2026年3月28日土曜日

エチオピアの地下足袋

https://www.ryukoku.ac.jp/nc/news/entry-9397.html
YouTubeのショート動画で、エチオピアの雨季後の泥と格闘したJICAの専門家(田中利和 龍谷大学准教授)の活躍が描かれていた。最初は笑って見向きもしなかった現地の人々が、日本から持ってきた地下足袋を履いて、現在は喜んで牛耕をしている。地下足袋は、裸足や長靴に比べて泥でも踏ん張れるそうだ。この話が凄いのは、地下足袋を、現地の素材を使って、エチオタビというブランド名で地元民が現地生産し、雇用も生み出したことである。何から何まで中国製と中国人労働者でアフリカに迫ってくる中国と、少しだけ支えて持続可能性を追求する日本の国際協力の違いがここにある。お見事である。

https://www.youtube.com/shorts/RbtC8zsPTAU

同志社国際高校の事件 考2

https://sirabee.com/2026/03/17/20163529806/
沖縄辺野古の事件が、さらに深堀りされている。
教育関係者として、最も重要だと思うのが、過去の修学旅行の平和学習で、基地前で「座り込み」をさせられたというOBからの情報、ならびに学校からの書類”座り込みの注意事項”の存在が示されたことである。これは明らかに教育基本法14条第2項の「特定の政党を支持・反対するための政治教育、その他支持活動をしてはならない。」に違反している。また修学旅行のコース変更には、馬鹿馬鹿しいほど極めて高いハードルもあったようだし、普段から左翼的な指導に反発するれば単位認定も厳しくなったという証言がOBから出ている。同志社国際高校は、優秀な帰国子女が多い学校なのだが、民青やしばき隊の生産工場であったのか。

さらに、この辺野古の基地(元々辺野古には米軍キャンプが存在し、嘉手納基地から移転するための滑走路の延長工事)の反対派には、様々な労働組合(教職員組合や民放の労働組合も含まれる)から8億円とも言われるの多額の資金が集まっていることもわかった。転覆した船についても某左翼政党の機関誌に、寄付されたことが明確に載っている。しかしながら、辺野古の地元民の多数は基地の存在に反対ではないことも明らかになった。

一方、プロテスタントの各教会の多くが、左翼、リベラル派であり、反原発やLGBTへの支援をしており、その機関誌の1つ『キリスト新聞』には、犠牲になった船長(牧師)への追悼文が載せられているが、犠牲になった生徒のことは、全く言外であった。これは、実に不可解だし、これが宗教者による記事だというのが信じられない。https://www.youtube.com/watch?v=4PB8lEGEHxc

さて、危機管理に関しての指摘もある。海は命を奪うものである、という常識を、元空自の潜水士が何度も指摘していた。小さな船に大勢の生徒を乗せ、生徒が一気に移動した場合バランスを失うし、小船は横波に弱い。波浪注意報の中で出港すること自体考えられないと言われている。この出港に関して、責任を持って止めることが出来なかった事自体が、行政の怠慢(というか、反対組織と癒着していて動かなかった)であり、これは事故ではなく犯罪であると結論づけている。(前回記した私の北海道修学旅行での漁船体験では、かなり大きな船だったし、しかも広い漁港内を回遊したにすぎない。もし、波浪注意報が出ていたら、漁協が許可しなかったであろう。)
https://www.youtube.com/watch?v=0TIAjaeuILc

様々な事実が明らかになり、犠牲になった女子高生がますます不憫になるのだが、彼女の死を無駄にしないためにも、この事件の闇をさらに暴いていって欲しいものだ。オールドメディアの民放の労組は、報道しない自由を選ぶだろうが…。

2026年3月27日金曜日

開幕戦は横綱野球

https://www.youtube.com/watch?v=O3aVT1iiJvA
ドジャーズの開幕戦である。先発が山本由伸で、打順も、大谷・タッカー・ベッツ・フリーマン・スミス・マンシー・テオヘル・パヘス・ロハスという、どこからでもHRが飛び出しそうな凄い攻撃陣である。

4回表に山本が2ランを浴びて、2年連続開幕戦勝利投手の権利を失うのかと思われたが、その裏、マンシーがヒット、テオヘルが内野安打の後、パヘスの3ランで逆転。ロハスもヒット、スミスの内野安打で4点目。7回裏、大谷の死球後、タッカーが2塁打で返し、ベッツも続きタッカーが帰り、スミスが2ランHR。これで8対2。山本が6回まで投げて、後はトライネン、クライン、スコットの継投で無得点に抑えた試合だった。クラインは、あの伝説的なWSの延長戦で4回も投げ無失点だった影のMVPだが、トライネン、スコットという名前は昨年の投壊を思い出すのでヒヤヒヤした。(笑)

横綱相撲というか、まさに横綱野球。大谷選手は、第1打席でヒットを打ったが、NPBも含めて開幕戦のHRはないらしく、ジンクス通りだった。昨年は東京の第2戦で一発があったので期待が膨らむところ。

2026年3月26日木曜日

同志社国際高校の事件 考

https://znn.jp/2020/02/post-25632.html
沖縄・辺野古基地建設現場を視察する平和学習で、乗船していた女子生徒が水死した痛ましい事件について、かなり情報が出揃ったので私なりに考察しようと思う。同志社国際高校は、現・京田辺市(当時は田辺町)に住んでいた私にとって身近な存在である。同志社大学(京田辺キャンパス)と同志社女子大学に隣接した、レンガ風の校舎で、好印象な学校であったので、実に残念である。

まずは、「平和学習」について。辺野古基地の建設現場を、教員不在で抗議船に波浪注意報の中、生徒を乗船させるという行為は、過激すぎると言わざるを得ない。(過去の事例で、防空壕の中に閉じ込められ、泣き出したOGもいたという。)たしかに沖縄に米軍基地が集中しすぎており、それに対する批判があっても当然であると思うが、成田空港建設時の三里塚闘争で、反対派の”やぐら”(画像参照)にのぼる体験をさせるのに等しい、と私は思う。高校生の平和学習という範疇からは、大きく逸脱している。

教育関係者としては、付き添い教員が乗船しなかったというのが納得できない。北海道の修学旅行で漁船に乗せたことはあるが、当然同行した。教員が乗船するとなにかまずいことがあるのか、と疑うのは当然である。しかもこの抗議船は、法的に認められておらず、保険にも入っていない。これを承認した学校と旅行業者は、全くもって信じられない不誠実さである。

どうも、この抗議船と辺野古基地反対の組織には、某左翼政党がからんでいるようである。2隻のもう一方の船長は、その某左翼政党の地方議員であったことが後日判明した。その反対派組織の代表者は会見場で腕組みをしていて、世間の顰蹙をかった。

私は、この某左翼政党支持の教員に辟易したことが何度もある。選挙時に学校から保護者に電話をして投票依頼をしたり、社会科の教師の中には公然と思想教育のようなことをする者もいた。もちろん全ての某左翼政党支持の教員がそうであった訳ではないが、自らの正義を信じ込み、正義のために何をやってもゆるされるというスターリニズムを想起させられたことが多かった。

左翼に限らず、右翼にも、また宗教的な組織にも、独善的な一面がある。今回の事件でも、反基地闘争は正義であるというドグマがあからさまであった。組織の代表者の腕組みはそれを見事に体現している。しかし、死亡事故の会見に際して、腕組み(心理学的には自己防衛)をする幼児性は、極めて醜い。

思想というものは、突き詰めれば独善に陥りやすい。しかしながら、様々な思想が混在するのが社会の常である。互いの意見を尊重し合いながら物事を進めていく視野の広さを持つ必要がある。それこそが「平和教育」の根本だと思うのだが…。

改めて、大人たちの不誠実かつ独善的な所業によって、尊い生命を奪われた女子高校生に、心から哀悼の意を示したいと思います。合掌。

2026年3月25日水曜日

カーグ島に陸軍空挺部隊も

イランの最大の石油輸出基地であるカーグ島の占領をアメリカは志向していのが確実のようだ。すでに強襲揚陸艦トリポリに、沖縄の海兵隊が乗り込んで出発した模様。一方、陸軍の精鋭部隊である空挺部隊も、輸送機で周辺基地に集結しているようだ。合計5000の兵力であるらしい。

おそらくイランの革命防衛隊も黙って見ていないように思うので、今回の戦いで、これまでのアメリカの死傷者が極めて少ない状況が大きく変化する可能性が高い。

この威圧にイランが屈すれば良いのだが…。革命防衛隊の士気はどれほどなのだろう。すでにこれまで私腹を肥やしてきた上層部の多くは攻撃でやられている。最高指導者もいない中、ジハード(聖戦)の宣言もなされていない。シーア派の法源には、クルアーンやスンナ、イジュマーと共に「理性」(アクル)があるはずである。無駄に死傷者が増えないことを祈るばかりである。

今回もAI画像で、革命防衛隊の現場の逡巡というタイトルで作ってみた。

2026年3月23日月曜日

幕末史をメタに見る

鍵屋での市民講座を受けて、久しぶりに幕末史についてメタに考えたいと思う。その結論は、薩摩藩の動向が極めて重要だということである。

薩摩藩は、島津斉彬の時代、篤姫(斉彬の養女)を第13代将軍家定の正室にすえ、一橋慶喜に禅譲をさせようとしていた。一橋派(水戸藩出身故に優秀でも将軍にはなれない慶喜を、御三卿の一橋家の養子にして、次期将軍の座を狙う派閥:越前の松平春嶽と橋本左内・水戸の徳川斉昭・老中阿部正弘)の1人であった。しかし、斉彬は病死する。彼の尊王攘夷の思想(アジア主義と言った方がいいかも知れない)の影響は、その後の薩摩藩に浸透する。最大の後継者は西郷であると言ってよいが、同じ尊王攘夷と言っても長州とは一線を画す幕府内の改革派であった。しかし、南紀派の井伊直弼に権力闘争で破れ、安政の大獄で一気に暗転してしまう。

以降、薩摩は生麦事件をきっかけに薩英戦争を戦い、攘夷の限界を知ったのだが、蛤御門の変では、会津と幕府側で共に長州と戦った。

薩摩の転機となったのは、第一次長州征伐で、西郷の斡旋で無血の戦いに終わらせた。その後の長州もまた四国連合艦隊との戦いで攘夷の限界を知り、薩長同盟=倒幕へ向かうことになる。第二次長州征伐でも結局薩摩は動かず、14代将軍家茂の急逝で幕府側は兵を引く。

大政奉還という第15代将軍慶喜の策を薩摩は蹴り、軍事的な倒幕へ舵を切る。鳥羽伏見の戦いから、戊辰戦争へと進むわけである。薩摩藩の幕府内改革から、倒幕への方向転換が、全てを決めたと言えるだろう。

さて、先日学院の社会科のM先生と、幕末史で最も好きな人物を訪ねたのだが、大久保利通(当時は一蔵)の名が出た。たしかに、下士から久光に囲碁で取り入り、親友の西郷に並ぶ出世をした傑物であり、鳥羽伏見の戦いで岩倉具視と錦の御旗を捏造(本日のAI画像参照)し、水戸出身(藩是は家康の遺訓であり、同時に隆盛した水戸学は、朝廷への忠義を謳っている)の慶喜を朝敵扱いし、江戸帰還へと貶めた。私も最強の人物だと思っている。私は?と問われ、勝海舟と山岡鉄舟、さらに松平容保ら幕府側の逸材を挙げた。これはまあ、判官贔屓である。

幕末史の面白さは、膨大な数の魅力に溢れた人物像にあると思う。しかしメタに見た場合は、この薩摩の背信にこそあるといえる。

2026年3月22日日曜日

枚方宿鍵屋の市民歴史講座

枚方宿 鍵屋資料館
枚方は、京と大坂を結ぶ水路であり街道であったという歴史がある。今日は、その歴史的な枚方宿の「鍵屋」で「幕末政治と枚方」というテーマの市民歴史講座に参加してきた。

歴史学というものは、様々な文献で明らかになった事実を元に語られる。枚方を往来した幕末時代の人物は多いだろうが、文献に残っているとなると、数は多くない。本日の講師は、京都女子大・大谷大学講師の中村武生先生である。基本的に京から大坂へは淀川の流れに沿って水路、反対に大坂から京へは陸路で枚方宿を通過することが多いとのこと、である。

まず最初に講じられた人物は、15代将軍徳川慶喜である。枚方北部の陣屋の代官の日記により、真夜中に徳川慶喜が通ったことが記されている。鳥羽伏見の戦いで朝敵扱いされ、松平容保らと大坂へ逃げた時のことらしい。当然ながら、間道や抜け道を5・60人の武士が事前に探索し、篝火をたいての逃避行だったようで、住民たちがかなり驚いたと記録されている。

続いて、土佐の山内容堂の側近が残した日誌によると、文久3年1月に江戸を立ち、海路で大坂に入り、23日に枚方宿に宿泊していることが明らかである。当時の京では、安政の大獄で多くの公家やその家臣らも処分の対象となった。吉田松陰や橋本左内の方が有名だが、よくよく調べてみると多くの公家関係の名が認められる。すなわち、京からすれば、開国後の幕府が強権的に天皇・朝廷を蔑ろにした事件であった。ところが攘夷を唱える天皇への指示が急激に高まり、14代将軍徳川家茂を京に呼び寄せ協議することに成功した。それまで、将軍や大名が京を訪れることはほぼなかったのだが、この将軍の上京にあわせ、200万石以上の有力大名にも京にのぼることを命じた。これに応じたのが薩摩・長州・土佐であったわけだ。日記の原文を見ると、容堂は21日に大坂に着き、土佐藩邸に泊まっている。22日には薩摩の小松帯刀、大久保一蔵(後の利通)が御目道りしている。長州からの使者も来ている。

同年5月には、老中格の小笠原長行(ながみち)が、軍艦と1000の兵を率いて、徳川家茂の江戸帰還を促す行動も起きた。これは京を第二次の安政の大獄かとパニックにさせた。家茂側近の若年寄が枚方宿にやってきて押し留めようとしたが、小笠原は淀まで進んだ。この騒動は、結局老中水野忠精が、家茂の親書を持ってきて思いとどまらせた。この処罰のために家茂は江戸に戻ることを許された。結果的には、平和裏に家茂は江戸に戻れたわけである。枚方宿や淀はその歴史的舞台となったわけである。

その他、中山忠光や真木和泉、新選組と称される以前の壬生浪士だった芹沢鴨、近藤勇、土方歳三らの名も挙がっていた。先生は、時間制限がなかったら、もっと話したかっただろうと思う次第。

…この市民講座に向かうのに、枚方市駅から鍵屋資料館まで、京街道を妻と歩いた。東海道の延長線である。陣屋跡なども残されていて、かなりヒストリックな町並みであった。枚方に住んで長いのだが、こんな観光地っぽい雰囲気の場所もあったのかと驚いた。近隣の方にとっては当然ながら普段の道であるわけだが…。