2026年5月3日日曜日

憲法記念日に 武器輸出解禁の件

憲法記念日である。4月21日に閣議決定と国家安全保障会議にて、防衛装備移転三原則の運用指針の改定が行われた。要するに武器輸出の解禁である。以下のYouTubeでその内容が上手く解説されている。https://www.youtube.com/watch?v=rMLFd_jfd5k

そもそも、日本は戦後、朝鮮戦争時から武器輸出を行ってきたし、その後も東南アジア諸国にも武器輸出を行ってきた。1967年に佐藤内閣が武器輸出三原則を表明した。この時も完全に輸出禁止としたわけではなく、共産圏や紛争当事国などへの輸出はNGということだった。1976年に三木内閣が、共産圏や紛争当事国以外にも輸出を「慎む」との政府見解を表明した。ただしアメリカとの技術協力は例外であった。これでわかるように、武器輸出に関しては、閣議決定による政府方針であって、立法化された法律ではないわけである。

よって、国会軽視という批判はあたらない。2度民主党が政権をとった時代にも法制化による制限はされていない。(武器輸出を完全禁止する法律を作るチャンスがあった。)と、いうわけで、憲法違反だとか左翼が叫んでも、無知を晒すだけのことになる。

ところで、何故今なのか。防衛産業の基盤教化と安全保障環境の悪化を上記YouTubeの主・オオカミ少佐(元海自幹部:画像参照)が述べている。

以前読んだ本の知識だが、防衛産業は、需要が防衛省(それも予算の範囲内)のみであり、供給コストは必然的に高くなる。単価は高いものの、決して儲からない。輸出可能になり、需要が増えれば供給コストも抑えられる。防衛装備を100%輸入に頼るのは、安全保障上の問題がある。だいぶ以前に、某電子メーカーの研究員をやっている人物と話していて、「超長波」の研究をしていることがわかった。「アクティブソナーとか魚雷の技術だね。」というと返答に困っていた。こういう技術者を囲い込んでおかないと、日本の安全保障は守られない。防衛産業は、市場の原理で潰してはならないのである。

安全保障の基本は勢力均衡にある。今世界は、ロシアのウクライナ侵攻、中国の軍拡、アメリカの国際法無視など、かつてない緊張が走っている。(軍事的)中小国の勢力均衡を図る必要性がある。同じ価値観を有する国々に、日本が武器輸出を行うのはこのためである。たしかに憲法第9条には戦争放棄が謳われているが、前文では世界平和を希求することも謳われている。実際、アメリカを始め、イギリス・イタリア(次期戦闘機共同開発国)、オーストラリア・フィリピン・インド(対中抑止のため)、フランス、ドイツ(アメリカの暴走を止める同じ価値観をもつ国として)などが支持を表明している。

…憲法記念日である。この武器輸出解禁の話は、憲法に坑がう話ではないことを確認しておきたい。戦争反対、9条を守れと声高に叫んでも日本の安全保障は守れない。社会科教師としては、あくまで中立。平和教育は、このような事実の積み重ねから導かれるものである。時節柄非常に重要なスタンスであると私は思う。

2026年5月2日土曜日

同志社国際高校の事件考8

https://www.youtube.com/watch?v=-_GnmTW7AG4
かの事件を起こした組織が、今更(5月1日)に謝罪文を出したらしい。https://www.youtube.com/watch?v=-_GnmTW7AG4

沖縄知事選の不利を見据えての、姑息な動きである。自分たちの後ろ盾を失うことからの防御、もしくは、平和学習と言う名の小遣い稼ぎが出来なくなくなるという多分に利己的なものだとしか見えない。

URL同じ
沖縄のまともな人々は、現知事のスタンスにかなりの違和感を抱いているらしい。当然である。しかしながら、沖縄新報の読者の声欄に、左翼が書いたであろう文章が出た。(左の画像参照)亡くなった女子高校生がサンゴ礁を見たいという思いで参加したことは、保護者のNOTEで明らかである。このような自分勝手な捏造を書く左翼も、それを載せる左翼マスゴミの神経も信じられない。

…以前書いたが、全ては国の責任である、自分たちは正義であるという信念が、彼らを反省させたり謝罪させたりすることを拒んでいるのだろう。上記のYouTubeも同様の感想をもっていた。

…全くどこまで自己中心なのだろう。ついでに批判しておくと、共産党の幹部らは、この事件の責任追求に逃げ回っている。実は、これはおかしい。共産党の組織は党中央に絶対服従で、下部組織は「細胞」と呼ばれているはずだ。そのスターリニズムの組織体制はいつ変わったのか?変わってないなら謝罪し責任を取るべきである。違うかな?

ヨハネ福音書のイエスⅤ

『ヨハネ福音書のイエス』(小林稔著/岩波書店)の書評第5回目。ヨハネ福音書は聖書学では、四福音書の成立において最も遅いとされている。本日は、このことについて著者の見解を示したい。

初期のキリスト教会では、割礼を始めとしたユダヤ律法との折り合いが問題化していた。パウロは割礼を否定しており、ユダヤ人キリスト教徒との軋轢があった。多くのユダヤ人キリスト教徒は、自分たちをユダヤ教の一分派と考えていた中で、ヨハネ福音書を記した教団では、ユダヤ教から迫害・排斥(ローマに神殿を破壊され、異端と見なされたキリスト者共同体を正式に破門し、シナゴーグでは彼らへの呪いの言葉を唱えるようになった。)され、ユダヤ教からの分離過程が進んでいたという背景がある。

よって、ヨハネ福音書では、イエスを認めないユダヤ人に対し、極めて批判的である。(何度も”ユダヤ人”という語が出てくる。)イエスをキリストとして、律法の無力化を主張しているわけである。ヨハネの福音書の特徴にはこういった背景があるのである。

さて、正教会がヨハネ福音書を重視する理由について、当然ながらカトリックの著者は記していない。とりあえずAIで検索してみた。(神戸学院大学のリボジトリを参考にしているようであるが、現在メンテナンス中であった。後日確認するつもりである。)AIによると、キリストの「神性」と人間の「神化」を最も深く描いているから、というのが端的な回答であった。福音書の記者であるヨハネを正教会では「神学者」と呼び最高の敬意を払っているとのこと。

キリストの「神性」については、冒頭でキリストこそ「神の言葉(ロゴス)である。」と明確に宣言している。また人間の「神化」については、人間が神の生命にあづかり神のようになるという正教会の究極の目標にとって、この福音書が抽象的かつ詩的な表現で、理性的理解を超えた「神との合一」という霊的な記述が見られることが挙げられる。

…やはり、「神性」と「神化」が最大のポイントであった。納得である。正教会では、イースターの礼拝でヨハネ福音書の冒頭が必ず読まれる理由でもある。

2026年5月1日金曜日

ヨハネ福音書のイエスⅣ

『ヨハネ福音書のイエス』(小林稔著/岩波書店)の書評第4回目。おそらく、本書の最も重要な部分について。著者は、ヨハネ福音書の序文を次のように分析している。(上記画像参照:本書をPDFで保存し画像化したもの。第Ⅰ部・第Ⅱ部が歪んでいるのはお許しいただきたい。)

第Ⅰ部(1~5節)、第Ⅱ部(6~14節)、第Ⅲ部(15~18節)の3つの部分からなり、同じ1つの事、イエスの生涯の出来事を3つの観点から叙述している。このそれぞれは、その語彙と内容の対応から、A(はじめに登場したヨハネと「はじめ」という語)・B(人々・光)・C(「受ける」とその合成語)・D(父・ひとり子・恵み・真理)に小区分することができ、並行構造になっている。

この3つの部分(Ⅰ・Ⅱ・Ⅲ)の相互関係を時間的前後関係として理解しようとすると無理が生ずるので、観点の違いを示しているとして理解を試みると、第Ⅰ部は、光と闇という黙示文学的な象徴によって全体を意味づける、序の機能、第Ⅱ部は救いの歴史の中でのイエスの出来事、第Ⅲ部は、信仰共同体の中で実現されている事柄が述べられている。

そうすると、第Ⅰ部は、創始以来の先住のロゴスについて述べているのではなく、第Ⅱ部・第Ⅲ部で述べられる内容を視点と表現を変えて、さらにその深い意味を告げているものと理解できる。すなわち、宇宙の創造に先立つロゴスの先住ではなく、具体的なナザレのイエスとの最初の出会いのことを語っていると理解しうると著者は記している。

序文の転回点を見ることで、福音書序文と本文の密接な対応関係を見出すことができる。第1~12章で、イエスの啓示に対して人々が2つに分離して、多くの人はイエスを拒み、第13~17章で受け入れた少数の人々に啓示がなされる、という構図である。

…著者は、岩波書店版新約聖書では、冒頭を「はじめに言葉(ロゴス)が”あった”。」(新共同訳)ではなく「はじめに言葉(ロゴス)が”いた”。」と訳している。これは、ロゴスが非人格的存在ではなく、人格的存在(=イエス)として捉えるのが正しい故、(日本語の)常識的な表現にしたとのこと。…なるほど、である。

2026年4月30日木曜日

マーリンズは手強かった

https://www.youtube.com/channel/UC_MbGNpd7ldQAHdBTQ2Ke1w
ドジャーズは13連戦の疲れも大きく、マーリンズに負け越した。第1戦こそ逆転勝ちしたが、第2戦は大谷選手の先発試合で、投球内容はまずまずだったが、打線が湿りがち。やはり大谷選手が打たないとアカンという感想が多かった。第3戦も同様。常に試合の主導権をマーリンズに奪われていたと思う。なかなか流れを引き寄せられないままの2試合だった。全試合1点差ゲーム。長いペナントレース故に、こういう時もある。ベッツ、キケ、エドマンの早い復帰を願うのだった。

2026年4月29日水曜日

昭和の日に ロボット三等兵

昭和の日である。私は昭和33年生まれなので、高度経済成長期に育った。今はもう完全に無くなったモノも多い。家の近くに貸本屋があって、よく漫画を借りに行った。1冊10円くらいだったと思う。(コロッケも1個10円ぐらいの時の話である。)

貸本屋で借りた漫画で最も記憶に残っているのは、『ロボット三等兵』。内容はほとんど記憶に残っていないのだが、『のらくろ』同様に首に階級章をぶら下げている。のらくろは階級がどんどん上がっていく(最終的には大尉)が、ロボット三等兵は、人間の兵隊の最も下の二等兵のさらに下なので、★がついていないことは覚えている。

ウィキで調べてみると、実際の戦争のシチュエーション(ノモンハンやミッドウェーなど)で描かれているらしい。(当時の私には完全に理解不能。)ドタバタのギャグ漫画なのだが、戦争の不条理を描いた反戦漫画であったらしい。

このころは、今では当然のスクリーン・トーンなどもないし、素朴なペン画で表現で書かれていた。漫画家になりたいと、『漫画の描き方』などを熟読して、憧れていたのもこの頃だった。(笑)

ヨハネ福音書のイエスⅢ

https://ameblo.jp/mitosya/entry-12536035811.html
『ヨハネ福音書のイエス』(小林稔著/岩波書店)の書評を続けたい。昨日のエントリーで、ヨハネ福音書(画像参照)が、共観福音書のマタイ・マルコ・ルカの福音書と大きく異なる点を挙げた。それは、イエスの成長の歴史、伝記的なところがないということである。なぜなら、ヨハネ福音書は、イエスが「キリストであり、復活した神の子であるという前提」が共観福音書に比べ、極めて明確だからである。

さて、ヨハネ福音書では、何と言っても「最初に言葉(ロゴス)ありき」という冒頭が有名である。この箇所は様々な論議の的になってきた。エイレナイオスら2世紀の教父たちは、受肉以前のロゴスが天地創造に参与し、旧約の歴史の中に働いたことを述べているとし、後の教会の伝統はこれを継承している。当時すでに流布していた『ロゴス讃歌』やユダヤ教の『知恵文学』を原資料としているといわれている。

ロゴス讃歌は、キリスト教の影響を受ける前のグノーシス主義(物質を悪とし、魂の救済を重視する神秘的思想。後に異端とされた。)に由来するとされ、この可能性は否定できないが確定も出来ないというのが聖書学の定説らしい。それに対し、知恵文学は、女性的神格(ホクマー:知恵・ソフィア)を律法と同一視し、律法は世界創造以前から存在し、宇宙は律法に従って秩序付けられたという一種の精神原理として捉えたのだが、キリスト者たちは、イエスをロゴスとして対置させたと推定するのが聖書学の立場らしい。

多くのヨハネ福音書の注解では、序文の解釈が原資料のロゴス讃歌の説明で終わっていることに、著者は不満を述べている。福音書の著者は、この讃歌をただ引用しただけではなく、それに自ら数行を書き加えて序文としているからで、前述のイエス=ロゴスの対置をより強く結びつけているといえる。著者は、この序文の部分の構造をさらに詳細に分析する。…続く。