2026年4月12日日曜日

沢木『天空の旅人』断片4

https://seinansky.com/qinghai/qh0103.html
沢木耕太郎の『天空の旅人』の断片エントリー4回目である。リチュ河を渡ってからもいくつもの5000m級の峠を越え、ついに西川はラサに着く。煩悩の数と同じ108日目であった。

ラサに着く前から、日本と中国の講和成立の噂が流れており、日本敗戦に変わっており、「アトムボムボ」という物凄い爆弾によって破壊されたという。ラサに住む漢人が提灯行列をしたのだが、チベット人に石を投げられた。同じアジアの小さな国が負けたというのに、それを喜ぶのは許せないということだった。チベットは吐蕃として恐れられていたが、仏教教化で戦闘力が衰え、康煕帝の遠征で属領化された歴史を持つチベットは中国への積年の恨みを晴らしてくれた日本に好意的たらざるを得ないのだった。

せっかくたどり着いたラサだったが、この日本敗戦を確かめるべく、インドに向かうことを決意する。チベット第二の都市・シガツェ(画像参照)へ巡礼の旅に出る。同行していたバルタンはミカンを知らなかったので皮ごと食べて苦くてまずいと嫌ったのだが、西川が皮を剥くのだと教えると逆に大好きになった。(笑)この街は農産物が豊富で、主食のツァンパ(下記画像参照)が安く、バターミルクもたっぷりと口にできた、とある。

https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/web/15/352321/061200030/?P=3
このミカン大好き・バルタンとともに托鉢しながら旅を続ける。ヤートンというチベットとインドをつなぐ商業上の要地に至った。ここからは初のヒマラヤ越えである。西川は『秘境西域八年の潜行』で7度のヒマラヤ越えをしたと書いているし、沢木のインタヴューでの記憶でも本人が7回と言っていたようだが、沢木は、9回越えていることを確認している。西川の勘違いらしい。

インドの最初の都市・カリンボンで、西川はチベット服を着た木村肥佐夫(同じ塾出身の密偵)と偶然会えた。彼らは蒙古語で日本の状況について語り合うこともできた。日本語が思うように出てこなかった、という。西川にとって天皇が無事だということが唯一の慰めだった。

先頭打者HR返し

https://www.youtube.com/watch?v=4acW4tKusfs
対レンジャーズ第二戦。大谷選手が、1回表の先頭打者HRに、すかさず先頭打者HRで返した。その後、テオヘル選手の3ランが飛び出して、試合の流れがドジャーズに移ったのだった。

パヘス選手が絶好調で、最強の7番打者となっている。とはいえ、テオヘル選手のフライを取ってしまったり、タイムリーを放ちながらも盗塁失敗と、なんか若さ故の慢心のような感覚を私は感じた。ベンチでベテランのロハス選手に(テオヘル選手との交錯の件で)怒られていた。(笑)

ともあれ、このカードも勝ち越し。明日は、ササミローキ投手が先発の試合である。

2026年4月11日土曜日

マンシー選手3HRの日に

https://www.youtube.com/watch?v=smd04GFimwc
テキサス・レンジャーズをLAに迎えての初戦。先制点もマンシーなら、サヨナラもマンシーというマンシーDAY(1試合3本塁打)となった。試合はシーソーゲームで、ハラハラドキドキ。しかも9回表に絶対的守護神ディアス投手が打ち込まれて同点になった時はどうなるかと思った。

この試合、大谷選手はヒットを打って、連続出塁記録で、イチロー選手の記録を抜いて日本人メジャー1位となった。そのイチローもマリナーズで銅像がお披露目された日でもあった。

https://www.sankei.com/gallery/20260411-LM245QFWEZFGPLMS2Z3XQBPUHE/
ところが、この銅像除幕式の際にバットが折れるというハプニング。イチローは大笑いし、「殿堂入り投票で1票足りず、今日はバットが折れちゃった。僕には何かが足りないという戒め」と言って皆を笑わせたという。いやいや、イチローは凄い。私の永遠のスーパーヒーローである。

沢木『天空の旅人』断片3

https://alivevulnerable.com/basic/water-buffalo-yak/
沢木耕太郎の『天空の旅人』の断片エントリー3回目である。密偵の姿としてラマ僧が最適であると考えた西川は、経典(チベット語)を読めるようになるため、そして知らない土地に行きたい冒険心から、ラサを目指すことになる。

ここまでで潜入2年間。興亜義塾の塾生宛ての第二信に「(前略)来たれ住め西北の大東亜西壁の一角へ。必要とするものは、唯意気と体なり。(後略)」とあり、彼が読み続けていた吉田松陰の影響が色濃く出ている、と沢木は書いている。…共感。

まずは隊商の手伝いで、ラバに乗って駱駝8頭を引き連れて出発である。すでに一頭一頭の駱駝の特徴をすぐに覚えれるようになっていた。青梅省シャンに着き、無人地帯を行くタングート人(チベット=ビルマ系の遊牧民族)の大隊商に合流、ラサに向かう。1945年7月のことである。ここからは、ヤク(画像参照)の世界であり、二頭のヤクに3ヶ月分の食料と身の回りのものを積んでいた。ヤクの扱いは難しい。もともと野生のヤクは、逃げ出そうとする。鼻先に結わえつけられた手綱を引いても動かない。宿営中に二頭とも逃亡しかけたこともあったのだが、西川には人の優しい心が読めるような気がした。

蒙古のゲルや中国読みのパオは羊の毛を用いた白いテントだが、タングート人のテントはヤクの毛で織られており黒い。

この旅の最大のトピックとなるのは、最大の難所の流れが急なリチュ河近く。宿営の準備をしていると、100頭ものヤクが勝手に河を泳いで渡ってしまったのである。翌日朝も帰ってくる気配がない。タングート人が優秀な馬で渡河しようとしたが渡りきれない。そこで「(風呂にはいることも河で沐浴する習慣すらない蒙古人なのに)河など怖くない=泳げる。」と言ってしまった西川に白羽の矢が立ってしまったのである。日本男児の底力を見せたいというヒロイックな気持ちもあったが、日本人であることを死んでも隠さねばならないというかなり滑稽な状況になったのである。急流を必死に泳ぎ、向こう岸で足が立つと思ったが流され、溺れそうになりながら対岸にたどり着いた。向こう岸から凄い歓声が起こった。タングート人がこっちに来いと命令する時、鼻面に石を投げ当てることを思い出し、石を投げ続けた。驚いた一頭のヤクが水中に飛び込み、続いて雪崩のようにヤクは対岸に向かって泳ぎだした。その後、体力をほとんど使い切った西川は、急流に流されたりしながらも、なんとか泳ぎきりたどり着いた。

タングート人たちは、火を炊き生還した英雄・西川の体を温めるとともに、何頭もの羊がさばかれ、大宴会となった。この話は千里を越え、チベットに及ぶことになる。

2026年4月10日金曜日

沢木『天空の旅人』断片2

https://seinansky.com/qinghai/taersi.html
新学期が始まり、登下校にまた沢木耕太郎の『天空の旅人』を読んでいる。今回の久々のエントリーも、断片を記しておこうと思う。

ソーダを運ぶ駝夫として、西川は西寧を目指す。その近くのタール寺(画像参照)で、第10代のパンチェン・ラマ(当時6歳)に拝謁する。西川の感覚では、竜宮城のような特別の間で、全身が黄色の帽子と法服に包まれてふかふかの座布団に埋まるように座っていた。三拝し、絹の布でできているハタク(旅の安全を祈る聖なる布)を机の上に差し出し、銀貨や宝石を添える。(皆は銀貨2枚を添えたが、西川は1枚。笑)これに対し、パンチェン・ラマは、巡礼者の額に経典を当てるアデス(祝福)を行うのだが、(小さくて届かないので)お付の者が代理で行った。退出の際に、赤い紐と万能だとされる丸薬を渡されるのだが、西川は丸薬を見て「正露丸」のようだと思ったとのこと。(笑)

西川は、ラマ教に強い否定的な考えを抱いてきた。かつての勇猛果敢な蒙古族が、今は多民族に圧迫され散り散りにされている。これはラマ教に教化されてしまったからで、男子の多くが妻帯しないラマ僧になって人口減少に歯止めがきかなくなり、統一した国家さえ作れなくなってしまった、と歯痒くてならなかったのである。しかし。毎日何百回と叩頭をしているうちに、頭の中が澄んでいくような気がしてきた。もっとも、かつて旧制中学の修猷館在学中にラグビー部でスクラムの練習をした後に覚える疲労感や充実感とよく似たものであった。…このころの西川は、日本の密偵としての意識が強い。

1月15日にタール寺では「ジュンアチョパ」の供養会が行われ、寺市がたち大勢のの遊牧民が訪れ活況を呈していた。固いバターをヘラ一本で彫り上げた素晴らしい彫刻が寺の周囲を囲んでいた。彫刻に見とれていた西川が呆然としていると、不意に輿に乗せられた幼いパンチェン・ラマが姿を現した。群衆は、「オムマニベメフム」の真言を絶叫するように唱えて、一種の狂乱状態に陥った。
チベットに行こうという思いが、西川の中で次第に強くなっていった。

2026年4月9日木曜日

ブルージェイズと2勝1敗

https://www.youtube.com/watch?v=pjHVnkeC8Yk
ブルージェイズとのWS以来の三連戦、最後の試合を惜しいところで失ったけれど、ドジャーズは2勝1敗と勝ち越した。最後の試合は大谷投手の6回までの粘投、2勝目の権利もあったのだけれど…残念。

とはいえ、第一戦などはブルージェイズが可哀想になるほどのボロ勝ちだった。ブルージェイズは怪我人も多く、苦戦中。第二戦では、監督が退場になるほど追い詰められていた。両者とも、まだまだこれからである。ベッツがベンチにいるので、少し安心している。

2026年4月7日火曜日

追憶 ワシントンD.C.の三空港

https://www.google.com/maps/search/
私が6回の渡米経験の中で最も訪れている回数が多い都市は、ワシントンD.C.である。D.C.には、3つの空港がある。一つは巨大なハブ空港である「ダレス国際空港」と市内に近い「ナショナル空港」、さらに「ボルチモア国際空港」である。私はこの3つの空港とも利用したことがある。ちなみに、それぞれ、バージニア州とメリーランド州に位置する。

まず、大阪市教育委員会のアメリカ視察旅行の際、日本からLAX(ロス)経由でBWI(ボルチモア)に大陸横断して夜に着いた。ボルチモアとD.C.視察後、BOS(ボストン)へは、DCA(ナショナル空港)から向かった。このナショナル空港は国内線の空港で、大阪で言えば伊丹空港のような存在である。


その後、工業高校で私が学年主任を務めた担任団の卒業旅行では、もっぱらIAD(ダレス空港)だった。サンフランシスコ経由で到着時も帰国時も、さらに、ノースカロライナ州への移動で、ORF(ノーフォーク空港:バージニア)へ小型機で往復した際もIADだった。このIADは変わっていて、ターミナルから直接機内に入るのではなくて、モービルラウンジという、大きな車で搭乗者を運ぶシステムであった。最初は大いに驚いたものだが、4回も使うと慣れてしまった。(笑)

何故こんな空港の話題なのかというと、ドジャーズがナショナルズ戦を終えて、ブルージェイズのいるトロントへ向かった空港はどれかという疑問が湧いたためである。オリオールズ戦後なら間違いなくBWIだが、トロントはニューヨーク州北部の対岸にあるので、国内線も同様。だから、DCAの可能性も捨てがたいのであった。私にとってはおそろいのグレーのジャージで向かったことなどどうでもいいのであった。(笑)