2024年1月22日月曜日

英のライバル ハンブルグ

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近世ヨーロッパにおける自由都市・ハンブルグの重要性について、「先生も知らない世界史」のエントリー第8回目。前述のようにヨーロッパ最大の製陶所を有していたハンブルグには、最終的に多くの地域からサトウキビが運ばれてきた。戦争に明け暮れたヨーロッパで、中立都市であったハンブルグには、アムステルダムやロンドンの商人が避難し商業を営んだ。旧来の商人ネットワークの中心であったハンブルグのライバル関係にあったのは、ロンドン。後背地を控えた首都であり、統合された国民経済をもつ近代的メトロポリスであった。

17世紀のハンブルグの最大の取引先はオランダで1/3を占めていた。しかし18世紀には、現ハイチからの砂糖キビが入る貿易港・フランスのボルドーとの取引が、フランス革命時には25%を占めるようになっていた。17世紀にはオランダからブラジル産の砂糖を輸入してたフランスだったが、ハイチでの生産量が1714年の7000tから、1750年には40000t、1789年には200000tへと驚異的に伸びたからである。中立都市ハンブルグが、ユグノーの亡命先になったのも大きい。ハンブルグは、ルター派にしか市民権を与えなかったが、他の宗派でも商業を続けつことが可能で、オランダが交戦中の時は、スファラディー(元スペイン等にディアスポラしたユダヤ人)がアムステルダムから避難してきたという。またポルトガルやスペインの商人とも深い関係を持っていた。イギリスのロンドンとは相互補完関係にあり、「小ロンドン」とも呼ばれるほどで、18世紀には、イギリスの主要貿易港は、アムステルダムからハンブルグに変わっていたのである。

フランス革命時には、フランスとの貿易(前述の砂糖貿易)は激減したのだが、アムステルダムがフランス革命軍により占領されると、ハンブルグは漁夫の利を得た。しかし、ナポレオンの登場で、ドイツが占領され、中立を認められていたハンブルグも占領され、大打撃を受ける。さらに大陸封鎖令である。1808年ハンブルグの商人たちは、中立国でナポポレン支配下ではなかったスウェーデンのイェーテボリに移動する。

ナポレオンの時代が終わると、ウィーン体制下で、ラテンアメリカ諸国が独立し、スペインやポルトガルの手を離れ、ロンドンやハンブルグと直接貿易をするようになり、ハンブルグは復活した。しかし、中心はあくまでロンドン。ハンブルグはサブシステムとなり、結局のところ、国家を後ろ盾にしたイギリスに商人ネットワークは敗北をきすことになったのである。

…18世紀のフランス支配下のハイチのサトウキビ栽培の驚異的増加には、恐るべき搾取システムが機能していたのは間違いない。でないと現在のハイチのラテンアメリカ随一の貧困状況を説明できないからである。

…イギリスとハンブルグと聞くと、私たちの世代ならビートルズ(画像参照)を連想するに違いない。港町リバプールで誕生した初期のビートルズが、歴史的に関係の深い「小ロンドン」とも呼ばれていた多種多様な商人の溢れる街ハンブルグに一時身をおいたのもようやく頷けるわけだ。彼らにとっては、もちろん稼げるからだったらしいが…。

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