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| https://www.nishinippon.co.jp/image/929808/ |
これが同志社の教育の理念ではないのか。同志社国際高校の校長や教員は、このエピソードすら知らないのであろう。あるいは知っていても、知らないふりをしているとしか思えない。
新島襄は逃げなかった。今の校長は国会での参考人として呼ばれても、忙しいと逃げている。呆れ果てている次第。
ESDとアフリカの開発経済学をライフワークにしている元大阪市立高校教諭のブログです。ケニア、南ア・ジンバブエ、ブルキナファソに足を運びました。58歳で、マレーシアの日本語学校に3年半勤務、その後四国最西端の三崎高校公営塾塾長となり、64歳で大阪に戻り、兵庫県の私立高校の2年間を経て、4月から大阪市の私立高校にお世話になっています。 メールアドレス:bfa.katabiranotsuji@gmail.com
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| https://www.nishinippon.co.jp/image/929808/ |
これが同志社の教育の理念ではないのか。同志社国際高校の校長や教員は、このエピソードすら知らないのであろう。あるいは知っていても、知らないふりをしているとしか思えない。
新島襄は逃げなかった。今の校長は国会での参考人として呼ばれても、忙しいと逃げている。呆れ果てている次第。
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| https://www.expedia.co.jp/Kalimpong.dx6130351 |
結局、木村とともにヒマラヤを越え、インドのカリンボン(画像参照)の探索の依頼主だった新聞社に向かう。そこで、木村は東チベット行の報告書、西川は1mほどの大きな地図を作成した。しかし、インドとパキスタンが分離独立し、イギリスがインド大陸から手をひくことになった。木村は報酬を受け取ると石油の担ぎ屋になったが、西川はチベット全図の地図を描き、そのまま新聞社の仕事をすることになった。それはラダック人のタルチン氏の人柄による。西川の、好意を寄せてくれた人に深く感謝し全力で応じ、身を粉にして働くという心性であった。カリンボンを訪れた巡礼者により、西川の所在がイシ師に伝わり、帰ってきなさいという手紙が届くようになった。胸を熱くしたが、西川は自由にインド放浪に出ることにした。タルチン氏からも強い引き止めを受けたが、餞別に英蔵辞書をくれた。
カリンボンの郊外にある火葬場の近くにあるラマ寺院に、仙人のような修行僧がいた。火葬される死者の霊を弔い、御詠歌がうまく、西川は彼から御詠歌を習うことにしたのである。インドでの托鉢で、ただ恵んでもらうのではなくお返し(御詠歌)がしたかったのである。ここには以前から顔なじみの西川と同じ名(ロブサン)という修行僧がいて、彼は仏師と呼べるほど見事な仏像を土をこねて作っていた。
入門にあたって用意したのは、ダンバルと呼ばれるでんでん太鼓、ホンコという鈴、人の大腿骨で造られたガンドンという笛、毛皮の敷物、人の頭蓋骨で造られた骨椀などである。修行の第一の課題は白骨の散らばる洞窟での坐禅であった。無念無想にはなかなかなれるものではない。ロブサンにヒントを貰った西川は、石ころを使い、置く距離を伸ばしていく。やがて、空の任意の一点を見つめることで無心に近づくことができるようになる。
次いで、老修行僧はシーチェパ派(シャーマニズムの要素を含んだシチュー派?)の聖典について説いてくれた。この派の聖典をいくつも暗記していく。ここで、ようやく御詠歌の修行に入る。右手で、でんでん太鼓、左手で鈴をならし、口で御詠歌を歌う。ガンドンの笛を吹くとその不気味な音に天地の悪霊が引き寄せられる。御詠歌を歌うと彼らは恐れをなして退散し、仏と菩薩の光に照らされるという構図である。西川は、三か月の苦行で、自在に御詠歌を歌えるようになった。
修業を終えた西川は、ブッダガヤ(釈迦が悟りを開いた地)、クシナガラ(釈迦入滅の地)、ルンビニ(釈迦生誕の地)の三大聖地を巡礼することに決めた。仏師ロブサンと後2名が西川に同行することになった。
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| https://www.youtube.com/watch?v=lxD-0z7T3bY |
昨日、参議院の文教科学委員会での伊藤たかえ議員の質問のYouTubeを見た。改めて、同志社国際高校、旅行業者などへの怒りが込み上げてきた。是非ご覧いただきたい。
https://www.youtube.com/watch?v=lxD-0z7T3bY
まずは、西田校長の始業式(礼拝での講話)での「事故が起こった直接的な原因は私にはないんですけれど…」「私たちの学校がしている平和教育というものは、思想的・政治的に偏ったものを提供するものではない。そんこことだけは信じてください。」「今回のこと、学校はある意味リスタート。平和の再構築のために、これから進んでいきます。」という発言…。
はっきり申し上げて馬鹿ではないのかと思う。反省のかけらも感じれない。しかも被害者への黙祷も行われていない。国語の教師であったらしいが、その国語力の低さに驚く。あれだけの事件を起こし、責任を回避し、教育基本法を破りながら思想的・政治的に偏ったものを提供するものではないとし、リスタートの意味さえわかっていない。彼に教育者などという称号はあてはまらない、いや人間として許せない。
また被害者の保護者のNOTEによると、被害者の遺品は、旅行社にボロボロの段ボールに入れられていたとのこと。まったくありえない話である。学校の配慮もクソもないし、旅行社もそのままにしていることが全く理解できない。人間の所作ではなく、鬼畜である。
これらのNOTEにかかれている内容を伊藤議員がするどく追求している。文科大臣も答弁書でありきたりの回答していて苦しそうであったが、大臣も被害者の保護者のNOTEを熟読しており、最後の答弁書抜きでの答弁では、議員と同感であることがわかる。
左翼の人間は、特に責任転嫁しながら体制側を批判することが常である。その一例として挙げておきたい話がある。日本共産党は、以前(45年前)石油備蓄について戦争準備だと大反対していたのだが、今回の石油供給危機にあたって、なぜもっと備蓄量を増やしておかなかったのかと批判している。彼らの党ポスターには「国民のためにブレずに働く」というコピーが書かれている。大嘘つきである。ブレまくっている。恥ずかしくないのだろうか?https://www.jcp.or.jp/web_download/16436/
結局校長は、アメリカ軍や国が悪い、と思っているのだろう。それは違う。被害者が出たのは、校長・学校の責任である。もし、教員が同乗していれば、(教育関係者の端くれとして断言するが)絶対人数確認を行う。ならば助かったかもしれない尊い生命なのである。
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| https://news.ntv.co.jp/category/sports/61d1a7a5a9c24a488b717511811d34da |
監督から投手専念を告げられた時はびっくりしたらしいが、チームの勝利が何より大事な大谷選手である。これを受け入れたという。
大谷選手は、ドジャーズにとっても、MLBにとっても、日本にとっても最高の宝である。ドジャーズにおける選手の丁寧な健康管理ゆえの投手専念。これからさらに連戦が続く。どうなるかはわからないが、何よりも怪我なく長く活躍して欲しいので、私はこの決定を支持したい。
ちなみに、今日はドジャーズでMLB初の黒人選手となったジャッキー・ロビンソンの背番号42(MLB全体の永久欠番)を敵味方全員が付けての試合だった。(画像参照)
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| https://dabohazj.web.fc2.com/kibo/note/kimura/kimurahisao.htm |
この時、西川は満年齢で28歳、180cmを超える大男。木村は25歳で150cmと小柄。まるで勧進帳の弁慶と義経であった。ただ興亜義塾では木村のほうが一期先輩というややこしい関係。旅の経験、体力では西川、蒙古語・チベット語の語学力では木村という違いがあった。この二人の認識・意識の差が、この旅で微妙な齟齬を生むことになる。
カムへの旅も酷いもので、「頭を割るような雨」や「雪盲」と戦いながら2か月かけて、チャムドまでたどり着いた。木村はここから引き返したいと言い出す。西川には日本男児の意地があると主張。玉樹という中国国境の町まで行くことになった。だが、ここで木村は国境警備隊に歯向かい、大揉めに揉め、軟禁されるはめになる。面白いのは、この旅では、持っていた(食料を得るための)「糸針」が、効果を発揮する。反対に、この「糸針」を狙らわれて匪賊に襲われたりもする。ラサに戻るまで、西川の記憶では、飢えて(日本食ではなく、蒙古やチベットの)食べ物の話ばかりしていたし、木村の記憶では、天皇がいようといまいと日本は生き残ると言ったのに対し、大逆罪もいいところだ、と大喧嘩もしていたらしい。
ともかくもラサに2人は無事戻るのだが、西川と木村の齟齬は、帰国後も大きく広がっていく。すでに最終章まで読んでいるので、ここに記しておくが、両者はGHQのG2の情報担当部局によって尋問を受けることになる。その後木村は、CIAの傘下にある外国語放送情報サービスで働くことになる。アメリカ大使館内でモスクワ放送、ウランバートル放送、北京放送の中のモンゴル語放送の内容を聞いて、要点を英語で記す仕事であった。26年間も大使館内で高給で働き続け、その後亜細亜大学のモンゴル語の教授になった。日・英・米の諜報活動に関わった稀有な存在となった。…西川の無骨な人生とは一線を画している。
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| https://tibettour.jp/tibet/Drepung-Monastery.html |
このあたりから、西川は担ぎ屋として生き抜いていく。煙草を積んでヒマラヤを越えるのである。ところが三度目のヒマラヤ越えで、凍傷になってしまう。カリンボンという街で物乞いの巣窟に潜み、物乞いたちに助けられた。インド人はチベット人以上に「喜捨」の精神に富んでいた。しかもキリスト教の伝道所にある無料の診療所に連れて行ってくれ、凍傷は回復する。しかし托鉢と物乞いは違うと意識した西川は、ラサに戻りラマ僧としての修行を選ぶ。
西川は、ラサに戻りデブン寺(画像参照)の蒙古人のイシ師に弟子となる。経典を暗唱する多忙な修行の毎日を過ごすが、8月1日から一週間は僧衣を脱いでも違法ではない。チベット人は猿の後裔(チベットにもトーテミズムが存在するようだ。)なので、林や河畔で過ごすのが好きだった。西川は、仲間の僧に泳ぎを見せてくれとせがまれる。蒙古人ラマ僧の間では、前述のヤクを連れ戻した話が有名だったからで、後に西川は、泳ぎの上手い蒙古人はやはり疑わしい存在だと後悔したという。
西川が不当なほど廟の徴用に駆り出され、先輩のラマ僧が憤慨していたが、イシ師は、ひとり「人の嫌がる労役に出ることは良いことだ。」と日本人には慣れ親しんだ考えを示してくれた。遊牧民的な蒙古人にはない考えで、西川を感激させた。零下20℃にもなる冬も裸足だった西川に合う靴を買ってくれようとしたが、大足の西川に合う靴がなく諦めざるを得なかったが、師の想いやりも嬉しかった。
http://blog.goo.ne.jp/gyp-vision/e/52 415d4f7d36c385343f6a399df601f1 昔々、私がまだ中学生だった頃、春休みを利用して東京の親戚の家に遊びに行ったことがある。当時、私はクラシック音楽に凝っていたのだが、早稲...