2026年4月20日月曜日

沢木『天空の旅人』断片10

沢木耕太郎の『天空の旅人』の断片、いよいよ最終回である。西川はネパールに入った。ある集落のそばで、米を炊き上げたところでで驟雨になった。貧しそうなネパール人が家に招き入れてくれた。「狭い家だが今夜はここで休みなさい。」と言ってくれ、冷たくなった飯を食べようとすると、羊の臓物を丼にして持って来てくれた。「少ないけれど。」カマドには妻と3人の子供が臓物が煮るのをじっと待っていた。それをまず西川に持ってきてくれたのだ。西川の目から涙が流れてきた。ああ、仏だ。初めて本当の仏の姿を見た。翌朝、わずかな金を置こうとしたが主人は受け取らなかった。

カトマンズでは、顔見知りの先輩ラマ僧の面倒を見ていたが、かなり回復してきたのでチベットに近いインドのカリンボンまで連れて行くことになった。1年ぶりに火葬場の老修行僧と再会した。 ビルマ潜入を考えたが、ビザが必要ということがわかった。ところがグルカ兵には移民の門が開かれており、彼らはカルカッタとアッサムを結ぶ鉄道工事の人夫をしながら入国許可を待っているらしい。ところで西川は、英蔵辞典は持っていたが、蔵英辞典を欲していた。チベット語をさらに深めるためだった。結局、ダージリンに70ルピーで5冊残っていることがわかった。工事現場では、1日2.5ルピーになるという。この費用を稼げてしかもビルマに行けそうで絵ある。…採用された西川はなんと恵まれているのだろうと思った。

(蒙古からの)駝夫の日々、物乞いたちとの日々、デブン寺の初年坊主の日々、新聞社での見習い職工の日々、そして工事現場での人夫と、全て人から見れば最下層の生活であったかも知れないが、自由に自分で選んだ生活である。やめたければいつでもやめることが出来たし、この低い生活を受け入れれば、失うことを恐れたり、階段を踏み外したり、坂を転げ落ちることを心配することもない。

…しかも西川は、ラマ僧として、巡礼の旅は托鉢や御詠歌で食を得てきた。西川にとっては幸せな日々だったと私は思う。自らの体力で数々の困難を乗り越え、それに喜びを感じる日々だったに違いない。

しかし、この旅が急に終わる時が来る。工事の休日に、現場監督とインド人警察官が来て、「君はニシカワだね。」と尋問されたのだった。この背景は、木村がラサから中国人ともども国外追放になり、カルカッタで密航しようとして拒否され、日本人がいることがバレると危ないと自ら自首し、西川のことも白状していたのである。

プレジデンシーという刑務所に二人は収監される。運動場から監房に戻る共産党の青年たちは隊列を作り「インターナショナル」を歌っていた。チャンドラ・ボースの甥やネルー狙撃犯もいた。西川を喜ばせたのは、蔵英辞典が送られてきたことである。取り調べの時になんとかしてあげようと言われ、代金を渡してあったが、約束をきちんと果たしてくれたのだった。西川と木村は、カルカッタから日本へ向かう英国船籍の貨客船で帰国する。ラングーン、ペナン島、シンガポール、香港を経由して…。大隅半島が見えた時、目が潤んだのは当然であろう。ただ、同時に8年に及ぶ長い旅が本当に終わってしまう物悲しさがあった。

…すでに、山本の帰国後のことは記しておいた。(4月15日付ブログ参照)西川とは全く違う。たしかに山本は大学教授にまで出世したのだが、私は西川の「美学」にこそ惹かれる。おそらく著者の沢木耕太郎もそうだろうと思う。西川は、この旅の記録を残そうと原稿を書き続けたが、その後は、365日地道に働き続けた。二人ともすでに鬼籍に入っている。沢木が西川の本棚整理を家族に頼まれて。山本の書いた『チベット潜行十年』を発見したのが、西川が読んだ形跡はなかった。またインタヴューで「(最後の帰国のきかっけとなった自首に際して)あなたが木村さんの立場ならどうされていたか?」「木村くんの意思を確かめてます。」と述べている。西川の『秘境西域八年の潜行』には「(木村に)密告された。」とある。かなり強い表現である。よほど悔しかったのだろう。

…西川にとっては、まだまだ旅を続けたかったのである。またその自信があったに違いない。西川の「美学」、これは、今の日本で忘れさられた「心象」のような気がしてならない。だからこそ、本書が胸をうつのではないだろうか。

沢木『天空の旅人』断片9

https://www.reddit.com/r/delhi/comments/qtm8f7/birla_mandir_in_delhi/?tl=ja
沢木耕太郎の『天空の旅人』の断片、9回目。いよいよ終盤に近づいてきた。

西川が1人で向かったのは、祇園精舎であった。途中の集落で御詠歌を歌い托鉢すると、大量の食料を喜捨され、村中の人々が御詠歌を次々にリクエストする。御詠歌が尽き、チベットや蒙古、中国、朝鮮の歌から日本の唱歌まで歌った。皆嬉しそうに聞いてくれ、さすがに疲れ果てたので、インドの歌をリクエストすると喜んで歌ってくれた。夜にはさらに若者もやってきて御詠歌を歌った。(あまりの好評さに)夜明け前に集落を離れた。まるで夜逃げだと可笑しくなった。

祇園精舎も樹木が生い茂り廃墟となっていた。中国寺の漢人僧は粥と酢の物と漬物をふるまってくれた。さらに炎天下を巡礼する西川の姿に心を動かされたというネパール人の若者の誘いで、バルランブルのマハラジャの王宮に喜捨を求めに行くことになった。マハラジャは20ルピーもの大金を喜捨してくれ寝台付きの個室と毎日の食事を提供してくれた。

さらにチベット国境に近いネパールからの出稼ぎ人から、自宅で読経して欲しいと頼まれた。ヒンドゥー教徒だがラマ教にも強い親近感があるらしい。多くの人が集まり歓待された。同じようなことが続く。何故このような事が起こるのか?今の自分には綺麗に欲がなくなっている。それが人の好意を誘うのかも知れないと西川は思う。

駅であった大学教授は、果物や菓子塁を喜捨してくれた。食べきれないので近くにいたチベット人と蒙古人巡礼者たちにも食べてもらっていると、教授が同じように座り込み、西川を通訳としてチベットや蒙古のことを訊ねてきた。周りにいたインド人も加わって、1時間の座談会となった。心温まる時間だった。

また、チャンドラ・ボースの軍隊の将校たちとも出会う。かれらには西川の容貌や細やかな動作に日本人らしさを見つけ、日本語で話しかけてきて、西川を驚かせたが、一緒にアグラに向かうことになった。タージ・マハルを見学した。その後、デリーに向かい、マハトマ・ガンジーが荼毘に付されたラージ・ガートで墓参りをした。

インド人実業家が寄進したビルラ寺(画像参照)では、守衛長に声をかけられ、蒙古から来たことを告げると遠来の客だからと宮殿のようなところに案内された。ヒンドゥー教の寺院だが、庭園には日本の建築技師による仏教寺院もあり、ここでビルラ氏と遭遇する。ラマ教について問われ、御詠歌も披露した。出発の日、守衛長に挨拶にいくと再びビルラ氏に合わせてくれた。100ルピーもの喜捨をしてくれたのだった。

…西川の単独インド行は、まさに仏の世界であった。ひとえに欲を持たず、修行で得た御詠歌のおかげでもあった。

デリーから、シーク教の大本山グルナーク寺に着く。アフガニスタンにまで行きたかったが戦乱の関係でここから先は移動できそうになかった。しかも次に訪れた街で、パキスタンのスパイの疑いをかけられた。留置場で3日間過ごし、香港に滞在経験があり、中国語を喋るシーク教徒の署長の登場で救われた。西川は、ネパールを目指すことにした。

…余談だが、シーク教徒はイギリス旧植民地に多い。私はカナダのトロント、ケニアのナイロビ、そしてマレーシアのKLでシークの人々と出会った経験がある。

2026年4月19日日曜日

沢木『天空の旅人』断片8

http://sal.bigaku.biz/bo_tree.htm
沢木耕太郎の『天空の旅人』の断片、8回目。無賃乗車と1人半ルピーで乗せてくれたトラックで、彼らはカルカッタに着く。しかし駅で警察に捕まった。彼らはラマ教の叩頭をし、「パポー、ブダガヤ!」(旦那さん、ブダガヤに行くのです)と叫び、ロブサンが大事に持っていた仏画を出し隊長風の男に、うやうやしく差し出し手を合わせた。彼らの思いが伝わったらしいのを見て、全員で御詠歌を歌った。隊長風の男は、目を閉じて聞き入っていたが、一節が終わると、「裏口から出してやれ。」と言ってもらえた。

http://yosukenaito.blog40.fc2
.com/blog-entry-4286.html
カルカッタのある安食堂では、西川がチャンドラ・ボース(WWⅡで日本軍の支援を受けインド独立を目指した英雄:画像参照)の肖像画に敬意を示したので食事面での大サービスと、荷物を預かってくれた。

ブッダガヤは、恐ろしく荒れ果てていた。菩提樹(釈迦が悟りを開いたので、菩提=悟りの樹:画像参照)の大木は、チベット寺のラマ僧によれば、一度は火事にあって焼失し、さらにイスラム教徒によって切り倒されたが、その度にまた芽を出し、大きく育ってきたのだという。菩提樹の密生している林で、西川以外の3人は実を拾い集めた。ラマ教徒にとってブッダガヤの菩提樹の実で作った数珠は、何者にも替えがたい貴重なものだったからだ。だが、いつ帰れるかも知れない故郷への記念品など必要がなかった。ネーランジャラー河のほとりで月光を浴びながら御詠歌を歌い続けた夜の喜び以上のものはなかった。

ラジキール(王舎城)はかつての仏教国・マガダ国の首都である。ここも荒れ果てていた。日本寺を西川が一人で訪ねるが、日本人僧侶は戦争が始まると引き上げてしまっていた。だが、仏間には香炉、蓮の花の造花、木魚、陶製の花瓶などあり、それを見られただけで満足しようと思った。

さらにサルナート(鹿野苑)に着く。中国寺には仏陀の一生を描いた日本人が描いた壁画があり、英語とヒンディー語と日本語で経緯が記されていた。5年ぶりに西川は日本語の文章を眼にした。

クシナガラでは、沙羅双樹の森があり涅槃像が横たわっていた。この周囲を真言を唱えながら回った。ルンビニは、ネパール側の国境地帯にある。ここも寂れていた。摩耶がイチジクの木の葉を握って釈迦を生んだとされる。記念品を求めない西川もこの木の川をお守りとして持ち帰ることにした。

ここから西川は、一人インド放浪の旅に出る。兄弟を失うような寂しさの中で…。

2026年4月18日土曜日

新島襄の自責の杖を知らぬのか

https://www.nishinippon.co.jp/image/929808/
同志社の創立者・新島襄の「自責の杖」事件は広く知られている。学校側のクラス編成に不満を持った学生たちが、新島の不在中にストライキを起こしたのだが、新島はこの事態を深く受け止め、学生を叱責するのではなく、「責任は私にある」として、朝の礼拝時に持参した杖(画像参照)で自分の手を激しく殴打し、学生に所在と責任の所在を示した事件である。

これが同志社の教育の理念ではないのか。同志社国際高校の校長や教員は、このエピソードすら知らないのであろう。あるいは知っていても、知らないふりをしているとしか思えない。

新島襄は逃げなかった。今の校長は国会での参考人として呼ばれても、忙しいと逃げている。呆れ果てている次第。

沢木『天空の旅人』断片7

https://www.expedia.co.jp/Kalimpong.dx6130351
沢木耕太郎の『天空の旅人』の断片再開。7回目のエントリー。西川は木村とラサに着いた。イシ師匠のもとに戻り、デブン寺で修行を続けることも可能だったが、巡礼と嘘をついての別れだっただけに、それに耐えれなかった。

結局、木村とともにヒマラヤを越え、インドのカリンボン(画像参照)の探索の依頼主だった新聞社に向かう。そこで、木村は東チベット行の報告書、西川は1mほどの大きな地図を作成した。しかし、インドとパキスタンが分離独立し、イギリスがインド大陸から手をひくことになった。木村は報酬を受け取ると石油の担ぎ屋になったが、西川はチベット全図の地図を描き、そのまま新聞社の仕事をすることになった。それはラダック人のタルチン氏の人柄による。西川の、好意を寄せてくれた人に深く感謝し全力で応じ、身を粉にして働くという心性であった。カリンボンを訪れた巡礼者により、西川の所在がイシ師に伝わり、帰ってきなさいという手紙が届くようになった。胸を熱くしたが、西川は自由にインド放浪に出ることにした。タルチン氏からも強い引き止めを受けたが、餞別に英蔵辞書をくれた。

カリンボンの郊外にある火葬場の近くにあるラマ寺院に、仙人のような修行僧がいた。火葬される死者の霊を弔い、御詠歌がうまく、西川は彼から御詠歌を習うことにしたのである。インドでの托鉢で、ただ恵んでもらうのではなくお返し(御詠歌)がしたかったのである。ここには以前から顔なじみの西川と同じ名(ロブサン)という修行僧がいて、彼は仏師と呼べるほど見事な仏像を土をこねて作っていた。

入門にあたって用意したのは、ダンバルと呼ばれるでんでん太鼓、ホンコという鈴、人の大腿骨で造られたガンドンという笛、毛皮の敷物、人の頭蓋骨で造られた骨椀などである。修行の第一の課題は白骨の散らばる洞窟での坐禅であった。無念無想にはなかなかなれるものではない。ロブサンにヒントを貰った西川は、石ころを使い、置く距離を伸ばしていく。やがて、空の任意の一点を見つめることで無心に近づくことができるようになる。

次いで、老修行僧はシーチェパ派(シャーマニズムの要素を含んだシチュー派?)の聖典について説いてくれた。この派の聖典をいくつも暗記していく。ここで、ようやく御詠歌の修行に入る。右手で、でんでん太鼓、左手で鈴をならし、口で御詠歌を歌う。ガンドンの笛を吹くとその不気味な音に天地の悪霊が引き寄せられる。御詠歌を歌うと彼らは恐れをなして退散し、仏と菩薩の光に照らされるという構図である。西川は、三か月の苦行で、自在に御詠歌を歌えるようになった。

修業を終えた西川は、ブッダガヤ(釈迦が悟りを開いた地)、クシナガラ(釈迦入滅の地)、ルンビニ(釈迦生誕の地)の三大聖地を巡礼することに決めた。仏師ロブサンと後2名が西川に同行することになった。

2026年4月17日金曜日

同志社国際高校の事件考4

https://www.youtube.com/watch?v=lxD-0z7T3bY
このところ、京都南丹市の男子児童の件にメディアの注目が集められた。SNSでは、同志社国際高校の事件への眼をそらすための報道ではないかと言われており、私もそう思う。

昨日、参議院の文教科学委員会での伊藤たかえ議員の質問のYouTubeを見た。改めて、同志社国際高校、旅行業者などへの怒りが込み上げてきた。是非ご覧いただきたい。

https://www.youtube.com/watch?v=lxD-0z7T3bY

まずは、西田校長の始業式(礼拝での講話)での「事故が起こった直接的な原因は私にはないんですけれど…」「私たちの学校がしている平和教育というものは、思想的・政治的に偏ったものを提供するものではない。そんこことだけは信じてください。」「今回のこと、学校はある意味リスタート。平和の再構築のために、これから進んでいきます。」という発言…。

はっきり申し上げて馬鹿ではないのかと思う。反省のかけらも感じれない。しかも被害者への黙祷も行われていない。国語の教師であったらしいが、その国語力の低さに驚く。あれだけの事件を起こし、責任を回避し、教育基本法を破りながら思想的・政治的に偏ったものを提供するものではないとし、リスタートの意味さえわかっていない。彼に教育者などという称号はあてはまらない、いや人間として許せない。

また被害者の保護者のNOTEによると、被害者の遺品は、旅行社にボロボロの段ボールに入れられていたとのこと。まったくありえない話である。学校の配慮もクソもないし、旅行社もそのままにしていることが全く理解できない。人間の所作ではなく、鬼畜である。

これらのNOTEにかかれている内容を伊藤議員がするどく追求している。文科大臣も答弁書でありきたりの回答していて苦しそうであったが、大臣も被害者の保護者のNOTEを熟読しており、最後の答弁書抜きでの答弁では、議員と同感であることがわかる。

左翼の人間は、特に責任転嫁しながら体制側を批判することが常である。その一例として挙げておきたい話がある。日本共産党は、以前(45年前)石油備蓄について戦争準備だと大反対していたのだが、今回の石油供給危機にあたって、なぜもっと備蓄量を増やしておかなかったのかと批判している。彼らの党ポスターには「国民のためにブレずに働く」というコピーが書かれている。大嘘つきである。ブレまくっている。恥ずかしくないのだろうか?https://www.jcp.or.jp/web_download/16436/

結局校長は、アメリカ軍や国が悪い、と思っているのだろう。それは違う。被害者が出たのは、校長・学校の責任である。もし、教員が同乗していれば、(教育関係者の端くれとして断言するが)絶対人数確認を行う。ならば助かったかもしれない尊い生命なのである。

2026年4月16日木曜日

大谷投手 専念でスイープ

https://news.ntv.co.jp/category/sports/61d1a7a5a9c24a488b717511811d34da
メッツ戦は、結局ドジャーズがスイープした。強い。第一試合で死球を受けた大谷選手の身体の状況を医療スタッフが細かく分析し、今日は投手専念。DHを好調のラッシングに譲った。結局6回2安打1失点、10奪三振という好投を見せた。試合は8対2でスイープ(三連勝)した。

監督から投手専念を告げられた時はびっくりしたらしいが、チームの勝利が何より大事な大谷選手である。これを受け入れたという。

大谷選手は、ドジャーズにとっても、MLBにとっても、日本にとっても最高の宝である。ドジャーズにおける選手の丁寧な健康管理ゆえの投手専念。これからさらに連戦が続く。どうなるかはわからないが、何よりも怪我なく長く活躍して欲しいので、私はこの決定を支持したい。

ちなみに、今日はドジャーズでMLB初の黒人選手となったジャッキー・ロビンソンの背番号42(MLB全体の永久欠番)を敵味方全員が付けての試合だった。(画像参照)