今回は、まずギリシア哲学との関わりの内容である。イスラム世界では、哲学にあたる語は、「ファルサファ」というらしい。もちろんアラビア語だが、ギリシア語のフィロソフィアの音写で、「英知」をも意味する。イスラム世界では、定冠詞付きで「哲学者」と記されていれば、アリストテレスのことで、「ファルサファ」といえば、ネオプラトニズム(新プラトン主義)化されたアリストテレス哲学を指すのだという。
ここでいう新プラトン主義は、イデア(真の存在)を神と同一視し、万物が一者から流出したという流出論的世界観のことである。(キリスト教においては教父・アウグスティヌスがこの影響を受けていることを倫理でも教える。)アリストテレスは、生成変化するこの世界の原因として、全てを包摂し、いかなる具象性もなく、永遠不滅で完全で自己観照のみをする存在を措定した。アリストテレスの「自然学」においては、理性的存在である人間が、この全ての存在の原因となる唯一の「不動の動者」の存在を認識することが目標となる。すなわち、プラトン・アリストテレスの哲学は唯一神教と極めて親和性が高い論理構成になっているわけで、イスラムの哲学者たちは、この「不動の動者」をアッラーである、と考えた。
…高校の倫理では、新プラトン主義は教えるが、このアリストテレスの「不動の動者」までは出てこない。ギリシア哲学を学んだのは、イスラムであり、その後キリスト教徒に伝わっていくことは教えるのだが、こういう論理的な繋がりが本書では示されていたわけだ。なかなか興味深い。
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