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本書では「近代世界システムーヘゲモニー争奪戦の真実」というタイトルである。米国の社会学者・ウォーラーステインの「近代世界システム」は、欧米の先進国とアジアやアフリカの途上国の国際分業体制であり、このシステムでは、工業・商業・金融業の三部門で他を圧倒する経済力をもつヘゲモニー国家(彼によれば、17世紀中頃のオランダ、19世紀終わりからWW1勃発までのイギリス、WWⅡ後からベトナム戦争勃発時までのアメリカ)が出て、周辺(途上国)と半周辺(他の先進国や中進国)が存在すると言うわけだ。玉木俊明氏は、工業・商業・金融業の三部門で圧倒的でなくとも、時代の変化の中でヘゲモニー国家は他にも存在するのではないかと考えているようだ。
さて、本題。イギリスはいかにしてオランダからヘゲモニーを奪ったのか。オランダはバルト海貿易で穀物をヨーロッパの多くの地域に輸送して、ヨーロッパ内部でのヘゲモニーを確立した。このシステムをイギリスは世界に拡大するのだが、実は、イギリスのヘゲモニーに関しては、オランダとポルトガルが大きく貢献したと考えられる。全て自力で勝つ取ったのではなく、ニ国の成果をうまく利用できたからこその大英帝国なのだというわけだ。
近世のオランダは地方分権的国家で、中央政府は商人の動きをコントロールできるほどの権力がなかった。オランダの商人は国内の利子率が低い故に、有利な投資先としてイギリスを選んだ。イギリスは名誉革命が発生した1688年頃からナポレオン戦争が集結した1815年までフランスと戦争状態にあり、第二次百年戦争と言われる。世界中のマーケットをフランスと争っていた。イギリスは、戦争遂行のため国債を発行し、オランダが購入していたわけで、最初のヘゲモニー国家が次のヘゲモニー国家の誕生を促進したといってよいわけだ。
…フランスが朕は国家なりの絶対主義国家で、ルイ14世が好きなように戦費を取り立てて財政破綻しフランス革命を呼び寄せたのに対し、イギリスは国会が国債の発行を行い戦費を賄った。この国債の返還のためにフレンチ・インディアン戦争分をアメリカ植民地に払わせようとしたので独立革命が起こったのだが…。とにかく、オランダがイギリスの戦争を後押ししたのは事実。フランスのカルバヴァン派・ユグノーが追い出され、オランダに移りゴイセンとなった故に、カトリックのフランスより、仲間のピューリタンや一応プロテスタントの英国国教会の方が味方しやすかったのだろうか。いや、そういう一面もあっただろうが、おそらくは金利という経済的な側面が強いと思われる。
ポルトガルは、ヨーロッパ諸国に先駆けて、武力によるアジア・アフリカの諸地域を征服したので、国家が先頭に立って商業を強化した国家のように思われがちだが、現在の歴史研究動向では、当時の王室の財政は不安定で、政治力も小さく、商人自らが組織化して乗り出したために生じたとされている。ポルトガル海洋王国は、商人の帝国だったのである。そのため、他国に海外領土が征服されてもポルトガル商人の影響力は依然として残った。事実18世紀末までアジアでもっと話されていた言語はポルトガル語だったと言われている。
イギリスは、国家の力で領土を拡大し、大艦隊を有して植民地を保護したので、ポルトガルの商人ネットワークとは大きく異なるが、ポルトガルが開拓した航路を使い、領土を奪った。しかも、1703年のメシュエン条約がイギリスにとって大きな利益を産んだ。このメシュエン条約は、イギリスがポルトガルからワインを低関税(フランスの1/3)で輸入し、ポルトガルはイギリスの毛織物の禁輸措置を解除した条約。ポルトガルはこれによってイギリス依存が強まり、輸入超過となったが、ブラジル産の金をイギリスに渡すことで経済は破綻しなかった。この金が産業革命の資本また金本位制の確立に番っていく。政経で教えるリカードの比較生産費説で、このワインと毛織物の例がよく使われる。
https://gentosha-go.com/articles/-/10314 |
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