先日、ふと少年時代のことを思い出した。私の実家は、JR桃谷駅の東側の生野区勝山北にあった。中小企業の密集する大阪市東部の下町である。両親ともに工場で働いていたので、経済的にはとても裕福とは言えなかったが、高度経済成長期をこの町で過ごした。高校時代に、大丸のバイト先で友人になった西成区の悪童のS君は、桃谷商店街に行くことを拒んだ。理由はかなりヤバイからだという。(笑)そういう方面には私は疎いので、不思議に思ったものだ。私はヤバイなどと感じたことはなかった。
ともあれ、当時(昭和40年代)の桃谷商店街のことをエントリーしたくなった。桃谷商店街は、生野区の中で中くらいの商店街である。JR鶴橋や寺田町の商店街より短い商店街で、これは今もそうだろうが、桃谷駅から猫間川筋までの西側と、猫間川筋からソカイ道路までの東側に大きく二分されている。
猫間川筋は、自動車が通る比較的広い道路で、商店街のアーケードが切れていた。ここでは、毎月13日に商店街より南の方で”夜店”が開かれる。小遣いを握りしめて、スマートボールやパチンコ(子供用の遊戯具)を楽しんだり、おやつ(砂糖をいっぱいまぶしたアンコ入の揚げ饅頭やりんご飴などなど)を買い食いした後、必ず古本の店で、「新しい住まいの設計」か「航空ファン」を買って帰ってきた。(小学生当時の私は建築士か航空関係の仕事に付きたかったからである。まあ、図や写真しか見なかったけれど。)
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さらにソカイ道路の方に進むと、「豚珍軒」(とんちんけん)という小さな中華料理屋があって、我が家が中華を食べるのは、いつもこの店だった。私はいつも焼き飯と豚の天ぷらを食べていた。とはいっても、そうそうあることではなかった。中華を外食するということは、ハレの日であって、せいぜい月に一回、親父の給料日くらいだったように思う。…つづく。
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