2026年2月19日木曜日

ロシア正教会と聖セラフィム2

https://frgregory.hatenablog.com/entry/2021/01/15/205632
「ロシア正教会と聖セラフィムーその霊性の源泉を求めて」(及川信/サンパウロ)の書評。聖セラフィムの生涯を辿っていきたい。

1759年、クルスク(ロシアのクルスク州州都/ウクライナから見れば東北の国境地帯)に、レンガ製造工場や建築業を営んでいた父(敬虔・誠実な人だったが、彼が三歳の時に死別)と父の家業を引き継いだ母(貧しい娘や身寄りのない娘を養女にすような気丈な人)の次男として生まれた。兄は商売を営み、彼を商売人にしようとしたが、向いていなかったようで宗教書を読みふけっていた。19歳になった1778年12月3日に、院長が両親と親しいサーロフ修道院に入門した。ちなみに翌日12月4日は、生神母マリアがエルサレム神殿付属の女子神学校に入った記念日である進堂祭であった。

修道院の雑務に励みながら、サーロフの森で厳しい修練の生活を送っているのを見学していた。1780年、激痛を伴う水腫を発病。医者の診察を拒み、「聖なる父、霊と体の真の医師、我らの主イエス・キリストとその母マリアにすべて委ねているので十分なのです。」と言った。10歳のときにも重病で生死を彷徨ったが、夢に生神母マリアが現れ、癒やされる軌跡を体験していたからで、この時も生神母マリアがペテロとヨハネを伴って現れ、祝福して彼の右腰に手を当て、穴が開いて水が流れた。この傷跡は生涯残ったという。その後、3年間療養することになる。奇跡のあった小屋跡には、聖堂と三階建ての病院が建てられている。

1786年セラフィムの修道名で修道士の誓いをたて、故郷の母と別れを告げる。27歳である。この頃から神秘的な奇跡を体験することが多くなり近くの森に小屋を建て修練を積む時間が多くなる。1793年に司祭となり、翌1794年に修道院を離れ、6kmほど離れた森での隠遁生活に入る。生神母マリアの聖像が飾られ、椅子代わりの木片1つが床に置かれ、ベッドはなし。ストーブにはほとんど火を入れず、四季を通じて白い麻の修道服1枚。いつも背負っている袋には大切な福音書。彼は、この地を聖山アトス(ギリシアの正教会の聖地)と呼び、小屋の周囲にイスラエルの地名をつけた。ナザレで生神母マリアのために祈り、ゴルゴダでは六時課と九時課(正教会の修道院の奉礼で、六時課は正午にイエスの十字架刑、九時課は午後3時でイエスの死をそれぞれ記念して行われる)を唱えた。タボル山では主の変容祭(イエスが光を発したよされる山/変容祭はそれを記念する祭)の福音を朗読し、ベツレヘムでは「至(い)と高きには光栄神に帰し~」の(イエスの誕生を祝う)聖歌を歌うといった具合である。

修道生活の基本である祈祷・斎(ものいみ:食事などの節制・断食)・独居・廉施(周囲の人や自然への優しい思いやりのある言動)を、人の霊魂を神の国へと運ぶ”四頭立ての馬車”と呼んだ。サーロフ修道院と同様の祈祷日課や最も厳しいと言われていた聖パコミコス修道院の夜間祈祷も行い、日曜日には司祭として修道院に帰り、領聖(カトリックで言う聖体拝領)も行っていた。有名な話で、小屋にやってくる熊や狼、兎、狐、狸、小鳥や蛇にも食料を分け与えていた光景が多くの修道士に目撃されている。(画像参照)

1804年3人の乱暴な農民強盗が、小屋に乱入した。土曜日だったので重症にも関わらず修道院に向かっているとこを発見された。血に塗れ意識が混濁していたが、7日目に生神母マリアがペテロとヨハネを伴って現れ、奇跡が起こり回復する。5ヶ月後には小屋に帰れたが杖無しでは歩けなくなっていた。強盗犯たちは捕まり牢獄に収監されたが、減刑と赦免を嘆願し。釈放された3人は修道院を訪れ謝罪したという。

またサーロフ修道院の当時の院長の永眠後、院長就任を断り、沈黙の修行に入っていく。1810年、長年暮らした小屋を離れ修道院に帰院。1825年、生神母マリアから「沈黙の苦行を終えて小屋に帰り人々に教えなさい。」という黙示を受け、15年間の沈黙をやびり、修道院近くの庵で、夜の8時まで人々に会った。修道士や聖職者、農民、商人、軍人、貴族などあらゆる階層、あらゆる年齢の人々が各地からやってきた。1789年、サーロフ修道院が庇護していた女性の共同体を、女子修道院を開くことに尽力した。1833年、ロシア歴の元旦の日曜日、祈祷後修道士1人ひとりに別れの挨拶と祝福をし、埋葬されるはずの土地を訪問し、庵で復活の讃歌をいつもより大きな声で歌った。そして、翌日、聖像の前で跪き、祈祷したままの姿勢で息を引き取っていた。

…なんとも感動的な生涯である。正教会最高の聖人と言われるのも納得である。

2026年2月18日水曜日

ロシア正教会と聖セラフィム

学院の図書館でまた宗教にまつわる本を3冊借りてきた。「ロシア正教会と聖セラフィムーその霊性の源泉を求めて」(及川信/サンパウロ)から読んでいこうと思う。正教会の学びの中で、登場した聖セラフィムの伝記である。正教会の聖霊(エネルギア)を呼び込んで、キリストと一体化するという正教会の教義は理解したが、具体例を知りたくて書棚から選ばせてもらった。

ところで、今朝宗教科のI先生と、休憩室で一神教について話がはずんだ。I先生は、J大神学部出身で、カトリックの立場から様々な質問を受けていただける貴重な存在である。学び、そして議論することができる極めて比較宗教学的に有効な空間が、学院にはあるわけである。実にありがたい。

2026年2月17日火曜日

考察 「冷戦2.0」

https://note.com/furafura_yuki/n/n63ac31a6ec31
トランプ政権が、国際政治を大きく揺るがしている。昨日のエントリーでも触れたが、あるYouTubeで「冷戦2.0」という衝撃的なネーミングを聞いて、少し考察してみようと考えた。

言うまでもなく「冷戦」は、いわゆるWWⅡ以後、およそソ連の崩壊した1990年代初頭まで使われた、資本主義・民主主義の西側諸国と社会主義の東側諸国の対立構造を示す語彙である。東欧や中国だけでなく、アジア・アフリカ諸国やラテンアメリカでも、社会主義を標榜する国家が増え、全世界的に二極化していた時代といっていいだろう。

ソ連崩壊後は、東欧諸国は西側に合流した。CISという旧ソ連の国々のくくりも、かなり希薄になった。現在、社会主義を標榜し、資本主主義を排除しているのは、キューバくらいではないかと私は感じている。北朝鮮は社会主義と言うより金王朝であるし、中国やベトナムは開放政策やドイモイ政策で資本主義の導入を積極的に行っている修正社会主義国家である。

その社会主義国家らしい社会主義国家・キューバは、例のベネズエラの石油が遮断されて窮地に陥っている。キューバの産業構造はサトウキビくらいで、ソ連が主導していた経済共同体コメコン時代は、供給の一角を占めていたが、コメンコンが破綻して以降は、アメリカの経済封鎖でさらに厳しい状況になっていた。キューバ兵の派遣と引き換えにロシアや中国などの支援で生きながらえてきたといって良い。そのロシアがウクライナ紛争で急激に経済的に行き詰まっており、キューバへの支援も滞っている。カストロ以来の社会主義政権は風前の灯と言っていいだろう。

一方、パナマ運河の東西の港湾を抑えていた香港(というかバックには中国)企業に対し、パナマの最高裁が、運営権について無効だという裁定を行った。香港企業はアメリカの圧力に屈して、売却する方針だったようだが、それさえも叶わない。中国の経済力の衰えが露呈している現在、世界各地で反中の動きが活発化している。

「冷戦2.0」の構造は、アメリカの覇権に異を唱える国々、中国とロシア、イランなどを経済的・軍事的に締め上げるというものある。一時期、BRICSの共通通貨を作成し、世界標準のドル決済から離れようとしていたし、今も当事国の通貨で貿易を行っている。(注:イランもBRICSに加盟している。インドや南アはかなり微妙な立場にある。)

ヨーロッパ諸国は必ずしもアメリカの「冷戦2.0」に同調しているわけではない。ただ、最近のEUの動きで、ウクライナの来年1月のEU加盟を促進しようという動きがあるようだ。全加盟国の賛同が必要だが、ハンガリーが反対しているので、多数決にルール変更しようとする動きがあるとのこと。EUにウクライナが加盟すれば、NATO同様の集団自衛権が稼働し、EU諸国がロシアに参戦することになるだろう。

ロシアは経済的にも軍事的にもかなり疲弊しており、中国も同様、かつての勢いはない。アメリカは、この機を逃さず、あらゆる手段で締め付けていくのだろう。力によるパクス・アメリカーナの復活である。たしかに今の国際情勢は「冷戦2.0」という語彙で表現できなくもないな、と思われる。この是非を問うとすれば、SDGsの”Leave No One Behind”(誰ひとり取り残さない)の視点で見るべきである。アメリカが打倒しようとしている諸国の多くの国民が”取り残されている”という状況から脱するならば、それは是であろう、と私は思う。

2026年2月16日月曜日

新島襄の危惧

かの同志社の創立者・新島襄は、帝国議会の開設に時期尚早と反対したそうである。意外にも思えるが、国民への民主主義教育をしないままに、民主主義の体裁を整えることに意義を唱えたのだという。アメリカで学んだ彼からすれば、ストレートな利害の衝突がかなり危なげに見えたのであろう。

たしかに、政治を定義すれば、”各集団の利害の調整”であるといえる。今日、ある国際関係に関するYouTubeを見ていて、本年初頭のベネズエラの問題から世界が大きく変化しているとの危惧が言われていた。そのネーミングが衝撃的である。「冷戦2.0」。アメリカは、自らの利益を守るため、ウエストファリア条約以来の国家主権絶対主義に軍事力パワーをもって挑戦していること。その主敵は中国であること。多国間の協定をも軽視していることなどが言われていた。「冷戦2.0」、その評価は早計に行うべきものではないと私は思っている。

新島襄の危惧は正しいと私は思う。現在の日本はともかく、途上国の多くは、教育が徹底されないまま、カタチだけの民主主義をとっており、汚職指数が極めて高い途上国に、トランプ政権が民主党時代から続く税金のバラマキを停止したのは理にかなっている。国家主権を盾に汚職で私腹を肥やそうとする指導者を持つ国々に対し、トランプ政権はNOを表明しているといってよい。その対蹠点にあるのが、中国である。先進国の技術を盗むことを悪とは思わない彼らが、途上国の指導者を丸め込み、新植民地化している。彼らの国民は情報統制化で、血税が何に使われているかも知らない。まさに、新島襄の危惧する政治的教育の問題である。中国の政治教育は、共産党に握られ、プロレタリア独裁の美名のもとプロパガンダに覆い尽くされているようである。

私の世代は、まさに大学紛争の最終ランナー世代で、紛無派とも呼ばれた。左翼思想は、かなりの影響力を持っており、マル経(マルクス経済学)が主流であった。中国ではちょうど文化大革命が行われており、ソ連も東欧の反発があったもののまだ元気だった。しかし、今やそれらの化けの皮が見事に剥がれてしまった。私も、倫理や政治・経済で、マルクスの科学的社会主義を軽く説明はするが、現状を見るに、正義という観念とはかけ離れているとしかいえない。プロレタリアのための政権が、給料未払や失業への対策を置き去りにするなど考えられない。共産党指導者は、プロレタリアから得た剰余価値から汚職で私腹を肥やしており、そんな輩に指導された国家主導の経済活動が、いかにうまく行かないかを中国は実証している。

やはり、新島襄が言うように、最初に教育ありきなのである。

2026年2月14日土曜日

久々に沢木耕太郎を読む。

学院の卒業式の日。少し早めに着いて、全員が入場する際に顔を出すことが出来た。みんないい顔で卒業式に臨んでいた。この1年の授業でのことが走馬灯のように浮かんでくる。カトリックの学校なので、マタイの福音書に始まる非常に特徴的な卒業式のことは、昨年記したので、本日は、登下校時に読み始めた沢木耕太郎の久々のノンフィクションについて、少しだけ記しておこうと思う。

『天路の旅人』(新潮文庫上・下)という作品だ。好きな作家を問われたら、私は常に沢木耕太郎の名を挙げる。『深夜特急』を始め、『バーボンストリート』など多くのノンフィクションを手掛けてきた沢木の文章は、驚くほど読みやすいし、引き込まれる。今回も登下校時の2時間ほどで、一気に86ページを読んでしまった。むちゃくちゃ面白い。書評らしきことを書くべきか否か悩むところであるが、いずれ…。

2026年2月13日金曜日

キケの来年度契約が決まった

https://cocokara-next.com/athlete_celeb/bluejays-vs-dodgers-20251101-32/
キケ・ヘルナンデス選手が、来年度もドジャーズで三連覇を目指すことが確定した。大丈夫だと信じていたがやはり嬉しい。ポストシーズンでの活躍は凄かった。ロスは、ヒスパニックの人口も多いので、プエル・ト・リコ出身でスペイン語を話すキケの人気は高い。我々日本のファンにとっても、彼の個性も人柄も実に魅力的だ。同じベテランのマンシー選手の再契約も実に嬉しい。カブスから、FAの目玉と言われたタッカー選手がドジャーズに加入したことより私は嬉しい。(笑)外野の補強には、ヌートバーに来てほしかったのだが…。

一方で、バンダ投手が放出されたようだ。大谷選手に背番号17を譲った、ポケモン大好きなブルペン投手である。花の色はうつりにけるないたずらに…。MLBビジネスの世界は、非情に流れていく。

正教会と数理神学3

https://www.youtube.com/watch?v=GCACD4tmYlU
『ギリシャ正教 無限の神』(落合仁司著)の備忘録的エントリー第3回目。前述の命題1・命題2をもとに、著者は正教会の教義と照らし合わせていく。

神は現実的無限、無限集合である。したがって、神の本質も神の実存(=キリスト)も神の活動(エネルゲイア)も無限集合であらねばならない。神を集合論的に区別すると、Aと述語づけられるキリスト、Bと述語づけられる聖霊と、Aでなく、かつBでもない神自身に区別される。神の本質という無限集合が3つの部分集合に分割されていると考えられる。したがって、「無限においては、部分と全体が等しい。」あるいは、「無限集合は、自らに等しい部分集合を持つ。」という第一命題(=三一論)が帰結される。

神の本質と活動の関係において第二命題「無限においては、部分の総和が全体を超える。」が適用できる。神の本質は、自己の活動(自己自身)をも超越するという命題が帰結され、人が神になること(パラミズム:14世紀の聖グレゴリオス・パラマスによる、神の本質を直接知ることは出来ないが、聖霊/エネルゲイアによって神と交わり一致することができるという教義)が証明可能である。

著者はここで、「およそ全ての宗教は、神あるいは仏の多一性や自己超越性を言明する教理を保持している。集合論が明らかにしたことは、むしろそれぞれの宗教の地域的、歴史的な言語表現の差異の深層に隠された、その構造の同型性、共通性である。集合論は、宗教の命題を数学の言語で表現することによって、それぞれの宗教に共通する普遍的な構造を暴き出すのである。」と記している。

…この数理神学から導かれた「宗教に共通する普遍的な構造」については、実に興味深い主張である。以後、比較宗教学的に、詳しく検討したいところだ。

この後、著者は集合論が、それ自体証明されない公理系を前提に成立していることを明かす。公理系は証明不可能であるから、合理的議論の対象ではなく、自由な選択の対象である。信仰の自由とは、個々の宗教を命題を選択する自由ではなく、その公理系自体を選択する自由である、としている。公理系の内容は、大学数学の範囲(画像参照)で、私の理解力をはるかに超えているので割愛したい。

…これで、3冊の書評を終えた。正教会の特徴はおよそ、神と、人となったイエス・キリスト、神より与えられる聖霊の至聖三者(=三一論:カトリックの場合は聖霊がキリストからも発せられるので、はっきりと相違がある。)がそれぞれ位格をもっており、特に聖霊は神のエネルゲイアが、信仰者に神との交わり・一致(”神になる”と表現されるが、神の本質には至らない。)という東方ゆえの特徴(仏教等の影響)をもっている。また、イエス・キリストの位格は、ロゴスであり、冒頭でロゴスについて語られるヨハネの福音書の影響が強く見られる。カトリックでは、クリスマスのミサにヨハネの福音書の冒頭を朗読するが、正教会では復活祭のミサで朗読される。このことは、クリスマスより重要な復活祭で朗読する正教会のほうが、ヨハネの福音書を重視しているという証に他ならない。(学院は、カトリックの学校で宗教という教科もあるので、この辺は公立の高校より理解度がそもそも高い。)

…今年度の地理の授業で、1学期後半に比較宗教学的な一神教の対比(ユダヤ教・イスラム教・キリスト教のカトリック・正教会・ルター派・カルバン派・英国国教会のハイチャーチとローチャーチ)を行ったが、来年度はさらに深く理解した立場から論じることができそうである。ただし、大学の数学まで登場する集合論(数理神学)まで話すことはないだろうと思う。(笑)