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ESDとアフリカの開発経済学をライフワークにしている元大阪市立高校教諭のブログです。ケニア、南ア・ジンバブエ、ブルキナファソに足を運びました。58歳で、マレーシアの日本語学校に3年半勤務、その後四国最西端の三崎高校公営塾塾長となり、64歳で大阪に戻り、兵庫県の私立高校の2年間を経て、4月から大阪市の私立高校にお世話になっています。 メールアドレス:bfa.katabiranotsuji@gmail.com
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4回表に山本が2ランを浴びて、2年連続開幕戦勝利投手の権利を失うのかと思われたが、その裏、マンシーがヒット、テオヘルが内野安打の後、パヘスの3ランで逆転。ロハスもヒット、スミスの内野安打で4点目。7回裏、大谷の死球後、タッカーが2塁打で返し、ベッツも続きタッカーが帰り、スミスが2ランHR。これで8対2。山本が6回まで投げて、後はトライネン、クライン、スコットの継投で無得点に抑えた試合だった。クラインは、あの伝説的なWSの延長戦で4回も投げ無失点だった影のMVPだが、トライネン、スコットという名前は昨年の投壊を思い出すのでヒヤヒヤした。(笑)
横綱相撲というか、まさに横綱野球。大谷選手は、第1打席でヒットを打ったが、NPBも含めて開幕戦のHRはないらしく、ジンクス通りだった。昨年は東京の第2戦で一発があったので期待が膨らむところ。
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| https://znn.jp/2020/02/post-25632.html |
まずは、「平和学習」について。辺野古基地の建設現場を、教員不在で抗議船に波浪注意報の中、生徒を乗船させるという行為は、過激すぎると言わざるを得ない。(過去の事例で、防空壕の中に閉じ込められ、泣き出したOGもいたという。)たしかに沖縄に米軍基地が集中しすぎており、それに対する批判があっても当然であると思うが、成田空港建設時の三里塚闘争で、反対派の”やぐら”(画像参照)にのぼる体験をさせるのに等しい、と私は思う。高校生の平和学習という範疇からは、大きく逸脱している。
教育関係者としては、付き添い教員が乗船しなかったというのが納得できない。北海道の修学旅行で漁船に乗せたことはあるが、当然同行した。教員が乗船するとなにかまずいことがあるのか、と疑うのは当然である。しかもこの抗議船は、法的に認められておらず、保険にも入っていない。これを承認した学校と旅行業者は、全くもって信じられない不誠実さである。
どうも、この抗議船と辺野古基地反対の組織には、某左翼政党がからんでいるようである。2隻のもう一方の船長は、その某左翼政党の地方議員であったことが後日判明した。その反対派組織の代表者は会見場で腕組みをしていて、世間の顰蹙をかった。
私は、この某左翼政党支持の教員に辟易したことが何度もある。選挙時に学校から保護者に電話をして投票依頼をしたり、社会科の教師の中には公然と思想教育のようなことをする者もいた。もちろん全ての某左翼政党支持の教員がそうであった訳ではないが、自らの正義を信じ込み、正義のために何をやってもゆるされるというスターリニズムを想起させられたことが多かった。
左翼に限らず、右翼にも、また宗教的な組織にも、独善的な一面がある。今回の事件でも、反基地闘争は正義であるというドグマがあからさまであった。組織の代表者の腕組みはそれを見事に体現している。しかし、死亡事故の会見に際して、腕組み(心理学的には自己防衛)をする幼児性は、極めて醜い。
思想というものは、突き詰めれば独善に陥りやすい。しかしながら、様々な思想が混在するのが社会の常である。互いの意見を尊重し合いながら物事を進めていく視野の広さを持つ必要がある。それこそが「平和教育」の根本だと思うのだが…。
改めて、大人たちの不誠実かつ独善的な所業によって、尊い生命を奪われた女子高校生に、心から哀悼の意を示したいと思います。合掌。
おそらくイランの革命防衛隊も黙って見ていないように思うので、今回の戦いで、これまでのアメリカの死傷者が極めて少ない状況が大きく変化する可能性が高い。
この威圧にイランが屈すれば良いのだが…。革命防衛隊の士気はどれほどなのだろう。すでにこれまで私腹を肥やしてきた上層部の多くは攻撃でやられている。最高指導者もいない中、ジハード(聖戦)の宣言もなされていない。シーア派の法源には、クルアーンやスンナ、イジュマーと共に「理性」(アクル)があるはずである。無駄に死傷者が増えないことを祈るばかりである。
今回もAI画像で、革命防衛隊の現場の逡巡というタイトルで作ってみた。
薩摩藩は、島津斉彬の時代、篤姫(斉彬の養女)を第13代将軍家定の正室にすえ、一橋慶喜に禅譲をさせようとしていた。一橋派(水戸藩出身故に優秀でも将軍にはなれない慶喜を、御三卿の一橋家の養子にして、次期将軍の座を狙う派閥:越前の松平春嶽と橋本左内・水戸の徳川斉昭・老中阿部正弘)の1人であった。しかし、斉彬は病死する。彼の尊王攘夷の思想(アジア主義と言った方がいいかも知れない)の影響は、その後の薩摩藩に浸透する。最大の後継者は西郷であると言ってよいが、同じ尊王攘夷と言っても長州とは一線を画す幕府内の改革派であった。しかし、南紀派の井伊直弼に権力闘争で破れ、安政の大獄で一気に暗転してしまう。
以降、薩摩は生麦事件をきっかけに薩英戦争を戦い、攘夷の限界を知ったのだが、蛤御門の変では、会津と幕府側で共に長州と戦った。
薩摩の転機となったのは、第一次長州征伐で、西郷の斡旋で無血の戦いに終わらせた。その後の長州もまた四国連合艦隊との戦いで攘夷の限界を知り、薩長同盟=倒幕へ向かうことになる。第二次長州征伐でも結局薩摩は動かず、14代将軍家茂の急逝で幕府側は兵を引く。
大政奉還という第15代将軍慶喜の策を薩摩は蹴り、軍事的な倒幕へ舵を切る。鳥羽伏見の戦いから、戊辰戦争へと進むわけである。薩摩藩の幕府内改革から、倒幕への方向転換が、全てを決めたと言えるだろう。
さて、先日学院の社会科のM先生と、幕末史で最も好きな人物を訪ねたのだが、大久保利通(当時は一蔵)の名が出た。たしかに、下士から久光に囲碁で取り入り、親友の西郷に並ぶ出世をした傑物であり、鳥羽伏見の戦いで岩倉具視と錦の御旗を捏造(本日のAI画像参照)し、水戸出身(藩是は家康の遺訓であり、同時に隆盛した水戸学は、朝廷への忠義を謳っている)の慶喜を朝敵扱いし、江戸帰還へと貶めた。私も最強の人物だと思っている。私は?と問われ、勝海舟と山岡鉄舟、さらに松平容保ら幕府側の逸材を挙げた。これはまあ、判官贔屓である。
幕末史の面白さは、膨大な数の魅力に溢れた人物像にあると思う。しかしメタに見た場合は、この薩摩の背信にこそあるといえる。
| 枚方宿 鍵屋資料館 |
歴史学というものは、様々な文献で明らかになった事実を元に語られる。枚方を往来した幕末時代の人物は多いだろうが、文献に残っているとなると、数は多くない。本日の講師は、京都女子大・大谷大学講師の中村武生先生である。基本的に京から大坂へは淀川の流れに沿って水路、反対に大坂から京へは陸路で枚方宿を通過することが多いとのこと、である。
まず最初に講じられた人物は、15代将軍徳川慶喜である。枚方北部の陣屋の代官の日記により、真夜中に徳川慶喜が通ったことが記されている。鳥羽伏見の戦いで朝敵扱いされ、松平容保らと大坂へ逃げた時のことらしい。当然ながら、間道や抜け道を5・60人の武士が事前に探索し、篝火をたいての逃避行だったようで、住民たちがかなり驚いたと記録されている。続いて、土佐の山内容堂の側近が残した日誌によると、文久3年1月に江戸を立ち、海路で大坂に入り、23日に枚方宿に宿泊していることが明らかである。当時の京では、安政の大獄で多くの公家やその家臣らも処分の対象となった。吉田松陰や橋本左内の方が有名だが、よくよく調べてみると多くの公家関係の名が認められる。すなわち、京からすれば、開国後の幕府が強権的に天皇・朝廷を蔑ろにした事件であった。ところが攘夷を唱える天皇への指示が急激に高まり、14代将軍徳川家茂を京に呼び寄せ協議することに成功した。それまで、将軍や大名が京を訪れることはほぼなかったのだが、この将軍の上京にあわせ、200万石以上の有力大名にも京にのぼることを命じた。これに応じたのが薩摩・長州・土佐であったわけだ。日記の原文を見ると、容堂は21日に大坂に着き、土佐藩邸に泊まっている。22日には薩摩の小松帯刀、大久保一蔵(後の利通)が御目道りしている。長州からの使者も来ている。
同年5月には、老中格の小笠原長行(ながみち)が、軍艦と1000の兵を率いて、徳川家茂の江戸帰還を促す行動も起きた。これは京を第二次の安政の大獄かとパニックにさせた。家茂側近の若年寄が枚方宿にやってきて押し留めようとしたが、小笠原は淀まで進んだ。この騒動は、結局老中水野忠精が、家茂の親書を持ってきて思いとどまらせた。この処罰のために家茂は江戸に戻ることを許された。結果的には、平和裏に家茂は江戸に戻れたわけである。枚方宿や淀はその歴史的舞台となったわけである。
その他、中山忠光や真木和泉、新選組と称される以前の壬生浪士だった芹沢鴨、近藤勇、土方歳三らの名も挙がっていた。先生は、時間制限がなかったら、もっと話したかっただろうと思う次第。
…この市民講座に向かうのに、枚方市駅から鍵屋資料館まで、京街道を妻と歩いた。東海道の延長線である。陣屋跡なども残されていて、かなりヒストリックな町並みであった。枚方に住んで長いのだが、こんな観光地っぽい雰囲気の場所もあったのかと驚いた。近隣の方にとっては当然ながら普段の道であるわけだが…。http://blog.goo.ne.jp/gyp-vision/e/52 415d4f7d36c385343f6a399df601f1 昔々、私がまだ中学生だった頃、春休みを利用して東京の親戚の家に遊びに行ったことがある。当時、私はクラシック音楽に凝っていたのだが、早稲...