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しかも第2戦で大谷選手はリアル二刀流で、ついに連続出塁が途切れてしまった。第3戦も出塁なし。さすがに連戦の疲れが出て、修正が効かなかったようだ。今日は、マンシーが走りに走って勝ったし、さらにこれからに期待したい。
ESDとアフリカの開発経済学をライフワークにしている元大阪市立高校教諭のブログです。ケニア、南ア・ジンバブエ、ブルキナファソに足を運びました。58歳で、マレーシアの日本語学校に3年半勤務、その後四国最西端の三崎高校公営塾塾長となり、64歳で大阪に戻り、兵庫県の私立高校の2年間を経て、4月から大阪市の私立高校にお世話になっています。 メールアドレス:bfa.katabiranotsuji@gmail.com
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| https://news.yahoo.co.jp/articles/12a6b894ddf5d84905100d9416e27ab789fc3d26/images/000 |
辺野古の抗議団体オール沖縄には、ジブリの宮崎駿氏らから、活動資金として8億円も集めていたらしい。(この宮崎駿氏の関わりからオールドメディアの忖度=報道しない自由が指摘されている。)事件後、その決算書はHPから削除され、被害者への保障はできないとしているという。違法な活動をしながら、また資金がありながら保証できないというのはどういうことなのだろうか。彼らの活動が利権と繋がっているという疑惑は拭えない。これは犯罪ではないか。
抗議船は不法な場所(防波堤)から乗船していたこともわかってきた。ちゃんとした漁港からフツーに乗船していたとばかり思っていた。安全に何の配慮もない。修学(研修)旅行において、このような危険な場所からの乗船など考えられない。学校側(付き添い教員)・旅行社側(添乗員)は、なぜこれを許したのか。教育の現場では、全くありえない話である。文部省はこの点を厳しく調べて欲しい。
https://news.yahoo.co.jp/articles/12a6b894ddf5d84905100d9416e27ab789fc3d26/images/000
さらに、海上保安庁が警告をしているのに無視して事故を起こしており、近隣漁民が危険だとする海域へ侵入している。危機管理もクソもない。しかもSOS通報は、船長ではなく参加生徒から送られたという。これも信じられない話である。
学校も問題を起こした組織も現場での献花はされていない。選挙を控えた知事が今になって選挙パフォーマンスで献花したという。遺族からしたらふざけるなと言う話である。どうやら、船に乗っていた組織の人間が船長以外に1人おり、その人間は現在も座り込みに参加しているという。組織内でも抗議行動に対して、自粛派と継続派に分かれているらしいが、たとえ喪章をつけても、人間として事故に深く関わった人間が、遺族に謝罪もせぬまま活動を継続するのは、ゆるされるものではないだろう、と私は思う。
県は、文部省や海上保安庁などが動いており、出来ることと出来ないことがあるなどと言っているようだ。沖縄の警察は知事の指揮下にあり左派に甘く、マスコミ(沖縄タイムス・琉球新報)も左派勢力であり、この事件についても報道は抑えられているという。沖縄県政は、まさに暗黒の状況である。
たしかに、沖縄に米軍基地が集中し、それに反対する気持ちもわからぬではない。だが、反対組織を支持しようと思っても、その人間性の欠如は、あまりに酷すぎる。今回の犯罪的な事件で、多くの人々はそう考えるのではないか。支持の集まらない政治運動は自己満足でしか無い。
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| https://www.youtube.com/watch?v=368NKMlRzgw |
ベッツやフリーマンの代役で若手も頑張っている。マンシー選手やロハス選手といったベテランも大活躍していた。さてさて、この4連戦には、もう一つの見どころがあった。大谷選手の連続出塁記録である。今日現在で52試合連続である。ベーブ・ルースの記録を抜き去った。とはいえ、まだまだ上がいる。おそらくご本人は記録のために野球をやっていないと思う。ただただ、チームの勝利のためである。それがたまたま、この記録になったといったほうが良い。でもファンとしてはさらなる記録更新を期待してしまうところ。ロハスの1000安打達成も嬉しい。今季で引退する必要はないぞ。
カトマンズでは、顔見知りの先輩ラマ僧の面倒を見ていたが、かなり回復してきたのでチベットに近いインドのカリンボンまで連れて行くことになった。1年ぶりに火葬場の老修行僧と再会した。 ビルマ潜入を考えたが、ビザが必要ということがわかった。ところがグルカ兵には移民の門が開かれており、彼らはカルカッタとアッサムを結ぶ鉄道工事の人夫をしながら入国許可を待っているらしい。ところで西川は、英蔵辞典は持っていたが、蔵英辞典を欲していた。チベット語をさらに深めるためだった。結局、ダージリンに70ルピーで5冊残っていることがわかった。工事現場では、1日2.5ルピーになるという。この費用を稼げてしかもビルマに行けそうで絵ある。…採用された西川はなんと恵まれているのだろうと思った。
(蒙古からの)駝夫の日々、物乞いたちとの日々、デブン寺の初年坊主の日々、新聞社での見習い職工の日々、そして工事現場での人夫と、全て人から見れば最下層の生活であったかも知れないが、自由に自分で選んだ生活である。やめたければいつでもやめることが出来たし、この低い生活を受け入れれば、失うことを恐れたり、階段を踏み外したり、坂を転げ落ちることを心配することもない。
…しかも西川は、ラマ僧として、巡礼の旅は托鉢や御詠歌で食を得てきた。西川にとっては幸せな日々だったと私は思う。自らの体力で数々の困難を乗り越え、それに喜びを感じる日々だったに違いない。
しかし、この旅が急に終わる時が来る。工事の休日に、現場監督とインド人警察官が来て、「君はニシカワだね。」と尋問されたのだった。この背景は、木村がラサから中国人ともども国外追放になり、カルカッタで密航しようとして拒否され、日本人がいることがバレると危ないと自ら自首し、西川のことも白状していたのである。
プレジデンシーという刑務所に二人は収監される。運動場から監房に戻る共産党の青年たちは隊列を作り「インターナショナル」を歌っていた。チャンドラ・ボースの甥やネルー狙撃犯もいた。西川を喜ばせたのは、蔵英辞典が送られてきたことである。取り調べの時になんとかしてあげようと言われ、代金を渡してあったが、約束をきちんと果たしてくれたのだった。西川と木村は、カルカッタから日本へ向かう英国船籍の貨客船で帰国する。ラングーン、ペナン島、シンガポール、香港を経由して…。大隅半島が見えた時、目が潤んだのは当然であろう。ただ、同時に8年に及ぶ長い旅が本当に終わってしまう物悲しさがあった。
…すでに、山本の帰国後のことは記しておいた。(4月15日付ブログ参照)西川とは全く違う。たしかに山本は大学教授にまで出世したのだが、私は西川の「美学」にこそ惹かれる。おそらく著者の沢木耕太郎もそうだろうと思う。西川は、この旅の記録を残そうと原稿を書き続けたが、その後は、365日地道に働き続けた。二人ともすでに鬼籍に入っている。沢木が西川の本棚整理を家族に頼まれて。山本の書いた『チベット潜行十年』を発見したのが、西川が読んだ形跡はなかった。またインタヴューで「(最後の帰国のきかっけとなった自首に際して)あなたが木村さんの立場ならどうされていたか?」「木村くんの意思を確かめてます。」と述べている。西川の『秘境西域八年の潜行』には「(木村に)密告された。」とある。かなり強い表現である。よほど悔しかったのだろう。
…西川にとっては、まだまだ旅を続けたかったのである。またその自信があったに違いない。西川の「美学」、これは、今の日本で忘れさられた「心象」のような気がしてならない。だからこそ、本書が胸をうつのではないだろうか。
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| https://www.reddit.com/r/delhi/comments/qtm8f7/birla_mandir_in_delhi/?tl=ja |
西川が1人で向かったのは、祇園精舎であった。途中の集落で御詠歌を歌い托鉢すると、大量の食料を喜捨され、村中の人々が御詠歌を次々にリクエストする。御詠歌が尽き、チベットや蒙古、中国、朝鮮の歌から日本の唱歌まで歌った。皆嬉しそうに聞いてくれ、さすがに疲れ果てたので、インドの歌をリクエストすると喜んで歌ってくれた。夜にはさらに若者もやってきて御詠歌を歌った。(あまりの好評さに)夜明け前に集落を離れた。まるで夜逃げだと可笑しくなった。
祇園精舎も樹木が生い茂り廃墟となっていた。中国寺の漢人僧は粥と酢の物と漬物をふるまってくれた。さらに炎天下を巡礼する西川の姿に心を動かされたというネパール人の若者の誘いで、バルランブルのマハラジャの王宮に喜捨を求めに行くことになった。マハラジャは20ルピーもの大金を喜捨してくれ寝台付きの個室と毎日の食事を提供してくれた。
さらにチベット国境に近いネパールからの出稼ぎ人から、自宅で読経して欲しいと頼まれた。ヒンドゥー教徒だがラマ教にも強い親近感があるらしい。多くの人が集まり歓待された。同じようなことが続く。何故このような事が起こるのか?今の自分には綺麗に欲がなくなっている。それが人の好意を誘うのかも知れないと西川は思う。
駅であった大学教授は、果物や菓子塁を喜捨してくれた。食べきれないので近くにいたチベット人と蒙古人巡礼者たちにも食べてもらっていると、教授が同じように座り込み、西川を通訳としてチベットや蒙古のことを訊ねてきた。周りにいたインド人も加わって、1時間の座談会となった。心温まる時間だった。
また、チャンドラ・ボースの軍隊の将校たちとも出会う。かれらには西川の容貌や細やかな動作に日本人らしさを見つけ、日本語で話しかけてきて、西川を驚かせたが、一緒にアグラに向かうことになった。タージ・マハルを見学した。その後、デリーに向かい、マハトマ・ガンジーが荼毘に付されたラージ・ガートで墓参りをした。
インド人実業家が寄進したビルラ寺(画像参照)では、守衛長に声をかけられ、蒙古から来たことを告げると遠来の客だからと宮殿のようなところに案内された。ヒンドゥー教の寺院だが、庭園には日本の建築技師による仏教寺院もあり、ここでビルラ氏と遭遇する。ラマ教について問われ、御詠歌も披露した。出発の日、守衛長に挨拶にいくと再びビルラ氏に合わせてくれた。100ルピーもの喜捨をしてくれたのだった。
…西川の単独インド行は、まさに仏の世界であった。ひとえに欲を持たず、修行で得た御詠歌のおかげでもあった。
デリーから、シーク教の大本山グルナーク寺に着く。アフガニスタンにまで行きたかったが戦乱の関係でここから先は移動できそうになかった。しかも次に訪れた街で、パキスタンのスパイの疑いをかけられた。留置場で3日間過ごし、香港に滞在経験があり、中国語を喋るシーク教徒の署長の登場で救われた。西川は、ネパールを目指すことにした。
…余談だが、シーク教徒はイギリス旧植民地に多い。私はカナダのトロント、ケニアのナイロビ、そしてマレーシアのKLでシークの人々と出会った経験がある。
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| http://sal.bigaku.biz/bo_tree.htm |
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ブッダガヤは、恐ろしく荒れ果てていた。菩提樹(釈迦が悟りを開いたので、菩提=悟りの樹:画像参照)の大木は、チベット寺のラマ僧によれば、一度は火事にあって焼失し、さらにイスラム教徒によって切り倒されたが、その度にまた芽を出し、大きく育ってきたのだという。菩提樹の密生している林で、西川以外の3人は実を拾い集めた。ラマ教徒にとってブッダガヤの菩提樹の実で作った数珠は、何者にも替えがたい貴重なものだったからだ。だが、いつ帰れるかも知れない故郷への記念品など必要がなかった。ネーランジャラー河のほとりで月光を浴びながら御詠歌を歌い続けた夜の喜び以上のものはなかった。
ラジキール(王舎城)はかつての仏教国・マガダ国の首都である。ここも荒れ果てていた。日本寺を西川が一人で訪ねるが、日本人僧侶は戦争が始まると引き上げてしまっていた。だが、仏間には香炉、蓮の花の造花、木魚、陶製の花瓶などあり、それを見られただけで満足しようと思った。
さらにサルナート(鹿野苑)に着く。中国寺には仏陀の一生を描いた日本人が描いた壁画があり、英語とヒンディー語と日本語で経緯が記されていた。5年ぶりに西川は日本語の文章を眼にした。
クシナガラでは、沙羅双樹の森があり涅槃像が横たわっていた。この周囲を真言を唱えながら回った。ルンビニは、ネパール側の国境地帯にある。ここも寂れていた。摩耶がイチジクの木の葉を握って釈迦を生んだとされる。記念品を求めない西川もこの木の川をお守りとして持ち帰ることにした。
ここから西川は、一人インド放浪の旅に出る。兄弟を失うような寂しさの中で…。
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これが同志社の教育の理念ではないのか。同志社国際高校の校長や教員は、このエピソードすら知らないのであろう。あるいは知っていても、知らないふりをしているとしか思えない。
新島襄は逃げなかった。今の校長は国会での参考人として呼ばれても、忙しいと逃げている。呆れ果てている次第。
http://blog.goo.ne.jp/gyp-vision/e/52 415d4f7d36c385343f6a399df601f1 昔々、私がまだ中学生だった頃、春休みを利用して東京の親戚の家に遊びに行ったことがある。当時、私はクラシック音楽に凝っていたのだが、早稲...