2024年4月21日日曜日

イスラムとフロイト

https://middle-edge.jp/articles/oZAb7
中田考氏の「イスラームから見た西洋哲学」(河出新書)の備忘録、第5回目。イスラムから見たフロイトである。さて、西洋哲学の基盤であるアリストテレスは、人間の霊魂について、植物霊魂、動物霊魂、人間霊魂といった重層性を説いたが、人間霊魂が下位の霊魂を支配している、とした。この西洋哲学の常識に対し、フロイトの無意識という概念は、革新的なアイデアだったと中田考氏は 記している。フロイトの言うエロスとは、もう少し広い「生:レーベン=ライフ」に近い概念で、精神分析学から当時最も抑圧されていた「性」に焦点を絞った。そもそもリピドー(欲動)の対象は多岐にわたるので、フロイトの定型発達論(肛門期から始まる性の発達理論)は、多型倒錯的であるという前提で示されており、LGBTなどは当たり前の存在であると中田考氏は見ている。

…昔「ここが変だよ日本人」というたけしの討論番組があって、在日外国人がが日本語での議論に参加していた。ベナンのゾマホンが出ていた番組である。ここで、同性愛のことがテーマになった回で、それを認める側と認めない側で大論争というか、あわや暴力事件というカタチになった。認めない側は、パキスタンのイスラム教徒の男性である。よって、私は、絶対的にイスラムでは認められないと考えていたのだが、中田考氏は、イスラム法学者として次のように述べている。

イスラムでも「定型発達論」を想定している。そもそも欲動があるから禁止がある。人間にそういう性向があるのは構わないが、欲望のままに行動してはいけない、と言っているわけで、実際に同性間で性行為を行うと処刑されるのか、というのもまた別の次元の話になる。イスラムでは有罪にするには4人の証人を揃える必要があるので実際には非常に難しい。イスラムは、人間の内面に干渉しない。性行為は最もプライベートなもの故である。そもそもイスラム法は、我々が考えている法律とは違う。最後の審判で神が裁くのがイスラム法で、同性性交をした人が最後の審判で裁かれるかどうかは我々が決めることではない。フロイトが暴いた闇の部分について、無理に暴き立てようともせず、理解しようともせず、最後の審判で神の裁きに委ねようとするのがイスラムの立場である。

…なるほど。あのパキスタン人は、「定型発達論」をもとにアクションを起こしたのだろうが、結局のところ、イスラム法学から見ると他者に干渉しないという原理、最後の審判で神の裁きがどう出るか、我々には知る由もない、ということを理解していなかったということになる。イスラムを学んでいると、かなり柔軟であることに気づく。彼のアクションが、日本の視聴者にイスラム教徒はガチガチである、という印象を与えたように思うのだ。

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