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さて、国書には、3つの要求が記されていた。要約すると、1:アメリカの捕鯨船や中国に向かう商船が荒天で難破することもあり、その折には船員を救出し、財物を保護して引き取りの船が来るまで温かく遇して欲しい。2:石炭、食糧、水を補給しそれに適した港を解放して欲しい。3:国際情勢から見て、日本がオランダ・中国以外の国と貿易を禁じているのは不当である。5年または10年間試験的におこない、利益がないことがあきらかになった折には中止してもよい。というものであった。
第2回目の来航に際して、1年間、国論はなかなかまとまらなかった。筆頭老中の阿部正弘はアメリカ側の要求をおだやかな態度で拒否して時間を稼ぎ、海防を強化する方針を示した。来航直前、海防掛参与の水戸の徳川斉昭と阿部は、難破船員の取り扱いと補給の要求を入れるはやむを得ないと判断した。しかし、通商問題は幕府の基本政策に関わるのであくまで反対するとした。2度目の来航時、羽田沖までペリー艦隊は侵入した。結局横浜村で応接することになり、本書の主人公の1人である森山は、応接掛の林大学頭(幕府の御用学である朱子学者で林家の棟梁)のオランダ語と英語の通詞として再登場する。
林大学頭は、(前述の国書の要求について)「第1・第2については承諾する。しかし第3の交易については、国法でかたく禁じられているので承諾できない」。と最初から述べた。ペリーは、これに対する回答の前に、「突然ではあるがご意見を伺いたい。我が艦隊の1人の乗組員(陸戦隊員)が病死した。他国なら自由に埋葬できるが、貴国は特別に国法が厳しい。どの場所に埋葬すべきか、一応お聞きしたい。」儒学者の林は、「たとえ軽輩の者でも人命に重い軽いはありませぬ。浦賀の寺に仮埋葬すのがよかろうと存じます。」と答えた。ペリーは「浦賀まで戻るのはわずらわしい。今回の話し合いがつくまで1年でも2年でも留まるつもりであり、さらに死人がでるかもしれぬ。」といって顔をしかめた。林は自分たちの決断力をさぐる意図ありと推測し、「この横浜村の寺といたしましょう。後に改葬することがあるかもしれませぬが。」ときっぱり言った。ペリーは「非常に嬉しい。」と感謝の意を述べた。その後、「アメリカは、第一に人命を重んずることを基本としている、自国民は当然、他国及び国交のない国民も、漂流で難儀しているのを見れば力を尽くして救い手厚く扱うことを常としている。」「しかし、貴国は漂流したものを罪人同様に扱い、漂流していた自国民の帰国も見捨てている。非常に冷酷な国だ。」と述べた。
「我が国は、このままでは、日本近海で漂流民の多くの国民の生命を失う。貴国は人類の敵というレッテルを貼られるだろう。人類の敵に対しては国力を尽くして戦争し雌雄を決する覚悟である。」これに対し、林大学頭は、淡々と「我が国は決して仁慈なき国ではない。300年近く泰平が続いている。人命を軽んじていないからこそである。」(本書では、粗野なラゴタ号乗組員のことにも多くを割いている。エントリーしなかったが、脱走したり、ハワイ人の仲間を絞殺したりと、とんでもない連中であった。結局長崎からオランダ船で、マクドナルド氏と共に出国した。)ペリーもこの件(こちらは日本の悪評)を知っていたし、林大学頭も(こちらはアメリカ人の悪評)知っていた。
「もっとも、漂流民の中には、我が国の法を犯して逃走をくりかえすなどの狼藉に及び、やむなく拘禁したことはあります。それらの者どもが、貴国に帰り、あたかも罪人の如く扱われたなどと言いふらし誤った伝聞として広がったものであると推測いたします。我が国の国情につきお考えいただければ、疑念もたちまち氷解すると存じます。」と、ゆるぎない厳しさで語った。ペリーは「あなたの言われる如き国柄で、今後、薪、水、食糧、石炭等を与え、また漂流民を温かく扱うのであれば、これ以上言うことはない。今日以後、必ずそれを守っていただきたい。」と静かに言った。林は「承知つかまつった。」と答え、第1・第2の要求事項には諒解点に達した。問題はここからである。ペリーは強い口調で通商問題の承諾を迫った。…つづく。













