石橋は、札幌農学校出身の旧制中学時代の大島校長、早稲田の哲学科時代に講義を受けた田中(シカゴ大学でデユーイに学んだ)に大きな影響を受けたとされる。著者からは、”クラークとデューイの孫弟子といえなくもない”とされており、これら4人から剛直な民主主義者としての骨格と徹底した有効性に立脚するプラグマティズムの精神を会得したといえる。1911年に自由主義の立場から論陣を張る経済誌の東洋経済新聞社に入社、経済の素人だったが独学で学び、主筆から社長にのぼり詰める。
石橋の主張は、「大日本主義」への批判で、WWⅠへの参戦、戦後のに二十一か条の要求を厳しく批判した。この論の視角は日本の国益上有利ではないというところにあった。「少欲に溺れ、大欲にない。王より飛車を可愛がるヘボ将棋。」という評が面白い。しかし衆知の通り、彼の主張は歴史にかき消された。
降伏後、石橋は吉田茂に呼ばれ、大蔵大臣として復興を託されるが、GHQと対立して公職追放となる。追放解除後は保守政党の実力者となり、1956年自民党総裁となるが、前述のように短命に終わってしまった。石橋の「警醒」が見直されるのは、さらに後のことである。
…と本の内容を要約したが、特に政治家としての闘争はやはり生臭い。鳩山と主張が近かったので鳩山の党から立候補するも落選。それを吉田が蔵相に引き抜いた。政経の授業で教える「傾斜生産」などの財政政策の他、当時の国家財政の1/3を占めていた進駐軍経費を2割削減した勇気ある交渉など国民からの人気が高く、次の衆院選で当選するが、アメリカに公職追放される。この裏には吉田の政略があったと言われている。以後、ソ連との国交回復を鳩山を助け、成し遂げる。次は中国との国交回復、という政局で、岸に対し、石井との総裁選2・3位連合で勝つわけだ。かなり無理をしたようで、閣僚や党役員ポストの空手形を乱発しすぎて「一人内閣」と揶揄されるほど、発足時に一時的に閣僚を兼務するはめになった。この辺にもプラグマティズムの匂いがプンプンするのだが…。
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