2026年2月11日水曜日

正教会と数理神学1

https://note.com/koritakada/n/n28aca641d08d
『ギリシャ正教 無限の神』(落合仁司著)の備忘録的エントリー第1回目。まずは、本書の前提の確認。正教会では、三一論(=至聖三者:カトリックの三位一体とは聖霊の捉え方が異なる)で、神の無限(神性は無限で把握しえないものであり、把握しうるのはその無限性と把握不能性のみである。:ダマスカスのヨアンネスの定義)を説いている。さらに、有限な人間が神になること(厳密に言えば、聖霊:神のエネルギアによってペルソナ化)が可能であると説くわけであるが、これを数理神学の立場から証明しようとするのが本書である。これは同時に、仏教を始めとする多神教と一神教の誇張された対比を否定する方向に向かう。著者の所属する同志社大学の小原学長の本書の書評が端的に示してくれている。https://www.kohara.ac/research/2002/03/review200203.html

次に、数理神学の前提。ギリシアでは、無限のパラドクスに早くから気づいていた。自然数全体の数と偶数全体の数はどちらが多いのか。直感的には自然数全体であるが、どちらも無限故に等しい。アリストテレスは、この常に後続が存在する未完結の無限を「可能的無限」、完結し実現した無限を「現実的無限」と呼んだ。彼は、現実的無限については、思考することを禁止した。この呪縛が解かれるのは19世紀末である。(ただし、4世紀のギリシア正教の教父は神を、可能的無限ではなく、現実的無限であると宣言した。)

この呪縛を説いたのが、ゲオルグ・カンタール(画像参照)。自然数全体や実数全体など集合全体を1つの対象として扱い、無限集合の存在を明らかにしたのである。…本日はここまで。

2026年2月10日火曜日

総選挙の分析・総括のYouTube

https://www.youtube.com/@thesenkyo
今回の総選挙の余韻が、かなり残っている。歴史的な結果がそうさせているわけだが、様々な分析・総括のYouTubeを見ていると、なかなか興味深い。

まずは、中道革新連合の大敗について。元公明の組織票は元立民にどう影響したかという分析。言い当てて妙だと思ったのは、各選挙区の上記組織票・1~2万票は、野球で言うとスクイズのような存在。3塁に走者がいれば得点(当選)できるが、今回の立民の候補は3塁まで行っていなかったので死票化した、というもの。何故3塁まで進塁できなかったのか?立民は、「メルトダウン」してしまっていた。批判ばかりで、他の少数野党のように建設的な批判・アプローチに欠けており、野党第一党の役割を果たしていなかったし、急な新党結成で、従来の支援者も離れていく結果となったという分析があった。なるほどと思う。

私が、なにより大きいと思うのは、国民の嫌中意識である。立民の岡田氏の執拗な批判が、首相の例の台湾問題の発言を引き出した。これに中国が例によって様々な脅しをかけてきた。まさに岡田氏=立民はヒール的存在となったことが大きい。その後の首相の見事なまでの対応が国民の支持をかなり拡大した。中道革新連合を「中国協賛党」と揶揄する見方が生まれ、アメリカ(=自民)VS中国(=中道)という構図となったのも大きいのではないかと私は思う。中国は、今回の総選挙結果について、恫喝的な反応を見せている。全く懲りていない。

2026年2月9日月曜日

憲法改正が現実味を帯びてきた

https://www.honda.co.jp/magazine/article/202412vol01/
今回の解散総選挙で、与党が316+36で、352議席となった。これは、憲法改正の発議に必要な衆議院の総議員の3分の2(310議席)を超えたことになる。発議には参議院も同じく総議員の3分の2が必要(166議席)なので、現状118+18で136。50議席も足りない。改憲に賛成の党もあるので調整すればさらに増えるだろうが、今のところ「憲法改正が現実味を帯びてきた」としか言えないだろう。憲法改正は、自民党の党是である。首相が「国論を二分する論議」と言っていたのは、第9条改正とスパイ防止法くらいしか思いつかない。

第9条を現状に合わせて、「国権の発動たる戦争と武力による威嚇または武力の行使はと国際紛争を解決する手段として、永久にこれを放棄する」を、国際的に認められている(=国連憲章51条)の「個別的自衛権」「集団的自衛権」(緊急性と必要最小限度という条件あり)に合わせる改正案が見えてくる。国連憲章代7条の国連軍ならびにPKOについても付加するかもしれない。第2項の「陸海空軍その他の戦力はこれを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」に関しては、陸上・海上・航空の自衛隊(本日の画像は空自のブルーインパルス風のバイク隊:実に平和日本の自衛隊である。)を前項の目的を達するため保持するとするのが妥当だといえる。

「陸海空軍その他の戦力はこれを保持しない。」という条文は、アメリカがこの憲法を作成したのがバレバレの条文である。”その他の戦力”は、言うまでもなく海兵隊を意味しているからである。戦力を保持しないと言わせておきながら、朝鮮戦争や冷戦を巡って、アメリカの影響下で、警察予備隊、保安隊、自衛隊と改組してきた歴史があり、条文と現状が一致しないのは、小中学生が読んでも明らかである。これも妥当。

これらの国際法上の戦争規定と自衛隊の存在の明記は、国民の普通の感覚のように思われる。これでも反対するような左翼的な政党はすでに少数派になっている。さてさて…。

2026年2月8日日曜日

オーソドックスの教材研究Ⅶ

いよいよ、正教会の教材研究も三冊目になる。ここまで、スラブ西洋史学・宗教史学的な『東方キリスト教の世界』、イギリスの正教会司祭による説教的に7つの神を説いた『正教の道 キリスト教正統の信仰と生き方』を読んできて、なぜ佐藤優氏が正教会の教義を学ぶ必要性を同志社の神学生に説いたのか、また正教会においてヨハネの福音書が重視される理由についても、十分理解できたつもりである。だが、三冊目の『ギリシャ正教 無限の神』(落合仁司著)は、少し違った視点(数理神学)で正教会のテーゼを描き出しているので、興味深い。

およそ前2冊とかぶる部分は割愛しながら、エントリーしていこうと思う。数理神学といっても、私は完全文系人間で、数学は大の苦手なのだが、「集合論」をもとに進めているようなので、できるだけ平易に、私の理解しうる範囲で、備忘録を記していきたいと思っている。

2026年2月7日土曜日

正教会:永遠としての神

カリストス・ウェア著・松島雄一訳の『正教の道 キリスト教正統の信仰と生き方』の備忘録的エントリー、最終回の今回はエピローグとしての「永遠としての神」について。箴言は、「話すことは今のこの世での道具である。沈黙は来たるべき世の奥義である。」(シリヤの聖イサアク)

「我望む。死者の復活、ならびに来世の生命を。」正教会のミサで唱えられる『信経』(381年の二ケア・コンスタンチノポリス信経:12の条項の短文からなる。)は、来たるべき時に思いを馳せて、期待の言葉で結ばれている。とはいえ、ヨハネの福音書(3-2)には「愛する者たちよ。わたしたちは今や神の子である。しかしえあたしたちがどうなるのか、まだ明らかではない。」とある。ただ、聖書と聖伝は、繰り返し再臨を告げている。しかし、(当然ながら神の意思で定められる故に)その時期は知らされていない。

ハリトリスの再臨の時は魂も肉体も蘇る。魂と肉体は、もう一度結びつき1人の復活した人格として最後の審判を受けるために主の御前に進み出る。私たちの選択の行為のすべてが、目の前に示される時である。審判者は当然ハリトリスであるが、別の見方をすると、裁くのは私たち自身である。地獄にいる人は、自己定罪、自己呪縛する人であるので、「地獄の扉は内側から錠がおろされている。」というのは全く正しい。

復活の王国は、終わりのない国である。黙示録に「勝利を得る者には、隠されているマナ(出エジプト記で、イスラエルの民が荒野にある時、天から降ってきた黄色く蜜を入れた煎餅のような食べ物/上記AIの画像参照)を与えよう。また白い石を与えよう。この石の上には、これを受ける者のほか誰も知らない新しい名が書いてある。」とあり、それぞれの人は明確にその人自身であり、個性も保たれるが浄化され、一新され、輝かしいものになる。ヨハネの福音書(14-2)「主イイススはその憐れみにより、それぞれの人にその人の働きに応じて安らぎを与えられる。偉大な者にはその偉大さに応じて、また小さい者には小さい者にふさわしいように。」とある通りである。

永遠とは絶え間ない前進であり、果てしない成長であると、本書は結ばれている。

2026年2月6日金曜日

正教会:祈りとしての神

カリストス・ウェア著・松島雄一訳の『正教の道 キリスト教正統の信仰と生き方』の備忘録的エントリー、今回は「祈りとしての神」について。今回の箴言は、「正教の精神は祈りの賜物にある。」(パシレイオス・ロザノフ)という短いが、意味深長なもの。

著者は、主教として、教会・機密(=秘跡:サクラメント)・聖書を、正教会の信仰に不可欠な条件としている。この中で、西方で展開されてきた聖書の批判的研究について、学問的研究(聖書学や歴史神学など)は疑いなく存在し、十把一絡げに拒否するべきではないが、正教徒として、その全てを受け入れることは出来ない。聖書は、孤立した個人として読んではならないし、起源や様式史また編集史についての最新の諸理論に照らして読んではならない。教会の精神(教会のメンバーとして交わりの中で読む)を最終的基準とし、教父や聖人たちによってどのように理解されてきたのかということを意識し続けるべきである。聖書を読むことは祈りへと続く道である、としている。

さらに3つの段階について述べられている。修徳的生活(徳の実践)、自然の観想、神の観想である。ここでは、自然の観想における神学的な話を期しておこう。すべての事象には神の造られざるエネルギアが浸透し、その存在が保持されていて、全ての事象は神の存在を仲立ちとして人に伝える「神現」(テオファニィ)となっている。それぞれ事物の中心には、神のロゴスによって刻み込まれた内的な原理すなわちロゴスがある。このロゴスとの交わり(神のエネルギーとロゴスを見出す)に入ることが重要である。

正教会の伝統を伝える霊的な師父は、神の観想の段階では、否定主義的な祈りを実践する。雑念を払い、「イイススの祈り」(主イイスス・ハリトリス神の子や我罪人を憐れみたまえ)を繰り返す。そうして、ペルソナ的一致に向かう。ハリトリスに似る者になったとしても、ペテロはペテロ、パウロはパウロ、フィリピはフィリピで、それぞれの者がそれぞれの本性とペルソナ的自己同一性を保つ。聖人たちが神化するのは、神のエネルギアによるものである。

出エジプト記(20/21)に、モーセがシナイ山頂の「神のいる濃い闇」の中に入ったという描写がある。神が闇であるとは言われていない。ヨハネの福音書(1-5)「神は光であって、神にには少しの暗いところもない。」タボル山でのハリトリスの変容も光で示された。東西を問わず、聖人たちは身体の栄化の例が多い。モーセはシナイ山から降りてきた時、顔が光り輝き、誰もまともに見ることが出来なかったので顔にベールをかけたとされる。(上記画像は、適当な画像が見つからなかったので、AIで作成したもの)

…正教会における神化は、朱子学の理気二元論と共通点がありそうである。もちろん、理とロゴスと同じものとは考えにくいが…。だんだんと正教会がヨハネの福音書を重視していることがわかってきたのであった。また「イイススの祈り」を繰り返す祈りは、仏教の題目やイスラムの信仰告白との共通点を感じるのであった。このあたりは、やはり「東方」を感じるのである。

2026年2月5日木曜日

正教会:聖霊としての神

https://avantdoublier.blogspot.com/2013/08/blog-post_16.html
カリストス・ウェア著・松島雄一訳の『正教の道 キリスト教正統の信仰と生き方』の備忘録的エントリー、今回は「聖霊としての神」についてである。今回の箴言は、サーロフの聖セラフィムによるもの。「聖霊が人に降り、そこから溢れ出るものの充満で彼を覆い尽くすなら、彼の魂は言い表しがたい喜びでいっぱいになります。聖霊が触れるものは何であれ喜びに変えられるからです。天国は聖霊における平安と喜びです。内なる平安を求めなさい。そうすればあなたをとりまく何千人もの人々が救いを見つけるでしょう。」

ローマのカタコンベ(地下墓地)には、天を見上げ、両手を広げ、手のひらは上を向ける「オランス」という姿勢をとる婦人の姿が壁画に描かれている。この姿(画像参照:注/これはローマのものではない)は、聖霊を呼び求め、待ち受ける嘆願(エピクレシス)の姿である。

聖霊は、ギリシア語ではブネウマ(風ないし息)と呼ぶ。「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞くが、それがどこから来て、どこへ行くかは知らない。」(ヨハネの福音書3-8)その理解し難さにもかかわらず、正教会の伝統では、第1に位格(ペルソナ)であること。第2に、他の2つの位格と同等であることが重要である。聖霊はマリアに降り神のロゴスを宿した。ハリトリスを世に送ったのは聖霊であるし、イイススがヨハネの洗礼を受けた時、聖霊は彼の頭の上に鳩のカタチで降った。イイススを伝道に派遣したのも聖霊である。超有名な一節「主の聖霊が私に宿っている。貧しい人々に福音を宣べ伝えさせるために、私を聖別してくださった方である。」(ルカの福音書4-18)とあるように。

さらに復活後は、ハリトリス(すでに受肉していたイエスは死に、神と一体化していた故に)が聖霊を送り出す。(正教会では、カトリックと違い、イエスから聖霊が発するとはしない。)この聖霊降臨は、受肉の目的と成就を形成する。「ロゴスは身をとった。それは私たちが聖霊を受け取れるようになるためである。」(ウラジミール・ロースキー)また、最後の晩餐で、「真理の聖霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分について語るのではない⋯聖霊はわたしのものを受けて、それをあなた方に伝える」(ヨハネの福音書16-13/14)これも復活後のハリトリスを示している。

聖霊は、個人を人格(ペルソナ)へと作り変える。正教会の伝統では、信者の共同体への直接的働きかけがひときわ明らかにされており、ギリシア語でゲロン、ロシア語でスターレツと呼ばれる長老もしくは霊的父がいる。冒頭の箴言に登場したサーロフの聖セラフィムのような人々である。

https://one-piece.com/char
acter/S-Snake/index.html
⋯異教徒にとって、至聖三者の中でも聖霊が最も難解である。倫理の授業での聖霊の説明は、使徒言行録19にあるパウロの洗礼をうけた人々が異言(異国語)を発したことくらいである。今回の備忘録では、少しばかり深まった気がするが、どうもわかりにくい。ちなみに、聖セラフィムの名が出てきたが、このセラフィムは最上位に位置する熾天使(してんし:6枚の羽をもち、神への愛で燃えている)である。セラフィムと聞いて、何と言っても想起するのは、ONE PIECEの人間兵器・セラフィム。王下七武海とルナーリア族の血統を受け継ぎ背中に火がついている。(右の画像はSスネーク)⋯なるほどと、膝を打った。