2026年4月25日土曜日

Choco Coated Slice Banana

1か月に一度くらい業務スーパーに妻の買い物に同行する。近くにいくつかあるのだが、京都府の八幡市に位置する業務スーパーに行くことが一番多い。

ここで必ず購入するのが、タイ現産の「Choco Coated Slice Banana」である。名前のとおりバナナをスライスしたものにチョコがコーティングされた冷凍食品である。血糖値の関係で普段アイスクリームを食べたくても食べれない私としては、1日1個だけこれを食する時間が楽しみで、実に至福の一時となる。

今日は、ドジャーズがカブスに逆転負けをしてしまい、詳細を記する気にもなれない。前からエントリーしたかった軽い話題でお茶を濁させてもらった。

2026年4月24日金曜日

ドジャーズ 初の負け越し

サンフランシスコでのジャイアンツとの3連戦は、ドジャーズが負け越した。長いシーズンだから当然あり得ることだが、第1戦の山本由伸投手も、第2戦の大谷投手も好投していただけに敗戦は実に残念。

しかも第2戦で大谷選手はリアル二刀流で、ついに連続出塁が途切れてしまった。第3戦も出塁なし。さすがに連戦の疲れが出て、修正が効かなかったようだ。今日は、マンシーが走りに走って勝ったし、さらにこれからに期待したい。

2026年4月23日木曜日

同志社国際高校の事件考6

https://news.yahoo.co.jp/articles/12a6b894ddf5d84905100d9416e27ab789fc3d26/images/000
同志社国際高校の事件考の第6回目である。第5回目は、4月18日付けの『新島襄の自責の杖を知らぬのか』になる。

辺野古の抗議団体オール沖縄には、ジブリの宮崎駿氏らから、活動資金として8億円も集めていたらしい。(この宮崎駿氏の関わりからオールドメディアの忖度=報道しない自由が指摘されている。)事件後、その決算書はHPから削除され、被害者への保障はできないとしているという。違法な活動をしながら、また資金がありながら保証できないというのはどういうことなのだろうか。彼らの活動が利権と繋がっているという疑惑は拭えない。これは犯罪ではないか。

抗議船は不法な場所(防波堤)から乗船していたこともわかってきた。ちゃんとした漁港からフツーに乗船していたとばかり思っていた。安全に何の配慮もない。修学(研修)旅行において、このような危険な場所からの乗船など考えられない。学校側(付き添い教員)・旅行社側(添乗員)は、なぜこれを許したのか。教育の現場では、全くありえない話である。文部省はこの点を厳しく調べて欲しい。

https://news.yahoo.co.jp/articles/12a6b894ddf5d84905100d9416e27ab789fc3d26/images/000

さらに、海上保安庁が警告をしているのに無視して事故を起こしており、近隣漁民が危険だとする海域へ侵入している。危機管理もクソもない。しかもSOS通報は、船長ではなく参加生徒から送られたという。これも信じられない話である。

学校も問題を起こした組織も現場での献花はされていない。選挙を控えた知事が今になって選挙パフォーマンスで献花したという。遺族からしたらふざけるなと言う話である。どうやら、船に乗っていた組織の人間が船長以外に1人おり、その人間は現在も座り込みに参加しているという。組織内でも抗議行動に対して、自粛派と継続派に分かれているらしいが、たとえ喪章をつけても、人間として事故に深く関わった人間が、遺族に謝罪もせぬまま活動を継続するのは、ゆるされるものではないだろう、と私は思う。

県は、文部省や海上保安庁などが動いており、出来ることと出来ないことがあるなどと言っているようだ。沖縄の警察は知事の指揮下にあり左派に甘く、マスコミ(沖縄タイムス・琉球新報)も左派勢力であり、この事件についても報道は抑えられているという。沖縄県政は、まさに暗黒の状況である。

たしかに、沖縄に米軍基地が集中し、それに反対する気持ちもわからぬではない。だが、反対組織を支持しようと思っても、その人間性の欠如は、あまりに酷すぎる。今回の犯罪的な事件で、多くの人々はそう考えるのではないか。支持の集まらない政治運動は自己満足でしか無い。

2026年4月21日火曜日

ロッキーズに2勝2敗だったが

https://www.youtube.com/watch?v=368NKMlRzgw
デンバーでのロッキーズとの4連戦は結局2勝2敗となった。初戦は、雪のグランドを整備して始まるような記録的に寒い試合となったのだが大勝。第2戦・第3戦は、トライネンとかディアスといったブルペン陣が不調、相手投手も良かったりして敗戦。第4戦もドジャーズらしく大勝した。ほんと、山本投手が言うように、野球は退屈ではない。何が起こるかわからない。

ベッツやフリーマンの代役で若手も頑張っている。マンシー選手やロハス選手といったベテランも大活躍していた。さてさて、この4連戦には、もう一つの見どころがあった。大谷選手の連続出塁記録である。今日現在で52試合連続である。ベーブ・ルースの記録を抜き去った。とはいえ、まだまだ上がいる。おそらくご本人は記録のために野球をやっていないと思う。ただただ、チームの勝利のためである。それがたまたま、この記録になったといったほうが良い。でもファンとしてはさらなる記録更新を期待してしまうところ。ロハスの1000安打達成も嬉しい。今季で引退する必要はないぞ。

2026年4月20日月曜日

沢木『天空の旅人』断片10

沢木耕太郎の『天空の旅人』の断片、いよいよ最終回である。西川はネパールに入った。ある集落のそばで、米を炊き上げたところでで驟雨になった。貧しそうなネパール人が家に招き入れてくれた。「狭い家だが今夜はここで休みなさい。」と言ってくれ、冷たくなった飯を食べようとすると、羊の臓物を丼にして持って来てくれた。「少ないけれど。」カマドには妻と3人の子供が臓物が煮るのをじっと待っていた。それをまず西川に持ってきてくれたのだ。西川の目から涙が流れてきた。ああ、仏だ。初めて本当の仏の姿を見た。翌朝、わずかな金を置こうとしたが主人は受け取らなかった。

カトマンズでは、顔見知りの先輩ラマ僧の面倒を見ていたが、かなり回復してきたのでチベットに近いインドのカリンボンまで連れて行くことになった。1年ぶりに火葬場の老修行僧と再会した。 ビルマ潜入を考えたが、ビザが必要ということがわかった。ところがグルカ兵には移民の門が開かれており、彼らはカルカッタとアッサムを結ぶ鉄道工事の人夫をしながら入国許可を待っているらしい。ところで西川は、英蔵辞典は持っていたが、蔵英辞典を欲していた。チベット語をさらに深めるためだった。結局、ダージリンに70ルピーで5冊残っていることがわかった。工事現場では、1日2.5ルピーになるという。この費用を稼げてしかもビルマに行けそうで絵ある。…採用された西川はなんと恵まれているのだろうと思った。

(蒙古からの)駝夫の日々、物乞いたちとの日々、デブン寺の初年坊主の日々、新聞社での見習い職工の日々、そして工事現場での人夫と、全て人から見れば最下層の生活であったかも知れないが、自由に自分で選んだ生活である。やめたければいつでもやめることが出来たし、この低い生活を受け入れれば、失うことを恐れたり、階段を踏み外したり、坂を転げ落ちることを心配することもない。

…しかも西川は、ラマ僧として、巡礼の旅は托鉢や御詠歌で食を得てきた。西川にとっては幸せな日々だったと私は思う。自らの体力で数々の困難を乗り越え、それに喜びを感じる日々だったに違いない。

しかし、この旅が急に終わる時が来る。工事の休日に、現場監督とインド人警察官が来て、「君はニシカワだね。」と尋問されたのだった。この背景は、木村がラサから中国人ともども国外追放になり、カルカッタで密航しようとして拒否され、日本人がいることがバレると危ないと自ら自首し、西川のことも白状していたのである。

プレジデンシーという刑務所に二人は収監される。運動場から監房に戻る共産党の青年たちは隊列を作り「インターナショナル」を歌っていた。チャンドラ・ボースの甥やネルー狙撃犯もいた。西川を喜ばせたのは、蔵英辞典が送られてきたことである。取り調べの時になんとかしてあげようと言われ、代金を渡してあったが、約束をきちんと果たしてくれたのだった。西川と木村は、カルカッタから日本へ向かう英国船籍の貨客船で帰国する。ラングーン、ペナン島、シンガポール、香港を経由して…。大隅半島が見えた時、目が潤んだのは当然であろう。ただ、同時に8年に及ぶ長い旅が本当に終わってしまう物悲しさがあった。

…すでに、山本の帰国後のことは記しておいた。(4月15日付ブログ参照)西川とは全く違う。たしかに山本は大学教授にまで出世したのだが、私は西川の「美学」にこそ惹かれる。おそらく著者の沢木耕太郎もそうだろうと思う。西川は、この旅の記録を残そうと原稿を書き続けたが、その後は、365日地道に働き続けた。二人ともすでに鬼籍に入っている。沢木が西川の本棚整理を家族に頼まれて。山本の書いた『チベット潜行十年』を発見したのが、西川が読んだ形跡はなかった。またインタヴューで「(最後の帰国のきかっけとなった自首に際して)あなたが木村さんの立場ならどうされていたか?」「木村くんの意思を確かめてます。」と述べている。西川の『秘境西域八年の潜行』には「(木村に)密告された。」とある。かなり強い表現である。よほど悔しかったのだろう。

…西川にとっては、まだまだ旅を続けたかったのである。またその自信があったに違いない。西川の「美学」、これは、今の日本で忘れさられた「心象」のような気がしてならない。だからこそ、本書が胸をうつのではないだろうか。

沢木『天空の旅人』断片9

https://www.reddit.com/r/delhi/comments/qtm8f7/birla_mandir_in_delhi/?tl=ja
沢木耕太郎の『天空の旅人』の断片、9回目。いよいよ終盤に近づいてきた。

西川が1人で向かったのは、祇園精舎であった。途中の集落で御詠歌を歌い托鉢すると、大量の食料を喜捨され、村中の人々が御詠歌を次々にリクエストする。御詠歌が尽き、チベットや蒙古、中国、朝鮮の歌から日本の唱歌まで歌った。皆嬉しそうに聞いてくれ、さすがに疲れ果てたので、インドの歌をリクエストすると喜んで歌ってくれた。夜にはさらに若者もやってきて御詠歌を歌った。(あまりの好評さに)夜明け前に集落を離れた。まるで夜逃げだと可笑しくなった。

祇園精舎も樹木が生い茂り廃墟となっていた。中国寺の漢人僧は粥と酢の物と漬物をふるまってくれた。さらに炎天下を巡礼する西川の姿に心を動かされたというネパール人の若者の誘いで、バルランブルのマハラジャの王宮に喜捨を求めに行くことになった。マハラジャは20ルピーもの大金を喜捨してくれ寝台付きの個室と毎日の食事を提供してくれた。

さらにチベット国境に近いネパールからの出稼ぎ人から、自宅で読経して欲しいと頼まれた。ヒンドゥー教徒だがラマ教にも強い親近感があるらしい。多くの人が集まり歓待された。同じようなことが続く。何故このような事が起こるのか?今の自分には綺麗に欲がなくなっている。それが人の好意を誘うのかも知れないと西川は思う。

駅であった大学教授は、果物や菓子塁を喜捨してくれた。食べきれないので近くにいたチベット人と蒙古人巡礼者たちにも食べてもらっていると、教授が同じように座り込み、西川を通訳としてチベットや蒙古のことを訊ねてきた。周りにいたインド人も加わって、1時間の座談会となった。心温まる時間だった。

また、チャンドラ・ボースの軍隊の将校たちとも出会う。かれらには西川の容貌や細やかな動作に日本人らしさを見つけ、日本語で話しかけてきて、西川を驚かせたが、一緒にアグラに向かうことになった。タージ・マハルを見学した。その後、デリーに向かい、マハトマ・ガンジーが荼毘に付されたラージ・ガートで墓参りをした。

インド人実業家が寄進したビルラ寺(画像参照)では、守衛長に声をかけられ、蒙古から来たことを告げると遠来の客だからと宮殿のようなところに案内された。ヒンドゥー教の寺院だが、庭園には日本の建築技師による仏教寺院もあり、ここでビルラ氏と遭遇する。ラマ教について問われ、御詠歌も披露した。出発の日、守衛長に挨拶にいくと再びビルラ氏に合わせてくれた。100ルピーもの喜捨をしてくれたのだった。

…西川の単独インド行は、まさに仏の世界であった。ひとえに欲を持たず、修行で得た御詠歌のおかげでもあった。

デリーから、シーク教の大本山グルナーク寺に着く。アフガニスタンにまで行きたかったが戦乱の関係でここから先は移動できそうになかった。しかも次に訪れた街で、パキスタンのスパイの疑いをかけられた。留置場で3日間過ごし、香港に滞在経験があり、中国語を喋るシーク教徒の署長の登場で救われた。西川は、ネパールを目指すことにした。

…余談だが、シーク教徒はイギリス旧植民地に多い。私はカナダのトロント、ケニアのナイロビ、そしてマレーシアのKLでシークの人々と出会った経験がある。

2026年4月19日日曜日

沢木『天空の旅人』断片8

http://sal.bigaku.biz/bo_tree.htm
沢木耕太郎の『天空の旅人』の断片、8回目。無賃乗車と1人半ルピーで乗せてくれたトラックで、彼らはカルカッタに着く。しかし駅で警察に捕まった。彼らはラマ教の叩頭をし、「パポー、ブダガヤ!」(旦那さん、ブダガヤに行くのです)と叫び、ロブサンが大事に持っていた仏画を出し隊長風の男に、うやうやしく差し出し手を合わせた。彼らの思いが伝わったらしいのを見て、全員で御詠歌を歌った。隊長風の男は、目を閉じて聞き入っていたが、一節が終わると、「裏口から出してやれ。」と言ってもらえた。

http://yosukenaito.blog40.fc2
.com/blog-entry-4286.html
カルカッタのある安食堂では、西川がチャンドラ・ボース(WWⅡで日本軍の支援を受けインド独立を目指した英雄:画像参照)の肖像画に敬意を示したので食事面での大サービスと、荷物を預かってくれた。

ブッダガヤは、恐ろしく荒れ果てていた。菩提樹(釈迦が悟りを開いたので、菩提=悟りの樹:画像参照)の大木は、チベット寺のラマ僧によれば、一度は火事にあって焼失し、さらにイスラム教徒によって切り倒されたが、その度にまた芽を出し、大きく育ってきたのだという。菩提樹の密生している林で、西川以外の3人は実を拾い集めた。ラマ教徒にとってブッダガヤの菩提樹の実で作った数珠は、何者にも替えがたい貴重なものだったからだ。だが、いつ帰れるかも知れない故郷への記念品など必要がなかった。ネーランジャラー河のほとりで月光を浴びながら御詠歌を歌い続けた夜の喜び以上のものはなかった。

ラジキール(王舎城)はかつての仏教国・マガダ国の首都である。ここも荒れ果てていた。日本寺を西川が一人で訪ねるが、日本人僧侶は戦争が始まると引き上げてしまっていた。だが、仏間には香炉、蓮の花の造花、木魚、陶製の花瓶などあり、それを見られただけで満足しようと思った。

さらにサルナート(鹿野苑)に着く。中国寺には仏陀の一生を描いた日本人が描いた壁画があり、英語とヒンディー語と日本語で経緯が記されていた。5年ぶりに西川は日本語の文章を眼にした。

クシナガラでは、沙羅双樹の森があり涅槃像が横たわっていた。この周囲を真言を唱えながら回った。ルンビニは、ネパール側の国境地帯にある。ここも寂れていた。摩耶がイチジクの木の葉を握って釈迦を生んだとされる。記念品を求めない西川もこの木の川をお守りとして持ち帰ることにした。

ここから西川は、一人インド放浪の旅に出る。兄弟を失うような寂しさの中で…。