2024年2月7日水曜日

知里真志保 アイヌの言霊

鹿野政直氏の「近代社会と格闘した思想家たち」の第3章は「存在の復権を求めて」である。この章からは、言語学者・知里真志保(ちりましほ)を選んだ。

アイヌ言語学者だった金田一京助(国語辞典で有名。石川啄木の親友でもあった。)が、研究のため登別の知里家を訪れ、祖母が謡い手であるアイヌの口承叙事詩”カムイユカラ”を記録していた。アイヌ語と日本語が堪能なバイリンガルの姉・知里幸恵(当時15歳)と共に東京の金田一家で翻訳・文字化し「アイヌ神謡集」を共著として発表した。(幸恵は完成した夜に心臓病で亡くなる。享年19歳。)その縁から、優秀だった6歳下の弟である真志保は、金田一の助力で第一高等学校へ進学することになる。

しかし、一高では、アイヌ(蝦夷から土人、さらに旧土人と名称が変化した。)に対しての、「国宝」的という名のものとの標本として、蔑視・差別が絶えなかった。とはいえ、彼は英語と独語で首位を取るほどの語学の天才であった。金田一のもとで民謡集を完成させた姉への尊敬の念から、この時代に本格的にアイヌ語を志していたが、結局周囲がアイヌ語をやるのは惜しいと英文科に進学することになる。だが、翌年言語学科に転科し、本格的にアイヌ語を専攻する。いかに優秀だったかは、学士の卒論「アイヌ語法概説」が、師の金田一との共著のカタチで出版されたことでもわかる。

知里真志保のアイヌ語学は、民族の想いを言語という主題に凝縮させていく。おのずと和人の学問への戦闘性、強い自負からくる徹底性を帯びていく。彼の言葉に接近する角度は、その言葉を紡ぎ出した人々の心と暮らしのありように注目していた。よって、和人ら先行の研究者(金田一も例外ではない)の偏見を含む概念的な理解(=無理解)への仮借ない批判に繋がった。

たとえば、「カムイ」(カむィ:平仮名はアクセントを示す)は、一般的に「神」と訳され、コタン(=集落)と合わさって「神村」のイメージがあるが、こういう地名は交通の難所で、恐ろしい神が犠牲を要求するという考え方から生まれた。よって、「魔の里」というほうが語感がぴったりする。「ペッパル」(=川口)も、川の出口ではなく、鮭や鱒が海から入ってくる入り口という認識である。アイヌの漁労の方法から自然に生まれたものだというわけだ。一方で、日本語から入ってきたアイヌ語には日本との歴史が凝縮されている。「クンチ」は「クジ」(=公事)の訛ったもので(松前藩以来の)「強制徴用」の意味で使われていた。

最後に、金田一京助との関係について、さらにウィキで調べてみると金田一京助という人物は、アイヌをリスペクトしているようで、本音では野蛮人としか見ていなかったようである。姉の幸恵との「アイヌ神謡集」や真志保との「アイヌ語法概説」にしても共著という出版をしており、なにかうさんくさいと邪推するのは私だけではないように思う。前述した三省堂の明解国語辞典以外の十指に余る国語辞書は、編者として目も通しておらず、名前を貸しただけらしい。どうも人のふんどしで相撲を取ることに躊躇はない人だったようだ。知里真志保は、金田一より早世しているが、その葬儀に79歳の金田一は空路で駆けつけたと言われている。しかし、自分が死んだら知らせてほしい名簿には金田一の名はなかったという。

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