2026年4月15日水曜日

沢木『天空の旅人』断片6

https://dabohazj.web.fc2.com/kibo/note/kimura/kimurahisao.htm
沢木耕太郎の『天空の旅人』の断片エントリー6回目。デブン寺のイシ師のもとで修行に励んでいた西川のもとに、密偵仲間の木村(肥佐生:画像参照)からの日本文の手紙が届く。英国諜報部から東チベット(カム地方)の中国側の状況(中国共産党のチベット侵攻計画)を探索する仕事が入って、引き受けたので同行して欲しいというのである。西川からすれば、かつての敵のために働くことが信じられなかった。しかし唯一の同国人である木村の依頼を断れなかった。親身に心配してくれるイム師に嘘をつき、心の中で泣きながら、巡礼に出たいと申し出たのであった。

この時、西川は満年齢で28歳、180cmを超える大男。木村は25歳で150cmと小柄。まるで勧進帳の弁慶と義経であった。ただ興亜義塾では木村のほうが一期先輩というややこしい関係。旅の経験、体力では西川、蒙古語・チベット語の語学力では木村という違いがあった。この二人の認識・意識の差が、この旅で微妙な齟齬を生むことになる。

カムへの旅も酷いもので、「頭を割るような雨」や「雪盲」と戦いながら2か月かけて、チャムドまでたどり着いた。木村はここから引き返したいと言い出す。西川には日本男児の意地があると主張。玉樹という中国国境の町まで行くことになった。だが、ここで木村は国境警備隊に歯向かい、大揉めに揉め、軟禁されるはめになる。面白いのは、この旅では、持っていた(食料を得るための)「糸針」が、効果を発揮する。反対に、この「糸針」を狙らわれて匪賊に襲われたりもする。ラサに戻るまで、西川の記憶では、飢えて(日本食ではなく、蒙古やチベットの)食べ物の話ばかりしていたし、木村の記憶では、天皇がいようといまいと日本は生き残ると言ったのに対し、大逆罪もいいところだ、と大喧嘩もしていたらしい。

ともかくもラサに2人は無事戻るのだが、西川と木村の齟齬は、帰国後も大きく広がっていく。すでに最終章まで読んでいるので、ここに記しておくが、両者はGHQのG2の情報担当部局によって尋問を受けることになる。その後木村は、CIAの傘下にある外国語放送情報サービスで働くことになる。アメリカ大使館内でモスクワ放送、ウランバートル放送、北京放送の中のモンゴル語放送の内容を聞いて、要点を英語で記す仕事であった。26年間も大使館内で高給で働き続け、その後亜細亜大学のモンゴル語の教授になった。日・英・米の諜報活動に関わった稀有な存在となった。…西川の無骨な人生とは一線を画している。

2026年4月14日火曜日

沢木『天空の旅人』断片5

https://tibettour.jp/tibet/Drepung-Monastery.html
沢木耕太郎の『天空の旅人』の断片エントリー5回目。西川は、日本の情報を得たいがために、カルカッタ(現コルカタ)に向かう。同行者のバルタンにとって、自動車や鉄道は人生初の経験。見るもの全てに感動する彼を見て、旅の根源的な喜びを感じ取る。

このあたりから、西川は担ぎ屋として生き抜いていく。煙草を積んでヒマラヤを越えるのである。ところが三度目のヒマラヤ越えで、凍傷になってしまう。カリンボンという街で物乞いの巣窟に潜み、物乞いたちに助けられた。インド人はチベット人以上に「喜捨」の精神に富んでいた。しかもキリスト教の伝道所にある無料の診療所に連れて行ってくれ、凍傷は回復する。しかし托鉢と物乞いは違うと意識した西川は、ラサに戻りラマ僧としての修行を選ぶ。

西川は、ラサに戻りデブン寺(画像参照)の蒙古人のイシ師に弟子となる。経典を暗唱する多忙な修行の毎日を過ごすが、8月1日から一週間は僧衣を脱いでも違法ではない。チベット人は猿の後裔(チベットにもトーテミズムが存在するようだ。)なので、林や河畔で過ごすのが好きだった。西川は、仲間の僧に泳ぎを見せてくれとせがまれる。蒙古人ラマ僧の間では、前述のヤクを連れ戻した話が有名だったからで、後に西川は、泳ぎの上手い蒙古人はやはり疑わしい存在だと後悔したという。

西川が不当なほど廟の徴用に駆り出され、先輩のラマ僧が憤慨していたが、イシ師は、ひとり「人の嫌がる労役に出ることは良いことだ。」と日本人には慣れ親しんだ考えを示してくれた。遊牧民的な蒙古人にはない考えで、西川を感激させた。零下20℃にもなる冬も裸足だった西川に合う靴を買ってくれようとしたが、大足の西川に合う靴がなく諦めざるを得なかったが、師の想いやりも嬉しかった。

2026年4月12日日曜日

沢木『天空の旅人』断片4

https://seinansky.com/qinghai/qh0103.html
沢木耕太郎の『天空の旅人』の断片エントリー4回目である。リチュ河を渡ってからもいくつもの5000m級の峠を越え、ついに西川はラサに着く。煩悩の数と同じ108日目であった。

ラサに着く前から、日本と中国の講和成立の噂が流れており、日本敗戦に変わっており、「アトムボムボ」という物凄い爆弾によって破壊されたという。ラサに住む漢人が提灯行列をしたのだが、チベット人に石を投げられた。同じアジアの小さな国が負けたというのに、それを喜ぶのは許せないということだった。チベットは吐蕃として恐れられていたが、仏教教化で戦闘力が衰え、康煕帝の遠征で属領化された歴史を持つチベットは中国への積年の恨みを晴らしてくれた日本に好意的たらざるを得ないのだった。

せっかくたどり着いたラサだったが、この日本敗戦を確かめるべく、インドに向かうことを決意する。チベット第二の都市・シガツェ(画像参照)へ巡礼の旅に出る。同行していたバルタンはミカンを知らなかったので皮ごと食べて苦くてまずいと嫌ったのだが、西川が皮を剥くのだと教えると逆に大好きになった。(笑)この街は農産物が豊富で、主食のツァンパ(下記画像参照)が安く、バターミルクもたっぷりと口にできた、とある。

https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/web/15/352321/061200030/?P=3
このミカン大好き・バルタンとともに托鉢しながら旅を続ける。ヤートンというチベットとインドをつなぐ商業上の要地に至った。ここからは初のヒマラヤ越えである。西川は『秘境西域八年の潜行』で7度のヒマラヤ越えをしたと書いているし、沢木のインタヴューでの記憶でも本人が7回と言っていたようだが、沢木は、9回越えていることを確認している。西川の勘違いらしい。

インドの最初の都市・カリンボンで、西川はチベット服を着た木村肥佐夫(同じ塾出身の密偵)と偶然会えた。彼らは蒙古語で日本の状況について語り合うこともできた。日本語が思うように出てこなかった、という。西川にとって天皇が無事だということが唯一の慰めだった。

先頭打者HR返し

https://www.youtube.com/watch?v=4acW4tKusfs
対レンジャーズ第二戦。大谷選手が、1回表の先頭打者HRに、すかさず先頭打者HRで返した。その後、テオヘル選手の3ランが飛び出して、試合の流れがドジャーズに移ったのだった。

パヘス選手が絶好調で、最強の7番打者となっている。とはいえ、テオヘル選手のフライを取ってしまったり、タイムリーを放ちながらも盗塁失敗と、なんか若さ故の慢心のような感覚を私は感じた。ベンチでベテランのロハス選手に(テオヘル選手との交錯の件で)怒られていた。(笑)

ともあれ、このカードも勝ち越し。明日は、ササミローキ投手が先発の試合である。

2026年4月11日土曜日

マンシー選手3HRの日に

https://www.youtube.com/watch?v=smd04GFimwc
テキサス・レンジャーズをLAに迎えての初戦。先制点もマンシーなら、サヨナラもマンシーというマンシーDAY(1試合3本塁打)となった。試合はシーソーゲームで、ハラハラドキドキ。しかも9回表に絶対的守護神ディアス投手が打ち込まれて同点になった時はどうなるかと思った。

この試合、大谷選手はヒットを打って、連続出塁記録で、イチロー選手の記録を抜いて日本人メジャー1位となった。そのイチローもマリナーズで銅像がお披露目された日でもあった。

https://www.sankei.com/gallery/20260411-LM245QFWEZFGPLMS2Z3XQBPUHE/
ところが、この銅像除幕式の際にバットが折れるというハプニング。イチローは大笑いし、「殿堂入り投票で1票足りず、今日はバットが折れちゃった。僕には何かが足りないという戒め」と言って皆を笑わせたという。いやいや、イチローは凄い。私の永遠のスーパーヒーローである。

沢木『天空の旅人』断片3

https://alivevulnerable.com/basic/water-buffalo-yak/
沢木耕太郎の『天空の旅人』の断片エントリー3回目である。密偵の姿としてラマ僧が最適であると考えた西川は、経典(チベット語)を読めるようになるため、そして知らない土地に行きたい冒険心から、ラサを目指すことになる。

ここまでで潜入2年間。興亜義塾の塾生宛ての第二信に「(前略)来たれ住め西北の大東亜西壁の一角へ。必要とするものは、唯意気と体なり。(後略)」とあり、彼が読み続けていた吉田松陰の影響が色濃く出ている、と沢木は書いている。…共感。

まずは隊商の手伝いで、ラバに乗って駱駝8頭を引き連れて出発である。すでに一頭一頭の駱駝の特徴をすぐに覚えれるようになっていた。青梅省シャンに着き、無人地帯を行くタングート人(チベット=ビルマ系の遊牧民族)の大隊商に合流、ラサに向かう。1945年7月のことである。ここからは、ヤク(画像参照)の世界であり、二頭のヤクに3ヶ月分の食料と身の回りのものを積んでいた。ヤクの扱いは難しい。もともと野生のヤクは、逃げ出そうとする。鼻先に結わえつけられた手綱を引いても動かない。宿営中に二頭とも逃亡しかけたこともあったのだが、西川には人の優しい心が読めるような気がした。

蒙古のゲルや中国読みのパオは羊の毛を用いた白いテントだが、タングート人のテントはヤクの毛で織られており黒い。

この旅の最大のトピックとなるのは、最大の難所の流れが急なリチュ河近く。宿営の準備をしていると、100頭ものヤクが勝手に河を泳いで渡ってしまったのである。翌日朝も帰ってくる気配がない。タングート人が優秀な馬で渡河しようとしたが渡りきれない。そこで「(風呂にはいることも河で沐浴する習慣すらない蒙古人なのに)河など怖くない=泳げる。」と言ってしまった西川に白羽の矢が立ってしまったのである。日本男児の底力を見せたいというヒロイックな気持ちもあったが、日本人であることを死んでも隠さねばならないというかなり滑稽な状況になったのである。急流を必死に泳ぎ、向こう岸で足が立つと思ったが流され、溺れそうになりながら対岸にたどり着いた。向こう岸から凄い歓声が起こった。タングート人がこっちに来いと命令する時、鼻面に石を投げ当てることを思い出し、石を投げ続けた。驚いた一頭のヤクが水中に飛び込み、続いて雪崩のようにヤクは対岸に向かって泳ぎだした。その後、体力をほとんど使い切った西川は、急流に流されたりしながらも、なんとか泳ぎきりたどり着いた。

タングート人たちは、火を炊き生還した英雄・西川の体を温めるとともに、何頭もの羊がさばかれ、大宴会となった。この話は千里を越え、チベットに及ぶことになる。

2026年4月10日金曜日

沢木『天空の旅人』断片2

https://seinansky.com/qinghai/taersi.html
新学期が始まり、登下校にまた沢木耕太郎の『天空の旅人』を読んでいる。今回の久々のエントリーも、断片を記しておこうと思う。

ソーダを運ぶ駝夫として、西川は西寧を目指す。その近くのタール寺(画像参照)で、第10代のパンチェン・ラマ(当時6歳)に拝謁する。西川の感覚では、竜宮城のような特別の間で、全身が黄色の帽子と法服に包まれてふかふかの座布団に埋まるように座っていた。三拝し、絹の布でできているハタク(旅の安全を祈る聖なる布)を机の上に差し出し、銀貨や宝石を添える。(皆は銀貨2枚を添えたが、西川は1枚。笑)これに対し、パンチェン・ラマは、巡礼者の額に経典を当てるアデス(祝福)を行うのだが、(小さくて届かないので)お付の者が代理で行った。退出の際に、赤い紐と万能だとされる丸薬を渡されるのだが、西川は丸薬を見て「正露丸」のようだと思ったとのこと。(笑)

西川は、ラマ教に強い否定的な考えを抱いてきた。かつての勇猛果敢な蒙古族が、今は多民族に圧迫され散り散りにされている。これはラマ教に教化されてしまったからで、男子の多くが妻帯しないラマ僧になって人口減少に歯止めがきかなくなり、統一した国家さえ作れなくなってしまった、と歯痒くてならなかったのである。しかし。毎日何百回と叩頭をしているうちに、頭の中が澄んでいくような気がしてきた。もっとも、かつて旧制中学の修猷館在学中にラグビー部でスクラムの練習をした後に覚える疲労感や充実感とよく似たものであった。…このころの西川は、日本の密偵としての意識が強い。

1月15日にタール寺では「ジュンアチョパ」の供養会が行われ、寺市がたち大勢のの遊牧民が訪れ活況を呈していた。固いバターをヘラ一本で彫り上げた素晴らしい彫刻が寺の周囲を囲んでいた。彫刻に見とれていた西川が呆然としていると、不意に輿に乗せられた幼いパンチェン・ラマが姿を現した。群衆は、「オムマニベメフム」の真言を絶叫するように唱えて、一種の狂乱状態に陥った。
チベットに行こうという思いが、西川の中で次第に強くなっていった。