およそ前2冊とかぶる部分は割愛しながら、エントリーしていこうと思う。数理神学といっても、私は完全文系人間で、数学は大の苦手なのだが、「集合論」をもとに進めているようなので、できるだけ平易に、私の理解しうる範囲で、備忘録を記していきたいと思っている。
2026年2月8日日曜日
オーソドックスの教材研究Ⅶ
2026年2月7日土曜日
正教会:永遠としての神
「我望む。死者の復活、ならびに来世の生命を。」正教会のミサで唱えられる『信経』(381年の二ケア・コンスタンチノポリス信経:12の条項の短文からなる。)は、来たるべき時に思いを馳せて、期待の言葉で結ばれている。とはいえ、ヨハネの福音書(3-2)には「愛する者たちよ。わたしたちは今や神の子である。しかしえあたしたちがどうなるのか、まだ明らかではない。」とある。ただ、聖書と聖伝は、繰り返し再臨を告げている。しかし、(当然ながら神の意思で定められる故に)その時期は知らされていない。
ハリトリスの再臨の時は魂も肉体も蘇る。魂と肉体は、もう一度結びつき1人の復活した人格として最後の審判を受けるために主の御前に進み出る。私たちの選択の行為のすべてが、目の前に示される時である。審判者は当然ハリトリスであるが、別の見方をすると、裁くのは私たち自身である。地獄にいる人は、自己定罪、自己呪縛する人であるので、「地獄の扉は内側から錠がおろされている。」というのは全く正しい。
復活の王国は、終わりのない国である。黙示録に「勝利を得る者には、隠されているマナ(出エジプト記で、イスラエルの民が荒野にある時、天から降ってきた黄色く蜜を入れた煎餅のような食べ物/上記AIの画像参照)を与えよう。また白い石を与えよう。この石の上には、これを受ける者のほか誰も知らない新しい名が書いてある。」とあり、それぞれの人は明確にその人自身であり、個性も保たれるが浄化され、一新され、輝かしいものになる。ヨハネの福音書(14-2)「主イイススはその憐れみにより、それぞれの人にその人の働きに応じて安らぎを与えられる。偉大な者にはその偉大さに応じて、また小さい者には小さい者にふさわしいように。」とある通りである。
永遠とは絶え間ない前進であり、果てしない成長であると、本書は結ばれている。
2026年2月6日金曜日
正教会:祈りとしての神
著者は、主教として、教会・機密(=秘跡:サクラメント)・聖書を、正教会の信仰に不可欠な条件としている。この中で、西方で展開されてきた聖書の批判的研究について、学問的研究(聖書学や歴史神学など)は疑いなく存在し、十把一絡げに拒否するべきではないが、正教徒として、その全てを受け入れることは出来ない。聖書は、孤立した個人として読んではならないし、起源や様式史また編集史についての最新の諸理論に照らして読んではならない。教会の精神(教会のメンバーとして交わりの中で読む)を最終的基準とし、教父や聖人たちによってどのように理解されてきたのかということを意識し続けるべきである。聖書を読むことは祈りへと続く道である、としている。
さらに3つの段階について述べられている。修徳的生活(徳の実践)、自然の観想、神の観想である。ここでは、自然の観想における神学的な話を期しておこう。すべての事象には神の造られざるエネルギアが浸透し、その存在が保持されていて、全ての事象は神の存在を仲立ちとして人に伝える「神現」(テオファニィ)となっている。それぞれ事物の中心には、神のロゴスによって刻み込まれた内的な原理すなわちロゴスがある。このロゴスとの交わり(神のエネルギーとロゴスを見出す)に入ることが重要である。
正教会の伝統を伝える霊的な師父は、神の観想の段階では、否定主義的な祈りを実践する。雑念を払い、「イイススの祈り」(主イイスス・ハリトリス神の子や我罪人を憐れみたまえ)を繰り返す。そうして、ペルソナ的一致に向かう。ハリトリスに似る者になったとしても、ペテロはペテロ、パウロはパウロ、フィリピはフィリピで、それぞれの者がそれぞれの本性とペルソナ的自己同一性を保つ。聖人たちが神化するのは、神のエネルギアによるものである。
出エジプト記(20/21)に、モーセがシナイ山頂の「神のいる濃い闇」の中に入ったという描写がある。神が闇であるとは言われていない。ヨハネの福音書(1-5)「神は光であって、神にには少しの暗いところもない。」タボル山でのハリトリスの変容も光で示された。東西を問わず、聖人たちは身体の栄化の例が多い。モーセはシナイ山から降りてきた時、顔が光り輝き、誰もまともに見ることが出来なかったので顔にベールをかけたとされる。(上記画像は、適当な画像が見つからなかったので、AIで作成したもの)
…正教会における神化は、朱子学の理気二元論と共通点がありそうである。もちろん、理とロゴスと同じものとは考えにくいが…。だんだんと正教会がヨハネの福音書を重視していることがわかってきたのであった。また「イイススの祈り」を繰り返す祈りは、仏教の題目やイスラムの信仰告白との共通点を感じるのであった。このあたりは、やはり「東方」を感じるのである。
2026年2月5日木曜日
正教会:聖霊としての神
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| https://avantdoublier.blogspot.com/2013/08/blog-post_16.html |
ローマのカタコンベ(地下墓地)には、天を見上げ、両手を広げ、手のひらは上を向ける「オランス」という姿勢をとる婦人の姿が壁画に描かれている。この姿(画像参照:注/これはローマのものではない)は、聖霊を呼び求め、待ち受ける嘆願(エピクレシス)の姿である。
聖霊は、ギリシア語ではブネウマ(風ないし息)と呼ぶ。「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞くが、それがどこから来て、どこへ行くかは知らない。」(ヨハネの福音書3-8)その理解し難さにもかかわらず、正教会の伝統では、第1に位格(ペルソナ)であること。第2に、他の2つの位格と同等であることが重要である。聖霊はマリアに降り神のロゴスを宿した。ハリトリスを世に送ったのは聖霊であるし、イイススがヨハネの洗礼を受けた時、聖霊は彼の頭の上に鳩のカタチで降った。イイススを伝道に派遣したのも聖霊である。超有名な一節「主の聖霊が私に宿っている。貧しい人々に福音を宣べ伝えさせるために、私を聖別してくださった方である。」(ルカの福音書4-18)とあるように。
さらに復活後は、ハリトリス(すでに受肉していたイエスは死に、神と一体化していた故に)が聖霊を送り出す。(正教会では、カトリックと違い、イエスから聖霊が発するとはしない。)この聖霊降臨は、受肉の目的と成就を形成する。「ロゴスは身をとった。それは私たちが聖霊を受け取れるようになるためである。」(ウラジミール・ロースキー)また、最後の晩餐で、「真理の聖霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分について語るのではない⋯聖霊はわたしのものを受けて、それをあなた方に伝える」(ヨハネの福音書16-13/14)これも復活後のハリトリスを示している。
聖霊は、個人を人格(ペルソナ)へと作り変える。正教会の伝統では、信者の共同体への直接的働きかけがひときわ明らかにされており、ギリシア語でゲロン、ロシア語でスターレツと呼ばれる長老もしくは霊的父がいる。冒頭の箴言に登場したサーロフの聖セラフィムのような人々である。
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| https://one-piece.com/char acter/S-Snake/index.html |
2026年2月4日水曜日
正教会:人としての神
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| https://christian-unabridged-dict.hatenablog.com/entry/2018/02/15/134759 |
イイススとは、「救う者」という意味である。天使がハリトリス(=キリスト)の養父ヨセフに言った「その名をイイススと名付けなさい。彼は己の民をその諸々の罪から救う者となるからである。」(マタイの福音書1-21)さらに、ハリトリスという称号は、「膏(あぶら)つけられた者」を意味するメシアというヘブライ語のギリシア語での同意語である。「膏つけられた」とはすなわち「聖霊によって」ということで、旧約時代のユダヤ民族にとって、メシアは聖霊の力を受けてユダヤ民族を解放する未来の王を意味した。
イイススは、「シアントゥロポス」(神・人)である。実に神であり同時に人であるがゆえに私たちを罪から救う。人は神の元へ行けなかった。だから神ご自身が人となることで、人の元へ来た。脱自的な愛の内で、自分が創造したものになった。神は人として、人が堕罪によって拒絶した神と被造物との仲立ちという仕事を成し遂げた。藉身(:せきしん=受肉/神が人なること)は、人を解放する至高のみわざである。藉身した神・ハリトリスは神の本性と人の本性があるが、人となった永久のロゴスとしての位格があるのみである。福音書が伝えるハリトリスのわざと受難の全ては一つの同じ位格的主体、時と場所の内に人として生まれた永遠の神の子に帰せられる。
ハリトリスは父にこう言った。「私は、あなたからいただいた栄光を彼らにも与えました。これは、私たちが一つであるように、彼らも一つになるためであります。」(ヨハネの福音書17-22/23)彼は、結び目であり合流点である。神の藉身は人に神化への道を開いた。神化とはハリストス化されること、私たちが獲得するよう呼びかけられている「神の似姿」である。
ハリトリスは処女から生まれたことは、通常では新しい人格が存在することに対する否定である。藉身したハリトリスの位格はロゴスの位格であるからだ。正教会では、この「福(さいか)なる童貞女」をハリトリスの母として深く崇敬する一方、(カトリックの教義である)無原罪の懐胎の教理を不要・過剰(前述のアウグスティヌス主義批判の立場)とする。正教会では、マリアと洗礼者ヨハネとともに、旧約時代の聖性の極致・頂点と見ている。(要するに、マリアにも原罪はあるが、洗礼者ヨハネとともに最高の聖性をもっているということである。)
十字架上で「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」(マタイの福音書27-46:これはヘブライ語の旧約の詩篇22で、全文を見れば神への讃歌であるという説もある/画像参照)と叫んだことについて、どれほど重視しても重視しすぎることはない。主は私たちのために血を流すばかりか、私たちのために神を見失うことさえ受け入れた、あらゆる人間の苦悩と疎外に同一化し、自身で担うことによって癒やした、これ以外に癒やす方法がなかったのである。これが十字架のメッセージである。
ハリトリスの復活は、私たちを不安と恐怖から解き放った。十字架の勝利は確証され、愛は憎しみより強いことをはっきり示された。この世界に存在するいかなる闇も悪の力をも恐れる必要はない。正教会はこの意味を極限において理解する。正教会が、エキュメニカルな(教派を超え教会の再一致を模索する)対話に関わる時、この真正な復活を信じるか否かをまず問う。
⋯そもそも藉身(=受肉)や、十字架での疎外の言葉や、この復活の深い意味は、異教徒にとってはなかなか理解しがたいものである。とはいえ、今回も比較宗教学の立場では、正教会のスタンスがよくわかる実に興味深い内容であった。
2026年2月3日火曜日
正教会:創造主としての神
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「爾(なんじ)は我らを無より有となし」と『聖イオアンネス・クリュソストモスの聖体礼讃』は讃える。この「無より」という言葉が意味するのは最初に、そして何より重要なこととして、神が全世界を自由意志によるみわざで創ったことを指す。神は誰からも強制されず、神自身が創造を選んだ。何の意図も必然性もなく世界が創造されたわけではなく、また自動的に溢れ出したわけでもない。神の選択の結果である。何故神は創造を選んだか。その動機は愛である、と著者は記している。
世界は、必然的でも自己充足的でもなく、自らをあらしめた神に依存しつつ、神に向けて成就可能なものとして開かれている。被造物である人間は決して自分たちだけでは存在できない。神が我々の存在の核心であり、神の愛の意思に依存している。そして、神は現在進行形で創造し続けている。創造の教義の目的は、時系列の中にある一点(創世記)に、この世界の起点となすことではない。
また、神は創世記において、世界創造の後「はなはだ良かった」と言っている。よって、創造されたものはその内なる本質において、はなはだ良きものである。二元論を否定するキリスト教において、「はなはだ悪しきもの」はあり得ない。
正教会の世界観では、神は被造物のために、「ノエティック」(霊的・知性的な領域)と物質的ないし肉体的という2つの領域を与えた。ノエティックだけ(物質的な身体を持たない)の被造物は天使である。物質的な領域のみは。星雲、様々な鉱物で構成される星々や天体、さらに植物や動物などの生命である。人間だけが、この2つの領域を共に得ている。ユダヤ教のタルムードには、「義人は救いの天使より偉大だ」と描かれているのはそのためで、人間は神の創造の中心にあるといえる。
この後、人間の堕落について述べられる。正教の伝統では、アダムの原罪について、アウグスティヌスの考え方(人類全体に影響が及び、罪責を受け継いでいる)を受け入れがたいとし、原罪の教理は、「人は悪を犯しやすく、善は行いにくいという環境の中に生まれてくる」こととだとしている。
…今回も、重要な正教会の教義が示されていた。神の自由意志による創造、神の創造は現在進行形であること、天使(本日の画像は正教会の七大天使のイコン)と人間の関係性、そして原罪思想の捉え方…。
2026年2月2日月曜日
正教会:至聖三者としての神
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| https://novel-shoten.com/life/archives/5104 |
著者は、ユダヤ教やイスラム教のように単に唯一の神を信じるほうが容易であるとし、聖三者の教義は文字どおりの難問で「人間的思考の十字架」(ウラジミール・ロースキーの言)であり、精神と心の真の徹底的な方向転換(メタノイア)を求めるものだとしている。
「私と父は一つである。」(ヨハネの福音書10-30)とハリトリス(=イエス)は言った。この意味は、ニケア公会議(325年)とコンスタンチノープル公会議(381年)で確認されたイエスは、真の神よりの真の神、神・父と一体(同一本質)であること、言い換えれば父と同等である、ということである。父と子は2つの神ではなく単一の神である。4世紀末に父と子と共に「聖霊」が同様に言明された。なお、聖三者は本質において1つだが、それぞれに位格、自己意識を持つ区別された主体である。
第一の位格は、神・父。「泉」であり、他の2つの位格の源泉、起因ないし起源であり、聖三者の間に一致をもたらす接合点(きずな)である。第二の神の子の位格は、神の「言葉」ないし「ロゴス」である。この神の言葉・ロゴスは、受肉以前から働いており、全てを貫いている秩序の原理であり目的である。創造者ロゴス(Logos)は、被造物1つひとつにそれ自身に内在するロゴス (logos)ないし、内的原理を分かち与え続けている。第三の位格は、聖霊である。神の風や息である。(言葉でそつなく整理してしまうのは不適切と心得た上で言えば)聖霊は「内なる神」、子は私たちと「共にある神」、父は私たちの「上にある神」・私たちを「超えている神」である。(聖霊は、父のみから送られることを確認したうえで/カトリックの教義では、子からも送られることに成っている。)この聖三者の位格は常に共に働き、聖エイレナイオスは、子と聖霊を父の「両手」と呼ぶ。
…正教会におけるヨハネの福音書の重要性が、だんだんと見えてきたのであった。ここで確認。ヨハネの福音書冒頭の「はじめにロゴスありき」のギリシア語は、”エン・アルケー・エーン・ホ・ロゴス”で直訳すると「アルケーはロゴスなり」となる。アルケーは、(イオニアの自然哲学と同じで)万物の始源・宇宙の根本原理。ロゴスは、真実・真理・論理・理性・概念・調和・統一のある法則、そして言葉の意味もある。よって、「根本原理はキリスト(神の言葉)である。」=神こそが全ての原則、ということになるのである。日本では、「はじめに言葉ありき」という誤訳が一般的になってしまった。実は、この一節を使って、M高校のパンフレットをつくった経緯がある。国語科と英語科をつなぐキャッチコピーとして有効ではあったのだが…。(2010年6月30日付ブログ参照)








