2024年2月28日水曜日

高校教育現場の社会学2

https://ameblo.jp/fuuboku-kamakura/entry-12316957928.html
高校教育現場の社会学・続編である。先日、管理職(校長・教頭)は、教務に詳しくないと学校運営上、大変であると書いた。教務と言っても一般の方には、内容かわからないと思うので、私の経験した限りにおいて説明しておきたい。学校経営の基軸的な部分なので、教育現場の社会学というタイトルとの矛盾はないと思う。

教務の仕事はいろいろある。文科省の学習指導要領の規定に添いながら、カリキュラム、時間割、日程、成績、出欠、指導要録、そして入試などの仕事を司る。カリキュラムは、各学年でどのような教科・科目を履修するかという話である。ある意味で、その学校の特色と言うか、カラーが明確に出る。私は、様々な学科を見てきた。商業科、工業科、英語科、国語科、普通科、体育科、武道科という多彩さである。

商業科のメインは、簿記や珠算で、当時は英文タイプや和文タイプなどという科目あったし、商法や税務会計などという法律系の科目やパソコンのない時代ながら情報処理もあり、商業実践という実習もあった。当時大阪市立の商業高校は数校あったが、時代の変化とともに、どんどん統廃合や特色化がなされていった。工業科は、機械科や電気科を中心に、建築科、土木科、工業化学科などがあるのだが、理論(物理に近い科目が多い)と実習に分れていた。私は、機械化の担任を2回6年間したので、機械科の実習については少し詳しい。工場で旋盤や特機(ドリルなど)を扱ったり、鋳造や鍛造をやったり、溶接をやったり、さらに製図も必須だった。今ならコンピュータでCADなのだろうが、当時は手書きだった。提出期限が迫り、クラスの殆どの生徒が居残りで製図していたのを激励に行ったこともある。英語科は、文法や読解力を高めるとともに、3年生の段階で英語でのディベートができるようなカリキュラムが組まれていた。ALTも常時4人いて、ゼミ室で会話のスキルを磨いていた。(生徒の英語力については大したもので、現在で言えば共通テストで何人満点が取れるかが話題だった。)国語科も面白いカリキュラムで、どちらかといえば、古典に重点が置かれていた。体育科も、理論と実技に分かれていた。当然ながら体育科の生徒は自分の部活が中心だが、それ以外の競技力も磨くように実技が組まれていた。武道科も同様で、武道論などという極めて特殊な科目もあった。普通科は、だいたい2年時から文系と理系に分かれ、さらに進学校ではなかったので、膨大な選択科目を履修することができた。

時間割を組む作業も何度かしてきた。昔は、時間割を組むのに、コマ(科目名とが書かれた直方体の木:教科で色分けする。カリキュラムの改編などがあると色を塗り直し、書き換えるので大変)をはめ込む板(縦軸に教員名が並び、横軸は一週間の時限となっている。画像参照)があって、埋めていく。まず、各先生方から出された公務(ある曜日の午後から出張が多いとか、非常勤の先生の来れない日とか)に関する授業が不可能なところに無駄コマ(生木で無色のもの)を入れてから、体育や家庭科の食物実習・被覆実習や理科の実験室を使用する授業を先に入れて行く。運動場や体育館、実習教室の使用クラス数制限があるからで、商業科や工業科の実習科目も同様。これらは基本、コマを埋めたら変更なしでいくのが基本。来られる曜日の指定がある非常勤の先生がいる場合、この次に埋めていく。私事(子供や介護のことで朝1現目を開けてほしいとか)は、可能なら対応するが、なかなか難しい。国語、数学、理科(実習以外)、そして私の社会など教室で講義する教科は比較的自由に動かせるので、その後になる。同じ日に同じ科目が重ならないのは当然、先生方によって、3連発の授業でもいいという人もいれば、2連続までにしてほしい人もいるし、できるだけバランスを取りながらコマを埋めていくわけだ。後になればなるほど、コマを埋めるのに時間がかかる。詰将棋のような感覚である。日々の時間割を変更する場合も、この大時間割を眺めて可能な移動を推し量るのである。現在は当然ながら、コンピュータのソフトで行うが、最後の調整は人力になると思う。1年間の日程も組まねばならないし、指導要録の点検やら新クラスの生徒名列も作成しなければならないし、教務は入試から春休みが一番忙しい。

最後に、成績と出席の件。成績の出し方(平常点の割合や欠点のライン=点数と出席日数など)や出欠の扱い(遅刻をどう見るかが大きなポイントになる。3回で1回欠席とする学校もあったし、各校色々である。)高校は、義務教育ではないので、原級留置(=留年)がある。よって、特に出席日数は厳密に見なければならないし、1教科でも欠点があればダメなのか、科目数と単位数でルールが定められているのか、1学年ごとで見るのか、累積し卒業時の3年間トータルで判断するのか、これもまちまちである。こういう細かなルールを管理運営するのも教務の役目であるし、入試も教務が中心になる学校が多かった。

教務の仕事は、完璧にこなし100点満点であることが求められる。コンピュータの進歩とともに、情報処理的な能力が問われることも多くなった。実は、生徒諸君の目にはあまり映らないが、責任重大で、大変な校務分掌なのである。

2024年2月27日火曜日

宮沢賢治 どんぐりと山猫

三田市立図書館で、宮沢賢治の文庫本を3冊借りてきた。前述(2月16日付ブログ参照)の梅原猛の「地獄の思想」にあった宮沢賢治における法華思想の影響を確認するためである。3冊のうちたまたま手に取った「注文の多い料理店」の最初の童話、「どんぐりと山猫」について今日は考察してみたいと思う。

内容を非童話的に概説すると、一郎という子供のところにハガキが届くところから始まる。山猫からで、面倒な裁判をするので来てほしい、というものだった。その面倒な裁判とは、どんぐりたちの”一番偉い”形態を決めるということであった。頭の尖っているもの、丸いもの、大きいもの、背の高いものなどが、それぞれ自分が一番偉いのだと主張する。今日で3日目、このままでは埒が明かない。山猫は一郎に相談する。一郎は、お説教で聞いた「一番馬鹿で、メチャクチャで、まるでなってないものが偉い」としてはどうかと答える。これには騒がしかったどんぐりたちも静まり返った…。

考察その1 このどんぐり達の自分が一番偉いと主張する姿は、修羅の世界の様相である。修羅の相は、他者より優位にありたいという煩悩で、宮沢賢治にとっては、忌むべき現実世界そのままの実相である。

考察その2 どんぐりたちを黙らせた一郎の説は、法華経に出てくる須梨槃特(=周利槃特)のことだとすぐわかった。愚鈍だった彼は、優秀な兄と違い、教えの句のひとつも覚えられなかったが、釈迦の指示により掃除三昧を20年間続け、阿羅漢の悟り(上座部での最高の悟り)を得た。

…このように、「どんぐりと山猫」は、おそらく一郎が”お説教”で聞いた須梨槃特の話が元になっていると推察できるわけだ。

ちなみに、法華経以前の経典では、成仏できないといわれていた二乗(声聞・縁覚=舎利弗や阿難といった優秀な釈迦の高弟)と呼ばれる頭の良い者より、須梨槃特のように愚鈍でも素直に精進する者を称えていた。しかし、法華経では、二乗作仏が説かれ、女人成仏も説かれている。

2024年2月26日月曜日

高校教育現場の社会学1

これまで、様々な高校の現場を見てきた。ふと、教育現場の社会学という視点で何か書いてみたいと思った。まずは、教材研究系教師と部活優先系教師という分類。

昔々、新任の年に状況報告のために母校を訪ねた時、採用に当たって非常にお世話になったN先生から、「教師は授業が命だ。」と言われた。当時進路指導部長だったN先生は、大阪市立の高校の社会科部会の部会長をされていたことを後から知った。市教委のアメリカ視察を終え、社会科部会で発表をさせられた後、反省会で部会長OBの某教頭から、「N先生の教え子の君は、この社会科部会でその恩を果たさねければならない。」と言われ、妙に納得したことがある。以来、国際理解教育学会で発表した内容(アフリカ開発経済学やワークショップ)を中心に何度も発表させていただいた。一方、私は子供の頃から運動が得意ではなかった。部活は新任の時を除いて、第二・第三顧問であることが多く、美術部の主顧問もした経験があるが、非常勤の美術の先生が指導をしてくれていたので、展覧会の設営くらいが中心。だから、ほぼ完全な教材研究系の教師である。とはいえ、担任の時はできるだけ多くの部活の試合を見にいった。サッカーやラグビー、バスケットは試合時間が決まっているのでいいが、野球やテニス、バレーボールなどは長くなることもあるので顧問の先生は大変だなあと思った。柔道や剣道も見に行ったことがある。オール大阪でいっぺんにやるので、これも長くなる。陸上も種目が多いし1日仕事だった。だから部活に全く無関心ではない。(笑)

部活優先系の先生は、やはり体育や芸術系の先生が多いのだが、普通科の先生方もたくさん見てきた。御本人の熱意次第だが、かなりブラックな勤務状態になっている。部活の指導を教師の仕事から外す取り組みも検討されているが、部活指導がしたくて教員を志望する学生が多いのも事実である。それまで取り組んできた専門の部活の顧問ができればいいのだが、なかなかうまくいかないことも多い。専門の部活がなかったり、先任者がいたり、運に左右されることが多い。だが、生徒ともに泣き笑いできるのが魅力。私もできれば、そういう部活の時間を持てばよかったと思うこともしばしばである。ただ私の場合は、部活ではないが、リーダースキャンプや文化祭などの行事で同様の経験をしてきた。生活指導部内の特別活動というカテゴリーになる。かなりレアなスタンスである。ところで、部活優先系の先生が陥りやすい罠がある。特に優秀な成績をを目指し真剣に取り組む部活の場合、専制的になりやすいのである。レギュラーの指名=生徒の生殺与奪を握る事になるので、そもそも運動系部活未経験者の私などは、ついつい危険だなと思うこともある。これが私の邪推であることを祈るのみである。

教材研究系教師と部活優先系教師、どちらがいいのか、などという議論はナンセンスであるし、両立するのは、なかなか大変である。しかも経験を積んで校務分掌の責任者になったりすると、校務分掌優先系教師となる場合もある。教務や生活指導、進路指導など、かなりの重責ゆえに、そちらに最も比重が置かれる場合も多い。仕切るのが好きという人がいるのだ。ちなみに、管理職(校長や教頭)になる人には、教務部長か生活指導部長の経験者が多い。中でも教務の仕事内容がわからないと管理職は難しい、と私は思う。ちなみに両方詳しいのが理想だが、そういう人はなかなか貴重な存在である。

と、つらつら書いてみた。公立では、これらの系統に当てはまらないデモシカ系教師もいる。それはそれで、メタに視た場合、必要な気もするのだった。(笑)

2024年2月25日日曜日

平和村職員の平和村総論

https://www.felissimo.co.jp/company/contents/sustainability/medicalactivity/2022-peace/
「平和村で働いたードイツで出会った世界の子供たち」の最後にある第5章には、現在職員として働く中岡麻記さんの総論的な平和村の紹介がされている。これまで記した内容とかぶらない内容をエントリーしておきたい。

平和村の歴史は、1967年、第三次中東戦争をきっかけに、紛争で傷ついた子供を助けるというオーバーハウゼン市民のアイデアで設立された。第三次中東戦争は別名のように6日間で終結したので、ベトナムの子供を受け入れることにした。ナパーム弾の被害を受けた子供や当時ベトナムでは治療の手立てがなかったポリオの子供たちがドイツにやってきた。5年後には約130人のベトナムの子供が平和村で生活していた。一方で、母国ベトナムでも治療が受けれるようにと、病院やリハビリセンター建設の計画も立ち上がり、平和村の現地プロジェクトも始まった。1975年、ベトナム戦争終結で、南ベトナムから来た子供たちが帰国できなくなり、平和村内でも激しい論争があったようだが、結局100人ほどの子供がドイツに残り、学校や職業訓練を支援することが主な活動となった時期もあった。この反省から、治療が終われば必ず帰国させることがルールとして確立した。これによって親も信頼を寄せてくれるからである。ベトナムに建設したリハビリセンターは1990年代に入って再開し、11か所に。ベトナム各地に100か所以上の診療所を建設、カンボジアでも39か所の診療所ができ、検診や予防接種、簡単な手術まで行えるようになった。ウズベキスタンでは手術の技術向上が行われ今では心臓手術までできるようになった。その国人たちが自分でできる内容を中心に平和村スタッフが協力し、さらに医療器具や薬を届けるといった、プロジェクトが進行している。

(この本が発行された2021年9月)現在、アフガニスタン、アンゴラ、ウズベキスタン、タジキスタン、キルギス、ガンビア、カンボジアの2歳から12歳の子供たちが平和村に来ている。現地で、医師などのスタッフが家族と面会してドイツで治療する必要(=母国では必要な治療ができない)があるか判断し、チャーター機で連れてくる。ヨーロッパでの治療でも治る見込みがない場合は連れてこない。貧困家庭が優先される。援助飛行は年4回。骨髄炎の子供が多い。これらの国では医療が不足し、栄養不足(=抵抗力の低下)と重なって悪化するケースが多く、また中央アジアではやけどの子供も多い。ドイツ国内には、無料で治療してくれる協力病院が100以上あり、それぞれの方法で目がくらむような高額の治療費を負担してくれている。

子供たちは、様々な国の子供とと二段ベッド2台の4人部屋で共同生活をし、キッチンスタッフが考えた栄養のある3度の食事とおやつは全員でいただく。ミートソースのスパゲティが一番の人気メニュー。

治療のアフターケアは特に重要で、包帯の交換や腕や足の固定具の消毒などを、大きな子供には母国に帰ってから自分でできるように指導する。また平和村には「学びの場」という小学校の教室のような建物があり、グループごとに、算数や地理、お絵描きや工作、パズルなどをする。母国語を話すボランティアが訪問した時は、母国語の勉強もする。ピアノもあり歌の練習もするし、調理室では母国の料理を披露することも。幼稚園ぐらいの子供がのびのびと遊べる部屋や、イチゴやハーブを収穫できる畑もある。カードゲームでは、UNOが人気で、女の子は互いに髪を結ったりする。帰国が近づくと、パーティーが開かれる。子供たちがグループに分かれて出し物(小さな女の子の靴下を人形に模した人形劇や、大きな子たちの母国を思わせるダンスなど)を披露、この日は、特別?にピザやハンバーガーが出て、子供たちは大喜びするそうだ。

アンゴラで母親と再会する子供たち
https://www.felissimo.co.jp
/company/contents/sustainability/
medicalactivity/2022-peace/
帰国時は「ナーハ、ハウゼ(家に帰る)」「チュース(バイバイ)」とにぎやかに挨拶が交わされ、市が無料で提供してくれるバス、運転手も休暇とってボランティアで空港まで運んでくれる。同乗するスタッフは、現地での子供と家族の再開する瞬間が一番嬉しいと言い、この活動を続ける理由にもなっている。

平和村には「出会いの場」が作られており、世界中から学生や社会人のおよそ100のグループがやってくる。平和村を知ってもらい、平和とはなにかを肌で考えてもらうためである。

ちなみにここでは中岡さんの平和村との関わりは全く書かれていないのだが、WEB記事によると、2000年の世界ウルルン滞在記の第3回取材時に、たまたまボランティアとして関わっていた中岡さんは、その後日本からの問い合わせが殺到した故に日本との対応に特化した部署が新設されて職員になったそうだ。彼女もウルルン滞在記で人生が変わった一人だった。

…私の友人や教え子の中に、国際協力士と呼べる人達がいる。語学も重要だし、専門的な技能・知識も重要である。どちらから入るのもOK。その両方ともダメな私は、このような事実を伝えることしかできない。だが、私の授業をきっかけに国際協力の世界に興味を持ってくれる生徒を少しでも育てたいと、今も思う。

2024年2月24日土曜日

戦場ジャーナリストと平和村

https://www.cataloghouse.co.jp/yomimono/heiwamura/2014au.html
西谷文和氏は、市役所の公務員の職を捨て、戦場ジャーナリストとなった人である。小学校の教科書にも載ったアフガニスタンの難民キャンプの悲惨な生活を取材した時、タリバン兵が潜んでいた故にアメリカ軍に村が空爆され、集落ごと殲滅し、その時娘が死んだことを聞かされる。このような無差別攻撃を受けた側はタリバンに入隊し、さらに報復テロを行い、それに対する報復無差別爆撃という負の連鎖が繰り返されていくことに彼は悲憤する。

カンダハル空港から市内へ向かう国道は、「仕掛け爆弾通り」と呼ばれ、アメリカとカナダの多国籍軍の車両を狙って、タリバンが爆弾や地雷を仕掛けており、カナダの装甲車を追い抜こうとしたら、緑色の閃光弾が打たれた。通訳によると、それでも追い越そうとしたら、赤色のレーザー光線、さらに実弾が撃ち込まれるという。彼らも多国籍軍の兵士も非常に怯えているのである。市内の病院には、巨大な冷凍庫があり、遺体が入れられていた。あまりに危険なので、家族が引き取りに来れないのだという。全身が大火傷になった遊牧民の女の子がいた。不審なテントだと空爆され、その後地上軍が確認しに来た。ただの遊牧民だったことを知ったアメリカ兵は、少しだけ良心の呵責を覚えたようで、救難ヘリを呼び、「お見舞いだ」と500アフガニー札(1000円程度)を渡したという。彼女の母親や兄弟は死んでしまったというのに…。

カブールの小児科専門病院では全身火傷の赤ちゃんが所狭しとベッドに横たわっていた。貧困から地面に穴を掘って煮炊きをしている家が多い。冬は-20℃にもなり、赤ちゃんが暖を求めて穴に落ちるらしい。さらに衝撃的なのは、おしりに頭と同じくらいの腫瘍ができている生後4日の赤ちゃんである。テラトーマという奇形の腫瘍である。医師は、「劣化ウラン弾のせいだ、きっと。」と吐き捨てるように言った。背中に腫瘍がある子、生まれつき内蔵が飛び出している子、肛門がなく腸を外に出している子、頭が膨れ上がった水頭症の子。これらの原因は調査することを禁じられており、クラスター爆弾などとともに「きたない爆弾」の真実は隠されたままになっている。

「この子達を、平和村に連れて行ってくれないか。この病院では救うことができない。以前ここの子供の患者を何人か行かせたことがる。日本の伝手でなんとか推薦してくれ。」と若い医師に言われ、初めて西谷氏は平和村の存在を知ることになる。2年後、平和村を応援しているカタログハウス社から、アフガニスタンへの援助飛行するので取材してほしいというメールが届いた。その時に、赤新月社でインタヴューした少年から、衝撃的な話を聞く。「通学路にペンのようなものが落ちていて拾った。ペン先が開かないので口に加えて引っぱった閃光が走り、気がつけば病院のベッドにいた。」口に大きな穴が空き、右手の指は吹き飛んだ。これは、WWⅡ中にイギリスが開発した鉛筆型の起爆装置。タリバンがこんなものを作れるはずもなく、きっとアメリカ軍がばらまいたものと思われる。この残酷な爆弾は自爆テロを仕掛けてくる少年兵を狙ったものではないかと、西谷氏は推測する。

数日後、ドイツからアフガニスタンに帰国してきた援助飛行の取材も行った。「歩いてる。」「顔が戻っているよ。」「くっついてた指が開いてる。」みんな目を真っ赤して泣き笑い。こちらでは喜びを表現するのにお札をまいていた。

その後、アフガニスタンから援助飛行で平和村に着いた西谷氏が目にしたのは、ペン型の爆弾を拾って大怪我をした少年(画像参照)だった。2本の指で器用にフォークを使い、大きな口を開けて食事をしている。手術を3回したそうだ。西田氏が出会い報告してくれている子供の数も多い。全ては紹介できないのが残念だが、彼はこう結んでいる。「ドイツ国際平和村は、”本当の平和の作り方”を教えてくれています。」と。

2024年2月23日金曜日

平和村の看護師・作業療法士

https://wdrac.org/news/activities20220729/
「平和村で働いたードイツで出会った世界の子供たち」に執筆しているボランティアの三人のうち、学生から応募した川村さんは、子供たちを起こし着替えをさせたり、食事をさせたり、午後からは風呂に入れ、寝かせるなどの、子供たちの生活全般担当。もちろん遊び相手にもなる。こう書いてしまうと簡単そうだが、子供帯は元気で実に大変な重労働である。4ヶ月という短いボランティア生活であったが、子供たちにとって大切なアニキであったようだ。

看護師の溝渕さんは、処置やリハビリが必要な子供の治療棟の間の送り迎え、ガーゼの交換などが主の仕事とあったが、これも子供たちが元気なので大変な重労働。最初の頃はベッドにバタンキューの日々だったそうだ。初めての援助飛行(子供たちの母国とドイツ・デュッセルドルフ空港を結ぶチャーター機)は、アンゴラからも子供たちの出迎えで、貸切バスで向かったそうだ。そこには救急車や救急隊員がすでに待機していて、機内から救急隊員が子供たちを降ろしていく。すぐに治療が必要な子供たちは救急車で病院に直行する。この時のアンゴラからの援助飛行は70名。大声で叫ぶ4歳位の男の子や、全く表情がない4歳位の女の子がいて、彼らの不安と緊張に思いを馳せていたそうだ。その女の子の横には、足の悪い中学生くらいの男の子が座っていて、彼女が椅子から落ちないように支えながら、彼女に話しかけたり、溝渕さんにポルトガル語で話しかけてきたそうだ。彼女のことを伝えようとしたらしい。平和村では年長の子供が、小さい子供の世話をよく焼いていくれる。平和村につくと、医師や看護師が1人ひとりの健康状態をチェックする。その後1~2週間は前からいる子供とは別の部屋で、感染症の有無を見るそうだ。アフガニスタンやウズベキスタンの子供たちとの貴重で胸が熱くなる体験が書かれていることも付記しておきたい。

作業療法士の勝田さんは、平和村唯一のリハビリ専門スタッフであった。当時の平和村ではリハビリの大事さがあまり理解されていない状態で、200人の子供のほとんどがリハビリが必要で、1年間ほどは特に神経をすり減らす毎日だったという。その後、子供たちとの信頼関係を築けるようになり、子供たちもリハビリの必要性を理解し始め、「リハビリをして歩けるようになった。」「リハビリをして遊べるようになった。」「サッカーをしたければ茜(=勝田さん)と一緒にリハビリをしなきゃ。」と言ってくれるようになった。足を骨折し骨髄炎で、結局切断したアンゴラの少年との関わりを中心に語られているが、リハビリは、一人ひとりの状況に合わせてやっていかねばならないことを学んだという。義足であることを知られたくないという少年の気持ちを重んじ、他の子供達を入れず1人でリハビリを続けた。特別扱いをしないという平和村のルールに対して、リハビリは各人が特別である、平等にはできないと主張したそうだ。そんなハードな4年間を終え、今は日本で、作業療法士の育成に励んでいる。

…あまり深い体験談には立ち入らず、冷静に内容を紹介してみた。是非多くの方に読んでいただきたい本である。

2024年2月22日木曜日

ドイツ語というハードル

https://gardenjournalism.com/report/aport-mirainoinochi/
「平和村で働いたードイツで出会った世界の子供たち」に執筆している3人のボランティアさんが、平和村に行くにあたって、最も高いハードルとなったのは、ドイツ語である。スタッフは当然、アンゴラやアフガニスタンから来た子供たちも平和村での共通語はドイツ語である。子供たちは自然と身につけていくらしい。日常会話程度のドイツ語習得にあたっては、三人三様ながら、苦労されている。

看護師の溝渕さんは、障害者施設で昔ドイツに滞在していた脳性麻痺の患者さんとの対話でドイツに興味を持ち、ウルルン滞在記を見てさらにその想いは深まったが、看護師と保健師の資格を取ったりして多忙な時期をすごしていたため平和村のことは忘れていたそうだ。勤めていた病院のある患者さんに、心の深層を見抜かれた上、背中を押され決心したそうだ。平和村との出会いから8年後のこと。とりあえず、ドイツに渡りドイツ語の勉強に励んだが、留学ビザが切れ帰国。日本のドイツ語教室に学びながら、そこで知った平和村の応募で採用された。それが15年後のことだという。

ウルルン滞在記経由でない少数派の、学生だった川村さんはネットで平和村を知った。ドイツ語専攻だった彼は、メールで採用されたものの、電話での会話でつまずく。もう一度、一からドイツ語を猛勉強したそうだ。

作業療法士の勝田さんは、高三の時ウルルン滞在記を見た。衝撃を受けたが、大学に進み作業療法士の資格を取り、さらに大学院でアスリートのリハビリを研究していた。たまたまた何度目かのウルルン滞在記を見て、平和村でリハビリをしてみたいと思ったそうだ。ワーキングホリデーで、平和村に近い町にあるドイツ語学校を選び、ホームステイしながら、週一で平和村のホランティアをしたという。帰国して3か月後、やっとリハビリの職員募集があり、採用されたとのこと。

…私は語学がそもそも苦手である。大学の第二外国語は一応ドイツ語だが、最初の定冠詞で躓いた。男性名詞、中性名詞、女性名詞にそれぞれ格があり、der das dem dieなどと覚えるのが、極めて苦痛だった。ドイツ語をやってわかったことは、まだ英語のほうがはるかに単純明解だということだけだ。今更ながら、よく単位が取れたものだと思う。(笑)

2024年2月21日水曜日

ドイツ国際平和村の本を読む

先日、ワンフェスで購入したドイツ国際平和村のボランティア体験記を通勤時に読んだ。熱くこみ上げるものがあって、あまり通勤時には向かない本ではある。(笑) 

ドイツ国際平和村は、世界ウルルン滞在記というTV番組で、東ちづるさんが何度も訪れて紹介し、有名になった。私も深く感動したし、工業高校時代には番組のビデオを生徒たちに見せていた。

ドイツという国は、WWⅡでナチスの蛮行を許したことに深く反省し、『貢献』を国是にしている。ドイツの大統領(行政権はない)は、イスラエルのホロコーストの追悼式に出席するのが大きな仕事になっている。この平和村も、その国是の延長線上にあるのは間違いない。デュッセルドルフの近郊にあるのだが、アンゴラやアフガニスタンなどの内戦や地雷の犠牲になった子供たちを手術し治療するのはドイツ国内(たとえばベルリンなど)の様々な地域の病院である。

今回手にした本は、「平和村で働いたードイツで出会った世界の子供たち」という、3人のボランティアとアフガニスタンを中心に活躍するジャーナリストの体験記、そして現在職員として働く方の詳細な紹介で構成されている。内容は実にうまく構成されている。と、いうのも3人のボランティアさんは、それぞれ志望して来る前は、看護士、大学でドイツ語を専攻していた学生、作業療法士とそれぞれ立場が異なるので、違う角度から平和村の活動を知ることができるのである。以後何回かにわけてエントリーしていこうと思っている。

2024年2月20日火曜日

市民税と電子レンジ

確定申告の季節である。枚方市の広報で、市民税の何某相談窓口が開設されているとことで、妻と行ってきた。結局、その後税務署に行かねばならないとのことで、何のことやったのやら。(笑)比較的早く済んだので、1号線沿いのニトリモールまで行くことになった。一昨日だったか、我が家の電子レンジの扉が開けれなくなったのである。中には生姜焼き用の豚肉が鎮座したまま、この長く活躍してくれたレンジは御臨終となった。洗濯機と言いレンジといい、電化製品は諸行無常である。

と、いうわけで新しいレンジを購入することになった。妻が決めたのは、これまでもそうだったが、オーブンの機能がついたもので、しかもこれまでより広めのもの。妻は料理にはこだわりがあるし、パンも焼いたりするので、いろいろと見た結果、シャープの製品にした。私は、ただただ成り行きを見ていただけである。(笑)帰宅後、設置してみたら、なかなかゴージャスな感じがした。

2024年2月19日月曜日

サクラサク 伝統の力

https://twitter.com/KwanseiGakuin/status/857100745983877120
関西の私大一般入試の発表が相次ぎ、学園の教え子たちもも順調のようだ。ところで、学園には兄弟で来ている生徒も多い。男3人兄弟で、兄二人はKG大という生徒がいて、すごいプレッシャーの中、合格したそうだ。いやあ、嬉しい。部活ばかりやっていて、私の授業ではイジられ役を努めてくれていた生徒でもある。部活引退後は、人が変わったように猛勉強しての合格。学園のもつ見えない伝統の力のような気がする。

2024年2月18日日曜日

公害道路 第ニ京阪

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC%E4%BA%
8C%E4%BA%AC%E9%98%AA%E9%81%93%E8%B7%A
F
我が家のすぐ近くに第ニ京阪道路が走っている。正直なところ、公害道路である。具体的には日中・夜間を問わず、改造しただろう大音量のバイクや、ひっきりなしにパトカーのサイレンが鳴り響く。今は冬なので少ないが、暖かくなると暴走族が一晩に何度も爆音を響かせる。

メリットもないわけではない。愛媛から帰ってくるときは、松山道あたりから、家のすぐ近くまで、ひたすら高速道路で、膨大な距離であるにも関わらず運転は楽であった。京都駅に行くにも高速を使えば15分足らずで行くことも可能。関空へのバスも松井山手に停留所があるのは、第ニ京阪があればこそなのだが…。

高速道路の側道(一般道路)も京田辺方面にいくのには便利であるが、暴走族はここをルートにしている。住宅地に騒音対策の壁が設置されているのだが、かなり漏れる。特に、クーラーをつけない我が家では、夏は窓を開けて寝ることも多いので、暴走族の爆音に起こされることもしばしばである。大阪府警は、一度本気で対応してくれても良いのではないか。そんなことを考えている。

2024年2月17日土曜日

ONE PIECE考 最強のキャラ

https://gamenext.net/opbr/archives/273
ワンピースには、様々な考察やランキングなどのYou Tubeチャンネルがあって、内容に詳しくなってくるにしたがい、面白く感じている。キャラの中で最強は誰かというのは、様々な説があって、興味深い。

覇気(覇王色・武装色、見聞色)、悪魔の実の能力、剣術や体術などの技量を考慮してのランキングだが、私が思うに、戦うシチュエーションを完全に無視して、不意打ちというか先手必勝でいけば、藤虎(イッショウ:海軍大将)が最強ではないかと感じている。ズシズシの実の能力は、引力を自由に操れるというもの。隕石を落とせるし、瓦礫を空中に浮かせて落とすこともできるのだが、何より相手を有無も言わせず地中に引きずり落とすこともできる。この最後の能力は、先手必勝なら最強のように私は感じているのだ。

覇気の強い相手でも、これはかなり強力な攻撃で、他の海軍大将に何もさせないまま勝てる気がする。(黄猿は光の速度で逃げれるかもしれないけれど、不意打ちならわからない。)ただ、本人は仁義を重んじる人物なので、不意打ちのような先手必勝の攻撃は好まないだろう。先日、何回目かのアニメのライブをちらっと視た時に、そんなことをふと思った、と言うだけの話なのだが。(笑)

2024年2月16日金曜日

宮沢賢治 春と修羅の世界

https://www.goto.co.jp/planeta
rium/program/yodakanohoshi/
梅原猛の「地獄の思想」は、メインの仏教学における地獄思想の変遷に入る。かなり専門的な話が多いが、大学で仏教を専攻した私には、いささか梅原の論議に違和感を感じるところもあるが、十分理解できる。ただブログのエントリーには適さいないと思うのでカット。さらに、地獄の文学として、源氏物語、平家物語、世阿弥、近松を対比していく。反対に私はこの辺の古典の造詣が浅すぎるのですっ飛ばし、明治以降の文学についての記述までワープすることにした。

梅原は、日本において真面目に人間を見つめた文学者たちは、どこかで地獄の思想に触れ、己の個性的な地獄を作り出した。仏教に背を向けた明治以降も魂の深部で地獄と対決した、と書いている。

夏目漱石は、則天去私の理想と強い自我意識の矛盾に悩みつつ、人間の心の底に潜むエゴイズムと対峙した。これが夏目漱石の文学の主題(=漱石の地獄)であった。夏目の正反対の自然主義の立場にある島崎藤村は、人間を赤裸々に描く、すなわち煩悩を描いたに過ぎない、小説『新生』で姪との情事を暴露し、懺悔したのはキリスト教的な意味合いより、煩悩即菩提の仏教的確信ではないかと梅原は書いている。また、この藤村の懺悔を偽善として罵ったのは芥川龍之介で、藤村の仮面をはぎ、本当の悩みはそこにはないと避難した。おそらく芥川龍之介は、この時己の内なる地獄の苦悩をどうすることもできないと感じていたに違いない。懐疑地獄に陥った彼は自殺を選んだ。梅原は、この記述の後、宮沢賢治と太宰治について論じるのだが、私は宮沢賢治を選ぶことにする。(太宰は、高校時代の先輩が、『グッドバイ』のあるページを開けて自殺したので、以来一切触れないことにしている。)

さて、宮沢賢治は盛岡高等農林学校の生徒であった18歳の時に、「法華経」の寿量品を身震いしながら読んだと言われている。彼の詩集は、「春と修羅」と題され、第一集、第ニ集、第三集と続く。梅原は、その詩集の「序」に、法華経の一念三千論を想起させるとし、世界は一つの大生命の流れだという信念を感じ取っている、これが宮沢賢治の魂であると。また宮沢賢治は、詩や童話を書いたが、小説は書かなかった。書けなかったのではなく、人間世界のみを語る小説ではなく、自己の世界観(動物も植物も山川も人間と同じ永遠の生命を持つ存在)の必然として詩や童話に帰結したのであった。このあたりは、イソップ童話などが、人間の比喩・風刺として動物を登場させているのと大きな相違となっている。ところで、この「春と修羅」という題名について、梅原は、「春」を時間の中に移りゆきつつ(=無常観)しかも永遠の生命の輝きをもつ自然(=一念三千論)を表現しているとし、「修羅」は宮沢賢治が『よだかの星』で示しているとして、内容を示している。(私も小学生の頃、『夏の友』という夏季休暇の宿題で読んだ鮮烈な記憶がある。)

夜鷹は羽虫やカブトムシを毎晩殺していることに苦しみ、飢えて死のうとかんがえた。さらに鷹に食われる前に遠くにいってしまおうとお日様に向かって飛ぶが、昼の鳥ではないので断られ、星に向かって何度も飛び、最後には星になったという内容である。梅原は言う。この物語は近代日本文学が生み出した最も美しく、最も深い、最も高い精神の表現であると。全ての生けとし生きる者の世界は殺し合いの世界、修羅の世界である。これが、宮沢賢治の現実の世界に対する根本直観であると。

この修羅の世界から、仏の世界への道は、利他行である菩薩道となる。宮沢賢治は、貧しい農民のため無償で土壌の分析をし、肥料の改良をして飢えから農民を守った。しかも菜食主義者でもあったので、乏しい栄養によって己を養いつつ超人的な利他の労働をした。大きな慈悲の喜びと歓喜に満ちていようとも、心身を披露させずにはおれない。宮沢賢治の一生は、利他行の実践であった。科学(農学)はその手段、文学はその表現であった。ただ、身体は彼を長生きさせなかった。

…宮沢賢治の見た地獄は、この修羅の世界であり、それを乗り越えようとしたわけだ。宮沢賢治、一度読み返してみようかな、と思う。

2024年2月15日木曜日

地獄思想はシュメールが元祖

https://rekisiru.com/13437
梅原猛の「地獄の思想」の興味深い記述についてのエントリーの続々編である。地獄に関して釈迦が語っている記述があるのは、法句経(最古の経典と目されている。2世紀頃)などに存在するのだが、インドにおいて地獄の思想が入ってきたのは、紀元前10世紀ころであったらしい。したがって、インド最古の「リグ・ヴェーダ」等にはその記述がない。
岩本裕氏によると、紀元前3000年ころに栄えたシュメールに「戻ることのない国」=クル信仰があった。このクルは、バビロニアやアッシリア、ヘブライなどにも見られる地獄思想の表象で、やがてギリシアのハァーデース(冥界)につながっていく。岩本氏によると、釈迦の時代にはすでにこの地獄思想は民衆の間に広まっていたようで、釈迦は方便として地獄の思想を使ったようだ。
仏教は理性的明澄さをもった思想で、同時に倫理的な因業概念をもつ。この倫理的な因業概念が説得性を持つためには、理性的な限界を超える必要(悪業を積むと地獄に堕ちるゾ、といったような)があった。それ故に釈迦の死後、大智度論や倶舎論などで地獄の綿密な描写が描かれていく。ちなみに、地獄とくれば、極楽であるが、これは浄土系の源信あたりから語られだしたものであるそうな。

…(都市伝説界で)なにかと話題のシュメールが、地獄の起源でも東西に広まっていったという話は実に興味深いではないか。

2024年2月14日水曜日

本居宣長の大蛮行

http://www.zuzu.bz/ownerblog/2009/08/post_287.html
梅原猛の「地獄の思想」の興味深い記述についてのエントリーの続編である。これは、梅原の大胆な仮説なのであるが、「漢意」を基本とする本居宣長や平田篤胤の国学、それを意識的・無意識的にせよ影響をうけて追随している日本思想の研究者に対して、日本思想に深く仏教が影響を与えていることを認めるべきだという話である。

たしかに、聖徳太子以前はともかく、以後室町時代までは仏教思想の圧倒的支配下にあった。江戸以降は儒家が国教となるが、民衆は仏教に近しかったし、日本の彫刻、絵画、文学も同様にその影響下にあった。国粋主義的な思想家であった本居宣長は、深く仏教の影響の下にあった日本の文学を仏教の影響を排して理解しようという大蛮行を企てた。

それで、本居宣長が熱愛した「源氏物語」や「新古今和歌集」も、『仏教の影響なしに理解』しなければならなかった。しかしながら、紫式部は仏教の崇拝者で法華経の信者であった。源氏物語も仏教の慈悲や無常観、業の思想の影響を深く受けている。また本居宣長が最も愛した歌人・藤原定家は「摩訶止観」(天台の三大部の1つ)の熟読者であった。すべてのものに心の姿を見る彼の有心の美学が天台の止観の影響を受けていることは明らかである。日本の古典文学解釈は、長い間本居宣長の影響下にあった。本居宣長はあまりに巨大な存在であり、彼の盲点はそのままになっている。

…なかなか面白い話である。紫式部も藤原定家も仏教の影響を強く受けていたのに、作者の背景を無視して文学を論じるというのは、今では考えられないことだ。本居宣長は、私も日本思想史の中でもたしかに巨人だと思うが、彼の「漢意」も見事にドグマに陥ってしまったということか。

2024年2月13日火曜日

久々に梅原猛を読む。

梅原猛は、私の人生を変えた人のひとりである。高校時代に読んだ「哲学の復興」(講談社現代新書)の中で、デカルトの二元論批判が行われ、西洋哲学より仏教の優位性が説かれていた。まさに私の人生の分水嶺だった。久しぶりに梅原猛を読んでいる。学園の図書館で借りた「地獄の思想」(中公文庫)である。

いろいろ面白いことが書いてある。自分なりに咀嚼しながら、梅原の書いていることを整理しておきたい。釈迦の思想は、初転法輪の四諦にあるように、苦の世界をいかに超克するかという視点で解かれている。ある意味で、人生否定の思想である。しかし、大乗仏教では、人生肯定の思想に変化していく。かつて、盲目の意志を説いたショーペンハウエルは、仏教の中に意志否定の哲学を見た。釈迦の理想とは、欲望を否定し枯れ木のような人間になることであるとした。たしかに、原始仏教、上座仏教に関する限り正しい。大乗仏教には、法華経の永遠の生命論を基盤に、ペシミズムの克服が解かれ、ニーチェ的な意志論がある。大乗仏教は、一面で生の暗さを凝視し、一面で生の讃歌をもつ二面性のある思想である。そこには光と影の織りなす微妙な生のニュアンスがある。こう考える時、仏教が日本に与えたものは、何であったかを理解できる。原始的日本人は、おそらく楽天的な生命肯定の思想に生きていたのであろう。その宗教は、本居宣長や平田篤胤が理想としていたものだったろう。この日本人に、仏教はより思弁的な否定の哲学(ペシミズム)と肯定の哲学(オプティミズム)を同時に与えたのである。

…なるほど。さすがに梅原猛である。

2024年2月12日月曜日

憂悶 大阪の公教育

https://newsdig.tbs.co.jp/articles/-/993808
大阪府の中学校長会の調査で、府立高校(もちろん旧大阪市立高校を含む)の志願状況が明らかになった。私学志向が高まっており、公立の普通科中堅高は軒並み倍率を落としている。工業科などは目も当てられない状況であった。当然ながら、定員割れを起こした学校は、全入(全員が入学可能になる)となる。受験生にとってはありがたいかもしれないが、長年公立高校の教師をしていた私の経験から見ると、本来その高校のレベルに届かない生徒が入学し、様々な問題が起こる。授業のレベルの低下が起こり得るし、中途退学者も増える傾向にある。全入のメリットはゼロである。定員割れの調査結果を見た管理職や入試担当の教務の先生方は、ホント気が気ではないだろう。

行政から見れば、定員割れの高校をどんどん統廃合するための踏み絵なのだろう。公立である以上、税金を使い運営しているので、その効率化を全面否定するつもりはないが、教育を効率だけではかるべきではない。おそらく、このような大阪の公立高校の状況を見て、教員採用試験の倍率がさらに低下する。他府県や私学に優秀な資質を持った学生は流れるだろう。要するに教員の質が低下する可能性が高い。某政党の無茶苦茶な教育行政に嫌気が差して、大阪に見切りをつけ、マレーシアに、愛媛に、そして私学に移った私だが、異常に酷くなっている様に思う。後輩の先生方のご苦労が明らかに見えるだけに、憂悶せざるを得ない。

さらに某政党は、大阪公立大学の9月入学や英語による全面講義などを打ち出したようだ。この件は賛否分かれるところだが、所詮お得意のオプティミズム的な、「思いつき・花火」だと私は受け取っている。国際人育成というが、英語で授業すれば国際人になれるのか。それ以上に問題なのは、9月入学。日本の就職制度にどう向かい合うのか。4月が新学期の教員志望者はどうなるのか。多くの学生は国内で就職する志を持っている。この9月入学問題は、国として、小学校から大学院、すべての企業の同意のもとに、一気にやらないと絶対にうまくいかないのは自明の理だ。

大阪公立大は、関西では、京都、大阪、神戸に次ぐ大学だと見られている。これらの改革を言うまえに、高校生にに事前にマーケティング調査したのだろうか。した結果支持されたのだろうか。私はこの改革(改悪)によって志願者が大幅に難関有名私大に流れると思う。まさに某政党得意(または特異)のの浅知恵。都構想にしても万博にしても、カジノやF1開催にしても、地に足がついていない話題性だけを追った政策である。万博やカジノなどに税金を無駄遣いする暇があったら、教育現場の姿を直視して、数字に見える学力だけでなく、様々に頑張っている良い高校をひとつでも多く残すべきだと思う。

…愛媛県知事は、地域創生に頑張っている三崎高校を視察に来られたし、公営塾にも顔を出していただき、わざわざ講師陣を激励していただいたぞ。

2024年2月11日日曜日

建国記念の日 考

建国記念の日である。先日(2月3日)エントリーした津田左右吉による古代史の実証史学的研究成果では、初代天皇とされている神武天皇から14代の仲哀天皇までは実在していないとされている。建国記念の日は、様々な論議の末に、もとの紀元節(神武天皇の即位の日/2月11日)があてられた。

日本国憲法施行の日(現憲法記念日/5月3日)、日本が再び独立を果たしたサンフランシスコ講和条約発行の日(4月28日)、聖徳太子の十七条憲法制定の日(4月3日)等の案など多数の意見があったようだが、審議会やアンケート調査により、紀元節の日を、建国記念日ではなく、建国記念「の」日として法的に整備されたという、左右の意見対立の結果、妥協の産物であるといえる。

まあ、実証史学的に言ってしまえばイエスの誕生日であるとされているクリスマスも、ミトラ教の影響下、当時の祝の習慣がある冬至期に制定されたといわれている。こういう「物語」的要素をもつ祝日が何時なのか、というのは、兎角いい加減なものである。ただ神話、伝説といった「物語」は、民族にとってそれなりの意味を持つ。津田左右吉も、その辺の重要性を十分指摘しているので、建国記念の日を設けるべきだと主張していたようだ。

…「建国」という語彙を用いる限り、「物語」的なところではあるが、旧・紀元節に落ち着いたということかと、右でも左でもない私は思う次第。うん、多分に日本的な結論。

2024年2月10日土曜日

追憶 少年時代の三映画館

https://eiga.com/
movie/36486/
少年時代の実家は角家だったので、側面に2つの映画館のポスターが貼られる掲示板があった。1つは、東宝系の「パーク劇場」、もう1つは、「イカイノ東映」である。当時は、まだまだ日本映画界は元気であった。

ソカイ道路沿いを南下、源ケ橋商店街近くの東宝系の「パーク劇場」では、東宝の怪獣映画を見に行った。ゴジラが正義の怪獣となり、モスラ・ラドンとともにキングギドラと戦った「三大怪獣地球最大の決戦」、X星人が登場し再度キングギドラと戦った「怪獣大戦争」や、私のイチオシである「フランケンシュタイン対地底怪獣バラゴン」などをここで見た。ちなみに加山雄三と田中邦衛(青大将)が登場する若大将シリーズとの二本立てだったはずだ。こっちは真剣に見ていないのでエレキの若大将しか覚えていない。(笑)意外に印象に残っているのは、怪獣映画以外の特撮モノの「妖星ゴラス」と「マタンゴ」。ホント、身の毛がよだつほど恐ろしい映画で、長らくトラウマになったくらいだ。

https://www.toei-video.co.jp
/special/pussnboots/
もうひとつの「イカイノ東映」は、イカイノ=猪飼野で、今では有名になったコリアタウンにあった。ここは、普段はヤクザ映画ばかりだったが、学校の休みに合わせて「東映まんがまつり」があって、アニメ映画を見に行った。最も印象に残っているのは♪びっくりした~ニャーの「長靴をはいた猫」である。かの名作、♪進め、進めや、尻尾をあげて~の「わんわん忠臣蔵」は映画館ではなく、小学校の体育館で見た記憶がある。

さて、猫間川筋を南下して寺田町駅のそばまで行くと、「電気館」があった。高校時代に親友のN君と山口百恵主演の「伊豆の踊子」を見に行った。調べてみると、この映画は東宝配給なのだが、パーク劇場でなく、電気館だった。と、いうのもこの頃には、パーク劇場は日活系になっており、ロマポルノ専門になっていたからである。パーク劇場は、後に勤務することになった工業高校のすぐ近くで、赴任時にはもうなくなっていた。

TVが映画館に大打撃を与え、下町の映画館の淘汰が進んでいたのである。怪獣映画は、「ウルトラQ」や「ウルトラマン」、あるいは「仮面ライダー」「マグマ大使」といった週替りの新作ラインナップに到底かなわなくなっていく。

蛇足だが、これらの映画館の上映作品の看板は、俳優の顔など、そっくりでしかも手描きの味があった。後から知ったのだが、これらは原画を投影機で拡大して真っ白な看板上で輪郭を取る場合が多いらしい。そこに着色していくわけだ。前述したが、私は高校時代、図案科(今はビジュアルデザイン科となっている。)で、体育祭の時に他の科(たとえば時任三郎がいた木材工芸科)などから、自科の応援歌(他科の悪口が挿入されている)の中で「(図案科の連中の)成れの果ては看板屋(趣意)」と揶揄されていた。たしかに、1年時の図案科のバックパネルは、ビートルズのLET IT BEのアルバムそのもので、メチャクチャ上手かった。そうか、3年になると映画館の看板屋といわれても仕方ないほど上手くなれるのだ、と思ったものだ。さらに蛇足だが、新任の商業高校時代、職員劇の背景を担当して、囲炉裏を書いたのだが、我ながら立体感がうまく出せて、高校時代の修行の成果を発揮できたかと思う。(笑)

2024年2月9日金曜日

追憶 少年時代の桃谷商店街2

https://osaka-shotengai-info.com/ss/momodaniekimae/
さて、桃谷商店街の追憶エントリーの続編である。私の実家からまっすぐ商店街に向かうと、角近くに喫茶店があった。当然ながら、小中学生では入れない。お祭りの日の帰路に親父が何回か連れていいってくれたという記憶があるのだが、ここでも注文するものは決まっていた。「バナナクリーム」である。今では考えられないが、バナナはかなりの贅沢果実=高価であり、そもそも年間を通してバナナを食べれるのは、春と秋の遠足の日くらいであった。完全に、ハレのモノであったわけだ。そのバナナに、生クリームとアイスクリーム、そして、贅沢のシンボルとしての赤いサクランボが鎮座していた。まあ、1年に1回あるかないかの至福の時であった。(笑)そのバナナ、今は、毎朝ヨーグルトに入れて食べている。

この喫茶店から駅の方に少し行くと、たこ焼き屋があって、実に美味い店だった。いつも満員。さらに、猫間川筋を超えていくと、美味いコロッケを売っている肉屋があった。鍵っ子だった私が帰宅すると、30円くらい置いてある。これで、最初は3個買えたのだが、だんだん値上がりしていった。私の中では、高度経済成長時のインフレ認識は、コロッケの値段と連動している。(笑)

駅前には、寿司屋があった。今では、スーパーなどでもにぎり寿司のセットが売っているが、寿司は当時、寿司屋でしか食べれなかった。極めて高級なもので、これも年1回、親父のボーナスが出た頃に行くことができた。今でも、イカやタコの握りが好みなのは、その頃の貧乏根性のなごりである。妻などは、いくら・うに、赤貝などを平気で頼むが、私はせいぜい、ホタテまで。(笑)

桃谷商店街には、たくさんのグルメがあった。ハレの日を実感するものもあれば、少年時代の思い出もつまっていた。もう10年以上も前に、M高校の受験の営業に母校の中学校や塾を回ったことがある。その時にすでにかなり様変わりしていたが、今はもっと変わっているのだろうと思う。(画像は現在の桃谷商店街)と、いうわけで、すこしばかり、昭和の薫りを届けてみた。

追憶 少年時代の桃谷商店街1


先日、ふと少年時代のことを思い出した。私の実家は、JR桃谷駅の東側の生野区勝山北にあった。中小企業の密集する大阪市東部の下町である。両親ともに工場で働いていたので、経済的にはとても裕福とは言えなかったが、高度経済成長期をこの町で過ごした。高校時代に、大丸のバイト先で友人になった西成区の悪童のS君は、桃谷商店街に行くことを拒んだ。理由はかなりヤバイからだという。(笑)そういう方面には私は疎いので、不思議に思ったものだ。私はヤバイなどと感じたことはなかった。

ともあれ、当時(昭和40年代)の桃谷商店街のことをエントリーしたくなった。桃谷商店街は、生野区の中で中くらいの商店街である。JR鶴橋や寺田町の商店街より短い商店街で、これは今もそうだろうが、桃谷駅から猫間川筋までの西側と、猫間川筋からソカイ道路までの東側に大きく二分されている。

猫間川筋は、自動車が通る比較的広い道路で、商店街のアーケードが切れていた。ここでは、毎月13日に商店街より南の方で”夜店”が開かれる。小遣いを握りしめて、スマートボールやパチンコ(子供用の遊戯具)を楽しんだり、おやつ(砂糖をいっぱいまぶしたアンコ入の揚げ饅頭やりんご飴などなど)を買い食いした後、必ず古本の店で、「新しい住まいの設計」か「航空ファン」を買って帰ってきた。(小学生当時の私は建築士か航空関係の仕事に付きたかったからである。まあ、図や写真しか見なかったけれど。)

https://www.mapple.net/article/3563/
http://teppan-ya.com/?pid=120756425
私の実家は、この猫間川筋の東側・ソカイ道路との間、もっと丁寧に言うと、上記の地図の少し太めの白い道路(さくら通り)との間にあった。まずは、このさくら通りと商店街の接点にあった、「イカ焼きとソフトクリームの店」について語りたい。メニューは、この2つのみ。(当時は白いソフトのみ。チョコとのミックスなどは当時は想像だにできなかった。)小学生でも入れるような店だったので、友人ともよく行った。大阪のイカ焼きは、小麦粉とイカを切ったものを混ぜて、特別の機材でペッシャンコにして焼き上げる。(画像参照)他の地方に行くと、イカ焼きというと、イカ1匹そのまま焼いたものが多いが、全く違う。有名なのは、阪神百貨店の地下街だが、私はここのイカ焼き+ソフトクリームの相性の絶品さに軍配を上げる。ちなみに卵を入れて焼くのは上等・贅沢の極みであり、当時は手が出なかった。(笑)

さらにソカイ道路の方に進むと、「豚珍軒」(とんちんけん)という小さな中華料理屋があって、我が家が中華を食べるのは、いつもこの店だった。私はいつも焼き飯と豚の天ぷらを食べていた。とはいっても、そうそうあることではなかった。中華を外食するということは、ハレの日であって、せいぜい月に一回、親父の給料日くらいだったように思う。…つづく。

2024年2月8日木曜日

黒島伝治 渦巻ける烏の群

「近代社会と格闘した思想家たち」の第4章のタイトルは「戦争のなかで」である。この章からは、プロレタリア文学者の黒島伝治を選んだ。

黒島は小豆島で半農半漁の家に生まれたが、トルストイやチェーホフを読む文学少年で、働きながらも、文学への志止みがたく早稲田の選科生となった。その矢先の1919年に徴兵され、姫路の第十師団に衛生兵として入営する。その後、シベリア出兵に派遣され、シベリアの冬にやられ病院船で帰国した。この時の日記が、WWⅡ後に壺井繁治によって「軍隊日記」の名で紹介され、稀有の記録としての評価を得た。

初期の代表作である「 渦巻ける烏(カラス)の群」(1927年・『改造』)には、凍てついたシベリアで、残飯を求めるロシアの子供たち、内地に憧れ家庭を恋しがるとともに、誰のためにこういうところで雪にうもれていなければならないのかと疑問を持つ兵士たちという情景設定をもとに、その舞台の部隊長が、ロシア女性をめぐる兵士に対する私怨から、その兵士の所属する中隊に、急遽、危険な土地の守備を命じ、中隊は道に迷い雪の荒野に埋もれてしまうという物語が繰り広げられる。春が来て、群がる烏が兵士たちの所在を明らかにした、という短編小説である。

これに続く唯一の長編「武装せる市街」は、1928年の中国・済南事件(第二次山東出兵)を題材にしている。「 渦巻ける烏の群」が軍隊内の不条理の告発出会ったのに対し、「武装せる市街」は、日本の中国支配のからくりを暴いた作品になっている。おびただしい伏せ字部分があったにも関わらず発行と同時に発禁となった。満州事変の前年で、黒島は郷里で特高警察に監視されながら病臥生活を過ごし、日本の降伏を待たずに没した、「武装せる市街」は、GHQの検問にひっかかり、講和条約締結後にやっと日の目を見た。

…シベリアと聞けば、WWⅡ後のシベリア抑留を連想するが、黒島が描いたのはシベリア出兵の時代。この時に、このようなプロレタリア文学者が存在し、壮絶な内容を残していたことに驚いた。私が第4章の中でこの黒島を選んだ最大の理由は、「渦巻ける烏の群」という、あまりにシュールなタイトルの印象であるといってよい。

2024年2月7日水曜日

知里真志保 アイヌの言霊

鹿野政直氏の「近代社会と格闘した思想家たち」の第3章は「存在の復権を求めて」である。この章からは、言語学者・知里真志保(ちりましほ)を選んだ。

アイヌ言語学者だった金田一京助(国語辞典で有名。石川啄木の親友でもあった。)が、研究のため登別の知里家を訪れ、祖母が謡い手であるアイヌの口承叙事詩”カムイユカラ”を記録していた。アイヌ語と日本語が堪能なバイリンガルの姉・知里幸恵(当時15歳)と共に東京の金田一家で翻訳・文字化し「アイヌ神謡集」を共著として発表した。(幸恵は完成した夜に心臓病で亡くなる。享年19歳。)その縁から、優秀だった6歳下の弟である真志保は、金田一の助力で第一高等学校へ進学することになる。

しかし、一高では、アイヌ(蝦夷から土人、さらに旧土人と名称が変化した。)に対しての、「国宝」的という名のものとの標本として、蔑視・差別が絶えなかった。とはいえ、彼は英語と独語で首位を取るほどの語学の天才であった。金田一のもとで民謡集を完成させた姉への尊敬の念から、この時代に本格的にアイヌ語を志していたが、結局周囲がアイヌ語をやるのは惜しいと英文科に進学することになる。だが、翌年言語学科に転科し、本格的にアイヌ語を専攻する。いかに優秀だったかは、学士の卒論「アイヌ語法概説」が、師の金田一との共著のカタチで出版されたことでもわかる。

知里真志保のアイヌ語学は、民族の想いを言語という主題に凝縮させていく。おのずと和人の学問への戦闘性、強い自負からくる徹底性を帯びていく。彼の言葉に接近する角度は、その言葉を紡ぎ出した人々の心と暮らしのありように注目していた。よって、和人ら先行の研究者(金田一も例外ではない)の偏見を含む概念的な理解(=無理解)への仮借ない批判に繋がった。

たとえば、「カムイ」(カむィ:平仮名はアクセントを示す)は、一般的に「神」と訳され、コタン(=集落)と合わさって「神村」のイメージがあるが、こういう地名は交通の難所で、恐ろしい神が犠牲を要求するという考え方から生まれた。よって、「魔の里」というほうが語感がぴったりする。「ペッパル」(=川口)も、川の出口ではなく、鮭や鱒が海から入ってくる入り口という認識である。アイヌの漁労の方法から自然に生まれたものだというわけだ。一方で、日本語から入ってきたアイヌ語には日本との歴史が凝縮されている。「クンチ」は「クジ」(=公事)の訛ったもので(松前藩以来の)「強制徴用」の意味で使われていた。

最後に、金田一京助との関係について、さらにウィキで調べてみると金田一京助という人物は、アイヌをリスペクトしているようで、本音では野蛮人としか見ていなかったようである。姉の幸恵との「アイヌ神謡集」や真志保との「アイヌ語法概説」にしても共著という出版をしており、なにかうさんくさいと邪推するのは私だけではないように思う。前述した三省堂の明解国語辞典以外の十指に余る国語辞書は、編者として目も通しておらず、名前を貸しただけらしい。どうも人のふんどしで相撲を取ることに躊躇はない人だったようだ。知里真志保は、金田一より早世しているが、その葬儀に79歳の金田一は空路で駆けつけたと言われている。しかし、自分が死んだら知らせてほしい名簿には金田一の名はなかったという。

2024年2月6日火曜日

横山源之助 日本之下層社会

鹿野政直氏の「近代社会と格闘した思想家たち」の第2章「生命を見つめて」から、ジャーナリスト横山源之助についてエントリーしたい。日清戦争を契機として、産業革命が進展すると、工場労働者という階級が成立し、低賃金で長時間労働を強いられた。この情勢を受けて、社会に警鐘を鳴らす人々が少数ながら現れ、多くの人が視界から遠ざけたいと思っている”近代化によって作り出さている新しい悲惨”の認識を迫った。横山源之助は、その先頭に立つ一人であり、1899年に出された彼の主著「日本之下層社会」は、後(1925年)の細井和喜蔵の「女工哀史」と並ぶ社会調査の双璧である。

近代化は、従来の意味での貴賤の基準を大幅に緩和した半面で、貧富という基準を押し出し、しかも貧富の基準が新しい貴賤を生み出して、貧は賤に押しやられた。横山は、繁栄には「表面」「裏面」があり、後者が前者を支えていること、しかし全く無視されていることに義憤を感じたのである。横山は、自分では語ることはなかったが、富山の魚津の町の網元と奉公に来ていた母との間に生まれている。母は主家から放逐され、左官業の横山家の養子に出されたという生い立ちを持つ。よって、虐げる存在への体質的拒否感と虐げられた者への鋭敏な感受性が養われたといえるだろう。

横山は最初弁護士を目指したが失敗、放浪の後、毎日新聞(現在の毎日新聞とは無関係。旧横浜毎日新聞)の記者となった。「日本之下層社会」は、記者として積み重ねたルポタージュ記事を元に生み出され、東京の貧民状態・職人社会・手工業の現状・機械工場の労働者・小作人生活事情の5編と付録としての日本の社会運動からなる。しかも聞き取りとともに統計的な手法が新機軸を編み出し、その非人間的な暮らしが瀰漫(びまん)していることを掘り起こした。

労働運動に対し最初は「大いに勇み肌を養うべし」と期待したが、貧民や職人、労働者を未分化のまま下層社会ととらえる横山には、社会主義運動化は違和感があり、貧民のために新天地を求めて無人島探索や南米移民を企てたりしながら、やがて孤立化を深める。(とはいえ、二葉亭四迷や樋口一葉とは友誼を結んでいたようである。)やがて、横山と「日本之下層社会」は長く忘れられていたが、戦後になり研究者の努力で復活した。

…昨日WEBの記事で、私立の伝統進学校と中堅進学校の違いについて体験談的に書かれたものを読んだ。結論的に要約すると、進学成果を挙げている伝統校では各教師が常に向上心を持って専門分野の勉強を維持している、とのことだった。私自身、教師はそうあるべきだと信じて、このブログを書いている。そういう意味でも、鹿野政直氏の文章には、今はあまり使わなくなった語彙も多く登場してありがたい。「瀰漫」なんて初めて知った。気分や風潮が広がり、はびこることである。ちょうど昨日、職員室でよく話をする国語科のK先生が明治期の語彙についてまとめているという話をされていて、こういう各先生方の試みがこれからも学園を支えていくのだろうと感じた次第。

2024年2月4日日曜日

ONE WORLD FESTIVAL 2024

ブログの投稿で確かめたら、2016年以来8年ぶりのワンフェス参加である。会場も今回は大阪スカイビルに変わっている。私個人としては、ほぼ全館をワンフェスに使っていた昔々の上六の大阪国際交流センターが好みである。(笑)最も変わったなあと思ったのは、各国料理の店である、昔は国際協力をしているNPOの屋台という感じで、その国の方が郷土料理を調理していて、手作り感が満載だった。今回は日本人のキッチンカーが各国料理を提供・集合しているという感じで、どうも薄っぺらい気がする。

大阪プロレスも参加していて、プロレスと言うよりは、3人で戦うといったコミックショーを演じていた。えべっさんやタイガースマスク(阪神のユニフォーム的なコスチュームで背番号が31で掛布なのが実に良い。笑)が拍手喝采を受けていた。(笑)楽しい空間があるのは国際協力に直接関係しないけれど良い。

さて、3F・国際協力の団体のブースを覗いてきた。マレーシア関連のブースが2つあったが、どちらもサバ・サラワク州(マレー半島ではなくボルネオ島の州)に関わる団体で、自然保護運動をしているところと、OISCAというマレーの女性を技能実習で受け入れているところだった。彼女はヒシャブを被っていなかったので、聞くとカトリックのブミプトラさんだった。

ドイツ国際平和村のブースでは、平和村で働いた人々の体験談集の書籍を購入した。今でもアンゴラやアフガニスタンの子供たちが多いそうだ。TVで何度か紹介されたのも、はるか昔になってしまったなあ、と思う。

ケニアに関連するACIというブースがあって、担当の女性はケニアの方が作った民芸品を懸命に売り込んでいた。ナクルにいたそうで、かのナクル湖にはもうフラミンゴはいないそうだ。寂しいなあ。

今回のメインは、4Fの会議室で行われた、コモン・ニジェールというNPOの「ニジェール物語」という絵本を元にした22分間のDVD上映&講演・質問会であった。ニジェール物語は、サハラ砂漠での様々な話が散りばめられた内容で面白かった。原作者である御婦人は、夫が原子力関係(ニジェールはウランの産地として有名)の仕事で、彼の地に赴任するのに付き添っていったそうだ。首都ニエメではなく、セスナに乗り継ぐ、かなりの奥地で、電気は発電機、水はかなりの深度まで掘った井戸、干レンガの住居に住んでいたが、幸い日本経済は好調期で、様々な物資を空輸できたのだという。ブルキナファソ北部のサヘルまで行った私としては、満天の星の話などサハラ砂漠を実感できるところが多かった。夫の他界後、ニジェールで寺子屋を建てたりして国際協力しているそうだ。

ニジェールの女の子たちは顔にキズがある子が多いとのこと。それは、過去の奴隷貿易で家族が離れ離れになってもその傷の特徴で見つけられる、という悲しい習慣であるらしい。世界最貧国の1つであるニジェール。この話が一番印象に残ったのだった。

2024年2月3日土曜日

鹿野政直「人間喜劇」志向

学園の図書館で借りた鹿野政直氏の「近代社会と格闘した思想家たち」(岩波ジュニア新書)を読んでいる。これまでエントリーしてきた「近代社会を構想した思想家たち」の続編である。まずはプロローグの概説から。

戦後派の著者が、近代の作られ方を歴史学から見続ける中で、公害、大学紛争、ウーマンリブ、ベトナム戦争と反戦運動などが起こってくる。著者は、恩師西岡虎之助氏と「日本近代史」(1971年)という共著を出しているが、荘園史・民衆史の大家である恩師は、公事につくした立派な人中心の歴史ではなく、排除されてきた弱者の「人間喜劇」という嗜好、在野的な気風に満ちた方で、大きな影響を受けたと記している。

近代を問うという歴史学の問題意識の組み換えによって生まれたのが本書である。よって、私の見識にはない人物も多数描かれている。今回は第1章の「文化をひらく」から、著者の大先輩にあたる早稲田の歴史家・思想史家の津田左右吉(そうきち)を取り上げたい。

津田左右吉は、19世紀末の日本の天皇を不可侵とする国体の聖域化に対して、その由来を歴史学の立場から解き明かそうとした人である。記紀における神話の部分も史実とされていた当時、記紀を聖典視することなく、歴史書として吟味・批判の対象とすべきであるとし、「神代史の新しい研究」(1913年)、第ニ作として「古事記および日本書紀の新研究」を出し、1924年に「新」をそれぞれ外した両書を再度世に問うた。美濃部達吉が天皇機関説で法学の分野から学問的な学説を出したことと、津田左右吉が、歴史学の分野から学説を出したことは、国体に対しての学問的純粋さに類似性がある。ただ、美濃部の天皇機関説は、実は官僚などエリートの世界では当然視されていた(既成事実的)のだが、そういう教育を受けていない軍部や国粋主義者らに大反発・大弾圧を受けた。津田の場合、神武紀元2600年の前年・1939年末に、弾圧を受ける。発行者の岩波茂雄(岩波書店の創業者)とともに起訴された。結局戦局の悪化の中、免訴となったが、大学側は庇わず、大学をやめざるを得なかった。(=津田事件)

津田は、学制の整わない時期とはいえ、二、三の学校や私塾を経て、東京専門学校(現早稲田)へも、最初は講義録を取り寄せて読むという校外生としてかかわり、編入試験を受けて正規生となっている。卒業後は関東の中学校教師を転々としている。この非エリート性が、「国家」や「国体」を振りかざす「お上」の横暴性を認識したと思われる。ほとんど独学で取り組んだ学問故にアカデミズムの枠を大きく破る古代の発想に至ったと見るべきである、と著者は書いている。(本書では省かれているが、満鉄で地理歴史調査室研究員として勤務し、東洋史の研究に勤しむ。その後東大に研究室は移管されるまで勤務したとのこと。)

…こうして見ると、同じ学問の自由に関わる事件であるが、貴族院議員だった美濃部達吉と同列に扱えない気がする。

…津田は戦前から天皇制に反対していたわけではない。また仏教や儒学、国学、神道などの歴史観、左翼の思想には反対の立場と取っている。よって、「先生の立場は唯物史観ではないか。」と問われた時、「唯物史観は学問ではない。」と喝破している。あくまで学問として記紀を検証したようである。戦後、学士院会員(1947年)、文化勲章(1949年)を受けている。私も妥当だと思うが、対応が早い。戦後日本政府のこの「手のひら返し」が凄いと感じざるを得ない。これが権力の姿なのだろう。

2024年2月1日木曜日

大杉栄の破天荒

「近代国家を構想した思想家たち」(鹿野政直著)の第4章「体制の変革を志す」からは、大杉栄を選んでエントリー することにした。中江兆民、幸徳秋水、そして大杉という系譜の中で、大杉は公私にわたって、かなり破天荒である。

そもそも軍人の家系で、入学した陸軍幼年学校を規格を逸脱する行為の数々で退学になっている、その後東京外国語学校でフランス語を学ぶ。自由な空気の中で、幸徳秋水の「万朝報」の、白刃のような論文に惹かれ、彼の陣営で活動することになる。暴れ者で街頭演説や執筆で何度も入獄するが、入獄ごとに「一犯一語」の原則をたて新しい外国語を習得していく。1910年の大逆事件の際は、入獄中であったのでアリバイが成立して難を逃れた。

事件後は堺利彦のもとで「売文社」(売文という名に痛憤と諧謔が表されている。)という代作や翻訳をしていたが、堺の時期を待つ戦略に反発。「近代思想」を発刊、奴隷根性論を著し、支配が奴隷根性としてどんなに人々に棲み着いているかを指摘、奴隷から自由人への脱却を主張した。「諧調はもはや美ではない、美はただ乱調にある。」と喝破した。しかし、言論闘争だけではと、限界を感じ「近代思想」を廃刊、サンディカリズムの立場で実際の労働運動に乗り出す。

尾行の巡査を殴って入獄したり、コミンテルンの会議に出席するため上海へ密航したり、国際アナーキスト大会出席のためパリへも密航。さらにその地で演説して逮捕・入獄、国外追放されている。1917年のロシア革命の成功には大いに鼓舞されたが、新しい強権体制が成立したことに対して、クロポトキンの学説から否定的に見ていた。大杉は進化論的に、社会は生存競争から相互扶助へ向かう「相互扶助論」を社会科学の根底においていたのである。

これだけでも十分、破天荒なのだが、自由恋愛を唱えていた大杉は、雑誌編集者の堀保子と事実婚していたが、女性記者の神近市子、さらにはダダイストの評論家・辻潤と結婚していた(平塚らいてうの)青踏社員の伊藤野枝と相次いで恋愛関係に陥り、結局伊藤野枝と同棲。神近市子に刺され、堀保子から離別された。堀保子との間に5人の子供がいたが、結婚に法律が介入するのは不当という考えから結婚届も出生届も出していいなかった。大杉の死後、子供それぞれ引き取られ、改名の上、戸籍に入れられたという。この本は、岩波”ジュニア”新書なのだが、なかなかはっきりと書いてある。

この本には詳しく書かれていないが、大杉は関東大震災直後の戒厳令下、憲兵隊の甘粕(満州国でも特務機関として暗躍している)によって、伊藤野枝、甥の6歳の子供とともに、絞殺されている。(甘粕事件)この本には、「大杉が巻き起こす波乱は命を中断されたのちも収まらなかった。」として、葬儀の日に遺骨が右翼団体員によって強奪され、その遺骨は警視庁で「留置」ののち翌年戻された。さらに大杉の同志3人が戒厳令司令官に復讐を企て、失敗して逮捕・処断(死刑・獄死・無期懲役)されたという事件が続いた。

https://www.pinterest.jp/pin
/456130268500652704/
…感想はまず、辻潤について。高校時代にダダイズムが局所的に流行したことがあって、属性がある。大学時代に辻潤の評伝も読んだ思い出がある。実に懐かしい名前だ。ダダイズムとは、WWⅠへの抵抗やニヒリズムが根底にある芸術運動である。既成の秩序や常識に対する否定、攻撃、破壊といった特徴をもつ芸術運動であり、たしかにアナーキズムとは相性がいい。日本では、中原中也や坂口安吾などにも影響を与えた。ちなみに、昭和時代のウルトラマンに登場したダダ星人(右記画像参照)は、このダダイズムに由来しているのは有名。

…甘粕事件の時の警視庁官房主事だったのは、かの正力松太郎で、当時陸軍が何かやるらしいと聞いていた。大杉が憲兵隊に連行されたという報道を受け警視総監・湯淺倉平に相談したという。この湯淺警視総監と警備局長だった正力は虎ノ門事件(難波大助が皇太子を狙撃した事件)で共に辞職する。その後、読売新聞を再建、プロ野球やテレビ放送に強大な権力をもつにいたったわけで、渡邉恒雄はその使い走りだったらしい。

…ちなみに、革命家という共通項でくくれば、どうも女性関係がついて回りそうっだ。この本には、大杉以外に、孫文の支援者として有名な宮崎滔天の話が出てくる。宮崎の妻・ツチも、家族を置き去りにして東奔西走しながら、宮崎の女性関係がたえなかったことを、辛亥革命成功の折に「世も人も くつかへりてぞ 浮かびめる 吾れのみ かなし なを 沈身かな」と詠んでいるし、マルキストの戸坂潤も愛人・光成秀子との間に子供をもうけていた。これを文書で公表したのは愛人の光成本人で、女学校の教員をしつつ生活を支えた夫人イタについては、多くは伝えられていない、と記されている。著者の鹿野政直氏は、こういう女性からの視点を非常に大事にしているわけだ。

石橋湛山のプラグマティズム

「近代国家を構想した思想家たち」(鹿野政直著)は、およそ4章に分かれている。渡辺崋山は「近代への先駆者」、馬場辰猪は「国民の形成をめざして」から選んだ。「アジア・世界の中の日本」からは、石橋湛山 をエントリーすることにした。はるか昔、新任教師だった頃に、自民党の歴史を「小説吉田学校」(画像参照)など一連の莫大な量の書籍で学んだ。石橋湛山も当然登場するが、総理の地位を得たのに病気で短命に終わったジャーナリスト出身の人物という、イメージが残っているにすぎない。

石橋は、札幌農学校出身の旧制中学時代の大島校長、早稲田の哲学科時代に講義を受けた田中(シカゴ大学でデユーイに学んだ)に大きな影響を受けたとされる。著者からは、”クラークとデューイの孫弟子といえなくもない”とされており、これら4人から剛直な民主主義者としての骨格と徹底した有効性に立脚するプラグマティズムの精神を会得したといえる。1911年に自由主義の立場から論陣を張る経済誌の東洋経済新聞社に入社、経済の素人だったが独学で学び、主筆から社長にのぼり詰める。

石橋の主張は、「大日本主義」への批判で、WWⅠへの参戦、戦後のに二十一か条の要求を厳しく批判した。この論の視角は日本の国益上有利ではないというところにあった。「少欲に溺れ、大欲にない。王より飛車を可愛がるヘボ将棋。」という評が面白い。しかし衆知の通り、彼の主張は歴史にかき消された。

降伏後、石橋は吉田茂に呼ばれ、大蔵大臣として復興を託されるが、GHQと対立して公職追放となる。追放解除後は保守政党の実力者となり、1956年自民党総裁となるが、前述のように短命に終わってしまった。石橋の「警醒」が見直されるのは、さらに後のことである。

…と本の内容を要約したが、特に政治家としての闘争はやはり生臭い。鳩山と主張が近かったので鳩山の党から立候補するも落選。それを吉田が蔵相に引き抜いた。政経の授業で教える「傾斜生産」などの財政政策の他、当時の国家財政の1/3を占めていた進駐軍経費を2割削減した勇気ある交渉など国民からの人気が高く、次の衆院選で当選するが、アメリカに公職追放される。この裏には吉田の政略があったと言われている。以後、ソ連との国交回復を鳩山を助け、成し遂げる。次は中国との国交回復、という政局で、岸に対し、石井との総裁選2・3位連合で勝つわけだ。かなり無理をしたようで、閣僚や党役員ポストの空手形を乱発しすぎて「一人内閣」と揶揄されるほど、発足時に一時的に閣僚を兼務するはめになった。この辺にもプラグマティズムの匂いがプンプンするのだが…。