2024年4月26日金曜日

イスラムとErich Fromm

中田考氏の「イスラームから見た西洋哲学」(河出新書)の備忘録、第9回目。まとめに入るつもりだったのだが、フランクフルト学派のフロムの話が非常に印象的だったので、もう1回現代哲学編をエントリーしたい。

フロムは、フランクフルト学派の中でも、一番宗教的で、鈴木大拙とも対談していて、『禅と精神分析』という共著もある。フロムは、人間には「有る」と「持つ」という2つの生活様式がある、と言う。有る生活様式とは、生成変化の過程として現在を生きることであり、持つ生活様式とは、なにかを固定して永久に保持しようとすることである。フロムは言語分析を行う中で、セム語のアラビア語・ヘブライ語には英語の「持つ(have)」がない、フロムによると、「持つ」の多用は資本主義の特徴で、haveに名詞をつける表現がどんどん増えている。生きているものは不断に生成変化する。所有できるものは死んだもので所有するということは対象を殺すことになる。

その例として、ここで突如漫画『ドランゴん桜』で、発達障害の昆虫好きの少年の話が登場する。先生たちは、昆虫の標本を与えるが、彼は全く興味を示さない。少年は生きた昆虫とともに生きることが好きなのに、資本主義の健常者である先生たちは、昆虫を殺し、その死体を標本にし、所有して飾っておくことが昆虫好きだと信じているわけで、まさにフロムの持つ生活様式、資本主義的生活様式であるが、障害者扱いされている少年は有る生活様式で、それにドラゴン桜木が気づくという話である。…見事な説明である。

またフロムは、領域国民国家システムそれ自体、またその中で生きる人間の病理についても述べている。「人間の歴史の中で、様々な偶像が崇拝されてきたが、今日、それは名誉、国旗、国家、母、家族、名声、消費といったいろんな名で呼ばれる。けれど正式の礼拝は神であるというたてまえからいって、今日の偶像が人間の崇拝の本当の対象となっていることはなかなか見破られない。かつて、神に捧げられる人柱があったが、戦争におけるナショナリズムや国家という偶像に捧げられる現代の人柱の間には、我々が考えるほどのひらきが実際にあるのだろうか。」(ユダヤ教の人間観)

…これまで、古代哲学以来、批判的な論述が多かったのだが、領域国民国家システムを批判し、カリフ制論を展開しているイスラム哲学者でもある中田考氏が、このフロムの影響を受けていると言う。実によくわかる気がする。

2024年4月25日木曜日

イスラムと Lévi-Strauss

中田考氏の「イスラームから見た西洋哲学」(河出新書)の備忘録、第8回目。いよいよ終盤である。本日はレヴィー=ストロースの話になる。中田考氏は構造主義を当時流行していたマルクスの唯物史観のような歴史主義や実存主義のアンチテーゼだとして論じている。20世紀中盤には、構造主義がマスクス主義の力を削ぎ、とどめを刺したというわけだ。たしかに、人文社会化学の潮流は、歴史分析から構造分析に変化したといってよい。

さて、このレヴィー=ストロース、イスラムが非常に嫌いだったらしい。ただし、非常に屈折した言い方をしていて、仏教、キリスト教、イスラム教を並べて、仏教を一番高く評価し、歴史的にキリスト教、イスラム教は劣化した、それもイスラムが立ちふさがったことでキリスト教が仏教に戻る可能性が断ち切られ、キリスト教がイスラム化したという言い方で批判している。これは、人類学者的な民族的視点であって、聖書学者や仏教学者もとんでもない理論だとしているそうだ。

ブッダは、ギリシアの哲学者たちと同類のアーリア系だが、(ローマ軍人との私生児説から見ると)イエスは、セム人(ユダヤ人:マリア)とアーリア人の混血、ムハンマドはセム人、アーリア的な仏教に回帰したほうが女性的で平和な世界、多文化を許容する世界ができたはずなのに、セム的なイスラムがヨーロッパとアジアの間に生まれたために現代社会は殺伐たるものになったと、レヴィー=ストロースは、アーリア民族主義者的な視点を「悲しき熱帯Ⅱ」の中で述べている。そもそも、レヴィー=ストロースはユダヤ系の人なのだが、かなり複雑な思いがあったのではないかと、中田考氏は述べている。もちろん、とんでもない理論として反論もなされていない。

2024年4月24日水曜日

イスラムと Wittgenstein

中田考氏の「イスラームから見た西洋哲学」(河出新書)の備忘録、第7回目。いよいよ現代哲学に突入である。まず、ヴィトゲンシュタインとイスラムの関わりであるが、中田考氏の見識はすこぶる深く、論理実証主義を見事に解き明かしているのだが、難解に過ぎるので、その部分は割愛したい。以前から、ヴィトゲンシュタインについては、一度本気で読んでみたいと思っていた。その際にまた参考にさせてもらおうと思う。よって、イスラムとの関わりに絞ってエントリーしておきたい。かのヴィトゲンシュタインの前期哲学の集大成である「論理哲学論考」の有名な結論「およそ語りうること明晰に語りうるし、語り得ないものについては沈黙しなければならない。」で、沈黙すべきものを彼は「神秘的なもの」と名付けている。

ヴィトゲンシュタインの「神秘的なもの」の一つは、自己であると中田考氏は言う。自己は世界の中にはなく、世界の外との境界にある。世界の中にはいかなる価値もなく、しかし世界の外には、「語り得ないもの」すなわち神がいる。自己は、接点、接面といった比喩でしか語れないものであり、しかも実際には人間は4次元の世界で生きているので、時間にも厚みがあるはずで、それが哲学の一番の問題であるとと考えているとも。自己は存在しないという命題は哲学化されたイスラム神秘主義の中では、これが通説で、人間は存在せず、自己も存在せず、神だけが存在すると言われてきた。シーア派のイルファーン哲学では、これを理論化しようと試みているが、中田考氏は成功しているとは思っておらず、それに対して、スンニー派は理論化せず、沈黙し、言葉で語るのではなく実践の中で示そうとしてきた。よって、スンニー派は、ヴィトゲンシュタイン的と言えなくもないとのこと。

後期ヴィトゲンシュタインの「言語ゲーム」については、言葉は生活様式の一部で単語にあらかじめ決まった意味もなければ決められた使用法もない、逆にそのような先入観を捨て虚心に実際の言語の使用法を観察することが哲学の仕事だ、とヴィトゲンシュタインは主張するが、イスラムは、全くの逆で言葉には正しい意味と正しい使用法がある、それがクルアーンの言葉であり、ムハンマドが弟子たちに語った使用法の中に示されている、と全く逆の立場を取っている。このため、イスラムでは、クルアーンの意味論的意味を確定するために、イスラム以前のアラビア語の語彙を収集し、数十巻にも及ぶレキシコンを編集すると同時に、預言者の言葉だけでなく。彼と弟子たちの言動を記録し、彼らが生きた生活様式をできる限り変えずにそのまま維持することに努めてきた。(…まるで荻生徂徠の古文辞学の如くである。)ここで、イブン・ターミヤが登場する。法学的に、ヴィトゲンシュタインの言語ゲーム論と同様な理路(虚心で意味を探る)で、預言者とその弟子たちの生活様式を守ることでがクルアーンの意味を正しく理解できると考えた。イブン・ターミヤは、復古主義を唱え、神学的にこの宇宙を超えたこと、語り得ないことに関しては、この世界の外からきた言葉、クルアーンに自ら語らせ、その具体的な内容については自分の言葉を付け加えないとすることで、「語り得ないことについては沈黙する。」という同じ立場をとったといえると、中田考氏は語っている。

…なかなか興味深い内容だと思う。しかし、中田考氏の見識は感動的なほど深すぎる、と私などは思う次第。

2024年4月23日火曜日

久々に気候区分のPPを作成

地理総合の特進コースは、教科書どおり進んでいるのだが、総合コース・看護コースのクラスは、受験には全く関係がないので、ケッペンの気候区分から始めている。地理という教科は、空間上の法則性こそが主眼なので、ケッペンの気候区分はまさに法則性の権化のような存在なのである。このあと、農業、そして文化へと進んでいくのにも都合が良い。

まずは、A・B・C・D・Eの気候帯の名前を無理やり覚えてもらう。その後、A・C・Dに登場する、f・s・wを覚えさせる。BとEは大文字の連記でBW・BS・ET・EFを覚えてもらう。それぞれ2分程度の時間で、次々指名して確認している。その後、「Afは?」「熱帯で1年中雨がフルフル」などと答えてもらう。さらに、A・C・D・Eの分類(たとえば、C:温帯は最寒月が18℃以下-3℃以上であるとか、ET:ツンドラ気候は、最寒月-3℃以下で、最暖月は0℃以上10℃以下だとか)を頭に入れてもらい、最後にCfaとCfbの相違とBWとBSの降水量の相違を教えるわけだ。これは、今まで地理を教えた生徒全てにやってきた。

次の授業では、各気候区の分布図を見ながら、グループワークで、その法則性を探ってもらった。なかなか難しいのだが、考えてなんぼ、間違ってなんぼ、(大阪弁で「なんぼ」とは価値があるという意味)の授業である。黒板に、じゃんけんで買った順に好きな気候区の法則性を書いてもらった。するどいものもあったし、大笑いしたものもあった。

さて、いよいよ各気候区の詳細を語っていく。今日は、そのためのパワーポイントを作成していた。プリントに合わせて、AとBの気候区の様々な資料を組み込んだ。画像は、BW(砂漠気候)のブルキナファソのサヘル地帯のモスクのオリジナル写真。日干しレンガの話をしようと思っている。さて、明日の初パワーポイント授業が楽しみである。

2024年4月22日月曜日

イスラムとニーチェ

中田考氏の「イスラームから見た西洋哲学」(河出新書)の備忘録、第6回目。ニヒリズムのニーチェである。ニーチェといれば「ツァラトゥストラはかく語りき」であるが、このツァラトゥストラは、イスラムでも預言者に入れいているゾロアスターのことである。よってニーチェは、非西洋的なものを肯定的に捉えていたといる。キリスト教批判を通じてニヒリズムと対決したが、イスラムを批判していないと中田考氏は好意的である。

さて、このニヒリズムは、宗教や全ての価値観の否定に繋がる、と中田考氏は懸念しており、新自由主義に回収されつつある自己責任論が強まり、金を稼げない人間は生きる価値がないように思われ、AIの進歩は科学的・合理的に決定されるべきだという風潮になり、やがて人間とくに老人は不要になり、子供さえ負担であるというといった流れが想起されると記されている。ニーチェは、死に際して、今後2世紀はニヒリズムの世紀になると予言しており、中田考氏はこの流れを堰き止めるのはイスラムだと確信している。

さて、ニーチェとくれば、ルサンチマンである。キリスト教は、怨念、恨み、弱者の宗教であるとニーチェは批判する。また、今のキリスト教はパウロ教であるとも指摘しており、現在の聖書学の常識の先駆者でもる。新約聖書は、使徒行伝のほうが福音書より早く書かれており、パウロの弟子であるルカ文書がその中心を成している。パウロはまぎれもなく元パリサイ派のユダヤ人であるが、面白いことが記してあった。ユダヤ人というのは、母系制(母親がユダヤ人ならその子はユダヤ人)であるが、これは、アブラハムの長男・イシュマエル(アラブ人の祖とされる)の母親はエジプト人なのに対して、次男のイサク(ユダヤ人の祖)の母親はサラなので、アブラハムの血統は母系となったという論があるらしい。ユダヤ人が作り上げた母系制話だというわけだ。(人類学者エドモンド・リーチの「神話としての創世記」)イエスの父親はローマ人兵士だという説があり、ユダヤ人ではないという説さえあるようで、ニーチェは「アンチ・キリスト」の中で、「キリスト教徒は1人しかおらず、その1人は十字架で死んだ。」という有名な言葉を残している。

ユダヤ人は国を失い迫害を受け、力がなくて、だがその事が善であるという逆転した考えを持っていた。迫害されている人間が正義であるというルサンチマンの教え(=道徳)を広めていった。この弱者の論理をニーチェは指摘し、キリスト教も、ローマの下層階級に広まったとされる。ギリシアを中心とした古典学者だったニーチェは、「良い」というのは、本来劣ったものに対する貴族の自己肯定を表す言葉で、身分的な意味での「貴族」「高貴」が基本概念で、そこから派生した卓越性が「良い」だとしている。このユダヤ・キリスト教のルサンチマンは、これを見事に逆転させたわけだ。

イスラムは、ムハンマドが自分を迫害した多神教徒に勝った征服者であり、ルサンチマンの宗教ではない。強いものは強く、弱いものは弱いなりに自分の力に応じて義務を負う、そして人間の力というのは、人間自身の力ではなく、神に従って正しく生きるための神から授かったものであり、力と責任とは論理的に対になっている概念である。この考えを、中田考氏は、高校時代にニーチェに学び、イスラムの教えを素直に受け入れることができたとカミングアウトしている。イスラムこそ、ニヒリズムを超克できる唯一の道として、この項を結んでいる。

…イスラムとニーチェ。思いもかけないような繋がり。興味深く読ませてもらった次第。

2024年4月21日日曜日

イスラムとフロイト

https://middle-edge.jp/articles/oZAb7
中田考氏の「イスラームから見た西洋哲学」(河出新書)の備忘録、第5回目。イスラムから見たフロイトである。さて、西洋哲学の基盤であるアリストテレスは、人間の霊魂について、植物霊魂、動物霊魂、人間霊魂といった重層性を説いたが、人間霊魂が下位の霊魂を支配している、とした。この西洋哲学の常識に対し、フロイトの無意識という概念は、革新的なアイデアだったと中田考氏は 記している。フロイトの言うエロスとは、もう少し広い「生:レーベン=ライフ」に近い概念で、精神分析学から当時最も抑圧されていた「性」に焦点を絞った。そもそもリピドー(欲動)の対象は多岐にわたるので、フロイトの定型発達論(肛門期から始まる性の発達理論)は、多型倒錯的であるという前提で示されており、LGBTなどは当たり前の存在であると中田考氏は見ている。

…昔「ここが変だよ日本人」というたけしの討論番組があって、在日外国人がが日本語での議論に参加していた。ベナンのゾマホンが出ていた番組である。ここで、同性愛のことがテーマになった回で、それを認める側と認めない側で大論争というか、あわや暴力事件というカタチになった。認めない側は、パキスタンのイスラム教徒の男性である。よって、私は、絶対的にイスラムでは認められないと考えていたのだが、中田考氏は、イスラム法学者として次のように述べている。

イスラムでも「定型発達論」を想定している。そもそも欲動があるから禁止がある。人間にそういう性向があるのは構わないが、欲望のままに行動してはいけない、と言っているわけで、実際に同性間で性行為を行うと処刑されるのか、というのもまた別の次元の話になる。イスラムでは有罪にするには4人の証人を揃える必要があるので実際には非常に難しい。イスラムは、人間の内面に干渉しない。性行為は最もプライベートなもの故である。そもそもイスラム法は、我々が考えている法律とは違う。最後の審判で神が裁くのがイスラム法で、同性性交をした人が最後の審判で裁かれるかどうかは我々が決めることではない。フロイトが暴いた闇の部分について、無理に暴き立てようともせず、理解しようともせず、最後の審判で神の裁きに委ねようとするのがイスラムの立場である。

…なるほど。あのパキスタン人は、「定型発達論」をもとにアクションを起こしたのだろうが、結局のところ、イスラム法学から見ると他者に干渉しないという原理、最後の審判で神の裁きがどう出るか、我々には知る由もない、ということを理解していなかったということになる。イスラムを学んでいると、かなり柔軟であることに気づく。彼のアクションが、日本の視聴者にイスラム教徒はガチガチである、という印象を与えたように思うのだ。

2024年4月20日土曜日

イスラムとマルクス

中田考氏の「イスラームから見た西洋哲学」(河出新書)の書評というより備忘録、第4回目。西洋近代哲学から、中田氏が選んだのは、マルクス、フロイト、ニーチェである。中田考氏が近代哲学から、この3人を選んだのは、啓蒙主義以来の理性を信頼した哲学から、その裏に隠された人間を突き動かす真の動因を明かした故とある。マルクスは、資本主義社会の、フロイトは人間の、それぞれ無意識をあばいたし、ニーチェはニヒリズムでキリスト教を批判した。今回は、まずマルクスの哲学についてエントリーしたい。

マルクスがまず批判対象としたのは、ヘーゲル哲学である。ヘーゲルの「アジア的停滞」を歴史哲学からマルクスは継承している。(自由を実現する絶対精神は、オリエントの専制主義=たった1人が自由な社会から始まり、より多くの自由を実現していく。)マルクスは、唯物史観で唯物論に立脚し、ヘーゲルを超克しようとしているが、中田考から見れば、唯物論は、結局のところ唯心論に帰結する(=唯物だと人間の心が決め、感じているに過ぎない。)と一刀両断である。「共産党宣言」にしても「唯物史観」にしても、理論というよりも正義感・熱情によるものだとしている。マルクスの無神論も同様で、深い哲学的思考によるものではないと断じている。

ただ、歴史を直線的に見る「終末論」では繋がる。唯物論、無神論を唱えながらも、一神教のロジックを完全に踏襲している。もう一つ、マルクス経済学による「搾取」(=剰余価値説)は、イスラム経済の搾取禁止と繋がる。イスラムでは、商売は互いの相互満足による契約として認められているが、利子は認められていない。労働者の賃金も同様で、「ウジュラ」(賃料)は、物の使用料も人間の労働に対してもクルアーン第4章29節が適応される。新自由主義的な自由契約絶対主義ではない。労使の関係が対等ではなく不正な圧力があって、双方が納得できない場合、契約に満足できなかったとして、標準価格の賃金を求めて抗弁することが可能で、不正な契約は法律上取り消しすることもイスラム法上では可能である。最低賃金法的な機能を有しているわけだ。

ところで、イスラム諸国でも、マルクス主義が流行したことがある。エジプト、シリア、イラク、リビア、インドネシアなどでイスラムとマスクス主義の融合しようとしたが、これは植民地から独立し、帝国主義に対抗するための解放の議論として、経済だったらマルクス主義がいいのではという流行であったと中田考氏は考察している。

…なかなか示唆に富んだ内容だった。何より、マルクスの正義感・熱情がマルクス主義を生んだという箇所は、当時のイギリスの悲惨な状況から十分理解できる次第。