2024年4月27日土曜日

イスラムと西洋哲学 まとめ

中田考氏の「イスラームから見た西洋哲学」(河出新書)の備忘録、第10回目である。最後のまとめをしておきたい。イスラムの場合、スンニー派もシーア派も善悪の定義は一致している。有益なものが善、有害なものが悪で、価値に適合するものであり、基本的に相対主義・功利主義である。その上で、イブン・タイミーヤは、事物には客観的な善悪があり、神は善を命じて悪を禁じ、人間は理性を通じて善悪を知ることができる、と言う。啓示を待たずに人間が理性で善悪を判断できないなら、啓示が善なのか悪なのかを知ることが出来ないからである。しかし、我々の理性が善悪を見分ける能力があることと、詳細に至るまで精確に知りうることとは別のことで、詳細まで知るには全知全能の神の啓示が必要だとする。

法の宗教であるイスラムやユダヤ教と違い、天啓法を持たない西洋キリスト教世界の学問では、神学であれ哲学であれ法学であれ、善悪を分析のために最も基礎的な概念とみなす。しかしその枠組はイスラムには通用せず、むしろミスリーディングである。イスラームは最も基礎的なカテゴリーは、神への服従と不服従であって、善悪ではない。人間にとって有害か無害かで定義されるような善悪は二義的でしかない。(この内容は、中田考氏の修士論文の結論であるそうだ。)

さて、「おわりに」で、中田考氏は、(西洋哲学が重視する)善悪というカテゴリー自体が客観的に存在しない、アリストテレス自然学との決別によって成立した近代西洋哲学は、宇宙から目的因を追放し、西洋科学は宇宙の中に善も悪も発見しなかった。善も悪も宇宙のスケールから考えれば、空間的にも時間的にも無に等しい人間たちのただの主観的な思い込みに過ぎない。多数派の主観であれ、権力者の主観であれ、あたかも普遍的な真理であるかのように他人に押し付けようと論じる立てるのは、それによってニヒル(虚無)から目をそらし、自分が永遠の普遍と繋がっていると錯覚することで安心感を得るためでしかない。ニヒルから目をそらすのではなく、ニヒルを直視することによってしか、真の希望はない。イスラムの最初の教えは、「ラー・イラーフ」すなわち「崇拝すべきもの、価値があるものは存在しない。」である。見に見えるすべてのものは価値も意味もない、救いも存在しないという冷徹な事実を認めた者にのみ、ニヒルの彼岸から「ただしアッラーは別である」という暗闇を切り裂く雷鳴のような絶対他者の声が耳に届くのである。中田考氏は、イスラムこそ、ニヒルの時代の最後の希望だと結んでいる。

…私はブディストであるから、この考えに賛同するつもりはない。ただ、深い見識と洞察によって、さらに深い信仰によって、たどり着かれたのであろうことを強く感じるのである。実に勉強させてもらった1冊であった。

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