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| https://frgregory.hatenablog.com/entry/2021/01/15/205632 |
1759年、クルスク(ロシアのクルスク州州都/ウクライナから見れば東北の国境地帯)に、レンガ製造工場や建築業を営んでいた父(敬虔・誠実な人だったが、彼が三歳の時に死別)と父の家業を引き継いだ母(貧しい娘や身寄りのない娘を養女にすような気丈な人)の次男として生まれた。兄は商売を営み、彼を商売人にしようとしたが、向いていなかったようで宗教書を読みふけっていた。19歳になった1778年12月3日に、院長が両親と親しいサーロフ修道院に入門した。ちなみに翌日12月4日は、生神母マリアがエルサレム神殿付属の女子神学校に入った記念日である進堂祭であった。
修道院の雑務に励みながら、サーロフの森で厳しい修練の生活を送っているのを見学していた。1780年、激痛を伴う水腫を発病。医者の診察を拒み、「聖なる父、霊と体の真の医師、我らの主イエス・キリストとその母マリアにすべて委ねているので十分なのです。」と言った。10歳のときにも重病で生死を彷徨ったが、夢に生神母マリアが現れ、癒やされる軌跡を体験していたからで、この時も生神母マリアがペテロとヨハネを伴って現れ、祝福して彼の右腰に手を当て、穴が開いて水が流れた。この傷跡は生涯残ったという。その後、3年間療養することになる。奇跡のあった小屋跡には、聖堂と三階建ての病院が建てられている。
1786年セラフィムの修道名で修道士の誓いをたて、故郷の母と別れを告げる。27歳である。この頃から神秘的な奇跡を体験することが多くなり近くの森に小屋を建て修練を積む時間が多くなる。1793年に司祭となり、翌1794年に修道院を離れ、6kmほど離れた森での隠遁生活に入る。生神母マリアの聖像が飾られ、椅子代わりの木片1つが床に置かれ、ベッドはなし。ストーブにはほとんど火を入れず、四季を通じて白い麻の修道服1枚。いつも背負っている袋には大切な福音書。彼は、この地を聖山アトス(ギリシアの正教会の聖地)と呼び、小屋の周囲にイスラエルの地名をつけた。ナザレで生神母マリアのために祈り、ゴルゴダでは六時課と九時課(正教会の修道院の奉礼で、六時課は正午にイエスの十字架刑、九時課は午後3時でイエスの死をそれぞれ記念して行われる)を唱えた。タボル山では主の変容祭(イエスが光を発したよされる山/変容祭はそれを記念する祭)の福音を朗読し、ベツレヘムでは「至(い)と高きには光栄神に帰し~」の(イエスの誕生を祝う)聖歌を歌うといった具合である。
修道生活の基本である祈祷・斎(ものいみ:食事などの節制・断食)・独居・廉施(周囲の人や自然への優しい思いやりのある言動)を、人の霊魂を神の国へと運ぶ”四頭立ての馬車”と呼んだ。サーロフ修道院と同様の祈祷日課や最も厳しいと言われていた聖パコミコス修道院の夜間祈祷も行い、日曜日には司祭として修道院に帰り、領聖(カトリックで言う聖体拝領)も行っていた。有名な話で、小屋にやってくる熊や狼、兎、狐、狸、小鳥や蛇にも食料を分け与えていた光景が多くの修道士に目撃されている。(画像参照)
1804年3人の乱暴な農民強盗が、小屋に乱入した。土曜日だったので重症にも関わらず修道院に向かっているとこを発見された。血に塗れ意識が混濁していたが、7日目に生神母マリアがペテロとヨハネを伴って現れ、奇跡が起こり回復する。5ヶ月後には小屋に帰れたが杖無しでは歩けなくなっていた。強盗犯たちは捕まり牢獄に収監されたが、減刑と赦免を嘆願し。釈放された3人は修道院を訪れ謝罪したという。
またサーロフ修道院の当時の院長の永眠後、院長就任を断り、沈黙の修行に入っていく。1810年、長年暮らした小屋を離れ修道院に帰院。1825年、生神母マリアから「沈黙の苦行を終えて小屋に帰り人々に教えなさい。」という黙示を受け、15年間の沈黙をやびり、修道院近くの庵で、夜の8時まで人々に会った。修道士や聖職者、農民、商人、軍人、貴族などあらゆる階層、あらゆる年齢の人々が各地からやってきた。1789年、サーロフ修道院が庇護していた女性の共同体を、女子修道院を開くことに尽力した。1833年、ロシア歴の元旦の日曜日、祈祷後修道士1人ひとりに別れの挨拶と祝福をし、埋葬されるはずの土地を訪問し、庵で復活の讃歌をいつもより大きな声で歌った。そして、翌日、聖像の前で跪き、祈祷したままの姿勢で息を引き取っていた。
…なんとも感動的な生涯である。正教会最高の聖人と言われるのも納得である。








