せざるを得ない中国の事情がそこにある。もし、欧米的民主化が実現するとすれば、先進国並みに経済発展した上でのことであろう。

今回の尖閣諸島の問題は、毎日新聞の論説によると、中国の中南海の権力闘争であると言われている。温家宝首相らは、「紅」「専」の”ゆれ”による歴史を冷静に分析しているテクノクラートである。経済発展を支える海外の投資筋が最も恐れるのは、中国の”ゆれ”である。だからこそ、大国主義を抑えながら中国”世界”の舵を慎重にとってきたといえる。しかし、米国をはじめとする人民元切り上げ要求の高まりの中、保守派の厳しい突き上げを受けたのであろう。

今回の問題を、私は「紅」から変化した「中華ナショナリズム」が、「専」をゆらした結果のように感じる。不満を抱えた階層が、今回の事件をうまく利用し、現指導部を揺らしたわけで、表面上硬化し、強硬姿勢を貫いている温家宝首相も、長い目でみれば中国の国益を損なっていることは判っているはずで、決して満足しているとは思えない。”中南海”は、周恩来以来、ずっと孤独である。

追記:今日の毎日新聞の朝刊に、これら尖閣諸島の問題を受けての、本校の中国修学旅行への対応の記事が出ていた。教頭が取材を受けたと言われていたが、ホントに出ていた。(笑)

2010年9月24日金曜日

R・M先生、我が家に来たる

MW高校の滞在も残すところ今日1日となった。明日早朝に本校に集合し関空に向かうので、今晩はたった1日のことではあるが、R・M先生に我が家に泊まっていただくことになったのだ。妻がサラダやシチューやマッシュルームとアスパラガスのガーリックソテーなどを用意してくれた。さすがは”自称・料理人”である。(笑)食事中、面白い事に、R・M先生と彼女のハズバンドと、我が夫婦は同じ年齢であることがわかったのだった。オーストラリア英語とサバイバル・イングリッシュで、なんだかよくわからないが、会話は弾んだので、めでたし、めでたしである。<ちなみに今日の画像は、本校の屋上を散策する訪問初日のMW校生の姿である。珍しい写真なので国際交流部の画像から拝借した。>

 さて、今日は第2回中国修学旅行説明会であった。日中関係が全面対決状態の中での説明会はきついのである。なんとか、保護者の不安を払拭しなければならない。授業が終わって、インターネットを見ていたら、なんと那覇の裁判所が中国人船長を釈放するという速報が入っていた。その是非はともかく、修学旅行説明会の司会者にとっては、極めてグッド・タイミングであった。校長・教頭に伝え、開会の辞はこのニュースの紹介から始めた。保護者の不安は、ほぼふっとんだようである。会場に和んだ空気が流れた。後は、イケイケである。結局和んだまま1時間で終了した。めでたし、めでたしである。

 今回のこの中国問題については、明日書こうかなと思う。では、明日朝早いので…。

2010年9月22日水曜日

MW校との日本文化交流

文化祭後の日・月を、ホストファミリーとすごしたMW校生は、代休の昨日、ホストやその友人とUSJへ。ずいぶん楽しい3連休だったようだ。今日は、1時間目各ホストの授業に参加し、その後、豪州組だけで海遊館へ行ってきた。そして放課後は、筝曲部と茶道部で日本文化体験である。
 私も国際交流のはしくれとして、このクラブ体験に付き合った。左の画像は、人数が多いので社会科教室で行われた筝曲部での交流風景である。筝曲部も慣れたもので、”さくらさくら”を演奏した後で、MW校生にも主旋律を教え込む。英語と日本語と身振り手振りである。最後はMW校生の合奏。これがうまくいくのが凄い。若さだなあと思う。英語の専門家が誰もいなかったので、私のサバイバルイングリッシュが炸裂したのであった。茶道部でも、全員に茶がふるまわれた後、茶器や床の間などの日本文化について説明し、さらに、いろいろと対話した。なかなか濃密な時間であった。

 さて、国際交流部で私は中国修学旅行の担当である。ご存じの通り、尖閣諸島をめぐって日中間が急に険悪になってきた。生徒の不安もこの三連休で増幅されているようで、国語科長のK老師も非常に心配されている。当然ながら、この三連休明けの今日、様々な対策を考えて出勤した。H旅行社に連絡をとったら、さっそく現地のレポートをFAXしてくれた。実際修学旅行中の学校もあり、何の問題もないようである。6限目のLHRで、諸注意を兼ねて生徒の不安を取り除いておいた。
 私曰く…「TVで出てきた上半身裸の五星紅旗の刺青をしたおっさんが、北京中にいるわけではない。あんなんが1万人も出てきたら…こわいやんけ!1人しかおらん。」2年生の国語科は大爆笑した。「現地の報告もちゃんと入っている。安心しいやあ。」ちゃんと「ハイ!」という返事が返ってきた。

 明後日は、第二回修学旅行説明会である。保護者を迎え、毅然とした姿勢で臨むことが何より肝心である。<今日の画像で、背面に日章旗が描かれているのは、MW校生のツアー用ポロシャツである。旗の周りに参加者の名前が書かれている。>

2010年9月17日金曜日

MW訪問団歓迎式と光の庭

 今日は、MW校の歓迎式典が、文化祭のオープニングに先駆けて行われる。と、いうわけで私はいつものパブでのモーニングをカットして学校に急いだのである。7:30ちょっと前に着いた。ありがたいことに、K老師や仲の良いY先生、そして勤務時間の変更申請までして管理作業員さんも手伝っていただき、準備を行った。スタンバイ完了後、集合場所に行くとホスト生徒とMW生がミーティング中である。彼らを講堂(体育館)に連れて行き、記念撮影、それから舞台上に着席してもらい約20分の予定というタイトさで式典である。<今日の画像はMW校生によるコーラス。ピアノ伴奏をしながらオーストラリアのポップを披露中。>

 この写真をよく見ると、マイクの位置が低いのがわかる。実は、これには理由がある。式典の最初に、学校長のスピーチがあり、次にMW校のM先生のスピーチである、ずいぶんと身長差がある。そこで、私がマイクを伸ばしにいったのだが、3年の国語科にバカ受けしてしまった。名前をコールし、拍手までする始末。(本音はちょっと嬉しかったが、TPOが悪すぎるのである。)そこで、私が前に出ることをやめ、文化祭実行委員会の生徒に行かせたのだが…。結局うまく調節できぬままになってしまった。ま、いいか。と笑って済ませたのであった。

 本校の文化祭初日は、講堂でのオープニングで盛り上がり、扇形の校舎の吹き抜け空間、”光の庭”で行われる有志参加主体のダンスや軽音などで毎年盛り上がる。いつもは、私は舞台の主坦なので見に行けないのだが、今年は昨日のブログで書いたように、転勤してきたK先生が見事に運営していただいている。K先生に甘えて、ちょこちょこと光の庭を見に行った。今年は、かなり高度なステージだった。
 ダンスは、昔は、好きな曲に合わせてジャズダンス踊ってます!といった直球勝負だったが、ダンスが”舞踊”に進化していた。体育のダンスの授業の成果なのか、それともボックスくらししか踊れない私の世代とは違うニュータイプだからか。
 軽音も、私の教えている国語科3年の演奏などは、私の中の高校生のレベルを遥かに超えていた。インストメンタルだけで聞かせることができる。これは凄い。(後で歌のある曲だと言うことがわかった。但し英語らしい。だから歌わなかったらしい。ははは。)
 笑いをとるパフォーマンスも、見事に進化していたのにはさらに驚いた。これは、明らかに”芸術的パフォーマンス”というのがあった。3年の英語科の男子の演技である。30秒ほどの様々な音楽に合わせ、奇抜な恰好をした数人が武器を持ちながら踊り、いちいちミエをきる。それが何曲も続くのだが飽きさせない。もし、元ネタがないとすれば、「こいつらオフ=ブロードウェイで通用するかもしれない。」と思った次第。(これは、ブルーマンやストンプのような凄いパフォーマンスしか認めない、辛~い私としては、最大級の誉め言葉である。)彼らのうち半数は、私の倫理補習の弟子であり、国公立志望である。横で見ていたK老師が、「あいつら、勉強せんとあんなことやっとったんか。」という言葉に笑えた。阪大志望の者もいる。大丈夫かあ?

 ところが、これまでの先輩は、文化祭を終えて、スイッチを切り替え勝利してきた者が多い。遊ぶ時は一生懸命遊び、勉強すると決めたら死に物狂い。これが本校の良き伝統でもある。今年もその伝統を、ニュータイプ・3年生に期待したい。 

2010年9月16日木曜日

オーストラリア姉妹校来たる

今日から文化祭準備である。午前中授業のあと大掃除、体育館(講堂)の設営などなど。私はだいたいが講堂演技の専門なので、くそ暑い体育館で、舞台周りの世話をやくのが仕事である。今年転勤してこられたK先生は、前任校でもイベント経験が豊富らしく、実行委員を見事に率いていただいている。見ていてなかなか小気味いい。今年の文化祭は、K先生が主坦なので、好々爺に徹する予定だ。なにより、今日から、オーストラリアのMW校がやってくるのである。夕方5時過ぎ、彼らはついにやってきた。<画像参照>

 こちらの方も、主坦ではないが、保管していたスーツケースを出したり、明日の歓迎式典の万全な準備をしたりと、陰に徹していこうと思っている。実は、陰に徹する仕事との方が難しいと常々私は考えている。「俺が、俺が」と前に出る方が目立つかもしれないが、それは美しくない。(特に自分の為というのが見え見えの輩もいる。これは醜い。)見えないところで努力し、配慮し、成果は主坦に引き受けてもらう。こういう仕事が私は好きである。もちろん、前面に立って仕切ることもあるが、私は実は陰で仕事する方が好きでなのである。

 さて、さっそくサバイバル・イングリッシュ炸裂である。英語の先生の前だろうと何だろうと、団長のM先生やR・M先生に、「校長室で打ち合わせをしまっせ。」などと、言って彼らのスーツケースを運んでいる私がいる。明日の歓迎式典の打ち合わせでも、ついルール(文法)無用の英語を使う。自分でもおかしい。(笑)あまり美しいとは思えないが、まあ、これはこれでいいのかもしれない。