2024年4月18日木曜日

イスラムと近世哲学2

中田考氏の「イスラームから見た西洋哲学」(河出新書)の書評というより備忘録、第3回目。スピノザとヒュームの哲学との関わりについて。

屋根裏の哲人として知られるスピノザは、ユダヤ教徒であり、旧約聖書を研究し、当時としてはかなり合理的な捉え方をしたので、キリスト教からは睨まれ、ユダヤの共同体からも破門・追放された不遇の人である。スピノザとくれば、汎神論であるが、彼が言ったのは、「神は存在するが、神と自然は一つである。すべてのものは神の表れである。全てのものに神は宿っている。」というもので、アニミズムや八百万の神などの多神教と違うのは、全体が一つの神であるという”アブラハム的一神教の変奏”と中田氏は捉えている。

ただし、スピノザの神は完全に人格がなく、理神論の始まりともいえる。神は存在するけれども、理性の法則みたいなもので、そこに人格とか意思を認めると合理性と対立するというわけである。近代物理学のニュートンは、神というものは世界と法則を創造した最初の一瞬だけ存在すればいい、その後は宇宙は物理的法則に従って動いていくという典型的な理神論者であった。このようなスピノザの考え方をイスラム神学から見ると、前提から違う。

スピノザは理性を働かせて真理を得ることが徳で、人間が何かを欲するのも神の力に由来する人間の力の必然の発露であり、人間には自由はない、としているが、イスラムでは、神は崇拝、服従するものであり、善とは人間が欲するものではなく、神が人間に欲するものであり、神を崇め自分が望むことを自ら欲し、神に服従することであるとする。スピノザ的な人格のない自然を神として服従することは無意味で、単に自分の欲望に従う自己神格化ということになる。

次に、英経験論の懐疑論・ヒュームについて、アリストテレス的な自然の者の中に法則どおりに動く力が宿っているという考え方を排している、物事の連鎖はただその順に並んでおり、それぞれの間に因果関係は存在しないというわけで、イスラムもそう考える。ただ、契機と順番があるだけで、「偶因論」としては同じ。ただ、その起因を直接的に神に帰さない点で根本的に異なるというわけだ。

…要するに、イスラムには因果関係、仏教で言えば「縁起」が存在しないわけだ。このことは、以外に知られていいないと思う。

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