https://wdrac.org/news/activities20220729/ |
看護師の溝渕さんは、処置やリハビリが必要な子供の治療棟の間の送り迎え、ガーゼの交換などが主の仕事とあったが、これも子供たちが元気なので大変な重労働。最初の頃はベッドにバタンキューの日々だったそうだ。初めての援助飛行(子供たちの母国とドイツ・デュッセルドルフ空港を結ぶチャーター機)は、アンゴラからも子供たちの出迎えで、貸切バスで向かったそうだ。そこには救急車や救急隊員がすでに待機していて、機内から救急隊員が子供たちを降ろしていく。すぐに治療が必要な子供たちは救急車で病院に直行する。この時のアンゴラからの援助飛行は70名。大声で叫ぶ4歳位の男の子や、全く表情がない4歳位の女の子がいて、彼らの不安と緊張に思いを馳せていたそうだ。その女の子の横には、足の悪い中学生くらいの男の子が座っていて、彼女が椅子から落ちないように支えながら、彼女に話しかけたり、溝渕さんにポルトガル語で話しかけてきたそうだ。彼女のことを伝えようとしたらしい。平和村では年長の子供が、小さい子供の世話をよく焼いていくれる。平和村につくと、医師や看護師が1人ひとりの健康状態をチェックする。その後1~2週間は前からいる子供とは別の部屋で、感染症の有無を見るそうだ。アフガニスタンやウズベキスタンの子供たちとの貴重で胸が熱くなる体験が書かれていることも付記しておきたい。
作業療法士の勝田さんは、平和村唯一のリハビリ専門スタッフであった。当時の平和村ではリハビリの大事さがあまり理解されていない状態で、200人の子供のほとんどがリハビリが必要で、1年間ほどは特に神経をすり減らす毎日だったという。その後、子供たちとの信頼関係を築けるようになり、子供たちもリハビリの必要性を理解し始め、「リハビリをして歩けるようになった。」「リハビリをして遊べるようになった。」「サッカーをしたければ茜(=勝田さん)と一緒にリハビリをしなきゃ。」と言ってくれるようになった。足を骨折し骨髄炎で、結局切断したアンゴラの少年との関わりを中心に語られているが、リハビリは、一人ひとりの状況に合わせてやっていかねばならないことを学んだという。義足であることを知られたくないという少年の気持ちを重んじ、他の子供達を入れず1人でリハビリを続けた。特別扱いをしないという平和村のルールに対して、リハビリは各人が特別である、平等にはできないと主張したそうだ。そんなハードな4年間を終え、今は日本で、作業療法士の育成に励んでいる。
…あまり深い体験談には立ち入らず、冷静に内容を紹介してみた。是非多くの方に読んでいただきたい本である。
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