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| https://christian-unabridged-dict.hatenablog.com/entry/2018/02/15/134759 |
カリストス・ウェア著・松島雄一訳の『正教の道 キリスト教正統の信仰と生き方』の備忘録的エントリー、今回は「人としての神」についてである。今回の箴言。「イイスス(=イエス)を渇き求めなさい。彼はあなたをその愛で満たしてくれよう。」(シリアの聖イサアク)
イイススとは、「救う者」という意味である。天使がハリトリス(=キリスト)の養父ヨセフに言った「その名をイイススと名付けなさい。彼は己の民をその諸々の罪から救う者となるからである。」(マタイの福音書1-21)さらに、ハリトリスという称号は、「膏(あぶら)つけられた者」を意味するメシアというヘブライ語のギリシア語での同意語である。「膏つけられた」とはすなわち「聖霊によって」ということで、旧約時代のユダヤ民族にとって、メシアは聖霊の力を受けてユダヤ民族を解放する未来の王を意味した。
イイススは、「シアントゥロポス」(神・人)である。実に神であり同時に人であるがゆえに私たちを罪から救う。人は神の元へ行けなかった。だから神ご自身が人となることで、人の元へ来た。脱自的な愛の内で、自分が創造したものになった。神は人として、人が堕罪によって拒絶した神と被造物との仲立ちという仕事を成し遂げた。藉身(:せきしん=受肉/神が人なること)は、人を解放する至高のみわざである。藉身した神・ハリトリスは神の本性と人の本性があるが、人となった永久のロゴスとしての位格があるのみである。福音書が伝えるハリトリスのわざと受難の全ては一つの同じ位格的主体、時と場所の内に人として生まれた永遠の神の子に帰せられる。
ハリトリスは父にこう言った。「私は、あなたからいただいた栄光を彼らにも与えました。これは、私たちが一つであるように、彼らも一つになるためであります。」(ヨハネの福音書17-22/23)彼は、結び目であり合流点である。神の藉身は人に神化への道を開いた。神化とはハリストス化されること、私たちが獲得するよう呼びかけられている「神の似姿」である。
ハリトリスは処女から生まれたことは、通常では新しい人格が存在することに対する否定である。藉身したハリトリスの位格はロゴスの位格であるからだ。正教会では、この「福(さいか)なる童貞女」をハリトリスの母として深く崇敬する一方、(カトリックの教義である)無原罪の懐胎の教理を不要・過剰(前述のアウグスティヌス主義批判の立場)とする。正教会では、マリアと洗礼者ヨハネとともに、旧約時代の聖性の極致・頂点と見ている。(要するに、マリアにも原罪はあるが、洗礼者ヨハネとともに最高の聖性をもっているということである。)
十字架上で「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」(マタイの福音書27-46:これはヘブライ語の旧約の詩篇22で、全文を見れば神への讃歌であるという説もある/画像参照)と叫んだことについて、どれほど重視しても重視しすぎることはない。主は私たちのために血を流すばかりか、私たちのために神を見失うことさえ受け入れた、あらゆる人間の苦悩と疎外に同一化し、自身で担うことによって癒やした、これ以外に癒やす方法がなかったのである。これが十字架のメッセージである。
ハリトリスの復活は、私たちを不安と恐怖から解き放った。十字架の勝利は確証され、愛は憎しみより強いことをはっきり示された。この世界に存在するいかなる闇も悪の力をも恐れる必要はない。正教会はこの意味を極限において理解する。正教会が、エキュメニカルな(教派を超え教会の再一致を模索する)対話に関わる時、この真正な復活を信じるか否かをまず問う。
⋯そもそも藉身(=受肉)や、十字架での疎外の言葉や、この復活の深い意味は、異教徒にとってはなかなか理解しがたいものである。とはいえ、今回も比較宗教学の立場では、正教会のスタンスがよくわかる実に興味深い内容であった。