馬場は、藩からの江戸(東京)遊学で、福沢諭吉の慶応義塾で英語を学んでいる。福沢は、馬場に眉目俊英、気品高潔、文思緻密と最高の賛辞を送っている。1870年、同じくの藩から海軍機関学の修業の名目でイギリスに留学生となる。慶應義塾時代に、哲学や経済学に興味が移っていた馬場は、岩倉使節団來英時に直訴、法律を専攻することと身分を政府留学生に切り替えてもらった。かなり幸運な人である。
満9年にも及んだ英国生活で、英国法の組織や法律家の教育方法の研究、政治家の集会に出席して民衆にとって代議士を有することの利益を観察している。同時に日本人としての意識を強め、在日イギリス人のもつ日本人への偏見や不平等条約の不当性を訴えたり、古事記の英訳とともに、駐米大使だった森有礼の日本語廃止論に対し、近代国語として豊かにすることで母語を通じての国民教育を主張、文法の体型を作り上げようと主張している。勤勉さが際立つ人である。
しかし、その勤勉さは留学生仲間の一人と諍いとなり、傷害事件を起こし拘留され、帰国を余儀なくされた。帰国後は、啓蒙派知識人として活動を開始したが、集会条例や遊説で接した人々の権利意識の未熟さが、直接的な政治活動へと踏み切らせた。1881年の自由党結党では議長、翌年の自由新聞の主筆となる。
馬場の主張の特徴は、多くの民権家が使う「国家」ではなく「社会」という語彙をしきりに使っていることである。彼にとって「社会」は自由を保証する組織であり、「国家」の制度の改革だけでなく習慣(特に封建的慣習)の改革にも目を向けていたわけだ。やがて、民権家の中でも孤立し、板垣の洋行(政府の懐柔策)に反対し、自由新聞を終われ、党からも離れる。
彼は変革の可能性に絶望し、亡命同然に米国に渡るが、生活苦の中、結核で客死することになる。
…なんとも純粋で、優秀な人物。結局のところ不遇をかこった人である。そんな感想を持った次第。
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