2024年4月17日水曜日

イスラムと近世哲学1

中田考氏の「イスラームから見た西洋哲学」(河出新書)の書評というより備忘録、第2回目である。相変わらず、かなり深い洞察がなされている。

まずは、デカルト。デカルトの、精神と物質をそれぞれ独立したものとする「心身二元論」は、非常に神学的である、と中田考氏は言う。初期イスラム神学の宇宙論では、生成消滅する可能存在者のうちで、空間の中に場所を占めるものが物体と呼ばれ、物体の変化は空間を占める物体に偶有が宿ることによって生じる。偶有は単体では存在しえず、物体に宿ることによってはじめて存在する。これを可能にするのは造物主(=神)である。したがって、宇宙とは、可能存在者である空間を占めるもの(=物体)とそれに宿るもの(偶有)の総体であり、存在者とは宇宙と宇宙を超えた空間を占めない必然存在者である造物主を合わせたものである。後期イスラム神学では、空間を占めない存在者が認められるようになる。それが霊体で、人間の霊魂や天使などを指す。デカルトの「心身二元論」は後期イスラム神学の世界観と一致しているわけだが、デカルト自身は宇宙を脱霊化した世俗的西洋近代哲学の祖だといえる。

デカルトのいう「コギト」(思惟する自我:理性)とイスラムの人間観は全く異なる。イスラムの場合、人間を他の被造物から分かつものは、神の命令への応答責任を担う、という倫理性に求められる。イスラムでは、人間は特殊であるが、理性を持っているからではなく、石による行為選択の自由を持っているからとされる。植物や動物には責任能力はなく、来世での最後の審判で地獄に落ちることはないわけである。これはハディースの記述によると、動物も一度蘇って審判を受け、不当ないじめを受けた場合はその応報をすませて消えてしまうという。

論題は、次に無神論に移っていくのだが、イスラムでは、「神がいるかいないか」ではなく「何を神とするか」が問題であるという。イスラムにはそもそも教会組織がないので、誰がイスラム教徒かを決定する機関はないし、人間の心の中を考え、思いを知るのは造物主アッラーだけなので、信仰を裁くといった発送がない。よって、異端審問や宗門改めのような制度はない。また、背教についてイスラム法では死刑を定めているが、アッラーに帰依しない、イスラム法を守らないと裁判で公言する以外ありえない。背教には、悔悟を求め、理解が足りないとされる場合や、理性を欠く狂人として責任能力がないと見なされ免責されるのが通常であるらしい。

…つづく。次回はスピノザの話になる予定。

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