2026年2月3日火曜日

正教会:創造主としての神

https://www.etsy.com/jp/listing/1500504911/
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カリストス・ウェア著・松島雄一訳の『正教の道 キリスト教正統の信仰と生き方』の備忘録的エントリー、続いて「創造主としての神」についてである。今回も箴言を挙げておく。「あなたはあなたの中に小さなもう一つの世界があることを知りなさい。あなたの中に太陽があり、月があり、そしてまた星々もあるのだ。」(オリゲネス)

「爾(なんじ)は我らを無より有となし」と『聖イオアンネス・クリュソストモスの聖体礼讃』は讃える。この「無より」という言葉が意味するのは最初に、そして何より重要なこととして、神が全世界を自由意志によるみわざで創ったことを指す。神は誰からも強制されず、神自身が創造を選んだ。何の意図も必然性もなく世界が創造されたわけではなく、また自動的に溢れ出したわけでもない。神の選択の結果である。何故神は創造を選んだか。その動機は愛である、と著者は記している。

世界は、必然的でも自己充足的でもなく、自らをあらしめた神に依存しつつ、神に向けて成就可能なものとして開かれている。被造物である人間は決して自分たちだけでは存在できない。神が我々の存在の核心であり、神の愛の意思に依存している。そして、神は現在進行形で創造し続けている。創造の教義の目的は、時系列の中にある一点(創世記)に、この世界の起点となすことではない。

また、神は創世記において、世界創造の後「はなはだ良かった」と言っている。よって、創造されたものはその内なる本質において、はなはだ良きものである。二元論を否定するキリスト教において、「はなはだ悪しきもの」はあり得ない。

正教会の世界観では、神は被造物のために、「ノエティック」(霊的・知性的な領域)と物質的ないし肉体的という2つの領域を与えた。ノエティックだけ(物質的な身体を持たない)の被造物は天使である。物質的な領域のみは。星雲、様々な鉱物で構成される星々や天体、さらに植物や動物などの生命である。人間だけが、この2つの領域を共に得ている。ユダヤ教のタルムードには、「義人は救いの天使より偉大だ」と描かれているのはそのためで、人間は神の創造の中心にあるといえる。

この後、人間の堕落について述べられる。正教の伝統では、アダムの原罪について、アウグスティヌスの考え方(人類全体に影響が及び、罪責を受け継いでいる)を受け入れがたいとし、原罪の教理は、「人は悪を犯しやすく、善は行いにくいという環境の中に生まれてくる」こととだとしている。

…今回も、重要な正教会の教義が示されていた。神の自由意志による創造、神の創造は現在進行形であること、天使(本日の画像は正教会の七大天使のイコン)と人間の関係性、そして原罪思想の捉え方…。

2026年2月2日月曜日

正教会:至聖三者としての神

https://novel-shoten.com/life/archives/5104
カリストス・ウェア著・松島雄一訳の『正教の道 キリスト教正統の信仰と生き方』の備忘録的エントリー、続いて「至聖三者としての神」についてである。正教会の聖三者は、カトリックやプロテスタントで言う三位一体である。まず、前回同様に、箴言から。「我が憑恃(たのみ)は父、我が避所(かくれが)は子、我が帲幪(おおい)は聖神(聖霊)なり 聖三者よ、光栄は爾(なんじ)に帰す。」(聖イオアニコスの祈り)

著者は、ユダヤ教やイスラム教のように単に唯一の神を信じるほうが容易であるとし、聖三者の教義は文字どおりの難問で「人間的思考の十字架」(ウラジミール・ロースキーの言)であり、精神と心の真の徹底的な方向転換(メタノイア)を求めるものだとしている。

「私と父は一つである。」(ヨハネの福音書10-30)とハリトリス(=イエス)は言った。この意味は、ニケア公会議(325年)とコンスタンチノープル公会議(381年)で確認されたイエスは、真の神よりの真の神、神・父と一体(同一本質)であること、言い換えれば父と同等である、ということである。父と子は2つの神ではなく単一の神である。4世紀末に父と子と共に「聖霊」が同様に言明された。なお、聖三者は本質において1つだが、それぞれに位格、自己意識を持つ区別された主体である。

第一の位格は、神・父。「泉」であり、他の2つの位格の源泉、起因ないし起源であり、聖三者の間に一致をもたらす接合点(きずな)である。第二の神の子の位格は、神の「言葉」ないし「ロゴス」である。この神の言葉・ロゴスは、受肉以前から働いており、全てを貫いている秩序の原理であり目的である。創造者ロゴス(Logos)は、被造物1つひとつにそれ自身に内在するロゴス (logos)ないし、内的原理を分かち与え続けている。第三の位格は、聖霊である。神の風や息である。(言葉でそつなく整理してしまうのは不適切と心得た上で言えば)聖霊は「内なる神」、子は私たちと「共にある神」、父は私たちの「上にある神」・私たちを「超えている神」である。(聖霊は、父のみから送られることを確認したうえで/カトリックの教義では、子からも送られることに成っている。)この聖三者の位格は常に共に働き、聖エイレナイオスは、子と聖霊を父の「両手」と呼ぶ。

…正教会におけるヨハネの福音書の重要性が、だんだんと見えてきたのであった。ここで確認。ヨハネの福音書冒頭の「はじめにロゴスありき」のギリシア語は、”エン・アルケー・エーン・ホ・ロゴス”で直訳すると「アルケーはロゴスなり」となる。アルケーは、(イオニアの自然哲学と同じで)万物の始源・宇宙の根本原理。ロゴスは、真実・真理・論理・理性・概念・調和・統一のある法則、そして言葉の意味もある。よって、「根本原理はキリスト(神の言葉)である。」=神こそが全ての原則、ということになるのである。日本では、「はじめに言葉ありき」という誤訳が一般的になってしまった。実は、この一節を使って、M高校のパンフレットをつくった経緯がある。国語科と英語科をつなぐキャッチコピーとして有効ではあったのだが…。(2010年6月30日付ブログ参照)

2026年2月1日日曜日

正教会:神秘としての神

https://www.nikkei.com/article/DGX
ZQOUD302VD0Q5A131C2000000/
カリストス・ウェア著・松島雄一訳の『正教の道 キリスト教正統の信仰と生き方』書評。前述(1月29日付ブログ参照)のように、まずは、「神秘としての神」の備忘録的エントリーである。本書には、著者の選んだ関連する箴言も多く記されている。この章にも、いくつか記されていたが、冒頭の「理性では神は把握できない。もし把握できたら、それはもはや神ではない。」(ポントスのエヴァグリオス)を記しておきたい。

正教徒の神学は、多くの面で象徴的(直接的な言明ではなく絵やイメージを通して神に触れる)である。だが、象徴性は神の超越性や「他者性」を伝えるには不十分である。「戦慄(畏れと驚異の感覚:ヌミノーゼ)すべき神秘」を指し示すためには、肯定的言明とともに否定的な言明(神は~であるではなく、神は~ではないという言明)が必要である。この正教会の否定的言明は、実のところ超肯定であり、全ての言語や思考を超えて、生ける神の直接体験に触れてゆくように促す。これは「神秘」という言葉が意味する真実である。隠されているだけでなく、顕されていることを意味する。

神への信仰は、ユークリッド幾何学で得られる論理的な確実性のたぐいとは全く異なる。神を信じることは、理論上の議論で照明されたから神の存在の可能性を受け入れることではなく、私たちが知り、愛する「お方」に信頼を置くことである。信仰は、仮定ではなく確信である。

(隠されているが、顕される)神の人間への関わりを示すため、正教会の伝統は、神の本質と、すなわち神の「本性や内的あり方」と、神の「エネルギア」(その作用や力の働き)を区別する。神は、本質によっては他者であり、エネルギアによっては近づき得るものである。正教会がエネルギアと呼ぶものは、神の働きとして神の全てを指し示す。(神から放出されるものでも、モノや賜物でも、仲立ちでもない、一部分でもない。)神の本質とエネルギアを区別することで、神と人間の直接あるいは神秘的な合一の可能性を確信できる。これをギリシア教父たちは、人間の「神化」と呼ぶ。しかし同時に汎神論的な同一視は排除される。人は神のエネルギアに与るが、本質はわからない。一ではあるが、融合や混同はない。神と一つになったとしても、人は人であり続け、「我と汝」のペルソナ(人格)的関係が保たれる。

…ここでも、神との合一という概念が登場する。ただし、エネルギアによって、であり神の本質を理解し合一できるというのはないわけである。かなり微妙で理解できるような出来ないような…。私は異教徒であるので、エヴァグリオスの箴言にあるように理性で理解しようとしてもできるわけないのは当然か、と思う。ところで、今日の画像は、ギリシア演劇によるペルソナの画像である。昔々、ペルソナを題材にして、一連のパフォーマンスを脚本・演出したことがある。ペルソナはラテン語で、人格を意味すると同時に、ギリシア演劇における仮面を想起させる。なつかしい語彙である。

2026年1月31日土曜日

激動の2026年1月だった

2026年は1月3日の米軍のベネズエラ侵攻に始まり、イランの暴動激化、さらに中国の風雲とまさに国際情勢は激動した。ロシアもウクライナに大きな反撃をくらっているようだ。

アメリカの強硬な経済制裁が、見事に功を奏したように見える。トランプ政権は、反グローバリズムを推進し、ルーズベルトとチャーチルが提唱した大西洋憲章での自由貿易体制(戦争をおこさないための装置)をちゃぶ台返ししている。

たしかに、中国もイランもロシアもベネズエラも、それぞれやりすぎた。これから世界の工場と言われた中国中心のサプライチェーンは、半導体を始め、エネルギー資源やレアアースなどの世界的な供給構造が大きく変化するだろうと思われる。

圧倒的な軍事力を誇るアメリカだが、イランへの攻撃は躊躇するだろうと思われる。ハメネイ師を排除するため、暴動を支援するためといえ、その効果は決して大きくない。自滅していくのを待つほうが、アメリカのプラグマティズムに即している。空母打撃群を送ったのは威嚇に過ぎないし、もしイランの政治体制自体を覆すには、地上戦が必要だが、イランの地形は、四方を高い山脈と砂漠に守られており、イラク戦争時以上に困難を極める。イラクでの自由と民主主義の確立には失敗した。イランではそれ以上に容易ではない。中国も同様で、現状で介入するメリットはない。やはり、自滅を待つほうが得策である。

私が、新聞の1コマ漫画家なら、ロシアで、アサドとハメネイとプーさんが、プーチンを囲んで麻雀している姿を描く。互いにアメリカや国民の悪口を言いながら、流局(誰もあがれない)を続けるという様である。(本日の画像は、AIで作ってみたもの/初めてだったが、あまりに簡単にできて驚いた。)

2026年1月30日金曜日

風雲 中国情勢

https://jp.reuters.com/world/security/CHWEY
XRQVJKLNBGTPVXGVCF4JM-2026-01-25/
1月下旬になってから、北京の情勢が大きく変化しているようである。ただ、情報が制限的でしかも錯綜しているので、様々な中国ウォッチャーの言をそのまま信じることも難しい。ただ、プーさんの権力が砂上の楼閣化しているのは間違いなさそうだ。人民解放軍は、紅軍の後継者であり、基本は共産党政権のための軍であるはずで、軍事委員会のNo2の張又侠(制服組のトップ:画像参照)が粛清されたとしたら、各軍区は、すぐさま軍事委員会No1のプーさんへの忠誠を明確にするはずなのだが、沈黙を守っていることは事実のようだ。この背後にあるのは、プーさんが、アホほど軍の上級将校を粛清しておいて、しかも台湾侵攻への準備(陸海空軍・ロケット軍などの統合作戦計画を組む事)を27年までに完成させることを、自らの4選のために譲らなかった故であるらしい。特別な絆(親父同士が紅軍で戦い、側近中の側近であった)張又侠が軍事のプロとして35年まで無理だと断ったところにあるようだ。

とにもかくにも、指導者が変わったところで、現在の中国はどうにもならないほど経済が疲弊している。経世済民の立場から考えてみたが、ゾンビと呼ばれる採算の悪い国営企業を民営化するぐらいしか思いつかない。不動産バブルもすでに解決の道は閉ざされている。アメリカとの経済戦争に勝つ見込みもない。連邦国家に組織し直して、省ごとにある程度の自治を認めても、地方政府の財政は破綻しており、失業者対策もままならない。また各省の経済力の差が大きすぎる。さすがに、人民解放軍の各郡区が、清末期のように軍閥化して内戦になる、という予想はつかないのだが…。

2026年1月29日木曜日

オーソドックスの教材研究Ⅵ

カリストス・ウェア著・松島雄一訳の『正教の道 キリスト教正統の信仰と生き方』は、学術書というより、主教である著者の「説教」的色彩が濃い書である。
この本を選んだのは、目次に7つの視点から正教会における神の姿を表したタイトルが並んでいたからである。曰く、「神秘としての神」、「至聖三者としての神」、「創造主としての神」、「人としての神」、「聖霊としての神」、「祈りとしての神」、(エピローグとして)「永遠としての神」である。なかなか魅力的な構成ではないかと思う。次回からは、これら7つの神の視点をタイトルにして、書評と言うよりは興味深い内容の備忘録としてエントリーしたい。

もうひとつ、エピローグを読んでいて、「神の裁きは、ヨハネの福音書が強調するように、私たちの地上での生涯を通じて常に行われている。」という一節が目にとまったのである。正教会におけるヨハネ福音書重視の内容が、この書にあるかもしれないという期待もあった次第。

なお、『東方キリスト教の世界』(森安達也著)の備忘録的エントリーは、割愛することにした。聖母マリアをめぐる東西教会の相違や、偽書とされるエノク書における天国や、外典のニコデモ福音書における地獄の話、ウクライナやポーランドにおける東西教会の歴史的な問題などが描かれていたことを記しておきたい。

2026年1月28日水曜日

オーソドックスの教材研究Ⅴ

https://jp.gw2ru.com/arts/213791-rosia-seikyou-seidou-naibu
『東方キリスト教の世界』(森安達也著)の備忘録的なエントリー第5回目。正教会におけるイコノスタスについて。

正教会には、至聖所(祭壇のある内陣)と聖所(会衆席)を分けるものとして、イコノスタス(画像参照/イタリアの正教会)というものがある。(カトリック教会ではかつては仕切りがあった。)ロシア正教においては、イコンの配列もだいたい決められている。中心となる王門(至聖所と聖所をつなぐ門)の上に受胎告知(左:大天使と右:聖母)、その下に4人の福音書記者(翼とマタイ・獅子とマルコ・牛とルカ・鷲とヨハネ)がそれぞれの象徴とともに描かれる。王門の真上には最後の晩餐の図、その左右に正教十二大祭(キリストと聖母マリアにとって重要な出来事を記念する祭日)の図。これらの中で、デエンス(ギリシア語で祈祷)と呼ばれるイエス・聖母マリア・洗礼者ヨハネが最も重要とされる。(本書では、かなり詳細な解説がなされているが割愛。)

イコノスタスは、正教会の世界観を画像で表現したユニークな装置である、と著者は述べている。私は、NYのロシア正教会を覗いたことがあるが、このイコノスタスの記憶がない。赤いろうそくに照らされた無数のイコンに、とにかく圧倒されてしまった。今なら、いろいろ質問出来たと思うのだが…。