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2026年5月25日月曜日
対ブリュワーズ戦 勝ち越し
2026年5月24日日曜日
書評 吉村昭 『海の祭礼』Ⅴ
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| https://rintaro95.hateblo.jp/entry/hayasidaigakunokami |
林大学頭の回答。「たしかに交易は、国に利益をあたえるものでありましょう。しかし、元来我が国は、自国に算出する物のみによって十分に足り、外国から物品を運び入れなくとも、少しも事欠くことはありませぬ。それ故、交易はいたさぬ定めになっており、この国法をただちに廃することは到底できませぬ。使節がわが国に参られたお役目は、人命を重んじ船を安じて航海させることにあり、それらの儀が、ここに解決いたしたものでありまする故、御役目は十二分に果たせられたはずと存ずる。交易の儀は、利益云々のことであり、人命とは縁なきこと。これで御談合はすべて相済み申したのではないか、と存ずる。」
森山は通訳しながらペリーの反応を恐れた。彼は笑ったことなどなく、いつも不機嫌で固い表情をしている。周囲の士官も彼を敬遠している節が見られる。林大学頭の回答の通訳が終わると、そのまま口をつぐみ、何の感情も示さず、思案するように眼を瞬いていた。艦隊を江戸の至近距離まで進め、直接阿部正弘らと談判しようとしているのか。重苦しい沈黙が広がっていた。
ペリーはおもむろに口をひらいた。「貴殿の言われたことには、一理あると認める。たしかに私の使命の主意は、これまで述べた通り人命を尊重し、船舶の航海を安全にすることにある。貿易は、国相互に利益をもたらすが、人命には関係ないことである。貿易問題を要求を強いることは、撤回してもよい。」
日本側に大きな安堵が広がったのは言うまでもないが、随行の士官たちも安堵した。ペリーは、アメリカが中国と貿易を開始するため締結した通商条約の条文(=公文書)をポケットをから逡巡を重ねた後に内ポケットから出した。「必要はなくなったが、持参したので一応見ていただく。」として林に渡した。「一覧することであれば。」と受領した。
その後アメリカ側に応接所の外にいる士官・下士官にも食事を取らせた。有名な蒸気機関車の模型などの贈り物が送られたのは、さらにその後である。
…日米和親条約はこうして結ばれた。林大学頭の通商問題の回答とペリーの「一理ある。」という回答。この辺は、受験の日本史ではあまり深く語られないであろうと思う。それぞれの国家を背負った、見事な論議。あえて当時の言葉をそのまま使うことで再現してみた。海外の読者にはどういう翻訳になるかはわからないが…。
2026年5月23日土曜日
書評 吉村昭 『海の祭礼』Ⅳ
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| https://mag.japaaan.com/archives/203241 |
さて、国書には、3つの要求が記されていた。要約すると、1:アメリカの捕鯨船や中国に向かう商船が荒天で難破することもあり、その折には船員を救出し、財物を保護して引き取りの船が来るまで温かく遇して欲しい。2:石炭、食糧、水を補給しそれに適した港を解放して欲しい。3:国際情勢から見て、日本がオランダ・中国以外の国と貿易を禁じているのは不当である。5年または10年間試験的におこない、利益がないことがあきらかになった折には中止してもよい。というものであった。
第2回目の来航に際して、1年間、国論はなかなかまとまらなかった。筆頭老中の阿部正弘はアメリカ側の要求をおだやかな態度で拒否して時間を稼ぎ、海防を強化する方針を示した。来航直前、海防掛参与の水戸の徳川斉昭と阿部は、難破船員の取り扱いと補給の要求を入れるはやむを得ないと判断した。しかし、通商問題は幕府の基本政策に関わるのであくまで反対するとした。2度目の来航時、羽田沖までペリー艦隊は侵入した。結局横浜村で応接することになり、本書の主人公の1人である森山は、応接掛の林大学頭(幕府の御用学である朱子学者で林家の棟梁)のオランダ語と英語の通詞として再登場する。
林大学頭は、(前述の国書の要求について)「第1・第2については承諾する。しかし第3の交易については、国法でかたく禁じられているので承諾できない」。と最初から述べた。ペリーは、これに対する回答の前に、「突然ではあるがご意見を伺いたい。我が艦隊の1人の乗組員(陸戦隊員)が病死した。他国なら自由に埋葬できるが、貴国は特別に国法が厳しい。どの場所に埋葬すべきか、一応お聞きしたい。」儒学者の林は、「たとえ軽輩の者でも人命に重い軽いはありませぬ。浦賀の寺に仮埋葬すのがよかろうと存じます。」と答えた。ペリーは「浦賀まで戻るのはわずらわしい。今回の話し合いがつくまで1年でも2年でも留まるつもりであり、さらに死人がでるかもしれぬ。」といって顔をしかめた。林は自分たちの決断力をさぐる意図ありと推測し、「この横浜村の寺といたしましょう。後に改葬することがあるかもしれませぬが。」ときっぱり言った。ペリーは「非常に嬉しい。」と感謝の意を述べた。その後、「アメリカは、第一に人命を重んずることを基本としている、自国民は当然、他国及び国交のない国民も、漂流で難儀しているのを見れば力を尽くして救い手厚く扱うことを常としている。」「しかし、貴国は漂流したものを罪人同様に扱い、漂流していた自国民の帰国も見捨てている。非常に冷酷な国だ。」と述べた。
「我が国は、このままでは、日本近海で漂流民の多くの国民の生命を失う。貴国は人類の敵というレッテルを貼られるだろう。人類の敵に対しては国力を尽くして戦争し雌雄を決する覚悟である。」これに対し、林大学頭は、淡々と「我が国は決して仁慈なき国ではない。300年近く泰平が続いている。人命を軽んじていないからこそである。」(本書では、粗野なラゴタ号乗組員のことにも多くを割いている。エントリーしなかったが、脱走したり、ハワイ人の仲間を絞殺したりと、とんでもない連中であった。結局長崎からオランダ船で、マクドナルド氏と共に出国した。)ペリーもこの件(こちらは日本の悪評)を知っていたし、林大学頭も(こちらはアメリカ人の悪評)知っていた。
「もっとも、漂流民の中には、我が国の法を犯して逃走をくりかえすなどの狼藉に及び、やむなく拘禁したことはあります。それらの者どもが、貴国に帰り、あたかも罪人の如く扱われたなどと言いふらし誤った伝聞として広がったものであると推測いたします。我が国の国情につきお考えいただければ、疑念もたちまち氷解すると存じます。」と、ゆるぎない厳しさで語った。ペリーは「あなたの言われる如き国柄で、今後、薪、水、食糧、石炭等を与え、また漂流民を温かく扱うのであれば、これ以上言うことはない。今日以後、必ずそれを守っていただきたい。」と静かに言った。林は「承知つかまつった。」と答え、第1・第2の要求事項には諒解点に達した。問題はここからである。ペリーは強い口調で通商問題の承諾を迫った。…つづく。
2026年5月22日金曜日
書評 吉村昭 『海の祭礼』Ⅲ
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| https://nippon.zaidan.info/seikabutsu/2003/00915/contents/0003.htm |
私は幕末維新史には、それなりの見識があると思っていたのだが、この鎖国から開国への流れ、特にペリー来航時の幕府のやり取りを本書で詳しく知ることが出来た。ペリーの強行姿勢は言わずもがななのだが、ペリーは、琉球や小笠原諸島へも触手を伸ばしていたこともわかった。この時点で、WWⅡ後の施政化政策の布石があったのである。当時は捕鯨のためであったが、アメリカの対日本外交の連続性に驚く。
琉球については、ペリーは日本側が捕鯨船の入れる良港を拒否した場合、一歩退いて琉球を占領すべきと考えていた。薩摩藩の圧政から解放すると約束すれば保護下における、また琉球を根拠地として日本との交渉を行えば、日本は屈服すると考えたのである。実際、那覇港に入り、琉球の執政が歓迎の辞を述べたので、中国語の通訳を伴い王宮で答礼した。アメリカは、琉球と友好関係をもつことを望むと告げた。
さらに、艦隊は小笠原諸島に向かった。父島の二見港に入った。小笠原は日本人が発見し開拓したがその後放棄した歴史があり、5人の白人(ペリー来航時は、マサチューセッツ生のセイヴォリのみが残っていた。)がハワイの住人を連れて移住していた。アメリカ海軍の貯炭所用地として二見港に面した165エーカーの土地を買収し、セイヴォリを管理人に任じている。
そして、この後日本に向かうのであるが、長崎ではなく江戸湾を目指す。長崎と江戸は遠い。日本政府の返答が当然遅れる。ペリーはそれを嫌ったのである。
2026年5月21日木曜日
二刀流 先頭打者初球HR
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| https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2026/05/21/gazo/20260521s10001007138000p.html |
そして今日の第3戦は、久しぶりにリアル二刀流で、パドレスに対した。今日もハムショー氏のLIVEを聞いていたのだが、始まってすぐ大笑いした。先頭打者HR、それも初球である。(画像参照)後で何度もVTRを見たが、ホント凄いな。歴史的である。その後、3回までパーフェクトピッチング。ただ、パドレスは執拗にファールを打って球数を増やしてきた。結局5回の大ピンチを凌いで無得点で勝ち投手となったが、規定投球回数には届かず、驚異の防御率0.73は隠れ1位になった。試合は、ブルペン陣が期待に答え、4対0のまま勝利を手にしたのだった。
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| https://www.youtube.com/watch?v=4-Of0phzN8Y |
膨大な閲覧者数に驚く。
2026年5月20日水曜日
書評 吉村昭 『海の祭礼』Ⅱ
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| file:///C:/Users/11USER/Desktop/kinsei3-macdonald.pdf |
このマクドナルド氏は、西海岸のオレゴン州の出身。父親がネイティブ・アメリカンと交易していた関係で、友好関係のために、ネイティブ・アメリカンの大酋長の次女であった母親と結婚した。よって肌の色は白くはない。この母は若くして他界した。その後、ネイティブに対して友好から支配を強める時代となる。父親は、ハーフの彼を東海岸やカナダで学ばせる。しかし、差別は厳然としてあった。富を追求する白人の中で銀行員見習いも務めたが、馴染めず、結局船員となる。それに激怒した父の手紙の中に、buckというネイティブへの蔑称が確認されている。彼は、そういう存在だったのである。
船員となったマクドナルドは、カルカッタから胡椒を積み、リバプールへ向かう。しかし船が、南カリフォルニア沖で、船長を中心に積荷を略奪する場面に出くわした。またその後サンフランシスコからアフリカ西海岸に向かう船に乗ったが、不法な奴隷密貿易船であった。イギリス軍艦が臨検に向かってきた時、逃げられないと判断。黒人たちをイギリス線から見えない航側に板を突き出し全員を海中に突き落とした。
ネイティブの血を引くマクドナルドにとってこれらの体験は大きい。そんな時に日本のことを漂流民の存在から知ったのである。
…アイヌの人々、ネイティブ・アメリカンの悲惨さ、また黒人奴隷の悲劇、そして白人の富を追求する姿。本書の冒頭には、これらの差別的・悲劇的な姿が縦糸・横糸のように編み込まれているという感想をもった次第。















