2026年2月17日火曜日

考察 「冷戦2.0」

https://note.com/furafura_yuki/n/n63ac31a6ec31
トランプ政権が、国際政治を大きく揺るがしている。昨日のエントリーでも触れたが、あるYouTubeで「冷戦2.0」という衝撃的なネーミングを聞いて、少し考察してみようと考えた。

言うまでもなく「冷戦」は、いわゆるWWⅡ以後、およそソ連の崩壊した1990年代初頭まで使われた、資本主義・民主主義の西側諸国と社会主義の東側諸国の対立構造を示す語彙である。東欧や中国だけでなく、アジア・アフリカ諸国やラテンアメリカでも、社会主義を標榜する国家が増え、全世界的に二極化していた時代といっていいだろう。

ソ連崩壊後は、東欧諸国は西側に合流した。CISという旧ソ連の国々のくくりも、かなり希薄になった。現在、社会主義を標榜し、資本主主義を排除しているのは、キューバくらいではないかと私は感じている。北朝鮮は社会主義と言うより金王朝であるし、中国やベトナムは開放政策やドイモイ政策で資本主義の導入を積極的に行っている修正社会主義国家である。

その社会主義国家らしい社会主義国家・キューバは、例のベネズエラの石油が遮断されて窮地に陥っている。キューバの産業構造はサトウキビくらいで、ソ連が主導していた経済共同体コメコン時代は、供給の一角を占めていたが、コメンコンが破綻して以降は、アメリカの経済封鎖でさらに厳しい状況になっていた。キューバ兵の派遣と引き換えにロシアや中国などの支援で生きながらえてきたといって良い。そのロシアがウクライナ紛争で急激に経済的に行き詰まっており、キューバへの支援も滞っている。カストロ以来の社会主義政権は風前の灯と言っていいだろう。

一方、パナマ運河の東西の港湾を抑えていた香港(というかバックには中国)企業に対し、パナマの最高裁が、運営権について無効だという裁定を行った。香港企業はアメリカの圧力に屈して、売却する方針だったようだが、それさえも叶わない。中国の経済力の衰えが露呈している現在、世界各地で反中の動きが活発化している。

「冷戦2.0」の構造は、アメリカの覇権に異を唱える国々、中国とロシア、イランなどを経済的・軍事的に締め上げるというものある。一時期、BRICSの共通通貨を作成し、世界標準のドル決済から離れようとしていたし、今も当事国の通貨で貿易を行っている。(注:イランもBRICSに加盟している。インドや南アはかなり微妙な立場にある。)

ヨーロッパ諸国は必ずしもアメリカの「冷戦2.0」に同調しているわけではない。ただ、最近のEUの動きで、ウクライナの来年1月のEU加盟を促進しようという動きがあるようだ。全加盟国の賛同が必要だが、ハンガリーが反対しているので、多数決にルール変更しようとする動きがあるとのこと。EUにウクライナが加盟すれば、NATO同様の集団自衛権が稼働し、EU諸国がロシアに参戦することになるだろう。

ロシアは経済的にも軍事的にもかなり疲弊しており、中国も同様、かつての勢いはない。アメリカは、この機を逃さず、あらゆる手段で締め付けていくのだろう。力によるパクス・アメリカーナの復活である。たしかに今の国際情勢は「冷戦2.0」という語彙で表現できなくもないな、と思われる。この是非を問うとすれば、SDGsの”Leave No One Behind”(誰ひとり取り残さない)の視点で見るべきである。アメリカが打倒しようとしている諸国の多くの国民が”取り残されている”という状況から脱するならば、それは是であろう、と私は思う。

2026年2月16日月曜日

新島襄の危惧

かの同志社の創立者・新島襄は、帝国議会の開設に時期尚早と反対したそうである。意外にも思えるが、国民への民主主義教育をしないままに、民主主義の体裁を整えることに意義を唱えたのだという。アメリカで学んだ彼からすれば、ストレートな利害の衝突がかなり危なげに見えたのであろう。

たしかに、政治を定義すれば、”各集団の利害の調整”であるといえる。今日、ある国際関係に関するYouTubeを見ていて、本年初頭のベネズエラの問題から世界が大きく変化しているとの危惧が言われていた。そのネーミングが衝撃的である。「冷戦2.0」。アメリカは、自らの利益を守るため、ウエストファリア条約以来の国家主権絶対主義に軍事力パワーをもって挑戦していること。その主敵は中国であること。多国間の協定をも軽視していることなどが言われていた。「冷戦2.0」、その評価は早計に行うべきものではないと私は思っている。

新島襄の危惧は正しいと私は思う。現在の日本はともかく、途上国の多くは、教育が徹底されないまま、カタチだけの民主主義をとっており、汚職指数が極めて高い途上国に、トランプ政権が民主党時代から続く税金のバラマキを停止したのは理にかなっている。国家主権を盾に汚職で私腹を肥やそうとする指導者を持つ国々に対し、トランプ政権はNOを表明しているといってよい。その対蹠点にあるのが、中国である。先進国の技術を盗むことを悪とは思わない彼らが、途上国の指導者を丸め込み、新植民地化している。彼らの国民は情報統制化で、血税が何に使われているかも知らない。まさに、新島襄の危惧する政治的教育の問題である。中国の政治教育は、共産党に握られ、プロレタリア独裁の美名のもとプロパガンダに覆い尽くされているようである。

私の世代は、まさに大学紛争の最終ランナー世代で、紛無派とも呼ばれた。左翼思想は、かなりの影響力を持っており、マル経(マルクス経済学)が主流であった。中国ではちょうど文化大革命が行われており、ソ連も東欧の反発があったもののまだ元気だった。しかし、今やそれらの化けの皮が見事に剥がれてしまった。私も、倫理や政治・経済で、マルクスの科学的社会主義を軽く説明はするが、現状を見るに、正義という観念とはかけ離れているとしかいえない。プロレタリアのための政権が、給料未払や失業への対策を置き去りにするなど考えられない。共産党指導者は、プロレタリアから得た剰余価値から汚職で私腹を肥やしており、そんな輩に指導された国家主導の経済活動が、いかにうまく行かないかを中国は実証している。

やはり、新島襄が言うように、最初に教育ありきなのである。

2026年2月14日土曜日

久々に沢木耕太郎を読む。

学院の卒業式の日。少し早めに着いて、全員が入場する際に顔を出すことが出来た。みんないい顔で卒業式に臨んでいた。この1年の授業でのことが走馬灯のように浮かんでくる。カトリックの学校なので、マタイの福音書に始まる非常に特徴的な卒業式のことは、昨年記したので、本日は、登下校時に読み始めた沢木耕太郎の久々のノンフィクションについて、少しだけ記しておこうと思う。

『天路の旅人』(新潮文庫上・下)という作品だ。好きな作家を問われたら、私は常に沢木耕太郎の名を挙げる。『深夜特急』を始め、『バーボンストリート』など多くのノンフィクションを手掛けてきた沢木の文章は、驚くほど読みやすいし、引き込まれる。今回も登下校時の2時間ほどで、一気に86ページを読んでしまった。むちゃくちゃ面白い。書評らしきことを書くべきか否か悩むところであるが、いずれ…。

2026年2月13日金曜日

キケの来年度契約が決まった

https://cocokara-next.com/athlete_celeb/bluejays-vs-dodgers-20251101-32/
キケ・ヘルナンデス選手が、来年度もドジャーズで三連覇を目指すことが確定した。大丈夫だと信じていたがやはり嬉しい。ポストシーズンでの活躍は凄かった。ロスは、ヒスパニックの人口も多いので、プエル・ト・リコ出身でスペイン語を話すキケの人気は高い。我々日本のファンにとっても、彼の個性も人柄も実に魅力的だ。同じベテランのマンシー選手の再契約も実に嬉しい。カブスから、FAの目玉と言われたタッカー選手がドジャーズに加入したことより私は嬉しい。(笑)外野の補強には、ヌートバーに来てほしかったのだが…。

一方で、バンダ投手が放出されたようだ。大谷選手に背番号17を譲った、ポケモン大好きなブルペン投手である。花の色はうつりにけるないたずらに…。MLBビジネスの世界は、非情に流れていく。

正教会と数理神学3

https://www.youtube.com/watch?v=GCACD4tmYlU
『ギリシャ正教 無限の神』(落合仁司著)の備忘録的エントリー第3回目。前述の命題1・命題2をもとに、著者は正教会の教義と照らし合わせていく。

神は現実的無限、無限集合である。したがって、神の本質も神の実存(=キリスト)も神の活動(エネルゲイア)も無限集合であらねばならない。神を集合論的に区別すると、Aと述語づけられるキリスト、Bと述語づけられる聖霊と、Aでなく、かつBでもない神自身に区別される。神の本質という無限集合が3つの部分集合に分割されていると考えられる。したがって、「無限においては、部分と全体が等しい。」あるいは、「無限集合は、自らに等しい部分集合を持つ。」という第一命題(=三一論)が帰結される。

神の本質と活動の関係において第二命題「無限においては、部分の総和が全体を超える。」が適用できる。神の本質は、自己の活動(自己自身)をも超越するという命題が帰結され、人が神になること(パラミズム:14世紀の聖グレゴリオス・パラマスによる、神の本質を直接知ることは出来ないが、聖霊/エネルゲイアによって神と交わり一致することができるという教義)が証明可能である。

著者はここで、「およそ全ての宗教は、神あるいは仏の多一性や自己超越性を言明する教理を保持している。集合論が明らかにしたことは、むしろそれぞれの宗教の地域的、歴史的な言語表現の差異の深層に隠された、その構造の同型性、共通性である。集合論は、宗教の命題を数学の言語で表現することによって、それぞれの宗教に共通する普遍的な構造を暴き出すのである。」と記している。

…この数理神学から導かれた「宗教に共通する普遍的な構造」については、実に興味深い主張である。以後、比較宗教学的に、詳しく検討したいところだ。

この後、著者は集合論が、それ自体証明されない公理系を前提に成立していることを明かす。公理系は証明不可能であるから、合理的議論の対象ではなく、自由な選択の対象である。信仰の自由とは、個々の宗教を命題を選択する自由ではなく、その公理系自体を選択する自由である、としている。公理系の内容は、大学数学の範囲(画像参照)で、私の理解力をはるかに超えているので割愛したい。

…これで、3冊の書評を終えた。正教会の特徴はおよそ、神と、人となったイエス・キリスト、神より与えられる聖霊の至聖三者(=三一論:カトリックの場合は聖霊がキリストからも発せられるので、はっきりと相違がある。)がそれぞれ位格をもっており、特に聖霊は神のエネルゲイアが、信仰者に神との交わり・一致(”神になる”と表現されるが、神の本質には至らない。)という東方ゆえの特徴(仏教等の影響)をもっている。また、イエス・キリストの位格は、ロゴスであり、冒頭でロゴスについて語られるヨハネの福音書の影響が強く見られる。カトリックでは、クリスマスのミサにヨハネの福音書の冒頭を朗読するが、正教会では復活祭のミサで朗読される。このことは、クリスマスより重要な復活祭で朗読する正教会のほうが、ヨハネの福音書を重視しているという証に他ならない。(学院は、カトリックの学校で宗教という教科もあるので、この辺は公立の高校より理解度がそもそも高い。)

…今年度の地理の授業で、1学期後半に比較宗教学的な一神教の対比(ユダヤ教・イスラム教・キリスト教のカトリック・正教会・ルター派・カルバン派・英国国教会のハイチャーチとローチャーチ)を行ったが、来年度はさらに深く理解した立場から論じることができそうである。ただし、大学の数学まで登場する集合論(数理神学)まで話すことはないだろうと思う。(笑)

2026年2月12日木曜日

正教会と数理神学2

https://www.youtube.com/watch?v=2sobnkyibok
『ギリシャ正教 無限の神』(落合仁司著)の備忘録的エントリー第2回目。カントールの集合論の続きになる。彼は、集合論が神が無限性の弁明になることを明晰に意識していたことは極めて重要である。

ここで、数の分類の確認をしておきたい。整数:-2、0,1.2など。自然数:1.2.3など正の整数。有理数:2つの整数abを使って、a/b(b≠0)で表せる数。実数:有理数と無理数を合わせたもの。

ところで、平方根√2や円周率πなどの無理数について、彼は数列の極限として捉えた。円周率を例に取ると、π=3・π1=3.1・π2=3.14・π3=3.141…極限にいたる数列は、無限個の自然数を1つに括った全体、すなわち自然数の無限集合に他ならならず、自然数全体と同様の現実的無限であるとした。このアリストテレスの禁忌(前述の「現実的無限については、思考することを禁止する。」)を乗り越えることで、近代科学の基礎を築いたのである。

彼の証明した第一の命題は「無限においては、部分と全体が等しい。」さらに、数直線上にある、すなわち実数全体という無限集合は、一次元の直線、二次元の平面、3次元の空間、さらにn次元のユークリッド空間におきても無限集合と等しいことを証明した。直線上の0から1までの区間の実数の数がこの全宇宙さらには4次元時空連続体に存在する実数の数と等しいというのである。この証明を成し遂げたことを伝える手紙の中で「私は見た。しかし信じられない。」と書いている。

…完全文系の私としては、このあたりでかなりギブアップ気味である。(笑)ただ、この「無限においては、部分と全体が等しい。」という命題は、神と人間の関係、特に人が神となる、という事に大きく関わってくるのではないか、という嗅覚が働いた次第。

次に彼が証明した第二命題は「無限においては、部分の総和が全体を超える。」なのだが、この命題については、さらに解説が難解すぎるので、忌避させていただく。(笑)…つづく。

2026年2月11日水曜日

正教会と数理神学1

https://note.com/koritakada/n/n28aca641d08d
『ギリシャ正教 無限の神』(落合仁司著)の備忘録的エントリー第1回目。まずは、本書の前提の確認。正教会では、三一論(=至聖三者:カトリックの三位一体とは聖霊の捉え方が異なる)で、神の無限(神性は無限で把握しえないものであり、把握しうるのはその無限性と把握不能性のみである。:ダマスカスのヨアンネスの定義)を説いている。さらに、有限な人間が神になること(厳密に言えば、聖霊:神のエネルギアによってペルソナ化)が可能であると説くわけであるが、これを数理神学の立場から証明しようとするのが本書である。これは同時に、仏教を始めとする多神教と一神教の誇張された対比を否定する方向に向かう。著者の所属する同志社大学の小原学長の本書の書評が端的に示してくれている。https://www.kohara.ac/research/2002/03/review200203.html

次に、数理神学の前提。ギリシアでは、無限のパラドクスに早くから気づいていた。自然数全体の数と偶数全体の数はどちらが多いのか。直感的には自然数全体であるが、どちらも無限故に等しい。アリストテレスは、この常に後続が存在する未完結の無限を「可能的無限」、完結し実現した無限を「現実的無限」と呼んだ。彼は、現実的無限については、思考することを禁止した。この呪縛が解かれるのは19世紀末である。(ただし、4世紀のギリシア正教の教父は神を、可能的無限ではなく、現実的無限であると宣言した。)

この呪縛を説いたのが、ゲオルグ・カンタール(画像参照)。自然数全体や実数全体など集合全体を1つの対象として扱い、無限集合の存在を明らかにしたのである。…本日はここまで。